NHK受信契約、最高裁の判断 2

最高裁は、放送法64条1項の規定は合憲、つまり有効であると判断しました。

では、NHKと視聴者の受信契約は何を根拠に成立したことになるのか。

契約する意思もないのに、テレビを買ってきて家に置いただけで契約成立するというのは、前回書いたとおり、法の大原則に違反します。

放送法の規定も、テレビを設置した者はNHKと受信契約を「締結しなければならない」と書いてあるだけです。では、締結しない人はどうなるのか。

 

このときに使えるのは、民放414条2項但書きの「裁判をもって債務者の意思表示に代えることができる」という規定です。

法律上、一定の意思表示をしないといけない立場にある人が、それをしない場合、その人を訴えて勝訴判決を取れば、その意思表示があったことにできる、という規定です。

放送法64条1項による限り、テレビを置いてある以上はNHKと受信契約をします、という意思表示をしないといけない、それをしない場合はNHKがその視聴者を訴えて勝訴すれば、契約を受諾する意思があったことになり、受信契約が成立する、ということです。

NHKは地裁・高裁での裁判のときから、この条文を盾に取りました。

 

では、その結果として、受信契約はいつ成立するのか。

普通に考えれば、判決が意思表示の代わりになるのだから、判決が出たとき(正確にはその判決が確定したとき)に契約が成立し、視聴者はそこから受信料を払うことになる、とも思えます。

ただ、そうすると、その視聴者は裁判で長々と争っている間、受信料を払わなくてよくなる。きちんと払っている人とか、払ってなかったけどNHKから催促の人が来たから払った、とかいう人と比べて、不公平になる、とも考えられます。

そこで、東京高裁は、平成25年、視聴者が拒否していても、NHKが契約締結を求める通知書を送ったら、その2週間後に契約が成立する、という判断を示しました。

このとき私が弁護士ドットコムから電話取材を受けて答えた内容が、現在も「ハフィントンポスト」のサイトで見れます。こちら

ここで私は、通知が来てすぐ払った人と、何年がかりで裁判で争った人との不公平を解消したいのはわかる、でも、通知を送っただけで、意思表示がない(それに代わる判決もまだ出ていない)段階で契約が成立する法的根拠が不明である、という理論上の批判を行いました。

 

今回、最高裁の判事たちは、この私の批判を拳拳服膺し熟慮検討したと見え、以下のような判断を示しました。

まず、受信契約が成立するのは、NHKの勝訴判決が確定したときである。

では、視聴者がいつから受信料を払うかというと、それは「テレビを家に置いた時点」からである。最高裁はその理由として「それが公平だから」という程度にしか述べてませんが、放送法64条1項は「テレビを置いた時点で契約の意思表示をしないといけない」と読めるのが法的根拠ということになるでしょう。

論理性を確保しつつ、結論の不公平感をなくそうとした理論構成です。

 

その結果、今回NHKから提訴された多くの視聴者の中には、過去にさかのぼって10数年以上に遡って20万円程度の支払を命じられた人もいるようです。

これ、時効にはならないのか。最高裁はこの点も判断しています。

受信料は毎月発生するものだから、定期的に支払うべき債務の時効は5年である。その5年をいつから起算するかというと、それは、NHKの勝訴判決が確定したときからである。なぜなら時効というものは、それを請求できるのにしない状態になって初めて起算されるところ、判決前は受信契約が成立していないから請求できないからである、と。

つまり、裁判が終わるまで、NHK側の受信料の請求権は時効にかからない、ということで、そのため、やろうと思えば、何十年にも渡る受信料の請求ができるということになりそうです。

もっとも、NHK側としては、何十年にも渡ってテレビを設置していたことを、証拠に基づいて立証する必要があり、視聴者側が「ウチはこのテレビを3年前に買いました。それ以前は、テレビは置いてなかったですね」と言ってしまえば、あまりに過去の分の請求は実際には困難と思われます。

 

判決内容の解説は以上です。最後に裁判所HPから、判決文のPDFを貼っておきます。こちら

私自身は、最高裁判決は妥当と思っていますが、そのあたりの私見については、次回に述べます。

NHK受信契約、最高裁の判断 1

最高裁が、NHKとの受信契約の強制を定める放送法の規定は合憲である、との判決を出しました。これについて触れます。

放送法64条1項には「協会(日本放送協会=NHKのこと)の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない」とあり、つまり、普通のテレビを家に置いたら、NHK放送を受信する契約をしなければならない、ということです。これが「憲法に違反しない」と判断されました。

 

さっそく脱線しますが、NHKが受信料を支払わない人を提訴し始めたころから、当ブログでは何度かこのことを取り上げていました。

約6年前のブログ記事では、上記の放送法64条の規定の特殊性について触れています。( 過去の記事 読み返さなくても、このあとお読みいただく上で不都合はありません)

