民法772条と親子関係不存在について(大澤樹生の事件にからんで)

元・光GENJIの大沢樹生が、息子との間の父子関係が不存在であることの確認を求めた裁判で、東京家裁はその訴えを認めました(11月19日)。判決文をちゃんと見たわけではないのですが、テレビなどを見る限りでは、そのポイントは2つです。それらについて簡単に触れます。 

一つは、DNA鑑定の結果、両者は血縁上の父子である可能性は0%であるとされたこと。もう一つは、息子が生まれたのが、大澤と元妻・喜多嶋舞とが結婚してから200日目であったからです。

民法772条で、婚姻から200日を経過した後(つまり201日目から)に生まれた子は、夫婦が婚姻中に懐妊した子であり、その子は夫の子と推定される、という規定があり、この息子にはその既定が適用されない、ということです。 

一つめ、DNA鑑定の結果が0%であれば、親子関係を否定してしまってよいか。これは当ブログでも過去書きました。(こちら) 

もう一つ、今回のケースでは、息子は民法772条の規定する期間外に生まれたから父子関係が否定されたとの点。テレビなんかを見ていますと、「1日違うだけで結論が全く異なるのは子供がかわいそう」などというコメントもありましたが、果たしてそうか。 

婚姻から201目以後に生まれた子供は、民法772条により、夫婦の子(嫡出子)とされ、夫婦の戸籍に記載されます。最近多い、いわゆる「デキ婚」の場合は、妊娠してから入籍すると、婚姻から200日以内に子供が生まれることもありますが、この場合はというと、役所での運用上、同様に夫婦の子として戸籍に載ります。 

では、この2つのケースで、何か実際の違いが出てくるのか。その違いは、父親が、「この子は俺の子じゃない」と争おうとしたときに現れます。

前者の場合、父が「俺の子じゃない」と主張するためには、その出生を知ってから1年以内に「嫡出否認の訴え」という裁判を起こす必要があります(民法776条)。1年を過ぎると、もはや親子関係は否定できない建前です。法律が、この子はこの父親の子供だと推定している以上、それを否定することはずいぶん限定されるわけです。一方、後者の場合は、その限定はありません。いつでも「親子関係不存在の訴え」を起こすことができる。 

そう書くと、たしかに1日違いで結論に極端な差があるように見えます。しかし実際の家庭裁判所の審判例を見ますと、前者(772条の期間内に生まれた子)であっても、「自分の子でないという事情があとから判明した場合は、そこから1年以内であれば、嫡出否認の訴えを提起できる」という判断が見られています。 

ですから、今回の大澤の息子のケースでも、彼が201日目に生まれていた(そのため大澤の子との推定を受ける)としても、大澤が、DNA鑑定の結果として父子である確率が0%と知ったのが最近のことなので、そこから1年以内であれば嫡出否認の訴えを起こして、同様に親子関係を否定することはありえたと思います。

そういう意味で、1日違いで結論が正反対になる、という不都合は、実際には生じにくいと考えられますし、少なくとも私はそういった実例を知りません。

司法試験問題の漏洩事件 感想その3(完)

話が長くなってきましたが、今回で終わりにします。
これまでの話を要約しますと、司法試験に早く受かる受験生は、教科書に書かれてあるような基礎的な知識を大切にし、それをきっちり習得した上で、試験本番では、基礎的な知識(前回の記事の①の部分)と、問題に応じてそれを応用した自分なりの答え(前回の②の部分)をきちっと書ける人だ、ということになります。
反面、なかなか受からない人は、教科書をきちんと押さえずに、受験予備校の模擬試験の模範答案を集めに回っている人です。自分の拠って立つ基礎的知識がないため、基本的知識(①の部分)すら、きちんと書けないのです。

今回の漏洩問題を起こした女子学生がどういう方で、これまでどんな勉強をしてきたのか、全く知りません。知らないままに失礼を承知で私の勝手な感想を書いていますが、私が思ったのは、この女子学生が、基本的な知識を大事にするという勉強よりも、模範答案をありがたがるタイプの勉強をしていたのだろうな、ということです。
もちろん、模範答案といっても、司法試験予備校で配られているような、司法試験合格者が片手間のアルバイトで書いたものではなく、司法試験の出題者本人が作ったものなのだから、重みは全然違って、女子学生がこれにすがってしまった気持ちはわからなくはない。

