脅迫メールと威力業務妨害罪

今月8日、大阪市にこういった内容の脅迫メールが届いたそうです。
「明日11月9日の午後2時20分に、大阪市の施設内4万か所に設置した爆弾を爆発させる」と。うちにも息子の小学校を通じて、保護者あてに一斉メールが届きました。
爆弾を4万発も作るほどの資金と、それを人知れず4万か所に設置し、同時に爆発させるほどの技術は、たぶんショッカーやゲルショッカーでも持っていないはずで、それくらいの力があれば、とっくに日本征服くらいはできていると思われます。ですのでこれは、明らかにイタズラなのですが。
それでも保護者は不安に思うし、学校側としても無視するわけにもいかず、その日の下校時は、先生方や親がいつもより多めに学校周辺に出て、不審物や不審者の警戒をしました。
私も、PTA会長として、下校時間に学校周辺を自転車で見回りました。

似たような脅迫メールの事件はちょくちょく起こりますが、こうした行為は刑法上、「威力業務妨害罪」が適用されることを、多くの方はご存じかと思います。刑法234条で3年以下の懲役または50万円以下の罰金です。
ここにいう「威力」とは、定義としては「人の意思を制圧するに足る勢力」のことを言い、物理的な暴力だけでなく、こうした脅迫も該当します。
「業務妨害」というのは、たとえば警察や学校関係者が警戒のために余計な時間を取らされたことを言います。

このとき犯人が「こんなイタズラを誰も真に受けるとは思わなかった、だから威力や脅迫にあたらない」と言ったとしても、それは通りません。明らかなイタズラであったとしても、社会的常識として、関係者は何らかの措置なり警戒態勢なりを取らざるをえません。
むしろ犯人も、それがわかってて面白がってやっているはずです。

学校関係者や保護者は日常的に登下校の見守りをしているのだから、別に余計な時間を取らせたわけでもないし、業務妨害にもあたらない、という弁解も通りません。この脅迫があったからこそ、普段とは異なる対応を取らされたことは否定できないからです。
私自身も、平日の事務所営業時間内に1時間ほど、見回りに時間を割いたわけで、その間、本来の弁護士業務ができず、時給に換算していくらかの損害も被っています。「いやあんたはその時間ヒマだったし、子供が好きだから見に行っただけだろう」と言われると、ある程度そのとおりなのですが、それでも事務所におれば多少、別の仕事は片付けられたはずなので。

そもそも、理論的な話をすると、判例上は、現に業務が妨害されたという結果は不要で、業務を妨害するに足る行為をすればこの犯罪が成立する、とされています。
つまり、「そんな脅迫行為をしたら世の中の多くの人の仕事の妨げになるだろう」という行為があれば、「脅迫の結果として具体的に誰にどの程度の妨害が与えられたか」ということは、必ずしも明確にされなくても、この犯罪が成立します。
(そうでないと、PTA会長がヒマな人か忙しい人かによって犯罪の成否が異なってしまいますし)

いずれにせよ、この手の愉快犯は卑劣な犯罪であるということで、犯人の処罰を望むものです。

安楽死は合法化されるべきか

アメリカで脳腫瘍の女性が、自らの予告通りに安楽死したというニュースがありました。この問題について、日本での法的解釈と、私見について、少し触れます。

この女性は、医師の処方した薬を使って死んだそうです。

報道されているとおりですが、日本の刑法では、死にたいと言っている人に対し致死量の薬品を渡すなどして死なせると、自殺幇助罪が成立します(刑法202条、7年以下の懲役)。また、家族などの要請で、病人に致死量の薬品を注射したりすると、殺人罪になります(刑法199条、最高刑は死刑)。

裁判例では、死期が迫っていて、耐え難い苦痛が生じているような場合、医師が一定の条件のもとで安楽死させるのは合法と解するものもありますが、結論としては「その条件にあてはまらないから有罪」としたものばかりです。最高裁の統一見解のようなものも出ていません。

 

聞くところでは、欧州の一部の国や、アメリカの一部の州では、安楽死が合法化されているそうです。日本は今後、欧米以上の高齢化社会となり、医療費もどんどん増えていくでしょうから、今回のニュースを受けて「本人がいいって言うなら安楽死を合法化していいんじゃないか」と感じた人もいるかも知れません。