それで、地裁・高裁の判決が出たころ、弁護士ドットコムから何度か電話取材をいただいてネット記事になり、その記事がヤフーニュースのトップの見出しになったことがありました。

そのためか、私がNHKを相手に裁判をやっていると思った方もいるらしく、一時は、電話やメールで「私の弁護もお願いします」的な連絡が何度かありました。

私自身は、当ブログでも申し上げましたが、この件については傍観者にすぎません。NHKはよく見ているほうだと思いますし、受信料くらいは払いますよ、という考えです。ただ、国会が定めた放送法の規定に対し、最高裁はどう言うかという、理論的な興味があって、この事件に触れてきました。

 

上記の放送法の規定の何が問題かというと、誰でも常識的にお分かりだと思いますが、テレビを部屋に置いた、イコールNHKと契約しないといけない、イコールNHKに受信料を払わないといけない、という点にあります。

多少、理論的に言いますと、法律の大原則に「契約自由の原則」という考え方がありまして、これは、我々個人は、誰とどんな契約をするかしないか自由に決めてよく、国家がこれに干渉してはならない、ということです。当たり前すぎて条文に書いていないのですが、自由主義・民主主義国家では異論なく認められています。

そして、契約とは何を持って成立するかというと、互いの当事者が「契約を申込みします」「はいお受けします」という意思表示を合致させることです。意思表示の合致がないと契約は成立しない、というのも、法律家が誰でも認める法律の大原則です。誰しも、要らないものを一方的に売りつけられることはないので、常識的にも当然のことです。

放送法の規定は、この契約自由の原則に反するものではないか。

たとえば「ウチはテレビはWOWOWしか見ないから、WOWOWとだけ契約します」と思ってる人でも「NHKとも契約しなさい」と強制される。しかも、テレビを買ってきて家に置いただけで、NHKと契約しますという意思表示をしなければならない、とされる。

 

NHKから受信料の支払を求められた被告(一般視聴者)側は、こんな規定は憲法違反だと言いました。最高裁の判決文によると、13条、21条、29条違反が争われたそうです。

憲法13条は幸福追求権と言われまして、まあこれは、何にでも使える条文です。

憲法21条は表現の自由で、表現することだけでなく、表現された情報を受けとる自由つまり知る権利も保障しています。

放送法が知る権利の侵害になっているかと言うと、視聴者側の主張内容は正直、よくわかっていないのですが、おそらく、NHKが嫌いで受信料も払いたくないが、放送法がある以上、払いたくないならテレビを家に置かないという選択肢しかなくなる、そうすると他の民放も受信できなくなって、民放の情報を得ることが阻害される、そういうことだと思います。

憲法29条は財産権で、受信料を強制的に支払わされるのは国民の財産権の侵害だ、ということです。

 

これらに対して最高裁は、合憲だ、と言ったわけですが、その判断の枠組みには、特段の目新しいものはありません。

放送法の規定は、公共放送(NHK)と民放の二種類の放送事業者を作って、多様な放送がされるようにしたものである。そして民放は事業者の自主経営に任せる一方、公共放送はその性格上、特定の個人や団体(つまりスポンサー)の影響を受けないようにするため、その財源を広く視聴者に負担してもらうことは、むしろ国民の知る権利を充足するものであって認められる。そういう理屈です。

一見、国民の権利が侵害されているようでも、その制度が必要なものであって合理性のある仕組であれば憲法には違反しない、というのは最高裁が古くから度々用いる論理ですが、ここでもその論法が用いられました。ある程度、予想された結論ではあります。

今回の判決は、この憲法論だけでなく、NHKと視聴者の間には、いつの時点で、何をもって受信契約が成立するのか、という問題にも回答を出したのですが、そのあたりの具体的な話は、次回にします。

強制わいせつ罪の判例変更について 3(完)

強制わいせつ罪の成立要件についての最高裁の判例が47年ごしで変更されたという話をしています。

我々弁護士は、法律の解釈については常々判例を参照して、これは適法だとか違法だとかいう判断をしています。ですので、最高裁の判例が度々変更されると、裁判所の判断を信用できなくなる。

なので、最高裁による判例変更はそうそう行われるものではありませんし、だからこそ冒頭に述べたように、法律関係者は判例変更があると、興奮すると言わないまでも、オーッ遂に変わったか、という気持ちになります。

 

で、今回の判例変更ですが、47年ごしで判断を改めたということは、最高裁はこれまで判断を誤っていたのか。

その点、最高裁は、ひとことで言うと「時代の変化だ」と指摘しています。最高裁の判決文は裁判所のホームページにも紹介されており、そのあたりを詳細ながらわかりやすい文章で書いていますので、興味あればご覧ください。(判決文のPDF

最高裁判所は、性的犯罪に関しては「社会の受け止め方を踏まえなければ」その処罰範囲を適切に決めることができない、と述べています。

そして、国内や諸外国における近年の性犯罪の厳罰化といった傾向も踏まえ、「被告人の性的意図」がどうであったかよりは、被害者がどの程度の性的被害を受けたかを重視すべきだ、と述べます。

