「バー 鉄の扉」で検索された件について(雑談)

かたい話が続いたので今日は雑談です。

数日前に、当ブログへのアクセス数が急に増えたことがありまして、要因は何だろうと管理用ページを見ると、検索キーワードで「大阪 バー 鉄の扉」というのがたくさん出てきました。

 

2月19日の新聞やネットニュースで見ましたが、大阪のとある「隠れ家」的なバーが、「食べログ」に自分の店が掲載されているのを削除するようにと、食べログの経営母体(カカクコム)を提訴した、とのことです。

その店では、鉄の扉の周辺に「開けるな」と貼り紙がしてあり、扉を開けるとゴージャスな作りのバーになっていて、お客さんをそのギャップで驚かせたいのに、食べログに書かれるとその目論見がバレてしまう、だから削除せよ、というわけです。

食べログ側は「表現の自由」を理由に、削除には応じない構えのようです。

 

これでなぜ、当事務所のブログのアクセス数が上がるかと言いますと、「大阪 バー 鉄の扉」というキーワードが、ある記事にヒットしてしまうからのようです。

このメインブログとは別に、私がたまに書いているブログ(こちらで、私の好きなバーの紹介をしているのですが、その中で、難波の法善寺横丁にある「BAR川名」という店について、目だたないところに「鉄の扉」があって…と書いたのが、検索でヒットしてしまうのでしょう。

言うまでもありませんが、この「BAR川名」は、上記の記事で訴訟を起こした店ではありません。バーには詳しい私も、その店がどこであるのか、全く存じません。

 

ちょっと話は変わりますが、私はバーでも小料理屋でも「隠れ家」を売りにする店があまり好きではありません。

隠れて飲みたいのであれば、自宅か、愛人の家か、どこかの穴ぐらで飲めば良いのです。バーなど、外部の店で飲む以上は、そこは他の客も出入りする「パブリック」な場であり、誰に見られても恥ずかしくない立ち居振る舞いをしないといけないと考えています。

店主としても、パブリックな場を提供する者として、どんな客にもきちんと対応し、特定の客と慣れあうようなマネをしてはいけないと思います。

常連さんたちが集う秘密の隠れ家で、店主は常連たちにネットに書かないよう申し伝えているような店を、私も紹介されて何軒か知っていますが、そういういかにも「内輪で盛り上がってる」感のある店には、私はまず通いません。

 

さて、この裁判が今後どうなるかというと、私にはどちらでも良い気がしますが、確かに食べログ側は店の誹謗中傷を行なっているわけではない以上、削除せよというのは認められにくいかも知れません。もっとも、私だったら、そんなことで揉めるくらいなら削除くらいは応じたほうが早いと思うのですが。

幸い、私のブログは、店主に断って書いているわけではありませんが、これまで苦情が出たことはありません。でも何らかの苦情が出れば、直ちに削除するつもりでおります。

憲法解釈と集団的自衛権 4(完)

長々と書いてきましたので、ちょっとだけ整理します。

集団的自衛権を認めるべきかどうかの議論には2種類あり、①憲法の解釈という観点から、合憲か違憲かという議論と、②日本の国益や安全というメリットの観点から、認めたほうが良いかどうかという議論です。

①については前回書いたとおり、学説は分かれており、解釈上はどちらもありえます。②は、政治・外交の世界の問題なので、一法律家が軽々に判断を下すのは控えます。

ただ、①の側面において、解釈上、認める余地もある以上は、②の側面において、日本はどんな場合にどこまでのことができるのか、といったことを具体的に議論していくほうが、よほど良いと思っています。

それを、一部の人たちは、上記①の部分で「議論しようとすること自体がありえない」と言って安倍総理を批判しているわけですが、これはかつて、原発事故が起こったときのことを議論してこなかったために東日本大震災で大変な混乱が生じたことを思い出させる、危険な発想であると感じます。

 

さらに言うと、仮に「集団的自衛権を一切認めない」という立場にたったとして、安倍総理の憲法解釈に異を唱えるだけでは、この問題は決して解決しません。

なぜなら、「護憲派」の皆さんが大好きな憲法9条の2項には「陸海空軍その他の戦力」は保持しない、と抽象的に書かれてあるだけなので、常に「解釈」の問題が生じるのは避けられないからです。

