血縁なき子供への認知の無効請求 2(完)

前回から、間が空いてしまってすみません。父親が認知した子が自分の子でなかった場合、父親はその認知をなかったことにできるか、という問題をどう考えるべきか、という話をしようとしていました。


これまでの裁判例や学説は様々でしたが、主流的な考え方は「血縁がない場合であっても、錯誤に基づく認知でない限り、無効とできない」といったものではないかと思います。

逆にいうと「血縁のない子で、かつ、錯誤つまり勘違いによる認知であれば、無効にできる」ということです。この考え方に基づいて、ケースをわけて検討してみます。

①血縁がある子を認知した場合。

世の中の認知の大半がこれでしょう。実際に血縁のある自分の子を認知したケースですから、当然、あとから無効にすることを認めるべきではありません。

②血縁がないが、それを知らずに認知した場合。

女性から「あなたの子よ」と騙されて認知した場合です。この場合は、血縁がなく、かつ錯誤もあるので、認知無効にできることになります。

(大澤樹生と喜多嶋舞のケースと似ていますが、婚姻関係にある男女の場合は「親子関係不存在」や「嫡出否認」の裁判となり、婚姻関係にない場合が、この「認知無効」の問題となるというのは、前回書いたとおりです)

③血縁がないが、それを知って認知した場合。

女性から「あなたの子にしてあげて」と言われて、自分の子じゃないと知りつつ認知した場合です。前回紹介した最高裁のケースはこれにあたります。

自分の子じゃないと知ってあえて認知するわけですから、従来の考え方によれば、錯誤はなく、無効にできないことになります。


ところが、今回、最高裁は、この③のケースを無効とすることを認めたわけです。

つまり最高裁は、錯誤があったか否かではなく、基本的に、血縁の有無を前提に認知の効力を判断すべきことを明らかにしたのです。そして血縁のない父親は、前回引用した民法786条の「利害関係人」にあたるとして、無効を主張できるとしました。

そうすると、前回紹介したような、一時的な「ええかっこしい」だけで他人の子供を認知し、育てられなくなったら認知をひっくり返すという、男の身勝手が許されることになるし、その子の福祉にも適さない、という懸念が残ります。

その点は、最高裁の判決文によると、「血縁のない父親の認知無効の主張は、権利の濫用にあたるものとして認められないこともある」と述べています。

(判決文は、最高裁のホームページで誰でも読めます。「判例情報」→「最高裁判所判例集」→「平成26年1月14日」で期日指定で検索してください)


今回の事案は、新聞報道によると、日本人男性がフィリピン女性の子供を、自分の子でないと知って認知して、日本国内に招き入れたというケースであり、すでにこの男女は長年別居している上に、フィリピンに帰れば実の父親もいるようなので、日本人男性の認知を無効としても、子供にかわいそうなことにはならない。

また、詳細は判決文に書かれていませんが、結論として認知が無効とされたということは、男性のほうでも、単なる身勝手で認知をひっくり返したというわけでもなかったのでしょう。


今回の最高裁判決で、割と重要な実務上の問題が、割とシンプルな考え方で統一されました。

「認知の効力は血縁を基本に考えるが、子供の福祉も重視しつつ、男が身勝手にひっくり返すことも許さない」ということで、結論としては妥当なものであろうと思います。

血縁なき子供への認知の無効請求 1

遅いごあいさつとなりましたが、今年もよろしくお願いします。

昨年から、親子と戸籍に関する問題にばかり触れている気がしますが、また重要な判決が出たので、それに触れておきます。最高裁が14日、血縁のない子に対する認知の無効請求は可能であると判断しました。

 

昨年末に触れた大澤樹生の子供の問題と似通っているところがあるので、そのとき書こうかとも思ったのですが、少し異なる場面の問題ですので、触れずにおきました。今回、タイムリーな判決が出たので、この機会にあわせて触れておきます。