しかし、私の考えとしては、明確に反対です。長い将来的にはともかく、現状の日本で安楽死を合法化してしまうと、かなりおかしなことになってしまうと思います。

 

アメリカで安楽死した女性の状況はよく知りませんが、まだ体も比較的元気であり、献身的に支えてくれる夫がいたようです。健康保険のない自由診療の国アメリカで、医師から楽に死ねる薬を入手できたというのですから、おそらく経済的にも裕福な方だったのでしょう。そういう状況であれば、生きるか死ぬかの問題について、熟慮の上で自己決定することも可能でしょう。

しかし、そんなケースはむしろ例外です。

たとえば、一家の中で高齢のおじいさん(おばあさんでもよいですが)がいて、足腰も立たないけど老人ホームに入るほどのお金もないとか、病気で長期入院しているとかで、家族が長年介護しているような状況はザラにあると思います。

そのとき、おじいさんが家族に気をつかって、「もうワシは安楽死する」といった場合、これは本当の自己決定といえるのか。

さらに極端な話をすれば、家族のほうだって介護に疲れてきて、「隣のおじいちゃんは安楽死したんだって」などと言いだし、自分の親に安楽死の決断をさせようとすることも考えうる。これでは、自己決定での安楽死という体裁をとった、単なる殺人です。

 

前回の話の続きみたいになっていますが、日本人は自分自身の合理的な判断に基づいて自己決定を下すということが不得意な人が多いと思えます。

周囲に気をつかって、周囲の空気を読んで、それに合わせるべく自分の行動を考える。それは日本人の美徳でもあると思うのですが、そんな日本において「生き死にを自分で決める」ということを正面から認めてしまうと、実は不本意だけど死なざるをえない、という人がたくさん現れるでしょう。

そういうことで、現状では安楽死の合法化には反対です。余力があれば、次回以降、さらに詳しく述べます。

PTAへの加入は「義務」か 3(完)

前回の続き。たとえばある保護者、便宜上「Aさん」としますが、子供の小学校入学の時点で、PTAへの加入を拒否したらどうなるか。

次回に続くと勿体つけましたけど、結論はすでに出ています。結社の自由という大原則があり、PTAが任意団体である以上、AさんをPTAに加入させることはできない。

 

その結果どうなるかというと、いろいろなことが想像されます。

たとえば、どこの学校にも、PTAが主体となって開催する行事があると思います。地域参加の運動会や、バザー、夏祭りなど、PTA会員が準備・運営し、必要経費はPTA会費から出たりもするでしょう。

これらはPTAの行事である以上、会員でないAさん家族は参加できないことになります。そのことに法的問題は全くありません。小学校の義務は義務教育を教えることであり、PTA関係の行事に全生徒を参加させるような法的義務はないからです。

 

それから、たとえば子供同士や保護者間でトラブルがあったとか、子供が地域でちょっとした問題を起こしたということがあったとします。その場合にはPTAの役員が間を取り持ったり、町内会長など地域の協力を取り付けたりして、丸く収めにかかることもあるでしょう。

その場合でも、Aさん一家に関しては、そんな労は取らない、自分で解決しろ、と言うべきことになりそうです。

 

PTA会員でない人は、行事にも参加できない、何かのトラブルに巻き込まれても手助けしない、だってPTAにはそんな義務はないんだから、というのが法的な帰結ということになります。

しかし、そんなことは、小理屈の好きな弁護士なら平気で言えるかも知れませんが、普通の心ある保護者一般はとても言えないでしょう。Aさんはともかく、その子供がかわいそうだからです。

そうすると、周りのPTA会員の人たちは「まあAさんもお子さんと一緒にどうぞ」と行事に参加することを認めてあげることになる。結果、Aさん一家は、PTA会員が苦労して費用も出して開催する各種行事に「ただ乗り」することになるわけです。

Aさんなら「いや、うちはそんなただ乗りはしない」と言うかも知れません。それならAさんは自分の子供に対し、「うちはPTAの行事に参加してはいけないんだよ」ということを語って聞かせてやらないといけない。それはどう考えても子供に良い影響を及ぼすとは考えられない。