そのため、古くは自衛隊や日米安保が「戦力」にあたるかどうかが解釈上の問題となり、近年では国連平和維持活動(PKO)や集団的自衛権が問題として生じてきました。

ですから、集団的自衛権を認めない立場の方々が、この問題を根本的に解決しようと思ったら、取りうる方法はただ一つです。それは、憲法を改正して、9条に「集団的自衛権は、これを保持しない」という一節を付け加えることです。

つまり「改憲」が必要なのです。憲法を改正して、集団的自衛権は認めないと明記しない限り、この問題は解決しません。

 

しかし、集団的自衛権反対派の方から改憲の議論は出てきません。その理由は、以下の2つのいずれかでしょう。

一つは、憲法をきちんと読んでいないので、「護憲」に徹したところで、集団的自衛権に関して解釈問題が発生することに気づいていないため。

もう一つは、そこには気づいているのだけど、改憲に向けて政治力を結集するなどの努力をするのが面倒で、「護憲」を唱えているだけのほうが楽だと思っているため。

 

安倍総理に憲法の教科書をプレゼントした一部の弁護士がどういう考えであったのか、私は知りません。ただ、何の議論も展開することなく、総理大臣に教科書を送り付けて何かを成し遂げた気になっているのだとしたら、同じ弁護士として恥ずかしい限りです。

集団的自衛権について、肯定・否定いずれの立場にたつかは、主権者である私たち国民一人ひとりが判断すべきことですが、「憲法を勉強し直せ」「立憲主義からしてありえない」などという一部の法律家の妄言には惑わされないようにしてほしいと思います。

憲法解釈と集団的自衛権 3

本題の、集団的自衛権の話にようやく入ります。

集団的自衛権の意味は前々回に書いたとおりですが、具体的には、日本が侵略を受けたときにアメリカが助けにきてくれる、という代わりに、アメリカが攻められれば日本も助けにいく、ということです。

アメリカ本土を他国の軍隊が攻め込むことは考えにくいのでしょうけど、たとえば北朝鮮がアメリカに向けてミサイルを撃ち、それが日本の上空を通過中に、日本の自衛隊がそれを迎撃してよいか、といったことが想定されています。

 

集団的自衛権を認めないと、アメリカを狙っているミサイルには手出しできない、ということになります。

それで日米は対等な同盟国と言えるのか。そんな日本を、万一の有事の際にアメリカが本気で防衛してくれると思うのか。そういったあたりが、集団的自衛権を認めるべきだという立場の方の論拠です。

一方で、そんなものを認めてしまうと、「アメリカの大義」とやらで日本に関わりのない無用な戦争に巻き込まれる、というのが反対論の根拠でしょう。

 

ここでは、集団的自衛権そのものの是非を論ずるのが本題ではありません。それは政治、外交、国防に関わる問題ですので、一弁護士が論じるには重すぎます。

あくまで、憲法の解釈上の問題として、集団的自衛権を認めるのは合憲か違憲かについて、どんな議論になっているかを紹介します。

 

これまでの政府見解は「権利としては持っているが、行使することはできない」という立場でした。権利なのに行使できないという論理は、いかにも不自然です。そして安倍総理がその解釈を変更しようとしているわけです。

 

憲法学者はどう言っているかというと、集団的自衛権を否定する(認めれば憲法違反である)という立場が有力です。

元東大教授の故・芦部信喜(あしべのぶよし)氏の「憲法」(岩波書店)という教科書には「日本国憲法の下では認められない」と明確に書かれています。

弁護士が安倍総理にプレゼントしたというのも、この本です。憲法学界の通説とも言える教科書で、私も司法試験の受験生のころに繰り返し読んでおり、思い入れはあります。

とはいえ、あくまで学界内で権威があるというだけであって、最高裁がこの教科書に準拠しているわけではないし、政府見解とも異なります。

 

一方で、学説の中には、集団的自衛権を肯定する見解も存在します。

中央大学教授の長尾一紘(ながおかずひろ)教授が明確にこの立場に立っています。この教授は私の司法試験の口頭試験のときに私の試験官だった人で、同様に思い入れがあります。

長尾教授の「日本国憲法」(全訂第4版 世界思想社)には、「この問題を解決するにはどうすればよいのであろうか。方法は簡単である。政府が集団的自衛権についての見解の変更を公式に発表するだけで足りる」とあります。

この見解に立てば、安倍総理の行動はむしろ望ましいということになります。

このように、憲法学説も分かれているのです。

 