しかし、教科書をしっかり読みこんできた受験生であれば、その教授から模範答案を見せてもらったとしても、「ここからここまでは教科書に載ってる話だから、そのまま書いても問題ない。その先は、どの教科書にも載ってない話だから、そのまま書いたらバレてしまうだろう。その部分は自分なりの表現に置き換えて答案を作らないといけない」ということが、即座にわかったはずなのです。
まっとうな勉強をしてこなかったから、その区別がつかず、ありがたい模範答案そのままを解答してしまった。

問題の女子学生には、今後5年間、司法試験を受験できないという処分が下されたそうですが、その程度のことすら気づけなかったような勉強方法を取っている以上、これから5年勉強して次の機会を待っても、たぶん合格しないでしょう。

法科大学院(ロースクール)は、司法試験受験生が、大学の法学部でなく予備校に頼りがちになっている状況を改善し、大学でまっとうな教育を行なうという理念のもとに出発しました。
今回の一件で、法科大学院の教育すべてが間違っていた、とまで言うつもりはありません。しかし、少なくとも、法科大学院においても、必ずしもまっとうな教育が行われていなかったことが明らかになりましたし、法科大学院においても、基礎を大切にせず模範答案をありがたがるような、昔ふうのダメなタイプの受験生が残っていたことが明らかになりました。

結局、単純に言いますと、一発試験であった旧司法試験時代と、現在の法科大学院時代とで、制度は違えど、きちんと勉強する受験生は勉強するし、そうでない受験生はいろいろ抜け道を考えては自滅していくのだろう、ということです。そして法科大学院制度はその点を改善できていない、というのが私の感想です。

司法試験問題の漏洩事件 感想その1

明治大学のロースクールの青柳教授という方が、学生に司法試験の問題と解答を事前に教えていた、という事件が報道されました。教授は大学を懲戒免職となり(だから報道では「元教授」と書かれている。さらに国家公務員法違反(守秘義務違反)で在宅起訴される見込みのようです(26日産経朝刊など)。
在宅起訴とは、逮捕されているわけではないけど起訴されて刑事裁判を受ける身になることで、要するに今後は「被告人」になる見通しということです。

この事件、報道を通じて全貌が知れるにつれ、元教授と女子学生の不適切な関係は…と下世話な想像も浮かびますが、それよりも、私や同業者が思うのは、漏洩するにしても何でこんなヘタなやり方をしたんだろう、ということです。

この事件に関連して報道されご存じの方も多いかと思いますが、司法試験の論文試験は、100点満点中で50点くらい取れれば合格するとされています。私が受験した旧司法試験と、現在のロースクール時代の新司法試験とは、多少違うかも知れませんが、憲法とか民法とかの各科目で、大きなミスをすることなく、100点中55点くらいを安定して取れれば、悠々合格できます。
試験問題は多くは事例問題なので、その事例で法律上の問題点になることを見抜いて、それに関係する判例とか学説に触れて、だから本件はこういう結論になる、ということが書ければよい。

もちろん、限られた時間の中でそれをやるのは実際には難しく、だから私も一度は論文試験に落ちています。
受かるくらいのレベルの人は、六法の各科目の一般的な教科書に載っていることはおよそ理解できていて、この部分を試験で聞かれたら、この判例や学説に立場にたって、こういう論理を展開する、ということがきちんと固まっています。
採点する試験委員の側も、そこができているかを見ます。試験委員は、学者や判事など、それぞれ一流の人が就きますから、答案を見れば、こいつはあの最高裁の判例を理解しているなとか、こいつは誰々教授のあの教科書の学説に沿って書いたなとか、こいつは勉強せずに思いつきで自説を書いたな、というのが即座にわかる。

青柳元教授は、教え子に、問題だけでなく、模範解答まで教えていたそうです。公に出版された教科書にはそこまで触れられていないのに、学生レベルで模範解答に近い答案が書けるということは、まず考えられない。
漏洩するなら、問題だけ教えておくとか、せいぜい、答案上で触れるべきポイントだけ示しておいて(それだけでも圧倒的なアドバンテージになる)、あとは自分の知識で答案を準備しときなさい、としておけば、バレなかったかも知れない。