大澤樹生の一件は、戸籍上の婚姻関係にあり、その夫婦の子(嫡出子)と思われていたが違った、という問題で、「親子関係不存在確認の訴え」という裁判が行われることになります(「嫡出否認の訴え」の話は細かくなるので省略します)。

 

一方、「認知」とか「認知無効の訴え」いう問題は、夫婦関係にない男女とその子との間で発生します。

古くから典型的にあるのは、妻子ある男性Aが愛人との間に子供を作ってしまい、愛人から「奥さんと別れてくれとは言わないけど、この子を認知して」と迫られる場面でしょう。Aが認知届を役所に提出することで、その子とAの親子関係が発生します。

その子は愛人の戸籍に入りますが、戸籍には父としてAの氏名が記載されます。具体的効果としては、Aは子供の養育費を愛人に払う必要が生じるし、Aが死亡した場合には子供に相続権が発生します。

このように、認知というのは、婚姻関係にない男女の間に生まれた子供に対し、身分的・経済的な保護を与えるための制度といえます。

 

ですから、民法の規定では、認知の効果がひっくり返されてしまわないよう、厳重に規定しています。

民法785条では「認知をした父または母は、その認知を取り消すことができない」と規定されています。(なお、「母は」とありますが、母親は実際には子供を生むわけですから、わざわざ認知しなくても、生んだという事実だけで母親と子の関係が認められるとされています)。

認知する父と認知される子に血縁が存在する場合は、当然それで良く、あとから「認知は無効だ」などと言わせる必要はありません。

 

一方で、血縁が存在せず、かつ、父親もそれがわかっているのに、認知してしまうケースも、中にはあるそうです。

考えられるのは、成金の社長とかが、場末のホステスと親しくなってしまって、そのホステスが、誰が父親だかわからない幼な子を抱えていたとします。

で、そのホステスに「あなたの子供として認知してあげて」と頼まれた成金社長が、子供かわいさもあり、ホステスへの下心もあり、男の度量を見せようとして「よし、認知してやるよ、わしの子として援助してやろうじゃないかね、ガハハー」と認知してしまうような場合です。

 

今回の事案が、実態としてどういうものだったか、私はまだ存じませんが、最初から血縁がないのをわかっていて認知した部類のケースであったようです。

民法786条には「子その他の利害関係人は、認知に対して反対の事実を主張することができる」とあり、これに基づいて認知の無効を主張することを認めたのが、今回の最高裁の判断です。

以上を前提に、この判断をどう理解すべきかについては、次回に続きます。

性同一性障害と戸籍、そして親子 2(完)

前回の続き。

特例法に基づいて男性になった元女性(A)と、その妻の女性(B)が産んだ子(C)の間に、戸籍上の父と子の関係を認めると、最高裁は判断しました。その法律解釈については、前回書いたとおりです。

私の考えとしては、結論としては肯定的に捉えています。積極的な賛成ではなく、最高裁がそう言うんならそれでもいいか、という程度の肯定ですが。

 

たしかに、最初に聞いたときは、私も違和感を覚えました。Bの卵子と第三者の精子から産まれた子が、ABの子として戸籍に記載されるというわけですから。そんな事態は、民法が制定された戦後すぐのころには想定されていなかったでしょう。

しかし、戸籍というのは、「しょせんその程度のもの」なのです。社会の中で、誰と誰が家族・親子であるかということを公的に明らかにするための行政文書に過ぎない。

かつては、血縁(遺伝子)が実の親子関係を決める唯一の手がかりでしたが、今やそれが多様化した。平成15年に戸籍上の性別の変更を認める特例法ができたことは、家族というものの多様化を、わが国の法律が承認したことを意味する。「家族観」は人それぞれだけど、特例法が存在する以上、条文の解釈としてはそう読まざるをえない。

 