集団的自衛権を認めないという立場に立って安倍総理を批判するのは自由です。しかし法律家がそれをやるなら、自衛隊の存在についてどう考えるか、集団的自衛権を認める見解と認めない見解がある中で、認めない見解に立つ理由は何か、そういったことを明らかにした上で、主張を展開すべきなのです。

教科書をプレゼントしたという弁護士の話を聞いて、弁護団会議で資料だけドサッと配って得意になってる弁護士を思い出したと前々回に書きしましたが、それはまさにこういう点にあります。

具体的な問題を論じるにあたって、いろんな見解を参照したり批判したりしながら、なぜ自分はこの説に立つのか、といったことを説明せず、本や資料だけ持ってきて「これを読めば分かる」などと言うのは、およそ建設的な法律家の態度とは思われないのです。

 

長くなりましたが、次回、締めくくって終わります。

憲法解釈と集団的自衛権 2

前回の続きとして、集団的自衛権を憲法解釈として認めることについて検討します。

まず、今回の安倍総理の発言(集団的自衛権に関しての憲法解釈を私が示す、と言ったこと)に対して、「解釈による改憲」を認めることになるとの批判があります。

つまり、憲法を改正するには本来、国会の議決と国民投票という手続きが必要なのに、それを解釈つまり権力者の思いつきだけでやってしまうことになる、という批判です。

これは、一部の「護憲派」が好きなレトリックですが、稚拙かつ悪質な「言いがかり」にすぎません。安倍総理は当然ながら、自分の頭一つで憲法の条文を変更(つまり改憲)しようとしているわけではありません。憲法に明確な規定がないことについて、憲法の条文の解釈を示そうとしているだけです。

 

どんな憲法問題であれ、「解釈」は避けて通れません。

前回、「自衛権」の説明として、具体的には有事の際に自衛隊が出動して国を守る権利であって、それが認められない以上は国としての体をなさない、と当然のように書きました。

しかし、実際は自衛隊すら、憲法解釈のひとつとして、その存在を認められているにすぎません。 その解釈ひとつとっても、戦後ずいぶん揺れ動いてきました。

戦後すぐのころは、政府は憲法9条の解釈として「完全非武装」を想定していました。その後、朝鮮戦争などの動乱があり、政府が警察予備隊(のちの自衛隊)を創っていくにあたり、「戦力」の解釈を微妙に変更させているのです。自衛隊は、戦車もイージス艦も持っているが、それは他国を脅かす程度のものではないので、「戦力」には当たらないと。

現在の隣国の不穏な動きを見て、そんな解釈変更はけしからん、自衛隊は即時なくすべきだ、という人がどれだけいるでしょうか。

 

安倍総理に憲法の教科書を送った弁護士がどういう見解であるかは知りません。

もし、さすがに自衛隊は必要だ、と考えているのだとしたら、国を守るために「憲法解釈」が必要であり、時にはその解釈に変更がありうることを認めていることになります。

徹底した非武装・平和主義の立場に立って、自衛隊の存在自体を認めない、という立場に立つのであれば、集団的自衛権という、いわば末端の問題で安倍総理を批判するのではなく、憲法解釈の変更により自衛隊の存在を認めたことを批判すべきことになります。

つまり、昭和30年前後の総理大臣だった吉田茂や鳩山一郎に文句を言うべきことになりますが、いずれも故人なので、その孫である麻生太郎元総理や、鳩山由紀夫元総理にでも文句を言えば良いでしょう。

 

…と、国防上の重要問題にはどうしても憲法の解釈が必要で、それは国際情勢などに応じて変遷していかざるをえない、という話をしているうちに、長くなってしまいました。

現在議論されている集団的自衛権の問題は、憲法解釈としてどう扱われているか、それは次回に続きます。

憲法解釈と集団的自衛権 1

毎年のことながら、今年もたくさんのチョコレートをありがとうございました。

さて、ネットニュースで見たのですが、一部の弁護士が、安倍総理に「憲法の基本を学んでね」と、バレンタインのプレゼントに憲法の教科書を送ったという記事がありました。

大阪ふうに言えば「しょーもない」ニュースですが、憲法好きで名前に「憲」の字をいただいている私としては、これに触れずにおれません。

 

私はこれまで、いろんな事件で弁護団に所属していましたが、会議のときなどに弁護士がよくやることとして(弁護士に限らないかも知れませんが)、やたら分厚い資料のコピーをドサッと配布するだけで、「で、何なの?」と感じたことがよくありました。