 

以上、私の考え方を整理しますと、保護者はPTAに加入する法的義務などない。しかし、教育現場においてはPTAの存在は子供の育成や諸々の問題解決のために不可欠であって、そこに加入するのは親としての当然の義務であると考えています。

PTAに限らず、人の世には、多数の人のちょっとずつの善意や協力の集まりによって、いろんなことがうまく回っているということが、多々あると思います。そこに法的観点を持ち込んで、それに参加する法的義務のあるなしを問題にすること自体がナンセンスであるというのが、私の結論です。

PTAへの加入は「義務」か 2

前回の続き。

PTAというのは法的に言えば「社会教育関係団体」という団体の一種であることがわかりました。私も昨日知りました。

そして、われわれ国民は、ある団体を作ったり、団体に加入したりしなかったりするのは自由で、入りたくもない団体への加入を強制されることはありません。

結社の自由というもので、憲法21条1項には「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定めてあります。

 

もっとも、例外は多々あります。

たとえば私たち弁護士は、司法試験に受かって司法研修所を卒業しても、それだけでは弁護士としての業務ができません。各都道府県の弁護士会を通して日本弁護士連合会(日弁連)に加入し、その名簿に登録する必要があります(弁護士法8条・9条)。つまり、弁護士会と日弁連に加入することが強制されています。

私は、日弁連が出してる意見書(特定秘密保護法を廃止せよとか、死刑制度を見直せとか、取調べを可視化せよとか)には、たいてい反対の立場なのですが、だからといって日弁連の登録をはずしたり、弁護士会費を納めなかったりすると、弁護士として活動できなくなります。

その理由はいろいろありますが、カッコよくいうと、我々弁護士は時として国家権力を敵に回して戦わないといけないこともあるので、国や省庁の監督下に置かれると、国家権力にとって好ましくない弁護士が資格剥奪されるかも知れない。だから弁護士の統制や監督は弁護士会と日弁連が行う必要があり、弁護士はそこに所属しなければならない、ということです。

 

そういう例外を認める理由がない限りは、団体への加入・非加入は自由です。

学校や幼稚園のPTAにも、特に強制加入を認めさせるべき理由が見当たらず、そのため、公立学校や幼稚園が保護者にPTAへの加入を強制すると、憲法違反ということになります。

この点は、私が改めて述べるまでもなく、多くの方は気づいていると思います。

それでも、入学説明会のときに何となくPTA活動や会費の説明があって「よろしくお願いします」と言われて、そんなものかと聞き流しておいて、知らない間に加入していたことになっていた、というのが、多くの方にとっても実情だと思います。

説明があって特に断らず、文句も言わずに会費を支払っていたのだとすれば「黙示の承諾」があったと言えそうです。

ですから、前回紹介したPTA会費を返せという裁判では、PTAに入る義務がないのはその通りだけど、特に拒否もせず会費を払ってきたのだから、今さら返せというのは認められませんよ、ということになるのではないかと思っています。

 

では、さらにさかのぼって、入学説明会の時点である保護者が「うちは入会しませんよ」と明言したとしたらどうなるのか、この点は次回検討します。

PTAへの加入は「義務」か 1

熊本市で小学生の父親が、小学校のPTAを訴え、加入する義務もないPTAに加入させられ、会費を払わされたということで、PTA会費(合計20万円ほど)を返せと求めたそうです。

私自身が息子の幼稚園のPTAに関わっていることもあって興味を引きましたし、大きく言えば、学校・幼稚園のPTAに限らず、あらゆる団体における憲法上の「結社の自由」にも関わる問題ですので、少し触れてみます。

 

ここでも触れたかも知れませんが、私は昨年度と今年度、息子の通う市立幼稚園でPTA会長をやっています。

1年目の昨年度は、何もわからないまま過ぎて行ったという感じでした。

会合にいくと、周りの会話で「たんぴー」「くーぴー」とかいう何だか間延びした単語が飛び交っていて、「単P」(各幼稚園単位のPTA)、「区P」(区全体の幼稚園PTAの協議会)のことだと分かるまで、しばらくかかりました。