さらに突きつめると、戸籍上、子供の父親であるということ自体に、さして重大な意味があるわけではありません。

戸籍上の親子関係があるということの最も大きな意味は、親が死んだときに子供に相続権があるということでしょう。しかし実際には、嫡出子であれ私生児であれ、父親が「この子に私の財産をやる」と遺言を残せば良いわけですから、相続の上で戸籍は決定的な要素ではない。

あとは、戸籍上の親は親権を持ち、子供の住居所を指定できるとか(民法821条)、子供が商売するときに許可を与えることができる(民法6条)といったこともありますが、いまどき未成年の子供が親元を離れて丁稚奉公したり商売を始めたりすることも、まずないでしょう。

あと、親は未成年の子供が勝手に結んだ契約を取り消すことができるので(民法5条)、たとえば子供が勝手にアダルトサイトの利用契約を結んだ場合に取り消せますが、これは別に父親でなくても、母親がしてもよい。

 

このように、戸籍上の父親であるということに、取り立てて大きな意味はないのです。

父と子の絆の意味は、法律の条文や戸籍の紙切れとは別のところに存在するのです。子供にとって父親たるにふさわしい存在であるかどうかは、それぞれの父親の問題であって、その点は、血のつながった親子であれ、養子であれ、今回みたいな元女性の子であれ、変わるところはありません。

今回の最高裁の判断は、親子のあり方、特に親の値打ちはそれぞれの家族が決めることであって、裁判所としては法律に特定の価値観を持ち込まず、条文どおりあっさり適用します、と言わんとしているのであって、それはそれで一つの解釈であろうと考えています。

性同一性障害と戸籍、そして親子 1

報道等によりご存じのことと思いますが、性同一性障害により女性から男性になった人が、その妻と第三者の提供した精子により生まれた子供の「父親」となることが、最高裁で認められました。

この事案、何が問題で、今回の判断がどういう意味を持つものであるのか、少し整理してみます。

 

まず、民法には、「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」(772条1項)とあります。夫婦が婚姻している間に妻が懐胎してできた子は、その夫婦の嫡出子として扱われ、戸籍法に基づいて、その夫婦の戸籍に入ります。

そして、平成15年にできた「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下「特例法」と略)によると、詳細は省きますが一定の要件を満たした人が、男性から女性に、女性から男性に、その戸籍上の扱いを変えてもらうことができることが定められています。

 

今回、元女性だった男性(Aさんとします)は、特例法により、戸籍上男性と扱われるようになったので、その相手の女性(Bさんとします)と結婚できることになります。戸籍には、Aさんが夫、Bさんが妻、と記載されます。

その後、Bさんが第三者の精子により懐妊しました。「妻が婚姻中に懐胎した子」だから、その子(Cちゃんとします)は民法772条1項によりAの嫡出子と扱われ、AB夫婦の間の子として扱われそうです。

しかし、これまで、家庭裁判所や役所の戸籍実務では、そのような扱いが認められませんでした。

たしかに、民法772条1項を単純にあてはめると、CちゃんはABが婚姻中に、Bが懐胎した子です。でも、「血縁」(最近の言い方なら「遺伝子レベル」)でいうと、CちゃんはAとBの間の子でないのは明らかです。そんなCちゃんをABの子として扱うことはできない、というのがこれまでの扱いで、結果、Cちゃんは戸籍上、Bさんの私生児として扱われていました。

 

最高裁は、Cちゃんを戸籍上ABの子だと扱うと決めたわけですが、評決は3対2だったので、きわどい判断だったと言えます。

問題は、①法律の条文をあっさり読んで、特例法で女性が男性になった、その男女が婚姻した以上、できた子供は民法772条1項により、その夫婦の子と扱うことは当然だ、と見るか、②戸籍や親子というのは、血縁を基本に成り立っており、今回のような例外的なケースを親子とは扱えない、と見るか、どちらの考え方を取るかです。