女子学生の側も、法務省の調査に対して、(模範解答でなく)「ある程度の点を取れる解答を教えてもらったと思っていた」と答えたそうです(同日朝刊)。
もちろん漏洩は司法試験制度自体を揺るがしかねない不正行為で、これが判明したのは幸いで、厳しい処分が下されるのは当然ではあります。しかしそれにしても、漏洩する側もしてもらう側も、かなりずさんなやり方だったのだな、と思うのは、私だけではなく、多くの同業者の共通の感想でしょう。
(この話、もう少し続く予定)

「入れ墨訴訟」での大阪地裁の論理

先週の水曜日(12月17日)、大阪地裁での弁論の帰りに、地裁の正門前で人だかりができて報道陣も来ていたので、何かと思って覗いてみました。人ごみの中心で「勝訴」って書いた紙を持った弁護士らしき人が何人か、笑顔を浮かべていました。

その日の報道で、大阪市が、入れ墨調査を拒否した職員を処分した事件で、裁判所が処分の無効と賠償金の支払いを命じた判決が出たのだと知りました。

この判決、弁護士の私でも新聞記事を何度か読まないと、その論理が理解できませんでした。大阪市民としても興味ある事件ですし、少し解説します。

 

大阪市の橋下市長が、市職員に入れ墨をしている職員がいるとのことで、職員に対し、入れ墨の有無をアンケート調査しました。その上で、入れ墨をしている職員は、消すように指導し、消せない場合は市民と接しない職場(つまり裏方)に配転させました。

これは理解できる話です。私自身、日本の社会で入れ墨なんかをしている人は、ヤクザか、社会への適合性のない人と感じざるを得ない。個人の信条としてするのは勝手だけど、市職員が市民の目に触れるような形で入れ墨をするのは、高い市民税を支払っている者としては理解できません。

 

この事件の原告となった職員は、窓口業務でなくバスの運転手で、実際には入れ墨はしていません。しかし、入れ墨を調査するのはプライバシー侵害で、思想信条の自由を侵害し違憲だ、と考え、調査への回答を拒否しました。多くの市職員はアンケートに応じたようですが、この原告の方は、きっと橋下市長が嫌いだったのでしょう。その気持ちもよくわかります。

大阪市は、この職員を、調査拒否を理由に、戒告処分(注意を与えること)しました。

そしてこの職員が処分取消しを求めて提訴した直後、大阪市はこの職員をバスの運転手から外して、内勤に回しました。

17日の判決は、これらの処分が無効だとして、運転手の仕事に戻すとともに、110万円の賠償金を払うよう命じました。

 

「入れ墨訴訟」で大阪市が敗訴したと聞くと、「何や、大阪市は公務員が入れ墨いれほうだいなんか?」と憤る人もいるかも知れませんが、大阪地裁はそうは言っていません。

判決によると、入れ墨というのは他者に対し不安感や威圧感を与えるものなので、市の窓口に立つ人が入れ墨をしていないかどうかを調査することには、合理性があるとされました。したがって、調査自体が憲法違反だという原告の主張は退けています。

一方、大阪市には個人情報保護条例というものがあり、プライバシー情報を収集することは原則として禁じられているため、今回のアンケート調査は条例に違反するものであると指摘しました。

条例違反の調査に従わなかったことを理由に戒告したのは処分として行き過ぎであり、さらに、裁判を起こした途端に配転させたというのは、裁判を受ける権利を侵害する不当な意図によるものだったと解さざるを得ない。

 

これが大阪地裁の論理です。もっと大ざっぱにいうと、入れ墨が好ましいものでないのは裁判所も認めるけど、職員に処分を下すには手続きがずさん過ぎた、ということです。

大阪市は橋下市長の意地でおそらく控訴するでしょうから、高裁、最高裁はどんな論理を出すのか、注目したいと思います。

公立女子大学に男性は入学できないのか

安楽死の話の続きを書こうと思っていたら、興味あるニュースに接したのでそちらを先に触れます。

ある男性が、公立福岡女子大学の入試を受けようと願書を出したら受理されなかった、ということを不服として「性差別」を理由に大学を訴えようとしているとのことです(15日、産経朝刊)。

 

国や公的機関は、性別によって国民を差別してはいけないと、憲法14条にも書かれています。私立の場合はその点自由なので、男子校・女子校はたくさんありますが、国公立でそれが許されるのかは、いちおう憲法上の問題となります。

