芸能ネタ二題

久しぶりに芸能ネタです。軽く二題ほど。

 

酒井法子の弟(以下「のりピー弟」)が脅迫罪の容疑で逮捕されました。

元夫の父親のスキーショップで、姉が逮捕されたことでインネンをつけたそうです。

脅迫罪は、他人に対し「害悪を告知する」つまり身に危害を及ぶかのようなことを言うことで成立します。

「殺すぞ」などというのが典型ですが、のりピー弟が何を言ったのか、報道によりまちまちです。

「姉が逮捕されたのはお前らのせいだ」と言うだけでは、害悪の告知に当たらないようにも思えます。「今から店に行くぞ」と言うのも微妙です。ただ、のりピー弟は暴力団員であるらしく、そのような輩がすごんで言えば、「店で何をされるかわからない」という恐怖を与えることになり、脅迫に該当しうるでしょう。

「このままじゃ済まない」とも言ったとありますが、ここまで来ると脅迫罪と認定しやすいでしょう。その後の仕返しを予定するかのような発言だからです。

 

このように、脅迫罪というのは、ある意味では言葉尻を捉えて処罰するという犯罪なので、言葉の中身だけでなく、言った人の属性や、言った時の状況などによって、その成否が検討されるのです。

 

もう一題。

 

ジャニーズの赤西仁が、事務所に無断で黒木メイサと結婚した一件で、ジャニーズは罰として赤西の国内公演を中止し、キャンセル料などの損害を赤西個人に負わせると言いだしたそうです。果たしてこんなことが法的に通るのかと、私は疑問です。

結婚は本人の自由意思でしてよいはずであり、事務所に話を通さず結婚したことは、たしかに芸能界のオキテに照らせば問題なのかも知れないですが、それなら、芸能界のオキテに従って処分すればよいのです(仕事を干すとか)。そうではなしに、損害賠償という法的責任を負わせることができるかというと、これはかなり理屈としては困難です。

 

ジャニーズが本気でこの「罰」を実行するのかどうかは知りません。しかしジャニーズがこんなことを言いだすと、必ずマネする経営者が出てきます。

会社の従業員が会社の内規に反したとか、ちょっと仕事でミスして取引先に迷惑をかけたからなどと言って、過大な賠償額を見積り、それを給料から差し引くなどという、二流三流の経営者は結構いるのです。

従業員のミスが会社の損害に結びつくというのであれば、それは会社のチェック体制がよほど甘いのであって、どちらかと言えば会社側の責任と言えなくもない。

今回のジャニーズの子供じみた措置を、いい大人がマネしないことを祈ります。

強制起訴 初の無罪判決を受けて 2

検察審査会の議決を受けて起訴された事件が、無罪となりました。

これを受けての感想は、ごく大ざっぱに言えば、二種類に分かれると思われます。

1つは、やはりプロの検察が起訴できないと考えた事件を、素人の集団が多数決で決めれば起訴できるというのはおかしい、という考え方。もう一つは、これでいいんだ、検察がうやむやにしようとした事件を、裁判で白黒明確にできたのだから、無罪判決ならそれで構わないんだ、という考え方です。

 

後者の考え方は、戦後の刑事訴訟法の有力な学説とも一致します。

起訴すれば必ず有罪にならないといけない、と考えること自体がおかしい。だから無理な自白を得ようとしたりして、警察・検察で厳しい取調べが横行してしまう。捜査はごくあっさり片づけて、白黒つけるのは裁判所に任せればよいのだ、という考え方です。

 

しかし、その考え方は、弁護士など法律家なら理屈としては分かるとしても、多くの人々の実感からはずいぶん離れているのではないかと思います。

起訴された人にとっては、その後に長く続く刑事裁判を受けることになり、公開法廷で裁かれるという立場に甘んじなければならなくなる。

公務員や企業にはたいてい、起訴休職という制度があり、起訴されただけで、もう職場に出てはいけないことになる。最近では郵便不正事件で無罪判決を受けた厚労省の村木局長が長らく休職させられました。

 

それに何より、マスコミや世論が、逮捕されたり起訴されたりするだけで、その人を犯人扱いするかのような報道をすることは日常茶飯事です。

検察審査会はどんどん起訴議決をすればよい、その上で裁判で白黒つければよい、と考えるのであれば、まずそこを変える必要があると思います。

たとえば、逮捕されたり起訴されたりした人を、容疑者とか被告人とか呼ぶのをやめるべきだと思います。スマップの稲垣メンバーと民主党の小沢元代表に限らず、被害者も加害者も「さん」づけで報道すべきことになります。