今回の最高裁の多数意見は、①の考え方を取りました。

「夫婦間にできた子はその夫婦の子だ」と定める民法は戦後長らく存在してきて、それを前提に、性別を変更して夫婦になることを認めるという特例法ができたのだから、法律の趣旨は当然、今回のようなケースが生じることを想定している、そうである以上は、法律を条文どおりあっさり適用すれば良い、そう考えたわけです。

の判断についての私の考えは、次回にでも書きます。

非嫡出子の相続分規定が改正されなかったらどうなるか

先日ここでも書いたとおり、非嫡出子の相続分を嫡出子の半分とする民法の規定が、最高裁で違憲とされました。

今国会のうちに、民法の改正が成立するようですが、ここに至るまでに、一部の政治家(主に自民党の保守系の人)からは、嫡出子と非嫡出子を同じに扱うことについて、根強い反対論があったようです。

この反対論に対して、新聞報道や、私の同業者の大多数は、違憲とされたんだから早く改正すべきだとして、反対する保守派を批判していました。

私は、非嫡出子の相続分は半分で良かったと考えているのは、すでに述べたとおりです。しかし、個々人の考え方や価値観はいろいろあろうが、違憲立法審査権を有する最高裁に違憲とされた以上は、速やかに改正するのが国会の職責であると思われます。

 

その話はさておき、ある法律が、最高裁において違憲と判断されたら、その法律はどうなるのかということについて、少し触れます。

結論としては、その法律は、そのまま残ります。法律を作ったり変えたりするのは国会のやることなので、いかに最高裁がこの法律は違憲だと言っても、自動的にその条文が廃止されるわけではない。これが三権分立ということです。

だからこそ、国会で民法を変えるか変えないかで混乱が生じたわけです。

 

今回は結果的に国会が改正に応じましたが、もし、応じないとどうなるのか。

実際、それが生じた例があります。

少し前に触れたとおり(こちら)、親を殺すと死刑または無期懲役という重罰になるという尊属殺人罪の規定(刑法200条)は、昭和48年に最高裁が違憲と判断したものの、長らく廃止されず、私が大学に入って初めて六法全書を買ったころ(平成2年)でも、その条文は存在していました。

その後、平成7年に、刑法を口語化することになり(それまでは漢字とカタカナまじりの文語文でした)、その際にあわせて、刑法200条が削除されました。

 

20年以上もの間、違憲とされた条文が残っていたのは、やはり、「親殺しの大罪を普通の殺人と同じに扱うのはけしからん」という保守派の政治家の考えによるものでしょう。

しかし、昭和48年の最高裁判決以降、親殺しの犯罪が起こっても、検察官は普通の殺人罪(刑法199条)を適用して起訴しました。

最高裁としては刑法200条は違憲無効と言っているわけですから、当然のことでもあります。こうして刑法200条は廃止されなくとも、死文化することとなりました。

 

今回の、非嫡出子の相続分は半分とする民法900条4号但書きが、もし廃止されていなかったとしても、同じことが起こったはずです。

最高裁はこれが違憲無効だと言っているので、非嫡出子は、相続分が半分か平等かで嫡出子と争いになった場合、裁判に持ち込めば良い。そうすれば平等の相続を命じる判決が出ることになるからです。

法律上の争いを最終的に裁ける存在は裁判所だけであり、裁判所の大ボスの最高裁が民法900条4号但書きは無効と言ってるわけですから、嫡出子が争ってもどうにもならないのです。

 

そういうわけで、もし民法900条4号但書きが廃止されなくても、死文化するだけだったと思うのですが、死文化した条文が六法全書に残り、立法と司法に齟齬が生じているという状態は望ましくないので、今回の法改正は、いかに保守派の政治家たちにとっても、やむをえないものだったと考えております。

メニュー偽装問題の違法性の検討

大手ホテル等でのメニュー偽装の問題がやかましくなっていて、この3連休、テレビをつけると連日、この話をしていました。私は正直なところ、この問題には興味ないのですが、妻からのリクエストもあって、ちょっと整理してみます。

 