私も学生のとき、憲法の講義で内野正幸教授(現・中央大教授)が「お茶の水女子大学は憲法違反ではないか」という問題提起をされていたのを覚えています。

もっとも、「税金を使って女子だけが入れる大学を作るのはけしからん」というだけで裁判を起こすことはできず、実際に入試を受けようとして拒否された、という不利益処分を受けて初めて提訴できるので、理論的にはともかく「そんな裁判、起こすヤツはおらんやろー」と学生当時は思っていました。

それが今回、実際に起こりそうな状況になりました。

 

いちおう理屈を付け加えると、国公立の女子大学の存在は、旧来あまり教育を受ける機会に恵まれなかった女性に対し、公費を使ってでも優先的に教育の機会を与える、ということで正当化されています。

立場の弱い人、差別されてきた人たちを優遇することで、真の平等を確保するということで、積極的差別是正措置、あちゃら語(浜村淳ふう)ではアファーマティブ・アクションと言います。

もっとも、それも行き過ぎると「逆差別」の問題が生じます。たとえば鶴橋駅あたりでヘイトスピーチしている連中は「在日韓国朝鮮人を優遇しすぎだ」などと訴えていますが、本題とそれるのでこれ以上は触れません。

 

福岡女子大を提訴しようという男性に話を戻しますが、新聞によると、この人は別に女子大生に囲まれてウハウハしたいと思って願書を出したわけではなく、栄養士になりたいのだそうで、福岡県の公立大学で栄養士の資格を取れるのはこの大学だけだったそうです。

代理人の弁護士は「女性を優遇する意味は失われている」とコメントしています。たしかに、今や男女を問わず、望めばたいていどこかの大学には入れるでしょう。

こんな時代に税金で運営する女子大学を残す意味はあるのか、時代の変遷により積極的差別是正措置がむしろ逆差別になっていないか、この事件はそういう問題を提起しています。

さらに付け加えると、栄養士の資格を取るための公立の女子大学、という存在自体、女性の仕事の固定化を招くものではないか、という問題も含むように思えます。

 

私個人は、古い考え方かも知れませんが、女性はある程度は庇護されて当然、と思うので、国公立の女子大学の存在は問題ないと捉えていますが、この問題について、男女同権論者はどう考えるのか、聞いてみたいところです。

「キモい」発言と名誉毀損の成否について

お盆休みの気分をやや引きずって、どうでもいいような事件について書きます。

山本景という、大阪府交野市選出の府議(維新の会所属)の話題です。みなさんご存じでしょうけど、山本府議が女子中学生からLINEを通じて「キモい」と言われ腹を立てて恫喝的なメールを送り、テレビで「こいつキモい」と批判したコメンテーターに噛みついているそうで、お盆のヒマな時期のニュースとしては恰好の話題でした。

山本府議は、この一件をマスコミに公開した一部報道機関と、「キモい」と発言したテリー伊藤について、BPO(放送倫理・番組向上機構)に対し、名誉毀損にあたるなどとして人権救済申立てをしたそうです。

 

BPOのことはよく知らないので、ひとまず、刑法上の意味において、テリー伊藤の発言が山本府議に対する名誉毀損になるかについて書きます。

名誉毀損とは、具体的事実を指摘して他人の名誉をおとしめる行為を言います。前回、まんだらけの記事で、窃盗犯であってもその事実をさらす行為は名誉毀損になると指摘しましたが、同様に「女子中学生にLINEで無視されて逆ギレしている」などという事実は、誰に聞かれても恥ずかしい(つまりその人の名誉をおとしめる)ということで、いちおう名誉毀損にあたります(刑法230条、3年以下の懲役または50万円以下の罰金)。

 

しかし、そうした言動が、公の利害に関することであって、真実である(またはそう信じるに足る証拠がある)場合は、罪になりません(刑法230条の2)。「真実性の証明」と言われるもので、正当な報道その他の言論・表現活動を守るための特則です。

山本府議の一件は、「こんな人が府議やってていいの?」という公の利害に関わることだし、LINEのやり取りはほぼ事実のようなので、「真実性の証明」は成立するでしょう。

(なお、まんだらけの一件は、盗品のフィギュアを返してほしいという個人的な利益に関することなので、真実性の証明は成立しません)

 

では「キモい」という発言はどうか。

キモいという表現は、「具体的事実」とはいえません。具体的でないけど人をおとしめる発言は、侮辱罪にあたります(刑法231条、30日未満の拘留または1万円未満の過料)。