役所や企業の起訴休職制度も即刻廃止されるべきことになります。

このようにして、有罪判決が確定するまでは、その人は「無罪」と推定されるべきである、という感覚を、弁護士だけでなく、世間一般が通有すべきことになります。

 

しかし、偉そうなことを言って恐縮ですが、世間一般が刑事事件を見る目というものは、まだそこまで成熟していないと思います。

起訴されれば世間の目もほとんど犯人扱いになる。起訴された被告人も心身ともに大きな負担を受ける。検察は、起訴という行為がもたらすそのような効果をよくわかっていたからこそ、慎重になり、有罪確実といえる状況でない限りは不起訴としてきたのです。

検察審査会の議決による強制起訴という制度が、今後も承認されていくのか、それは刑事事件を見る目がどれだけ冷静で成熟したものになりうるかにかかっていると思います。そこが変わらないのなら、将来、強制起訴という制度自体を考え直すべきことになるでしょう。

強制起訴 初の無罪判決を受けて 1

強制起訴事件で無罪判決が出ました(那覇地裁、14日)。

 

強制起訴とは、簡単におさらいすると、検察が起訴しなかった事件に対し、検察審査会が起訴すべきだと決議すると、検察はその事件を起訴して刑事裁判に持ち込まないといけなくなるという制度です。

検察審査会は国民から選ばれる審査員で構成され、かつてその決議には法的な拘束力はなかったのですが、近年の法改正で制度が変わりました。

検察が起訴するつもりのない事件でも、強制的に起訴させられるから強制起訴というのだと思うのですが、あくまでマスコミ用語で、法律上はそんな用語はありません。

 

これも以前に述べましたが、起訴するしないを、検察審査会の多数決で決めるということに、私としては疑問を感じなくもありません。もっとも、この制度に意義があるとすれば、グレーゾーンの部分にある事件について、裁判所の判断を仰ぐことができる、ということにあるでしょう。

たとえば、裁判所は、90%くらいの確実さで「こいつが犯人だ」と思えば有罪判決を出すとしたら、検察はやや慎重に、95%くらいの確実さがないと、起訴しないかも知れない。無罪判決というのは、少なくともこれまでの考え方からすれば、検察側の「失態」であるからです。

ですから、これまで、90~95%のところにある事件は、裁判に持ち込めば有罪にできるけど、検察が慎重になって起訴せず、不起訴でうやむやになってしまう、ということもあったと思います。それを起訴に持ち込んで、有罪とはっきりさせるという意義はある。

 

しかし一方で、容疑の度合いが89%以下の事件であったらどうか。これは裁判に持ち込んでも有罪にはなりません。それでも検察審査会が起訴すべきだと決議すれば刑事裁判になる。そして無罪判決が出る。今回の事件がまさにそういうものでした。

 

ちなみに事件の内容は、会社の未公開株を買えば将来確実に値段があがるからと言われて株を買って損をしたという、詐欺事件でした。

詐欺が成立するには、犯人が最初から騙すつもりだった(価値のない株であると知ってて売った)ことを立証する必要があります。だから、「結果的に株価は上がりませんでしたが、最初は会社の業績もよく、株価は上がると思っていました」と言われると、「騙すつもり」だったことの証明ができず、無罪にならざるをえない。

この手の事件は、もともと、有罪に持ち込むのが難しい部類に入ると思われます。

 

今回の無罪判決を受けて思うところについては、次回に続く。

違法収集証拠で考える「正義とは何か」

あまり大きく報道されていませんが、覚せい剤使用容疑の被告人が、警察の違法捜査を理由に無罪になったという判決がありました(東京地裁、27日)。

 

憲法38条、刑事訴訟法319条には、強制、拷問、長期間の拘禁を加えるなど、任意になされたかどうか疑わしい自白は、刑事裁判の証拠に使えない、と定められています。

この条文を根拠に、最近、検察官の調書が却下されるという事態が相次いでいるのは、ご存じのとおりと思います。

 