メニュー偽装は法律的に何が問題か。

たとえば、外国産の牛を和牛と称するとか、バナメイエビを芝エビと称したりすると、景品表示法という法律に触れます。この法律は、景品・商品の広告等を規制するもので、不当な方法で顧客を誘引する行為を禁じるものです。

この法律、少し前にも当ブログで紹介しました。コンプガチャの問題が取りざたされたときです。インターネット上のゲームで、レアなアイテムが出る確率を極めて低くし、ユーザーをあおってたくさんお金を使わせたことが、この法律に触れるとされました。

このときにも書きましたが、景品表示法は、あくまで、行政庁(お役所)が企業を規制するための法律です。これに違反すると、行政処分(営業停止など)を食らうことがあるものの、お客さんに代金を返さないといけないとは、どこにも書かれていない。

現に、コンプガチャが問題になったときも、ユーザーに利用料を返金したという事実はなかったはずです。

いま、一部のホテルが返金に応じていますが、あれは法的義務があってそうしているわけではありません。あくまで、老舗のホテルとしての道義的責任を感じて、自主的に行なっているものです。

 

民法上は、お金を返せという理屈も成り立ちえます。

たとえば、民法95条の「錯誤」という条文は、ひとことで言えば、勘違いに基づく取引は無効にできる、というものです。

では「芝エビだと思ってたからエビの炒め物をオーダーしたんだ、バナメイエビならオーダーしていなかった」、というほどにエビにこだわっている人が、世の中にどれだけいるでしょうか。

私は、バナメイエビは近くのスーパーで売ってる、という程度の認識はありましたが、芝エビとどっちが上かなど知らなかったし、いま並べて出されてもたぶん違いは分からないと思います。

 

そういう私にも、食べ物・飲み物に対するこだわりが、皆無というわけではありません。たとえば行きつけのバーで奮発して、マッカラン(スコッチウイスキー)の30年ものをオーダーしたとして、マスターがごまかして12年ものを出したとします。

私はたぶん気づくと思います。マッカランという銘柄にこだわって飲むからには、それくらいの自信はあります。

もしそのとき気づかずに、後日、他人からのうわさで「あの店は30年ものと偽って12年ものを出している」と聞いたらどうするか。

私は、まずはそのとき気づかなかった自分を恥じます。その上で、その店には行かなくなるでしょう。返金を求めようとは思いません。そんな面倒なことしなくてもそんなバーは潰れると思うからです。

 

たしかにホテルのメニュー偽装は、返金義務までないとしても、商売のやり方としてどうかと思うし、行政庁が処分を下すというのなら仕方ないと思う部分はあります。

しかし、客としては、食材にこだわるなら自分の舌を頼りにすべきであって、それで気づかなかったのなら後からギャアギャアいうほどの問題ではない、というのが私の考えです。

そういう理由で、この問題にはあまり興味を持てないのです。

「処分保留」とはどういう状態か 2

処分保留のことについて書こうとして、間が空いてしまいましたが、続き。

まずそもそも、起訴・不起訴も決まっておらず、したがって容疑が晴れたわけではない人をなぜ釈放するかというと、一つには、警察の留置場の収容能力の問題です。

もう一つは、警察の処理能力の問題で、逮捕できるのは最大72時間、その後、勾留という段階に切り替わると20日間という時間制限があり、その間に捜査をすべて終わらせるのは結構大変ということです。

警察署には、日々いろんな容疑者が逮捕されてくるので、すべての容疑者を身柄拘束すると、到底、警察官が処理できなくなるのです。だから、悪質性の低い容疑者に対しては、「追って沙汰があるまで待っておけ」ということで、釈放するのです。

 

では、どういう場合に釈放が認められるのか。

私も弁護士ですから刑事弁護を引き受けることがあり、逮捕後の容疑者が釈放されるかどうかの瀬戸際で弁護活動をしたことも再々あります。

結局は、「総合的に判断される」ということで、あれこれ解説しようとすると際限なくなるので、みの二男と前園の例で説明します。

 