「しーおーぴー」という単語も聞こえて、何となくアメリカでいうCOPを想像し、たぶんPTAの中の精鋭部隊だろうと思っていたら、「市幼P」(大阪市全体の幼稚園PTAの協議会。「おー」じゃなく「よー」だった)のことでした。

 

それは雑談で、そもそもPTAとは何かというと、「ペアレンツとティーチャーのアソシエーション」の略語ですから、保護者と先生の集まり、ということになります。

(もっとも、区Pの保護者の中には、「パーッと楽しく遊ぶ」の略、と理解している宴会好きの人たちもいます)

 

法的にどういう位置づけをされているかというと、弁護士でありPTA会長をしておりながら、私もきちんと考えたことはありませんでした。

(いちおう、法学部生向けに教科書的に言えば、任意団体であって法人格なき社団にあたる、という程度の理解でして、これはこれで間違っていないと思います)

 

PTAの存在に何らかの法的根拠があるのかというと、ウィキペディア情報では、PTAは社会教育法の第三章(10条~14条)に定める「社会教育関係団体」であるとされています。

社会教育関係団体とは「公の支配に属しない団体で社会教育に関する事業を行うことを主たる目的とする」団体のことを言い(10条)、PTAはこれにあたるというわけです。恥ずかしながら、これも初めて見た条文ですが、たぶんこのウィキペディア情報で間違いないと思います。

この法律には、社会教育関係団体の定義があるだけで、PTAの定義があるわけではありません。PTAを各学校・幼稚園に作らないといけないとか、保護者がそれに加入しないといけないとかいう規定もありません。

冒頭に紹介した父親が「加入する義務もないのに」と言っている部分は、法的にはもちろん正しいことになります。

続く。

憲法解釈と集団的自衛権 4(完)

長々と書いてきましたので、ちょっとだけ整理します。

集団的自衛権を認めるべきかどうかの議論には2種類あり、①憲法の解釈という観点から、合憲か違憲かという議論と、②日本の国益や安全というメリットの観点から、認めたほうが良いかどうかという議論です。

①については前回書いたとおり、学説は分かれており、解釈上はどちらもありえます。②は、政治・外交の世界の問題なので、一法律家が軽々に判断を下すのは控えます。

ただ、①の側面において、解釈上、認める余地もある以上は、②の側面において、日本はどんな場合にどこまでのことができるのか、といったことを具体的に議論していくほうが、よほど良いと思っています。

それを、一部の人たちは、上記①の部分で「議論しようとすること自体がありえない」と言って安倍総理を批判しているわけですが、これはかつて、原発事故が起こったときのことを議論してこなかったために東日本大震災で大変な混乱が生じたことを思い出させる、危険な発想であると感じます。

 

さらに言うと、仮に「集団的自衛権を一切認めない」という立場にたったとして、安倍総理の憲法解釈に異を唱えるだけでは、この問題は決して解決しません。

なぜなら、「護憲派」の皆さんが大好きな憲法9条の2項には「陸海空軍その他の戦力」は保持しない、と抽象的に書かれてあるだけなので、常に「解釈」の問題が生じるのは避けられないからです。

そのため、古くは自衛隊や日米安保が「戦力」にあたるかどうかが解釈上の問題となり、近年では国連平和維持活動(PKO)や集団的自衛権が問題として生じてきました。

ですから、集団的自衛権を認めない立場の方々が、この問題を根本的に解決しようと思ったら、取りうる方法はただ一つです。それは、憲法を改正して、9条に「集団的自衛権は、これを保持しない」という一節を付け加えることです。

つまり「改憲」が必要なのです。憲法を改正して、集団的自衛権は認めないと明記しない限り、この問題は解決しません。

 

しかし、集団的自衛権反対派の方から改憲の議論は出てきません。その理由は、以下の2つのいずれかでしょう。

一つは、憲法をきちんと読んでいないので、「護憲」に徹したところで、集団的自衛権に関して解釈問題が発生することに気づいていないため。

もう一つは、そこには気づいているのだけど、改憲に向けて政治力を結集するなどの努力をするのが面倒で、「護憲」を唱えているだけのほうが楽だと思っているため。

 