(法学部生向け注: 故・団藤重光先生の「刑法綱要」などには、ドイツのメツガーが強制わいせつ罪を傾向犯に分類していることの影響で、日本の学説でも内心の性的意図が必要と解されている、との指摘があります。なお団藤先生自身は不要説に立っていました。今回の最高裁の判決文には、昭和45年当時の日本の学説に影響を与えていたドイツでも、近時の法改正で構成要件が変更されたことの指摘があります。)

 

私も、今回の最高裁の判断が妥当だと考えています。理由は、上記の最高裁の言うことももっともだと思いますし、何より、今回の事件で如実に表われたように、性的意図の有無争点となった際に、被害者の女性(今回は女の子)から、男の陰部がどうだったかなどの事情聴取をしなければならないのが馬鹿げている。

 

昔から言われていた、性的意図がなくても強制わいせつ罪になるなら、医師が女性の体を診察するのも罪になるのか、という点については、客観的状況からして罪の成否は区別できると、一部の学説はかつてから指摘していました。

確かに、医師が病院で女性の体を診察する行為と、女の子に自分の陰茎をなめさせる行為は、傍から見ても全然性質の違うことで、それで罪の成否を判断できそうです。

最初に紹介した、報復のために女性を脅して衣服を脱がせる行為も、今の解釈だと、強制わいせつ罪になるのでしょう。女性にその着衣を脱がせるなど、その女性にとって性的羞恥心を感じるのは明らかですし、脱がせる犯人のほうとしても、その程度のことはわかる。仮に自分自身にスケベ心がなかったとしても、その女性は恥ずかしがっているだろうな、ということぐらいはわかる。それをもって、強制わいせつ罪で処罰するには充分と思われます。

そういうことで、長々書いてきましたが、今回の判例変更についての解説は以上です。

また何か、興奮するような話題があれば記事にしたいと思います。

強制わいせつ罪の判例変更について 2

前回の続き。強制わいせつ罪の判例が変更された事案を紹介します。

事件は平成27年1月、甲府市内の被告人Cの自宅で起こります。以下、事件の内容を伝えるために多少は生々しい記述をせざるを得ませんが、事件の状況は基本的に判決文から引用しております。

被告人Cは、自宅内で、当時7歳の女の子Dを全裸にして、自分の陰茎を触らせ、なめさせて射精するなどの行為をし、またC自身も女の子Dの陰部を触るなどして、その様子を自分のスマートフォンで撮影しました。そしてその画像を知人に送信しました。

この行為は、児童ポルノ処罰法で処罰されますが(本題でないから詳細は省略)、同時に、強制わいせつ罪にあたるかどうかが問題になりました。

この被告人Cがなぜこんなことしたかというと、その弁解によれば、生活費に困って知人からお金を借りようしたら、お金を貸す条件として、児童ポルノの映像を送ってくれたらお金を貸す、と言われたからだそうです(被告人Cと女の子D、そしてCと知人の関係は、判決文からはよくわかりません)。

 

私が読んだのは1審から最高裁までの判決文だけなので、その他の状況は想像で書くのですが、この被告人Cは、容疑者として逮捕された当初「お金が目的でやった。自分のスケベ心のために女の子にあんなことをさせたんじゃない」と弁解したかと思います。

弁護士も、前回紹介した昭和45年の最高裁判決がある以上、性的意図はなく金銭目的だから強制わいせつ罪は成立しないと主張したでしょう。刑事弁護人は容疑者・被告人の利益のために行動するのが職責ですから、これは当然です。

これを受けて、捜査担当の警察官や検察官は、Cが性的意図のもとに犯行に及んだことの証拠をつかもうとしたはずです。

1審・神戸地裁の判決文によると、検察官が女の子Dから事情聴取して作ったという調書の中に、Dが被告人Cの陰茎を洗っているとき、陰茎が「だんだん上を向いてきた」という記載があるようです。

つまり、Cが性的に興奮して勃起したということを、被害者の女の子D(事情聴取の時点では8歳になっていました)から検察官が聞き取った、これがCに性的意図があったことの証拠だ、というわけです。

おそらく裁判官は、この調書を見て、顔をしかめたのではないかと想像します。性的意図を認定するためには、8歳の女の子からそんな供述を取らないといけのか、と。

 

そして、神戸地裁は平成28年3月、以下のように判断します。

女の子Dの供述調書は、検察官の誘導に沿って作成された可能性があり、そのまま信用することはできない。そうすると、被告人Cには性的意図があったと認めることはできない。

しかし、と神戸地裁の判決文は続きます。

強制わいせつ罪の成立に性的意図は必要ではない。客観的に見てわいせつな行為が行われ、被告人にも自分の行為を認識できている以上は、性的意図がなくても、強制わいせつは成立するのだ、と。