侮辱罪には、真実性の証明による免責はありません。「キモい」かどうかは多分に個々人の主観によるものなので、真実と証明するのが困難だからです。いや、「見たらわかるじゃないか」という方もいるかも知れませんが、それは法的な議論でなくなってきますので。

ですので、テリー伊藤の発言は、侮辱罪にあたるといえる。とはいえ実際には、その程度で警察に告訴したとしても、取り合わないとは思いますが。

(ただ個人的には、いい歳した大人が、女子中学生の発言を受けてであれ「キモい」などとテレビで発言するのは、下品であるのは間違いなく、こういう人がコメンテーターとしてエラそうにしているから、日本人の言葉がどんどんおかしくなるのだと思います。)

 

一方で山本府議ですが、自身の一連の行為について「大人げなかったと思う」などと言って丸刈りになって謝罪しましたが、それで済む問題ではありません。

女子中学生に大人が、それも権力者である府会議員が「ただでは済まさない」などとメールしたのだから、脅迫罪にあたるでしょう(刑法222条、2年以下の懲役または30万円以下の罰金)。

だから、山本府議がテリー伊藤に対し、侮辱的言動についての何らかの責任を問うのであれば、山本府議自身、脅迫についての責任を負わねばなりません。

 

以上、私は山本府議もテリー伊藤も、どっちも見た感じ好きではないので、公平に論じたつもりです。

「まんだらけ」問題と法秩序について

久々のリクエストでもあり、「まんだらけ」の問題を取り上げてみます。

まんだらけという古本・古物の店で、鉄人28号のフィギュアが盗まれ、まんだらけ側がその「犯人」に対し「8月12日までに返しに来ないと、防犯カメラに映っていた顔をさらす」とネットで呼びかけました。

結局、警視庁からの指導もあり、まんだらけ側としては、8月12日をすぎても素顔をさらすということにはならなかったようです。

 

まんだらけ(…ってしかし、何を思ってこんなシマリのない名前にしたんでしょうかね、パソコンでまんだらけと入力するたびに脱力する思いです)が今回やったことは、個人的には、万引き対応として大いに同情しうるところです。しかし法律家としては、この行為を正当化する気には全くなりません。

すでに新聞やネットで識者が指摘しているとおりですが、窃盗の真犯人であったとしても、その素顔を「犯人」として不特定多数の人にさらす行為は、刑法上の名誉毀損罪にあたるし、盗品を取り返す目的であったとしても「顔をさらすぞ」などと言う行為は脅迫罪にあたりえます。そうした行為で相手に心理的苦痛を与えれば、民事上の問題としても慰謝料を支払う義務が生じます。

実際には、警視庁は、まんだらけが指導に従ったことで刑事処分は行わないでしょうし、「犯人」がわざわざ身分を明らかにして慰謝料請求をしてくることもないでしょう。そういう意味では、まんだらけは今回の件で民事上・刑事上の責任追及をされることは実際にはないと思われます。

 

しかし、それでも、まんだらけの行為は、たまたま「お咎めなし」の結果となるだけであって、法的には正当化しえないものであることは、明言したいと思います。

もちろん、きっかけは、まんだらけがフィギュアの窃盗という被害にあったことです。しかし、それはそれ、別問題でして、その窃盗犯人は当然、警察→検察→裁判所というルートで国家権力によって裁かれないといけない。

法治国家では親の仇討ちさえ許されていないのであって、いかにフィギュア窃盗犯の悪質性を強調するとしても、また警察が窃盗犯をなかなか取り締まってくれないという事情を付け加えるとしても、それらを理由として、まんだらけの行為が法的に正しいとされるわけではないのです。


まんだらけがした行為を正当と解する考え方は、結局、自分の都合と解釈だけで法秩序を破ってよいという考え方につながります。

殴られたから殴り返しに行くとか、国がケシカランから税金を払わないとか、そういう考え方と同じで、聞こえは勇ましいけど、そういう人が増えれば法秩序は崩壊します。

(もちろん、まんだらけ自身はおそらく、窮余の一策としてしたことであって、正当と思ってやっていたわけではないと信じますが)

個人の趣味の範囲として、まんだらけのやった行為に義侠心を感じて応援するのは自由ですが(実は私もちょっとだけそういう気持ちがある)、法治国家としては本来、許される性質の行為でないことは、繰り返し述べておきたいと思います。