では、違法捜査の末に得られたものが「自白」でなくて「証拠」である場合はどうか。

冒頭の事件では、新宿の歌舞伎町を歩いていた容疑者を警察官が呼びとめ、所持品検査に応じないので、交番に連行してズボンを脱がしたそうです。

所持品検査は原則「任意」のもので強制できないので、有無を言わさずズボンをおろしたというのは、やり過ぎと言えるでしょう。しかしその末に、下着の中から怪しげな水溶液やポーチが出てきて、容疑者は観念したのか尿検査に応じ、その結果、陽性反応が出た。

 

捜査はやり過ぎだけど、その結果、犯罪の有力な証拠が出てきたとき、容疑者を有罪にできるか。この点は法律に規定がありません。強制や拷問をすれば、自白にはウソが混じるかも知れないけど、証拠物そのものの中身が変わるわけではないのだから、証拠として有効だ、という考え方もありえます。

この点は長年争われてきましたが、最高裁判所は昭和53年、重大な違法捜査の結果得られた証拠物は、有罪の証拠として使えない、という判決を出します。これが判例となり、違法収集証拠排除法則と呼ばれています。

 

映画では、刑事がちょっと行き過ぎた捜査をするけど、その結果、重要な証拠が出てきたり、犯人を検挙できたという話はよくあるでしょう。私としてはジャッキー・チェンの「プロジェクトA」で、ジャッキーが署長の制止もきかずに高級クラブに乗り込んで大暴れし、奥の部屋に隠れていた容疑者を引っ張り出すシーンなどが思い出されます。

そんなとき、容疑者は無罪放免、主人公の刑事が懲戒処分を受けて映画が終わり、となれば、観客は暴動を起こすかも知れない。

しかし、現実の社会で、行き過ぎた捜査でも結果が出れば許される、ということになると、これはかなり恐ろしいことだと思います。映画なら観客は犯人がわかっているから良いですが、実際には、犯人かどうかわからない人に対し「調べれば何か出てくるはずだ」と、見込み捜査で厳しい追及が行なわれるかも知れない。その追及は私たちに向けられるかも知れない。

 

冒頭の事件の結論は、繰り返しますが、容疑者からは覚せい剤の反応が出たのに、無罪でした。これが違法収集証拠排除法則の適用の結果であり、現在の判例の考え方です。私は個人的には、この判例を支持する立場ですが、いや、そんなの不正義だ、という考え方も、もちろんありうるでしょう。

これは大げさに言えば何をもって正義と考えるかの問題です。

判例のように、捜査が適切に行なわれたか否かというプロセス自体を重視するか、または、結果さえ伴えばプロセスの部分はある程度目をつぶるか、という選択です。

光市の母子殺害事件では死刑の最高裁判決が出ましたが、これは被害者保護を重視せよという世論が司法の判断を動かしたと見ることもできます。

違法収集証拠排除法則も、主権者である我々国民が、「司法における正義」をどう考えるかということと、密接に結びついていると言えます。

大阪市職員アンケートに対し労働委員会が「勧告」

大阪府労働委員会が、橋下市長が進めようとした職員アンケートを行なわないよう、大阪市に対し勧告した、と朝刊各紙に出ています。この問題、弁護士として、また一市民としても興味あるので、どちらが正しいかといった評価は加えずに、いまの状況を整理してみたいと思います。

 

労働者は、労働組合を結成して、賃金などの労働条件について、使用者側と交渉したりする権利があります(公務員の場合、職種によって労働者としての権利の内容が制限されているのですが、ややこしいのでその解説は省略)。

橋下市長も当然、法的に認められた範囲で市職員が組合活動をするのは認めています。

問題視しているのは、勤務時間中に組合活動をしているとか、組合活動の名目で実は政治活動をしている、という点です。

たしかに、選挙の際に特定の候補を応援するとか、憲法改正反対とか原発なくせなどとデモ行進をするとか、それを個々の職員が休みの日にやるなら自由ですが、勤務時間中にやられると、市民としては「ちゃんと仕事してくれ」と言いたくなる。

で、橋下市長は、そういう活動をしてませんか、というアンケートを実施しようとしたわけですが、設問の中には、政治活動や労働組合に対する考え方について、思想調査とも取れるような内容のものがあったようです。

 