つまり、はたから見てわいせつな行為、相手に性的羞恥心を起こさせるに足るような行為をし、被告人においてもそういう行為をしていると理解している以上、その行為が、金銭目的であれ性的意図に基づくものであれ、罪になるということです。

そして被告人に3年6月の実刑判決を下します。

最高裁の判例はこの時点で「性的意図必要説」に立っていますから、神戸地裁の判断は最高裁判例から逸脱しています。最高裁判例と異なる地裁・高裁の判断は通常、あとで覆されますし、そんな判決を出す判事は「最高裁判例に従わないヤツ」として上から睨まれるはずですから、裁判官もハラを決めて思い切った判断をしたのでしょう。

 

弁護側は当然、判例違反だとして控訴します。

すると大阪高裁は、平成28年10月、1審判決を支持して被告人の控訴を棄却するとし、判決文の中で、昭和45年の最高裁判決をそのまま維持するのは相当でない、と明言しました。大阪高裁も、最高裁判例に従わない、としたわけです。

弁護側は、さらに最高裁に上告します。そしてこの度の最高裁判決(平成29年11月29日)です。

最高裁は1審・2審判決を支持し、強制わいせつ罪の成立に性的意図が必要としたかつての昭和45年の最高裁判決を変更すると、自ら明らかにしました。

今になって判例が変更された理由については、最高裁判決の中に詳細に説明されていますが、そのあたりは次回に書きます。

強制わいせつ罪の判例変更について 1

強制わいせつ罪の成否に関して、最高裁の判例が変更されました。

「世の中、興奮することはいっぱいあるけど、一番興奮するのは最高裁での判例変更だな」と、皆さんの周りに弁護士とか法律関係者がいたら言ってみてください。きっとサンドウィッチマンの漫才みたいに「間違いないね」という回答が返ってきます。

私も、この判例変更に興奮して、というわけではありませんが、さぼっていたブログを1年ぶりに書こうとしています。

 

強制わいせつ罪は、刑法176条に規定があり、他人にわいせつな行為をしたら6月以上10年以下の懲役、とされています。なお、平成16年の改正前は、6月以上「7年以下」の懲役とされていましたが、近時の性犯罪の厳罰化の潮流の中で、刑の上限が重くなりました。

わいせつな行為の定義は、今回の本題ではないので省きますが、典型的には、痴漢など、女性の体を無理やり触る行為がこれにあたると、常識的にご理解ください。

 

今回、問題になったのは、強制わいせつ罪の成立要件として、犯人の内心に「わいせつな意図」、言い換えると「自分の性欲を満足させようとする意図」、さらに平たく言うと「スケベ心」が必要であるか否か、という点です。以下、スケベ心と書くのも何なので、用語の統一上、最近の判例に沿って「性的意図」と書きます。

従来の最高裁判例は、性的意図を必要とするという見解に立っており、学説上もそれが通説的なものとされていました。

その理由は、わいせつ行為にあたるかどうかは、外部的な行為からは判別しえない、ということで、たとえば、性的意図がなくても有罪になるとしたら、医師が女性の患者を診察するため裸にして体を見たり触ったりする行為が犯罪になってしまう、ということなどが言われていました。

 

こういう見解のもとに、最高裁にて強制わいせつ罪にあたらないとされた、有名なケースがあります。

事件は、昭和42年1月のある夜、釧路市内の被告人A(男性)のアパートの部屋で起こります。Aはこの日、被害者となった女性B(当時23歳)を部屋に呼びつけました。

Aには内縁の妻がいましたが、女性Bがこの内妻を東京に逃がす手配をした、と疑って、女性Bを問い詰めようとしたのです。

被告人AはBに対し「よくも俺を騙したな。(中略)硫酸もある。お前の顔に硫酸をかければ醜くなる」(1審の判決文より抜粋)などと言い、2時間に渡って脅しました。さらにBに対し「5分間、裸で立っておれ」と明示、恐怖のためそれに従い裸になったBの写真を撮影しました。

なお、このとき部屋の中には、被告人の内妻もおり、当の内妻が暴力団員に電話をかけるなどして、Bを脅迫することに加担しており、内妻と女性Bの関係はよくわからないのですが、判決文にはこれ以上のことが出ていません。

被告人Aは、この事案で、性的意図があってBを裸にしたわけではない、Bの裸が見たかったのではなくて、内妻を逃がす手引きをしたことに対する報復のために、辱めてやろうとしたんだ、と主張しました。確かに、被告人AはBの体には一貫して全く触れていないし、内妻が同じ部屋に居て見ているから、変な気を起こすことも困難だったでしょう。

1審・釧路地裁、2審・札幌高裁は、被告人を強制わいせつ罪で有罪とします(懲役1年の実刑)。

しかし最高裁は、昭和45年(1970年)1月29日の判決で、強制わいせつ罪の成立には犯人の内心に性的意図を要し、本件ではそれがあったかどうかわからないと述べ、有罪判決を破棄した上で札幌高裁に差し戻して審理のやり直しを命じました。