安倍総理に憲法の教科書をプレゼントした一部の弁護士がどういう考えであったのか、私は知りません。ただ、何の議論も展開することなく、総理大臣に教科書を送り付けて何かを成し遂げた気になっているのだとしたら、同じ弁護士として恥ずかしい限りです。

集団的自衛権について、肯定・否定いずれの立場にたつかは、主権者である私たち国民一人ひとりが判断すべきことですが、「憲法を勉強し直せ」「立憲主義からしてありえない」などという一部の法律家の妄言には惑わされないようにしてほしいと思います。

憲法解釈と集団的自衛権 3

本題の、集団的自衛権の話にようやく入ります。

集団的自衛権の意味は前々回に書いたとおりですが、具体的には、日本が侵略を受けたときにアメリカが助けにきてくれる、という代わりに、アメリカが攻められれば日本も助けにいく、ということです。

アメリカ本土を他国の軍隊が攻め込むことは考えにくいのでしょうけど、たとえば北朝鮮がアメリカに向けてミサイルを撃ち、それが日本の上空を通過中に、日本の自衛隊がそれを迎撃してよいか、といったことが想定されています。

 

集団的自衛権を認めないと、アメリカを狙っているミサイルには手出しできない、ということになります。

それで日米は対等な同盟国と言えるのか。そんな日本を、万一の有事の際にアメリカが本気で防衛してくれると思うのか。そういったあたりが、集団的自衛権を認めるべきだという立場の方の論拠です。

一方で、そんなものを認めてしまうと、「アメリカの大義」とやらで日本に関わりのない無用な戦争に巻き込まれる、というのが反対論の根拠でしょう。

 

ここでは、集団的自衛権そのものの是非を論ずるのが本題ではありません。それは政治、外交、国防に関わる問題ですので、一弁護士が論じるには重すぎます。

あくまで、憲法の解釈上の問題として、集団的自衛権を認めるのは合憲か違憲かについて、どんな議論になっているかを紹介します。

 

これまでの政府見解は「権利としては持っているが、行使することはできない」という立場でした。権利なのに行使できないという論理は、いかにも不自然です。そして安倍総理がその解釈を変更しようとしているわけです。

 

憲法学者はどう言っているかというと、集団的自衛権を否定する(認めれば憲法違反である)という立場が有力です。

元東大教授の故・芦部信喜(あしべのぶよし)氏の「憲法」(岩波書店)という教科書には「日本国憲法の下では認められない」と明確に書かれています。

弁護士が安倍総理にプレゼントしたというのも、この本です。憲法学界の通説とも言える教科書で、私も司法試験の受験生のころに繰り返し読んでおり、思い入れはあります。

とはいえ、あくまで学界内で権威があるというだけであって、最高裁がこの教科書に準拠しているわけではないし、政府見解とも異なります。

 

一方で、学説の中には、集団的自衛権を肯定する見解も存在します。

中央大学教授の長尾一紘(ながおかずひろ)教授が明確にこの立場に立っています。この教授は私の司法試験の口頭試験のときに私の試験官だった人で、同様に思い入れがあります。

長尾教授の「日本国憲法」(全訂第4版 世界思想社)には、「この問題を解決するにはどうすればよいのであろうか。方法は簡単である。政府が集団的自衛権についての見解の変更を公式に発表するだけで足りる」とあります。

この見解に立てば、安倍総理の行動はむしろ望ましいということになります。

このように、憲法学説も分かれているのです。

 

集団的自衛権を認めないという立場に立って安倍総理を批判するのは自由です。しかし法律家がそれをやるなら、自衛隊の存在についてどう考えるか、集団的自衛権を認める見解と認めない見解がある中で、認めない見解に立つ理由は何か、そういったことを明らかにした上で、主張を展開すべきなのです。

教科書をプレゼントしたという弁護士の話を聞いて、弁護団会議で資料だけドサッと配って得意になってる弁護士を思い出したと前々回に書きしましたが、それはまさにこういう点にあります。

具体的な問題を論じるにあたって、いろんな見解を参照したり批判したりしながら、なぜ自分はこの説に立つのか、といったことを説明せず、本や資料だけ持ってきて「これを読めば分かる」などと言うのは、およそ建設的な法律家の態度とは思われないのです。

 