みの二男は、最初、ある男性のカードでATMからお金を引き出そうとしたという窃盗未遂の容疑で逮捕され(72時間)、その後、勾留され(20日間)、さらに、その男性のカバンからカードを抜き取ったという窃盗の容疑で再逮捕されました。そのころになって、みの二男は自白しました。

検察は、さらに勾留する予定だったようですが、裁判官がこれを認めませんでした。

たちの悪いこととはいえ、幸いにも実害は生じていないし、自白して反省もしている。日本テレビという大企業の社員だし(その後で解雇されましたが)、ドラ息子とはいえ有名人の息子だから、身元はしっかりしているので、逃亡するおそれも低い。そう判断して裁判官は勾留を認めなかったのでしょう。

みのもんたの好き嫌いは別にして、弁護士としては、妥当な判断だったと思っています。

 

前園は、タクシー運転手への暴行罪の容疑で逮捕されました。

その後は、被害者のタクシー運転手と示談したから被害の回復はいちおうなされている。酔って記憶があいまいとは言いつつ、当初から事実は認めて反省もしている。有名人だし、やはり身元はしっかりしている。

前園はたしか、検察が勾留の手続きを取らずに、検察の判断で釈放されたと思われます。

 

こう見てくると、事実を否認すると勾留が長くなり、やったことを認めて反省すると早く出してもらえる、ということも言えそうです。そういう傾向があるのは事実です。

弁護士の立場からすると、本当に無実の人でも、釈放されたいばかりに「私がやりました」とウソの自白をしてしまうことがあり、これが冤罪を生む原因とも言われていますが、その問題は本稿の主旨とは異なるのでおいておきます。

 

前園も、みの二男も、起訴・不起訴は今後決まります。重大犯罪でもないので、起訴猶予で不起訴になる可能性も多分にあると思います。

不起訴とは「刑事裁判にかけない」というだけの話であり、2人のやった不祥事が消えるわけではありません。不起訴になったからといって、みのもんたがまた偉そうにしだしたら、皆さんテレビにツッコミを入れてください。

「処分保留」とはどういう状態か

サッカーはぜんぜん見ないのでよく知りませんが、前園というサッカー選手が、タクシー代の支払いを求めてきた運転手に殴る蹴るの暴行をした容疑で逮捕されました。

「酒に酔っていて覚えていない」と、ありがちな供述していたようですが、これはお酒と、酒飲みに対する冒涜といってよい発言です。

私だって、さんざん飲んで帰り道にどう帰ってきたか全く覚えていないほどに酔っぱらったことくらい、過去に何度かあります。翌日、店に迷惑かけてなかったかと心配になって電話やメールをしてみると、「いえ、きちんとお勘定もして、ご機嫌で帰られましたよ」と言われたりします。

これは私が品行方正というのではなく、多くの酒飲みの方も似たような経験をお持ちだと思います。酔っているときこそ、その人の普段の行動パターンがそのまま表れるのです。酔って暴力をふるうというのは、もともとその人に暴力的傾向があるものと考えざるを得ません。

 

この前園さん、処分保留で釈放されたことも、皆さん御存じのとおりです。

処分保留で釈放、といえば、みのもんたの息子もそうだし、少し以前なら公園で裸になったSMAPの草彅くんもそうです。

前置きが長くなりましたが、この、処分保留で釈放というのが、どういう状態であり、どういう意味を持つのかを、論じようとしております。

 

刑事事件の捜査の流れをごく簡単にいうと、まず、警察が容疑者を逮捕したり現場検証をしたりして、証拠を集めます。次に、検察官がその証拠を踏まえて、刑事裁判にかけて裁く必要があるかどうかを判断します。

 