その後、札幌高裁でどう裁かれたのか、手元の資料には出ていないのですが、強制わいせつ罪は不成立となったはずです。

もっとも、全くの無罪でなく、強いて衣服を脱がせる行為は強要罪にあたるので、これで処罰されたと想像しますが、強要罪だと「3年以下の懲役」(刑法223条)ですから、上限がずいぶん軽くなり、懲役期間も短くされた可能性はあります。

 

なお、最高裁の判決は、5人の裁判官のうち、評決は3対2に分かれました。2人の裁判官は性的意図などなくても強制わいせつ罪で処罰してよい、と考えたのです。

この評決が分かれた判決でも、判事の多数決で決まった以上、最高裁の判例として、その後長らく生き続けることになります。

そして、今回、この判例が47年の時を経て変更されたわけです。では今回はどんな事案であったか。その点は次回に続く。

脅迫メールと威力業務妨害罪

今月8日、大阪市にこういった内容の脅迫メールが届いたそうです。
「明日11月9日の午後2時20分に、大阪市の施設内4万か所に設置した爆弾を爆発させる」と。うちにも息子の小学校を通じて、保護者あてに一斉メールが届きました。
爆弾を4万発も作るほどの資金と、それを人知れず4万か所に設置し、同時に爆発させるほどの技術は、たぶんショッカーやゲルショッカーでも持っていないはずで、それくらいの力があれば、とっくに日本征服くらいはできていると思われます。ですのでこれは、明らかにイタズラなのですが。
それでも保護者は不安に思うし、学校側としても無視するわけにもいかず、その日の下校時は、先生方や親がいつもより多めに学校周辺に出て、不審物や不審者の警戒をしました。
私も、PTA会長として、下校時間に学校周辺を自転車で見回りました。

似たような脅迫メールの事件はちょくちょく起こりますが、こうした行為は刑法上、「威力業務妨害罪」が適用されることを、多くの方はご存じかと思います。刑法234条で3年以下の懲役または50万円以下の罰金です。
ここにいう「威力」とは、定義としては「人の意思を制圧するに足る勢力」のことを言い、物理的な暴力だけでなく、こうした脅迫も該当します。
「業務妨害」というのは、たとえば警察や学校関係者が警戒のために余計な時間を取らされたことを言います。

このとき犯人が「こんなイタズラを誰も真に受けるとは思わなかった、だから威力や脅迫にあたらない」と言ったとしても、それは通りません。明らかなイタズラであったとしても、社会的常識として、関係者は何らかの措置なり警戒態勢なりを取らざるをえません。
むしろ犯人も、それがわかってて面白がってやっているはずです。

学校関係者や保護者は日常的に登下校の見守りをしているのだから、別に余計な時間を取らせたわけでもないし、業務妨害にもあたらない、という弁解も通りません。この脅迫があったからこそ、普段とは異なる対応を取らされたことは否定できないからです。
私自身も、平日の事務所営業時間内に1時間ほど、見回りに時間を割いたわけで、その間、本来の弁護士業務ができず、時給に換算していくらかの損害も被っています。「いやあんたはその時間ヒマだったし、子供が好きだから見に行っただけだろう」と言われると、ある程度そのとおりなのですが、それでも事務所におれば多少、別の仕事は片付けられたはずなので。

そもそも、理論的な話をすると、判例上は、現に業務が妨害されたという結果は不要で、業務を妨害するに足る行為をすればこの犯罪が成立する、とされています。
つまり、「そんな脅迫行為をしたら世の中の多くの人の仕事の妨げになるだろう」という行為があれば、「脅迫の結果として具体的に誰にどの程度の妨害が与えられたか」ということは、必ずしも明確にされなくても、この犯罪が成立します。
(そうでないと、PTA会長がヒマな人か忙しい人かによって犯罪の成否が異なってしまいますし)

いずれにせよ、この手の愉快犯は卑劣な犯罪であるということで、犯人の処罰を望むものです。

ハワイ道中記フォーエバー

暖かいうちにハワイ道中記の完結編を書こうと思っていて、でもだいたい書きたいことは「その4」までで書いてしまったなと思いつつ、そのままになっていました。
もう11月です。

いま、私の事務所に、ハワイ時間にあわせたデジタル時計が置いてあります。これはもともと、私が今年の8月にハワイに出かけるとき、うちの事務所の事務員に預けておいたものです。
私は旅行で不在でも事務所は開けてあるので、何か急ぎの連絡があれば、事務所から私の携帯(海外でもつながるようにしてある)に電話かメールが入るようになっています。
事務員が私に連絡するとき、私がいるハワイ現地での時間がわかるようにしたものです。
ハワイ時間は、日本に比べると、19時間遅れです。感覚的には、(日付は1日前だけど)日本時間に5時間をプラスする感じです。