長くなりましたが、次回、締めくくって終わります。

憲法解釈と集団的自衛権 2

前回の続きとして、集団的自衛権を憲法解釈として認めることについて検討します。

まず、今回の安倍総理の発言(集団的自衛権に関しての憲法解釈を私が示す、と言ったこと)に対して、「解釈による改憲」を認めることになるとの批判があります。

つまり、憲法を改正するには本来、国会の議決と国民投票という手続きが必要なのに、それを解釈つまり権力者の思いつきだけでやってしまうことになる、という批判です。

これは、一部の「護憲派」が好きなレトリックですが、稚拙かつ悪質な「言いがかり」にすぎません。安倍総理は当然ながら、自分の頭一つで憲法の条文を変更(つまり改憲)しようとしているわけではありません。憲法に明確な規定がないことについて、憲法の条文の解釈を示そうとしているだけです。

 

どんな憲法問題であれ、「解釈」は避けて通れません。

前回、「自衛権」の説明として、具体的には有事の際に自衛隊が出動して国を守る権利であって、それが認められない以上は国としての体をなさない、と当然のように書きました。

しかし、実際は自衛隊すら、憲法解釈のひとつとして、その存在を認められているにすぎません。 その解釈ひとつとっても、戦後ずいぶん揺れ動いてきました。

戦後すぐのころは、政府は憲法9条の解釈として「完全非武装」を想定していました。その後、朝鮮戦争などの動乱があり、政府が警察予備隊(のちの自衛隊)を創っていくにあたり、「戦力」の解釈を微妙に変更させているのです。自衛隊は、戦車もイージス艦も持っているが、それは他国を脅かす程度のものではないので、「戦力」には当たらないと。

現在の隣国の不穏な動きを見て、そんな解釈変更はけしからん、自衛隊は即時なくすべきだ、という人がどれだけいるでしょうか。

 

安倍総理に憲法の教科書を送った弁護士がどういう見解であるかは知りません。

もし、さすがに自衛隊は必要だ、と考えているのだとしたら、国を守るために「憲法解釈」が必要であり、時にはその解釈に変更がありうることを認めていることになります。

徹底した非武装・平和主義の立場に立って、自衛隊の存在自体を認めない、という立場に立つのであれば、集団的自衛権という、いわば末端の問題で安倍総理を批判するのではなく、憲法解釈の変更により自衛隊の存在を認めたことを批判すべきことになります。

つまり、昭和30年前後の総理大臣だった吉田茂や鳩山一郎に文句を言うべきことになりますが、いずれも故人なので、その孫である麻生太郎元総理や、鳩山由紀夫元総理にでも文句を言えば良いでしょう。

 

…と、国防上の重要問題にはどうしても憲法の解釈が必要で、それは国際情勢などに応じて変遷していかざるをえない、という話をしているうちに、長くなってしまいました。

現在議論されている集団的自衛権の問題は、憲法解釈としてどう扱われているか、それは次回に続きます。

憲法解釈と集団的自衛権 1

毎年のことながら、今年もたくさんのチョコレートをありがとうございました。

さて、ネットニュースで見たのですが、一部の弁護士が、安倍総理に「憲法の基本を学んでね」と、バレンタインのプレゼントに憲法の教科書を送ったという記事がありました。

大阪ふうに言えば「しょーもない」ニュースですが、憲法好きで名前に「憲」の字をいただいている私としては、これに触れずにおれません。

 

私はこれまで、いろんな事件で弁護団に所属していましたが、会議のときなどに弁護士がよくやることとして(弁護士に限らないかも知れませんが)、やたら分厚い資料のコピーをドサッと配布するだけで、「で、何なの?」と感じたことがよくありました。

憲法の教科書を総理大臣に送ったという弁護士の行動を聞いて、そのことを思い出したのです。

 

ネットニュースなどを見た限りで、彼らの言い分をフォローしておきますと、安倍総理の最近の発言のうち、①「憲法とは国家を縛るものだというのは昔の考え方だ」、②「集団的自衛権を行使できるか否かについては、私が責任をもって解釈する」と言ったあたりを問題としているようです。

