署名で検察は動くのか

前回の続き。

兵庫県加西市で、月食を観に行った小学生の兄弟が、酔っ払い運転のトラックにはねられ死亡しました。神戸地検がこの運転手の男性を、自動車運転過失致死罪(7年以下の懲役)で起訴したところ、遺族の方が、より重罰の危険運転致死罪(20以下の懲役)の適用を求めて署名運動し、検察側はそれを受けて、危険運転致死罪に訴因変更(起訴した罪名を変える手続き)をしたそうです。

危険運転致死罪と自動車運転過失致死罪の境目は微妙で、福岡の3児死亡事故で最高裁は危険運転致死罪の適用を認めたことは記憶に新しいと思います。それについては過去の記事を参照。

私だって、息子が酔っ払いのおっさんの車にひかれて死んだら、その運転を重罰に処してほしいと考えるでしょう。しかし、今回の経緯については、2つの疑問を禁じえません。

 

一つは、署名をした人たちが、どこまで本気であったのかということです。

前回、私は自分自身で考えた文書でない限り、自分の名前を署名する気にはなれないと書きました。それは、文書に署名するということは、その内容について責任を負うことを意味するからです。

今回、危険運転致死罪の重罰を積極的に適用せよ、という声明書に署名した人は、それが自分自身にはねかえってくる可能性についてきちんと考慮したのでしょうか。

危険運転致死罪は、酔っ払い運転でなくても、速度を上げた際や、車線変更をした際に事故を起こしたときにも適用される可能性があります(詳細は上記の過去の記事へ)。

自分自身がそういう状況で事故を起こしたとき、警察や検察から「あなたはかつて危険運転致死罪の適用を広く求める署名をしたではないか、だからあなたも重罰に処されても文句はないでしょ」と言われかねないことをしているわけなのですが、そこまでの覚悟をして署名した人が、果たしてどれだけいたのか。

 

もう一つは、検察が何罪で起訴するかという判断が、署名活動によって決められることへの疑問です。今回の訴因変更の理由は、署名活動がすべてではなかったと思いますが、それでも重要な要素の一つにはなったはずです。少なくとも世間はそうみたでしょう。

もちろん検察は、起訴するかどうか、どの条文を適用するかという判断において、被害者の感情を充分にくみ取ることが求められます。しかし今回の件で、署名活動は被害感情の表現の有力な手段となるという先例を作ったわけです。

私の知る限り、多くの被害者は「犯人は憎いけど、その裁きは検察官や裁判官に委ねて、裁判の動きを静かに見守ります」という態度を取ります。そういう方々に「私たちも署名活動をしなければ軽く扱われてしまうのか」という、不必要なプレッシャーを与えることになるのではないかと懸念します。

また、署名活動で検察の判断が変わるのなら、容疑者側の身内は「あいつは本当はいいやつだから罪は軽くしてやってくれ」という減刑嘆願の署名を集めることになり、署名合戦に発展するかも知れない。このようにして、署名の多い少ないで罪の軽重が決まるとなれば、誰でもおかしいと感じるでしょう。

 

私は、今回の事故は悪質だし、このケースでは危険運転致死罪の適用でも良いと思っています。しかし、今回のような運用を一般化するのは非常に疑問であると感じます。

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