うちの事務所が閉まる午後5時半なら、ハワイだと(前日の)夜10時半です。私は、ホテルのバーで飲んでいるか、遊び疲れて寝ているか、どちらかです。
なので正直言うと、ハワイ時間の時計を事務所に置いていったのは、「こちらが夜遅い時間は、なるべく電話を寄こさずに、そちらで何とかしてね」という気持ちがこもっています。
幸い例年、遅い時間には電話がかかって来ず、事務員がきっちり対応してくれています。
その時計は、私が帰国しても現在に至るまでハワイ時間のままで、事務所の窓際に置いてあり、たまに「いまごろあっちは何時で…」と思い起こしています。

さて来年はどうなるかというと、聞く話では、大阪の公立小学校の夏休みが短くなって、8月下旬から2学期が始まるとか。理由は、来年にはすべての公立小学校にクーラーが行きわたるから、とのことです。きちんと裏付けを得ているわけではないですが。
私はお盆の混雑を避けるため、いつも8月下旬にハワイに行っていたので、そうすると、この日程での旅行は難しくなります。

ここ4年はハワイに行っておりましたが、来年はどうなるか、わかりません。時期を変えるか、行先を変えるかも含め、検討しています。私自身は、息子が1歳から4歳のころに行っていた、淡路島でよいのではないかと思うのですが、息子は納得しないかも知れません。
来年の道中記の掲載は未定です。そこだけ楽しみに閲覧してくださっている方にはすみませんが、またたまに、旅行記に限らず雑談を書いていきます。

ハワイ道中記2016 その4

ハワイに限らず、アメリカではたいていそうだと思いますが、レストランやバーでは、ウェイターやウェイトレスの「持ち場」というものが決まっています。
だから、小さいバーなんかでも、近くに立っているウェイターを呼ぶと、「ノー」というニュアンスの返事をされることがあります。テーブルが一つ隣りというだけでも、そこは私の持ち場ではない、という対応をされるわけです。
これは、たいていのガイドブックにも載っていることで、多くの方がご存じかと思います。

この対応は、わかっていれば、実に便利で合理的なやり方だと思います。
バーやレストランで着席して、最初にやってきた店員の顔を覚えておけば良いのです。その人が自分のテーブルの担当となり、注文やその他の用件を聞いてくれるわけです。
お店によっては店員が胸の名札を指し示しながら「私は担当のマイクです、よろしく」などと微笑みかけてきます(具体的に言うとルースズ・クリス・ステーキハウスのウェイターがそうです)。

日本のレストランなどでは、これとは違って、まどろっこしい思いをすることがあります。
たとえば、注文の品が来ないので、近くの店員に声をかけて伝えるのですが、その後、そのオーダーがどうなったのか、誰も何も言いに来ない、ということがあります。
あと、飲み物が空になったので店員にお代わりを注文する、そのお代わりを待っていると、また別の店員が通りかかって「ドリンクお代わりいかがですか~」と言ってくる。
「いえ、もう注文しましたので」と言って、またしばらくするとさらに別の店員が「お代わりいかがですか~」と言ってくるので、さすがに私も「そんな気遣いは要らんからさっさと頼んだものを持ってこい!」と言ってしまいます(心の中で)。

こういう店員さん達は、みんな善意でやっているのです。お店ではきっと「すべてのスタッフがすべてのお客様に笑顔でサービスをしよう」などと教育されているんだと想像します。その心もちはいい。
しかし、たくさんの客を相手にそれを具体的に実践するのは困難で、結局は、誰がどの客を担当しているのか、という点が曖昧になってしまいがちです。
そして、オーダーしたものが届かないときなど、原因や責任の所在が不明のまま、客が釈然としない思いで待たされるということが生じます。

これはもちろん、店側だけを責められることではありません。日本人が、店側にそういう対応を求めることが原因だと考えています。
最近のニュースですが、近鉄電車のホームで、人身事故の対応をしていた車掌が、顧客に詰め寄られ、「逆ギレ」して線路に降りて職場放棄してしまったという話がありました。
経緯はよくわかりませんが、その車掌は、乗客に取り囲まれるようにして、早く運転を再開させろとか、振替輸送をしろなどと怒鳴りつけられていたと聞きます。
車掌としては「私は車両運行の責任者でないのだから、そんなことを言われても知らない」と言って突き放せば良かったと、後から冷静に考えれば誰でも言えると思いますが、実際にそういう対応をしていれば、近鉄に対しさらなる非難がされたでしょう(もちろん、線路に降りるという行動は、これはこれで非難されて当然であるとは思います)。

このケースは極端な例ですが、日本人の多くは、飲食店であれ鉄道会社であれ、客である自分に対して全員一体となってサービスせよ、ということを求めがちであると思えます。「これをこの人に言っても仕方ないよね」ということを理解せず、中にはすぐに「社長を出せ」などと言う人もいる。
そのため、客を迎える側としても、トラブルはないに越したことはないから、全員がすべての客に対して、笑顔でサービスを提供している体を取ろうとする。