労働組合側は反発しました。その法的根拠は大まかに言って2つです。

1つは、憲法19条は思想良心の自由を保障していて、これには自分の思想信条を無理やり言わされないということも含まれる。思想調査はそれを侵害するということです。もう一つは労働組合法7条で、使用者(この場合は橋下市長)が労働組合の活動に介入したり弱体化を図ったりすることは「不当労働行為」として禁じられており、アンケートはこれに該当する、ということです。

それで、市労働組合連合会という市職員の組合の団体があり、そこが大阪府労働委員会に対し、不当労働行為が行なわれているから救済してください、と申立てをしたようです。


労働委員会とは、労使問題が発生したときに調停などに乗り出す機関で、各都道府県にあります。

大阪では、北浜と天満橋の中間あたり、フランス料理の「ル・ポンドシェル」の斜め向かいの「エルおおさか」という建物の中にあります。イソ弁(勤務弁護士)のころは、使用者側・労働者側を問わず、労働事件が多かったので、私も一時はよくここに行きました。すぐ東側の路地を入ったところに「カドボール」といういい感じのバーがありますが、それはともかく。

 

橋下市長のやったことが不当労働行為に該当するか否かについては、今後、大阪府労働委員会で審査が行なわれ、該当すると判断されれば「そんなことやめなさい」という救済命令が出ます。しかし、労働委員会の審査は裁判手続きと似た部分もあり、けっこう時間がかかる。その間、アンケートが強行されると、あとから救済命令を出しても間に合わないことになる。

それまでの間、労働委員会は、救済命令の効果を確保するために適切な措置を講じることができる、と労働委員会規則40条に定められてあり、今回の「勧告」はその規則に基づく措置です。

 

いずれにせよ、橋下市長と市職員の紛争は、労働法上の興味ある問題を多く含んでいます。極めて大ざっぱに解説しましたが、もし事実関係や法令解釈の誤りがあれば、ご指摘ください。

小沢裁判の「調書不採用」の意味

民主党の小沢一郎被告人に対する裁判について。

今週報道されたところでは、「小沢先生の了承のもとでウソの記載をした」と述べる石井秘書の供述調書が、証拠として採用されないことになったとのことです。この話、刑事訴訟の手続を知らないと理解しにくいので、専門的にならない程度に述べてみます。

 

小沢被告は、ご存じのとおり、何億もの政治資金を受け取りながら帳簿にちゃんと記載しなかったという政治資金規正法違反の容疑で裁判を受けています。

それに対し小沢被告は「私は知らない、秘書が勝手にやったことだ」と、容疑を否認しています。その弁解自体、政治家としてはどうかと思いますが、刑事事件としては「小沢被告の指示や了承のもとに秘書がウソを書いた」という証拠がない限りは、有罪にできない。

 

その有力な証拠が、検察が秘書を取り調べて作成した供述調書であったわけです。

しかし弁護側は、検察が密室で取調べをして作った調書など、裁判官の前に提出すべきでない、と申し入れることができる。その場合は、秘書を証人として法廷に呼んで、裁判官の前で一から証言させることになります。

 

検察が作った調書には「小沢先生に指示されました」と書いてあり、裁判官の前では「私が勝手にやりました」と証言することになる。

このように、調書と証言が食い違うときには、どちらを採用するかが問題となりますが、本来は、法廷での証言がいちばん重要なはずです。例外的に調書のほうを採用してよいのは、「調書のほうが特に信用できる状況のもとで作成された場合に限る」と刑事訴訟法に書いてあります。

 

ただ従来は、法廷での証言よりは、調書が重視される傾向がありました。それは、検察官は法律の専門家だから、証人に対して無茶な取調べなどするはずがない、一方、法廷では証人は被告人に遠慮して本当のことを言いにくい、と信じられてきたためです。

しかし最近は、冤罪事件が次々明るみに出たり、検察官が無茶な取調べどころか、証拠を偽造したりする(郵便不正事件)ケースも出てきて、検察官の取調べにも相当に注意の目が向けられるようになったのです。

そして今回、検察側の調書は採用しないと、裁判長は決定しました。圧力や利益誘導があったとのことです。つまり取調べの検察官が秘書に「指示されたと認めないといつまでも釈放されないぞ」とか「認めればお前の罪は軽くしてやる」などと言ったと推認され、そんな状況で自白したと言っても信用できないというわけです。

検察側が、いかに「取調室では小沢被告に指示されたと言ってましたよ」と主張したとしても、正式に採用されていない証拠に基づいて有罪判決を書くわけにはいきません。

 