検察官の判断には、大きく分けて、①起訴と②不起訴があります。

①証拠が揃っていて、かつ事件も重大なものであれば、起訴して刑事裁判にかかります。

近年だと、押尾学がこのルートをたどって、裁判で有罪判決を受けました。

②不起訴となる場合にもいろいろあって、これも大ざっぱにいうと、a 嫌疑(容疑)が不充分と判断される場合と、b 嫌疑は充分だけど起訴しない場合があります。

 

a 嫌疑不充分の場合、起訴しても無罪つまり検察側の敗北となるだけですから、当然、不起訴となります。

小沢一郎が政治資金規正法違反の容疑で取調べを受け、不起訴になったのがこのケースです(その後、検察審査会の議決により強制起訴され、結局はやはり無罪となりました)。

b 嫌疑充分で証拠もそろっており、裁判にかけたら有罪にできる場合でも、諸般の事情から起訴しない場合があります。これを起訴猶予といいます。初犯だとか、被害者と示談成立したとかいう場合など、検察官の温情で起訴しない場合です。

ずいぶん古い例ですが、志村けんが競馬のノミ行為(競馬法違反)で「8時だョ!全員集合」に出演できない時期がありましたが、最終的にはこの起訴猶予になったのではなかったかと思います。

 

以上で、検察官の最終的な処分の主だったものを一通り説明しました。

では、前園や、みのの息子の「処分保留」とはどういう状態かというと、まさに文字そのままで「検察官がまだ最終的な処分をしないでいる」ということです。だから、起訴か不起訴か、不起訴なら嫌疑不充分か起訴猶予か、というのは決まっていません。それはこれから決まります。

 

次回もう少し続く予定。

土下座をさせると犯罪になるか

「ファッションセンターしまむら」で、従業員を土下座させてその写真をツイッターで投稿した女性が強要罪で逮捕されたというニュースがありました。

強要罪は、刑法223条に定められています。暴行や脅迫を用いて、他人に、義務のないことをさせると成立し、3年以下の懲役となります。

脅すだけなら脅迫罪、脅してお金を取るのが恐喝罪、そして、脅して「する必要のないこと」をさせるのが強要罪です。

買った品物に穴があいていたとクレームをつけて土下座させるのは、明らかに強要罪にあたります。わざわざ写真を撮ってネット上に公開したという犯情の悪質性から、逮捕に踏み切ったのでしょう。

容疑者は当初「強要していない」と言っていたようですが、土下座している様子を周到に携帯カメラを持って待ち構えていたわけですから、状況からして強要したとしか考えられません。

 

もっとも、一般論としては、強要罪というのは、セーフかアウトかの線引きが微妙なことが多いです。

今回のケースで言うと、たとえば、この女性が土下座でなく、「ちゃんと謝ってください」と言っただけだったらどうか。土下座でなく、謝罪の言葉だけを求めた場合です。

法律上は、商品に問題があっても、謝罪する義務などありません。法的義務としては、お金で賠償するか、商品を取り換えるかをすればいい。

では、言葉で謝罪させるのは強要罪になるのか。しかも、強要罪は、脅した相手が何もしなくても、「未遂罪」が成立します。となると、「謝れ!」と言っただけで強要未遂罪になるのか。

 

このあたりをきちんと解説しようとすると、結構複雑で、刑法の教科書みたいになって面白くないので省きます。

ただ実態としては、脅しの内容や程度、相手にやらせた行為などを踏まえて「やり過ぎ」といえる場合に強要罪として立件されている、と理解していただければ、そう間違いはありません。

刑法の解釈・適用がそんな大ざっぱなもので良いのか、という異論もあるでしょうけど、気に入らないことがあれば何でも謝罪させなければ済まないような人が増えている昨今、私はそういう運用で良いと考えます。

 

ついでに話変わって、「半沢直樹」の最終回で、半沢が大和田常務に「やれーー!大和田――!」と怒鳴って土下座させましたが、あれも強要罪にあたると思います。警察に突き出されずに出向で済んだのだから、頭取の温情措置です。