私は、当ブログでも度々、ハワイ(またはアメリカ)流と日本流の、いずれが良いとか悪いとかいうことではなく、そのいずれもが国民性や文化の違いに根差したものであること、また私自身は日本人であるから日本流のほうが個人的には好みであることを、書いてきました。
しかし今回の、客が店側の全員に対しサービスの提供を要求するというクセは、やめたほうがよいと思っています。上記の近鉄電車の事件は、そういう日本人のクセが陰惨な形で現れた一例と言えます。
また店側もそんな要求に無理やりあわせようとして結局、すべての店員がすべての客にいい加減な対応をしてしまうという状況も、改善してほしいです。
ここはアメリカ流の、店員は限られた範囲の客だけ対応する代わりに、その範囲内のことは責任持ってきっちりやる、というやり方のほうが合理的です。割り切ってそう理解する客が日本には少ないので、なかなか変わっていかないとは思うのですが。

ハワイ道中記2016 その3

毎年、ハワイに行くたびに、今度はもっと上手に英語でコミュニケーションができるようにしよう、と思うのですが、結局、きちっとまとまった勉強もできないままになっています。
それでも今回の旅行では、現地のいろんな店(主にバーですが)で極力会話に心がけました。そのおかげか、こちらの用件を伝えるだけでなく、向こうの言っていることも少しずつわかるようになりました。

「その1」で書いたハパスピザは2回利用し、2回目はピザでなく「ベイクドパスタ」というメニュー(パスタの入ったグラタンのようなものでした)と、それからシーザーサラダをオーダーしました。
ホテルの部屋に帰って紙袋を開けると、パスタだけ入っていて、シーザーサラダがありません。そのためエレベーターで1階に戻り、カイ・マーケット前に並んでいる人をかきわけてハパスピザまで行き、店員にレシートを見せつつ「シーザーサラダ、ノット インクルード」と伝えました。ノット インクルードは「not include」で、含まれていない、入っていないということを伝えたつもりですが、文法的に合っているかは今でもわかりません。
店員は、正確には記憶していませんが「ごめん、そこにあるから持って行って。うん大丈夫」という趣旨のことを言いました。「大丈夫」というのは、私が証拠としてレシートを示していたのに対し、覚えているからレシートは見せてくれなくてもいいよ、ということを言ったのだと思います。

このとき私の頭は、「ハワイの人はどんくさいな」という思いと、「早く部屋に戻って熱々のベイクドパスタを食べたいな」という思いでいっぱいで、「シーザーサラダが入ってない、って英語でどういうのかな」などとは全く考えてませんでした。ただただ、店先に着いて出た言葉でした。
まあそんな感じで、頭の中で「日本語→英語」という変換なしに咄嗟に出た言葉で会話が成立した経験を何度かしました。

最終日に、ホテルからホノルル空港までタクシーに乗りましたが、運転手は日本出身でハワイに30年ほど在住している初老の男性でした。
妻が運転手に「英語が上手になるにはどうしたら良いですか」と聞きました。その回答は、私の予想と全く同じでして、「英語を使わざるを得ない状況に飛び込むことでしょう」ということでした。
私も何度かのハワイ旅行を通じて、結局はそういう状況に身を置いて真剣にやらないことにはモノにならないだろう、と思っていました。

さて話は変わりますが、日本人は英語をしゃべれない、中学高校と6年も英語を習っているのに、英会話もできない、これは日本の英語教育が間違っているからだ、と言う人がよくいます。
私は、全くそうは思っていません。4年前に初めてハワイに行くにあたって、特別な準備や訓練をしなくとも、看板に書いてあることは概ね読めたし、最低限のこちらの用件を伝えることができたのは、やはりこれまで受けた英語教育の下地があるからだと思います。

私は過去に、NHKの「イタリア語会話」のテレビを1年ほど見ていたことがあります。イタリア語を学ぶつもりでなく、進行役の板谷由夏とパンツェッタ・ジローラモのかけあいが面白かったからです。板谷由夏はその後、女優として有名になり、ジローラモは「LEON」のグラビアで「ちょい悪オヤジ」として有名になっていくのですが、それ以前の話です。
もっとも、私がいま覚えているイタリア語は「イオ ソノ」(「私は…」、英語の「アイアム」に相当)と「ブオノ」(おいしい)だけです。これはNHKのせいでもなく、もちろん板谷由夏とジローラモのせいでもなく、私がきちんと学ぼうとしていなかったからです。
それに比べると、中高6年間の系統だった英語教育は、大げさな言い方ですが、今でも私の血肉となっていると思います。

中高6年も英語を習っていてアメリカ人と会話もできないのはおかしい、という人もいますが、それを言うなら、国語は小学校を含め12年間もやっているはずなのに、日本語での「読む・書く・話す」すら満足にできない人だって多数いるわけで、結局は各人がその学ぶ機会をどう生かすか、という心がけ次第だと思っています。