今後、検察側としては(注:検察審査会の議決に基づいて、弁護士が検察官として起訴したので、検察側も弁護士です。ややこしい話ですが)、秘書の供述調書がなくても、「秘書が勝手に何億ものウソの記載をするはずがないでしょ、あなたも知っていたのでしょ」という状況証拠で立証を行うことになります。

小沢被告が「全く知らなかった」というのも常識的に考えて充分あやしいのですが、グレーゾーンなだけでは有罪にできないのが刑事訴訟の大原則です。状況証拠でクロに持ち込めるか、今後の裁判に注目したいと思います。

オセロ中島にみる民事訴訟への対応のあり方

オセロ中島のことについて軽く触れます。

ネットニュースで見たところでは、東京にある個人事務所の賃料を半年以上も滞納し、明渡しを求める裁判を起こされたそうです。14日にその裁判の口頭弁論が開かれたのですが、オセロ中島は出廷しないまま審理は終結し、2週間後の2月28日に判決が出される予定とのこと。

弁護士から見ればよくある裁判ですが、これを題材に、いくつか解説を加えます。

 

まず、賃貸借の賃料については、いかに借主の立場が法的に保護されているとはいえ、3か月も滞納すれば、賃貸借契約を解除されます。オセロ中島は、昨年6月から滞納し、3か月経った9月に契約解除の通知を受けたようです。3か月滞納しているから、解除は有効といえるでしょう。

 

それでも出て行かなければ、家主側が原告となって、「立ち退け」という裁判を起こされる。それに対し、被告側がまともな対応をするのであれば、以下の3つの出方が考えられます。

① 何か正当な言い分があるなら、法廷に出て、書面または口頭で主張する。

② 話し合いによる解決を求めるというのであれば、その意向を裁判所に伝えておく。そうすれば、裁判官が仲裁の役目を果たしてくれます。

③ 第1回口頭弁論の日時がどうしても都合が悪くて法廷に行けないなら「詳細は次回までに主張します」という簡単な答弁書だけ提出しておけば、第2回は事前に時間を調整してくれます。

自分自身が法廷に出るのでなく、弁護士に依頼することもできます。そうなれば、弁護士が代わりに法廷に立つことになります。

 

オセロ中島はこのどれをも行わず、訴えられたことに対して無視したわけです。するとどうなるかというと、原告側の主張に対し何も争いはないと見なされて、審理は終結し、すぐに判決が出ることになります。原告の主張を争わないわけですから、基本的には原告側の求めるとおりの判決が出ます。

本件で、すぐに審理が終結して2週間後に判決が出るというのは、こういう理由です。

 

書面一本出しておけば良いものを、何の対応もしないという被告の対応は異常です。被告側がこういう対応を取るのは、以下の2つのいずれかの理由であることが大半です。

A 原告の主張に対して被告には何も反論がないので、争っても仕方ないと考えている場合か、または、B 前回書いた未公開株詐欺や先物詐欺のように、被告が、判決が出るまでに資産を隠して雲隠れしようとしている場合です。

いずれも、被告としてのまともな対応ではありません。普通の人にとって裁判を起こされるということは人生の一大事であり、いずれの理由にせよ、その一大事に何の対応もしないというのは、人生を半ばあきらめている人だろうと感じます。

 

オセロ中島だって、然るべき人に相談すれば、きちんと対応してくれたはずです。それを勧める人もいたでしょう。オセロ中島は、それも聞き入れないくらいに、人の意見に耳を貸さなくなったのかも知れません。

週刊誌などによればオセロ中島は自称占い師みたいな人に入れあげているようですが、こういう人も、前回書いたとおり、話をややこしくする人々の一例といえます。

今後は、オセロ中島に立ち退きを命ずる判決が出て、それでも立ち退かないなら強制執行で無理やりにでも出させることになります。それは占いよりももっと確実に予想しうることです。目を覚まして今からでも弁護士に相談に行ってほしいものです。

署名で検察は動くのか

前回の続き。

兵庫県加西市で、月食を観に行った小学生の兄弟が、酔っ払い運転のトラックにはねられ死亡しました。神戸地検がこの運転手の男性を、自動車運転過失致死罪(7年以下の懲役)で起訴したところ、遺族の方が、より重罰の危険運転致死罪(20以下の懲役)の適用を求めて署名運動し、検察側はそれを受けて、危険運転致死罪に訴因変更(起訴した罪名を変える手続き)をしたそうです。