ハーグ条約と「子の奪取」 2(完)

前回、国内で妻が子供を連れて実家に帰る行為はざらにあるけど、国際的にはそれが違法とされると書きました。

もちろん、妻には妻の言い分があるでしょう(夫のDVとか)。その点は、もちろんハーグ条約に基づく裁判でも審査されるし、今回のケースで言えば、今後は日本の家裁で双方の言い分を聞くことになります。

それをせずして、夫婦の一方が子供を取り込んでどこかへ行ってしまうのは違法なのだと、英国の裁判所はハッキリ言ったわけです。今後、日本もハーグ条約の締結国として、従来の家裁実務に再検討が加えられることになると思います。

 

そもそも、日本の家庭裁判所が、妻が子供を連れ去ることに寛容だったのはなぜかというと、おそらくこういう考え方によるものです。

子供は父母両方そろって育てるのが望ましいけど、親の事情で父母が離れるとなったら、どちらかが預からざるをえない。その場合、子供にとっては母親の愛情のほうが大切である。そこに別居している父親がやたら出てきたら、判断能力の未熟な子供はどうしていいか混乱するから、父親としては身を引くべきだ、と。

しかし、近年の欧米流の主流的な考え方はそうではありません。

親の事情で夫婦離ればなれになるとしても、子供は両親と接し続けるのが望ましい。子供は一つの独立した人格であり、父・母それぞれと対等に接することによってこそ、その発達が遂げられるのである、と、そう考えます。

そうすると、親の一方が子供を他方の親と引き離してしまうのは、子供もためにもよくないということになります。また日本の法律上は認められていませんが、欧米では離婚後も夫婦ともに「共同親権」を保持するという制度も多いそうです。

 

ですから「妻が夫から逃れるために子供を連れて出て行くのが許されないなんておかしい」と考える人は、国際的な潮流に反した古い考え方の持ち主ということになります。もっとグローバルでワールドワイドな観点に立ちなさい、と言われることになります。

ただ、正直なところを言いますと、私もどちらかといえば、従来の日本風の古い考え方を持っています。だからここでも以前、日本がハーグ条約を締結することについての疑問を書きました(こちらこちら)。ハーグ条約だって、果たして日本に根付くのかどうか、懸念しています。

それでも、実態として、日本では妻による子供の連れ去りが事実上許容されており、そのため子供との再会を切実に求めている父親が国内にもたくさんいる(私の依頼者にも複数いる)。

そんな現状に一石を投じるという意味では、今後のハーグ条約の運用に、少し期待している部分もあります。

 

ハーグ条約と「子の奪取」 1

ハーグ条約に基づいて、英国の裁判所が母親に対して「子供を連れて日本に帰りなさい」と命じたというニュースがありました。子を持つ親としても興味ある判断ですので、少し解説します。

前提となった事案ですが、この親子は3人とも日本人で、夫・妻・その間の子供(7歳)の3人で日本に在住していたところ、妻が子供を連れて英国に引っ越したらしい。夫と約束した期間を過ぎても帰ってこないので、夫が英国の裁判所に、条約に基づいて裁判を求めたようです。

 

この条約の正式名称は「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」と言いまして、日本も最近になってこの条約を各国間で締結し、今年4月から適用されるようになっています。

この条約が典型的に想定しているのは国際結婚した夫婦が離婚や親権でもめたようなケースです。

たとえば、アメリカで日本人女性がアメリカ人男性と結婚し、子供が生まれたとする。その後、この夫婦が不和となって、女性が子供を連れて日本に帰ってきたとします。奥さんが子供を連れて「実家に帰ります」というのは、国際結婚でなくてもよく聞く話です。

しかし、欧米流の考えでいうと、一方の親が子供を連れて居住地を離れるのは望ましいことではない、夫婦間の問題が解決するまで、子供をもとの環境に置いておくべきだ、ということになります。

その考え方自体、従来の日本人的な感覚からすると、違和感をおぼえる向きもあると思うのですが、日本はその考え方に基づくハーグ条約を締結しました。

それが適用された最初のケースが今回の事案です。妻は従来住んでいた日本に、子供を連れて戻ってきなさい、ということです。戻ってきてその上でどうするかというと、あとは日本の家庭裁判所で、どちらが子供を養育するのか、家事調停や審判を通じて決められることになります。