この①については、自民党がずいぶん以前から言っていることなので、今さら特に触れません。だた、ひとことだけ言うと、「憲法」の最もシンプルな定義は「国家の基本となる法律」のことなので、必ずしも「国の権力を縛るもの」ではなく、「国のあり方、国柄」を示すものだという安倍総理の表現は、全くの間違いというわけではないと考えます。

 

上記の弁護士がいま問題にしているのは、②の、「集団的自衛権」が日本に認められるか否か、その解釈を総理大臣が示す、というあたりなのだと思います。

集団的自衛権というと、言葉は難しいですが、簡単に説明します。

 

まず、「自衛権」とは、わが国が自分の国を守る権利です。

たとえば中国が尖閣諸島を征服し、さらに沖縄、九州、本州と攻め込んできたとしたら、自衛隊が出動して中国軍による侵略・略奪を排除する、それが自衛権です。それすら認められない(つまり外国に侵略されたら何もできない)というのは、国としての体をなしておらず、解釈としてあり得ないでしょう。

 

次に「集団的自衛権」とは、自衛権を国の集団で行なうことです。たとえば、中国がアメリカの領土やら軍艦を襲ったとして、日本がアメリカと一致協力してアメリカを守るための行動を行なうことです。

この集団的自衛権というものを日本が持っているのかどうか、この点は、わが日本国憲法には、何も書かれていないのです。

書かれていないから、「解釈」として、それを認めようとしているのが安倍総理です。それに対して、一部の弁護士が、それは間違いだと言って、憲法の教科書を「プレゼント」したというわけです。

用語の解説をひととおり行ったところで、次回に続きます。

音楽と嘘と法的責任 1

出遅れた感じがしますが、佐村河内守さんのことについて触れます。

といっても、私自身はこの方をほとんど知りませんでした。この人のCDを一度だけ聴いたことがあって、それは、私の行きつけの堀江かいわいのバーで、音楽好きのマスターが「耳の聞こえない日本人の音楽家ということで注目を集めているそうです」と言って、交響曲ヒロシマだったか何かを流してくれたのです。

私自身は、ピンとこないと言いますか、日本人の音楽家ならまだ喜多郎の「シルクロード」(「笑い飯」が奈良県立民族博物館の漫才で「ぱぱぱーぱぱー」と口で言ってるあの音楽です)のほうが、ずいぶんいいと思いました。

 

その音楽が、そもそも佐村河内さんの作曲ではなく、ゴーストライター(新垣さん)が作った曲だったということで大騒ぎになっていますが、このことに関して私の感想を述べます。

 

もともと、音楽や芸能の世界では、その宣伝に、ある程度の誇張や虚偽は頻繁に含まれています。

全く話が変わりますが、1970年代にブルース・リーの映画がヒットしたとき、アメリカのジョー・ルイスという空手家が主人公を演じた「ジャガーNo1」という映画が作られ、この映画のキャッチコピーとして、ジョー・ルイスは「ブルース・リーをノックアウトした男」と紹介されていました。

ジョー・ルイスがブルース・リーと戦ってノックアウトしたという事実はなく、このキャッチコピーは明らかに虚偽なのですが、これが問題になることはありませんでした。

その理由は、この映画が全くヒットしなかったこともありますが、当時そのキャッチコピーを真に受ける人がほとんどいなかったためです。

もし、誰かがこのキャッチコピーを真に受けて「映画を観たけどジョー・ルイスがぜんぜん強そうじゃなかった、カネ返せ」と言ったら通るかといえば、それは無理でしょう。

ブルース・リーをノックアウトしたかどうかは、映画の「サイドストーリー」でしかなく、その部分に多少のウソがあっても、映画の価値自体は変わらない、ということです。

 

佐村河内さんの「耳が聞こえないのに自分で交響曲を作曲した」というウソも、それと同じレベルの話であると、当初は感じました。

それで憤っている人がいたとしたら「あんなパッとしない音楽に、耳が聞こえないって触れこみだけで乗ってしまうのがおかしい」というのが、正直なところ、私の第一印象でした。

ただ、佐村河内さんは、多くの人が同情を寄せてしまいやすい、感動させられてしまいやすい部分に対して、それとわかって意図的にウソをついているあたりが、やはり悪質なのだろうなと、今は感じています。

この「ウソ」についていかなる法的責任が発生するかは、次回に述べます。