危険運転致死罪と自動車運転過失致死罪の境目は微妙で、福岡の3児死亡事故で最高裁は危険運転致死罪の適用を認めたことは記憶に新しいと思います。それについては過去の記事を参照。

私だって、息子が酔っ払いのおっさんの車にひかれて死んだら、その運転を重罰に処してほしいと考えるでしょう。しかし、今回の経緯については、2つの疑問を禁じえません。

 

一つは、署名をした人たちが、どこまで本気であったのかということです。

前回、私は自分自身で考えた文書でない限り、自分の名前を署名する気にはなれないと書きました。それは、文書に署名するということは、その内容について責任を負うことを意味するからです。

今回、危険運転致死罪の重罰を積極的に適用せよ、という声明書に署名した人は、それが自分自身にはねかえってくる可能性についてきちんと考慮したのでしょうか。

危険運転致死罪は、酔っ払い運転でなくても、速度を上げた際や、車線変更をした際に事故を起こしたときにも適用される可能性があります(詳細は上記の過去の記事へ)。

自分自身がそういう状況で事故を起こしたとき、警察や検察から「あなたはかつて危険運転致死罪の適用を広く求める署名をしたではないか、だからあなたも重罰に処されても文句はないでしょ」と言われかねないことをしているわけなのですが、そこまでの覚悟をして署名した人が、果たしてどれだけいたのか。

 

もう一つは、検察が何罪で起訴するかという判断が、署名活動によって決められることへの疑問です。今回の訴因変更の理由は、署名活動がすべてではなかったと思いますが、それでも重要な要素の一つにはなったはずです。少なくとも世間はそうみたでしょう。

もちろん検察は、起訴するかどうか、どの条文を適用するかという判断において、被害者の感情を充分にくみ取ることが求められます。しかし今回の件で、署名活動は被害感情の表現の有力な手段となるという先例を作ったわけです。

私の知る限り、多くの被害者は「犯人は憎いけど、その裁きは検察官や裁判官に委ねて、裁判の動きを静かに見守ります」という態度を取ります。そういう方々に「私たちも署名活動をしなければ軽く扱われてしまうのか」という、不必要なプレッシャーを与えることになるのではないかと懸念します。

また、署名活動で検察の判断が変わるのなら、容疑者側の身内は「あいつは本当はいいやつだから罪は軽くしてやってくれ」という減刑嘆願の署名を集めることになり、署名合戦に発展するかも知れない。このようにして、署名の多い少ないで罪の軽重が決まるとなれば、誰でもおかしいと感じるでしょう。

 

私は、今回の事故は悪質だし、このケースでは危険運転致死罪の適用でも良いと思っています。しかし、今回のような運用を一般化するのは非常に疑問であると感じます。

JR西の脱線事故、無罪判決は妥当と思う

JR西の脱線事故で業務上過失致死罪に問われたJRの前社長の山崎氏に対して、神戸地裁が無罪判決を出しました(11日)。

山崎前社長は、事故当時、鉄道本部長として鉄道の安全管理に関わっていたということから起訴されたのですが、判決は、簡単に言えば、事故を予見できなかった、としています。

100人以上の乗客が死亡した悲惨な事件であり、遺族の方々の感情は察するにあまりあります。でも、個人的には妥当な判決だと思っています。

 

ここでも同じ話を繰り返し書いてきましたとおり、企業が人命にかかわるような事故を起こした際に、企業が「使用者責任」(民法715条)に基づいて遺族に対し賠償金を支払うのは当然です。しかしそのことと、企業の中の特定の誰かに刑事罰を科するというのは全く別問題であるということです。個人を罰して刑務所に行かせるには、よくよくの事情が必要です。

個人に刑事責任を問いうるほどの「予見」や「過失」とはどういうものかという議論は専門的になるので控えます。ただ、それは誰しも、自分の身に置き換えてみれば想像しうると思います。

 

たとえば私の事務所にも事務職員がおり、裁判所に行くときなどに自転車を使うことがよくあります。そのとき、(職員には悪い例えですが)自転車を人にぶつけてしまい、大ケガさせたり死亡させたりしたらどうなるか。