 

繰り返しますが、妻が子供を連れてどこかへ行ってしまうということは、国内でもよくありました。その場合、これまで日本の家庭裁判所の実務では、言い方は悪いですが「連れていったモン勝ち」でした(正確には、連れて行ったモン勝ちになるのは妻だけで、夫が連れて行くと犯罪扱いになる)。

日本の民法上、夫婦は同居する義務があるけど、家裁はそれを強制できないとされています。夫が子供との面会を求めても、妻が子供を取り込んでしまえば面会不可能で、夫としてはせいぜい、家庭裁判所の調停・審判を通じて、月1回くらいの面会を認めてもらうほかない。離婚することになって、せめて夫が親権を取りたいと思っても、「子供と離れてしまっている以上、今さら父親に親権は認められない」と判断される。

日本国内ではこうしたことも「当たり前」と見過ごされてきたのが、国際間でやると「違法」と判断されることになったのは、かなり大きな変化だと思います。

この条約の正式名称をもう一度言いますと「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」です。英国の裁判所は、今回、妻がやった行為は「国際的な子の奪取」であって、それは違法行為だと明確に言ったわけです。

次回、もう少し続く。

DNAだけで親子の縁は切れない 2(完)

前回の続き。

もう少し法律解釈的な点を掘り下げますと、前回紹介した民法772条1項に「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」と定められています。

前回書いたとおり、世の中の大半の父子関係はその推定どおりで問題はない(むしろ、推定されないほうが大変なことになる)。しかし、ごく例外的にそうじゃないケースはあり、その場合は、「推定」をくつがえすに足りる証拠を出せば、父子関係を否定することができることになります。

 

問題は、どういう証拠を出せば、推定をひっくり返せるかです。

古くから典型的にあったケースとしては、夫が戦争で外国に赴任しており、妻と性交渉が全くなかったはずであるのに、妻が子供を身ごもったというものです。

この場合、父子関係を否定したい夫側は、入出国の記録を取り寄せたりして、「この期間は日本にいなかった、だから妻との交渉はなかった」との証拠を出せば、父子関係の推定を否定してもらえる余地がある。

妻側が父子関係を否定されたくなかったら、反対の証拠(たとえば、夫が提出した入出国記録が偽造であるという証拠とか、実は赴任中にもちょっとだけ帰国していたことが分かるような入出国記録とか)を探して提出することになる。

裁判の勝ち負けがどう決まるかというと、考え方は極めてシンプルでして、上記のように具体的な証拠を重ね、誰もが「こういう事実があるなら、たしかにこの結論になる(たとえば父子関係が存在しない、またはする)んだな」と納得できるか否かが重要なのです。

 

最近は、科学技術の発達によって、DNA鑑定はじめ、いろんな科学的証拠が出てくるようになりました。ではDNA鑑定結果が、推定をくつがえす証拠になるか。

DNA鑑定の報告書には、その人のDNA型というものが、アルファベットとか数字とかで羅列されていて、それをつきあわせた結果、この夫とこの子が父子である確率は何%、と書かれているのですが、それですべてを決してよいかというと、多くの方は不安を感じるのではないでしょうか。

DNA鑑定がどこまで正確で信用できるかというと、ブラックボックスみたいなものです。「科学的にはこうなるんだ」と言われると検証の余地もない。上記のような「外国に行ってたんだから性交渉はなかったはずだ」という誰でも分かる議論が成り立たない。

また、鑑定業者には失礼ながら、すべての業者の調査を信用できるのか、悪意はなくとも検体の取り違えなどないのかと、疑いうる余地はいくらでもある。もちろん、最高裁としても人間の遺伝子のことなど専門外なので、どの鑑定、どの業者なら信用できるとお墨付きを与える能力もない。

 

そういった理由で、最高裁は今回、DNA鑑定だけを証拠として父子関係をひっくり返すことを否定したのだと思っています。

では、どうすれば良いのかというと、最高裁は判決文で「立法の問題」と言っています。つまり、どういう場合にどういう手続きを取るべきかは、国会で決めなさいということです。

それがない以上は、婚姻中の子は原則どおり夫の子と推定する、法律にそう書いてあるからそう解するほかないというわけです。子供の地位の安定のためにも、この結論で良いのではないかと考えています。