タクシーの運転手は空港への道すがら「ここがオバマさんが通っていた高校」などといろいろ教えてくれて、息子にも「ボクもハワイの大学に来るかい? 言ってごらん、I will study English very very hard!」などと話しかけてくれていました。

私は英語の早期教育は必要ないと思っており、息子に今から英会話などをさせるつもりもありません。ただ、この旅行を機会として、世の中には違う言語や思考を有する人間がたくさんいること、言葉を学ぶことでそれらの人ともコミュニケーションができることを知ってもらい、いずれ英語を学ぶ時期になれば、このときのことを思い出して、ベリーベリーハードに勉強してくれたらと思っています。

ハワイ道中記2016 その2

今年もまた、日本とアメリカの違いを興味深く思い知った経験がいくつかあったので、そういう話を書きます。

状況を具体的に書かないとニュアンスが伝わりにくいので、少し詳細に書きますが、こういうやり取りがありました。
JTBのツアーでワイキキ市内のホテルに行くと、現地サービスとして、ホテルのプールサイドで昼食(おにぎりやカップヌードルなどの軽食)を無料で食べることができます。完全に日本語で会話できますし、プールサイドで食べるおにぎりやカップヌードルというのはなかなか旨いもので、毎年利用しています。

今年は到着当日のチェックイン前にそれを利用しようと思ったのですが、所定のカード(JTBのツアー客に渡されるカードで、これを示すことでいろんなサービスが得られる)を、ベルボーイに預けたトランクの中に入れたままだったので、示すことができませんでした。
なので、プールサイドのJTBのブースで現地職員(たぶんハワイ在住の日本人女性)にそういう事情を話して「今はカードを持ってませんが、おにぎりもらえますか」と言ったところ、その女性職員は、
「では今回はあげますけど、次からはカードを持ってきてくださいね」と言いました。

この言い回しは、文法的には全く間違っていませんが、日本ではまず聞かない言い方です。
無料の昼食と言っても、こちらはJTBに料金を払ってきている客であり、客に対して店側が自分の扱っている商品を「あげる」という言い方は、日本国内ではまずしません。きっと「差し上げる」というでしょう。
当然ながら、その従業員を批判する意図では全くありません。ハワイではそういう言い方が当たり前なのです。その違いを書こうとしています。

日本では、目上と目下、客と店など、それぞれの立場に応じた、言葉使いと振舞いが要求されます。「あげる」という言い方は、子供の友達同士の間くらいでしか使われず、店員が客に言うものではありません。
もちろん、客にも相応の振舞いが要求され、金を払っているからと尊大にする客は「無粋」として軽蔑されます。
ハワイを始め、アメリカ圏では、そういう「立場に応じた振舞い」というのはやかましくないのでしょう。

 

また一方で、こんな経験もありました。
あるコンビニエンスストアで、私の妻がビールを買おうとしました。向こうでは、アルコールを買う際、年齢制限があって、パスポートか免許証を見せるように言われます(日本の免許証で良いのですが、きっと、それが読み取れる程度のマニュアルが周知されているのでしょう)。

ではこのとき、パスポートも免許証もないとどうなるか。
日本のコンビニでは、レジ画面の「20歳以上です」というところにタッチするよう求められますが、私のように明らかな中年だと、店員が勝手にタッチしてくれることが大半です。
妻はハワイのコンビニで、パスポートと免許証を持参しなかった結果、いろいろ食い下がったようですが、ビールを売ってもらえなかったのです。日本国内だと、なんと融通の利かない対応かと、誰だって感じるでしょう。

向こうでこういう対応が取られる理由としては、ハワイの現地人にとって、外人である我々の年齢は判別しにくい、ということもあるかも知れませんが、たぶん何よりも「決まりだから」ということにあるのだと思います。
アメリカのように、歴史が浅く、人種や価値観も多様な国家の特質なのかも知れません。そういう国をまとめるために、言葉使いに関しては、立場に応じ細分化された言い回しはなく、一方で、決まりごとは定めた以上、厳密に適用される。

それを思うと、おにぎりをくれたJTBの女性職員は、根っこは日本人でした。カードがないと昼食は出さない決まりになっているけど、事情を話せば「では今回は特別に…」と例外を認めてくれた。
互いに立場をわきまえた立ち居振る舞いが要求されるけど、それを守っている限りは相手に信用され、決まりごとがあっても多少は融通も利かしてもらえる。それが日本的なのでしょう。

毎年書いているとおり、どちらが良いというものではなく、それぞれの国に応じた振舞いがあるということです。私は日本流の、きちんと振る舞っていれば融通が利く、というのに慣れています。
でも一方で、前回書いたような、バーへ行くとバーテンダーが「またマティーニか?」と快活に笑ってくるフランクさも、馴染めばきっと心地よいのだろうなと思います。