私は、上記の使用者責任を負い、被害者に賠償金を払うことになるでしょう。それだけでなく「あなたも刑務所に行ってもらう」「自転車で市内を移動させるんだから、事故が起こることくらい予見できたでしょ」ということになれば、これは正直なところ、たまったものではない。

もし、従業員が事故を起こしたら雇用主も刑事罰を受ける、という法律や判例ができてしまったら、私は直ちに全従業員を解雇するでしょう。そこまでのリスクを負えないからです。私だけでなく、人を雇う多くの人は同様に考えるでしょう。

 

繰り返しますが、本事故の遺族や被害者の方々の気持ちはよくわかります。これまた、自分の家族がもしこの事故で亡くなっていたら、と自分の身に置き換えてみれば、容易に想像しうることです。

しかし、本事故に限らず、いかに悲惨な被害が生じたからといって、関係者個人が誰か刑務所に行かないと気が済まない、と考える人がいたとしたら、それは誤りであると考えます。そんな風潮ができてしまうと、いずれ自分の身にはねかえってきます。

福岡の飲酒事故で考える「危険運転」とは何か

福岡で平成18年に起きた、飲酒運転の車に追突され3児が死亡した事故で、被告人である元公務員の男性に危険運転致死罪が適用され、懲役20年の刑が確定しました(最高裁、11月2日)。

この判決、3人も亡くなったのだから決して重くはない、と感じる方が多いのではないかと思います。もちろん、亡くなった子供たちはあまりに可哀そうで、飲酒事故として極めて悪質なケースであると思います。それでも私はこの判決は、いろんな意味において「重い」と思っています。そのことを以下書きます。

 

この事件での一番大きな争点は、この被告人に、業務上過失致死(5年以下の懲役)が適用されるのか、危険運転致死罪(20年以下の懲役)が適用されるのかという点でした。

ざっとまとめますと、裁判は以下のような経緯をたどっています(詳しくご覧になりたい方は、旧ブログにアクセスし、左下の「ブログ内検索」で「危険運転致死罪」で検索してください)。

 

平成20年1月、1審の福岡地裁は、検察側が危険運転致死罪で起訴したのに対し、業務上過失致死罪プラス道交法違反(酒気帯び運転)で、合計7年半の懲役としました。

判決に至る経緯も異例で、いったん審理が終結したあと、福岡地裁は審理を再開し、検察側に「訴因変更」を促しました。つまり、危険運転致死罪の適用は無理っぽいので、業務上過失致死罪にしときませんか、と裁判官が示唆したのです。

危険運転致死罪(刑法208条の2)は平成13年にできた条文で、どういう場合に適用すべきか、判例も固まっておらず、裁判官も重罰の適用に慎重になったのでしょう。

しかし2審の福岡高裁は平成21年5月、危険運転致死罪の適用を認め、20年の懲役刑を下します。被告人の上告を最高裁がこのたび棄却し、懲役20年が確定したわけです。

 

このように「危険運転致死罪」が適用されるか否かで、刑罰に大きな差が生じます。

危険運転とは、刑法208条の2に「アルコールや薬物で正常な運転が困難な状態とありますが、最高裁が言うには、それは「前方を注視し危険を的確に把握して対処できない状態」で運転することだそうです。ただそれだと、「酒気帯び運転」とどう違うのか、いま一つ判然としません。

 

しかも、危険運転致死罪の条文には、これだけでなく、「車を制御困難な高速度で走らせた場合」、「高速度で通行妨害目的で他の車に接近した場合」、「高速度で赤信号を無視した場合」も同様に扱う、と書いてあります。

ちょっとスピードを出しすぎた、ちょっと強引に車線変更した、信号が変わりそうだからスピードを上げたetc、車を運転する人なら多くは経験しているのではないかと思います。

そのはずみに人をひいてしまった場合、これまでは「業務上過失致死プラス道交法違反」で裁かれていたのが、今後は「危険運転致死傷罪」で裁かれる可能性が、今回の最高裁判決をきっかけに、間違いなく高まるでしょう(しかも、被害者が死んでいなくてケガだけであったとしても、適用される条文は同じです)。

 

繰り返しますが今回の事件が悲惨で悪質なものであることは異論がありません。ただ、その悪質さを重視するあまり、危険運転致死罪の幅を広げすぎて、道交法違反との境界があいまいになってしまったのではないか、そういう点で今回の最高裁の結論は重いと思うのです。