その少し前に、半沢自身、大和田常務に土下座したシーンがありましたが、あれは半沢の意思でやったもので、大和田常務は「土下座してみるか?」と言っただけであって脅迫を用いておらず、こちらは強要罪に該当しないと思われます。

「半沢直樹」がヒットして、気に食わない相手には土下座させる、みたいな風潮になってしまったら嫌だなと思っていたのですが、今回の事件はそういう傾向への警鐘となればよいと思っています。

ヘイトスピーチの違法性について

いわゆる「ヘイトスピーチ」に賠償を命じる判決が出ました。

昨日の日経夕刊からの引用(一部要約)。

「朝鮮学校の周辺で街宣活動し、ヘイトスピーチ(憎悪表現)と呼ばれる差別的な発言を繰り返して授業を妨害したとして、学校法人京都朝鮮学園が「在日特権を許さない市民の会」(在特会)などを訴えた訴訟の判決で、京都地裁は7日、学校の半径200メートルでの街宣禁止と約1200万円の賠償を命じた」

 

この学園は、学校法人として、おそらく京都府から補助金の給付を受けていると思います。

ここの教育実態は知りませんが、「日本に核ミサイルを撃ち込む」などと言っているような国家元首を崇拝させるような教育をしているのだとしたら、そんな学校に国民の税金を注ぎ込むことは、私もおかしいと思います。

しかし、そのことと、学校の周辺に街宣車をつけて「朝鮮人でていけ」などと大声で叫ぶことは別問題です。

こうした学校の存在が許せないのなら、補助金を出している京都府に対する監査請求や行政訴訟を起こしたり、法律・条例を改正してもらえるよう議会に陳情・請願したりするなど、平穏かつ合法的なやり方はいくらでもあるはずです。

大声で叫びたいのであれば、北朝鮮にでも乗り込んでやってくれればよいのです。

 

ここまでは、多くの方が、同様の感想を持っているものと想像します。

法律家として注目したいのは、(まだ判決文そのものを読んだわけではなく、新聞報道からの情報だけで書いているのですが)京都地裁が、在特会のやっていることが「人種差別撤廃条約に反するから違法だ」と言っている点です。

これは、ある意味では画期的な、またその反面大きな問題を含む判断のように思えます。

 

人種差別撤廃条約はネット検索で誰でも全文を読めますから、ぜひ一度見ていただきたいのですが、その4条には、たしかに、人種的憎悪に基づく思想の流布を禁じる条項があります。

条文自体は長いので要約しますと「締約国(条約を結んだ国のことで、日本も含まれる)は、人種差別を根絶することを目的として、人種的憎悪に基づく表現行為を行うことは犯罪なのだときちんと定める」とあります。

つまり、この条約は、ヘイトスピーチを行う人に対して、そういう発言は違法で犯罪だからやめなさいよ、と言っているのではなく、条約を結んだ国に対して、ヘイトスピーチを規制するような法律を整備しなさいよ、と言っているだけなのです。条約とは国家間で結ばれるものなので、それは当然のことであるといえます。

実際には、現時点でヘイトスピーチを具体的に規制する法律はないようなので、条約に照らして責められるべきなのは、国であって、ヘイトスピーチをした個人ではないのです。

 

もし条約に反すると直ちに個人に違法性が認められる、となると、かなり大変なことになります。

たとえばこの条約の第5条の()には、ホテルや飲食店などを利用する権利の平等、というものが定められているので、銀座やら祇園やら北新地にはザラにある会員制のバーやクラブというものは全部違法で、入店を断られた客は店から賠償金を取れる、ということになりかねない。

もちろん、在特会のやったヘイトスピーチは、民法の不法行為や、刑法の威力業務妨害罪に該当するので、結論として違法であるのは私も異論ありません。

ただ、その違法性を根拠づけるために国際条約まで持ち出す必要が本当にあったのかどうか、そこに疑問を感じるところです。

また後日、判決文にあたってみて思うところがあれば、書き足します。