憲法の教科書を総理大臣に送ったという弁護士の行動を聞いて、そのことを思い出したのです。

 

ネットニュースなどを見た限りで、彼らの言い分をフォローしておきますと、安倍総理の最近の発言のうち、①「憲法とは国家を縛るものだというのは昔の考え方だ」、②「集団的自衛権を行使できるか否かについては、私が責任をもって解釈する」と言ったあたりを問題としているようです。

この①については、自民党がずいぶん以前から言っていることなので、今さら特に触れません。だた、ひとことだけ言うと、「憲法」の最もシンプルな定義は「国家の基本となる法律」のことなので、必ずしも「国の権力を縛るもの」ではなく、「国のあり方、国柄」を示すものだという安倍総理の表現は、全くの間違いというわけではないと考えます。

 

上記の弁護士がいま問題にしているのは、②の、「集団的自衛権」が日本に認められるか否か、その解釈を総理大臣が示す、というあたりなのだと思います。

集団的自衛権というと、言葉は難しいですが、簡単に説明します。

 

まず、「自衛権」とは、わが国が自分の国を守る権利です。

たとえば中国が尖閣諸島を征服し、さらに沖縄、九州、本州と攻め込んできたとしたら、自衛隊が出動して中国軍による侵略・略奪を排除する、それが自衛権です。それすら認められない(つまり外国に侵略されたら何もできない)というのは、国としての体をなしておらず、解釈としてあり得ないでしょう。

 

次に「集団的自衛権」とは、自衛権を国の集団で行なうことです。たとえば、中国がアメリカの領土やら軍艦を襲ったとして、日本がアメリカと一致協力してアメリカを守るための行動を行なうことです。

この集団的自衛権というものを日本が持っているのかどうか、この点は、わが日本国憲法には、何も書かれていないのです。

書かれていないから、「解釈」として、それを認めようとしているのが安倍総理です。それに対して、一部の弁護士が、それは間違いだと言って、憲法の教科書を「プレゼント」したというわけです。

用語の解説をひととおり行ったところで、次回に続きます。

音楽と嘘と法的責任 2(完)

前回は雑談ばかりだったので、今回は早速本題から入ります。

 

まず、佐村河内さんのCDを買ったという人が、「耳が聞こえない作曲家というから感動してCDを買ったのだ、ウソならカネ返せ」と言ったとしたら、認められるかどうか。

これはおそらく無理でしょう。CDの売買契約を取り消す理屈としては、詐欺(民法96条)が考えられますが、CD屋さんが意図的に客を欺いたわけではないから詐欺にあたらない。

(民法95条の錯誤も考えられますが、この場合は「動機の錯誤」にすぎない。長くなるので解説は省略)

 

それに、きっかけはどうあれ、今回の騒動のあと、CDは逆に売上げが伸びているみたいですし、CDで音楽を聴くにあたって、作者の耳が聞こえないなどというのは、あくまでサイドストーリーでしかない。

(前回紹介した、音楽好きのバーのマスターも、たいしたことない音楽だと思ってCDを捨ててしまったらしく、今になってそのことを悔やんでいるそうです)

 

では、佐村河内さんを招いてのイベントやコンサートが中止になった場合、イベントの主催者は、チケットの払戻しなど諸々の損害を、佐村河内さんに請求できるか。

これは認められる可能性が高いように思えます。

イベントに参加する客としては、やはり、佐村河内さんというすごい音楽家を見たいがためにお金を払うのです。その正体がペテン師だと知れば、そんなもの見にいきたくない。

この場合、作者の経歴は、サイドストーリーなどではなく、観客のニーズを呼び起こすメインストーリーとなっており、そこにウソがある以上、イベントも成り立たない。そんなウソをついたほうは、賠償を求められてもやむをえない、ということになると思われます。

 

それから、報道されているとおりで、耳が聞こえるのに聞こえないと言って障害年金を受け取った場合、身体障害者福祉法により懲役などの刑罰に処せられる可能性があります。

そこまで行くかというと、警察・検察は「佐村河内さんが障害者手帳を取得した当時、本当は耳が聞こえていた」ということを立証しなければならず、それはなかなか困難なように思えます。

 

さて、渦中の佐村河内さんは、「近いうちに公の場で謝罪します」というファクスを報道機関に寄こしたようですが、この人の口から本当のことが聞けるのはいつのことでしょうか。

ちなみに、前回書いた「ブルース・リーをノックアウトした男」ことジョー・ルイスは後日、「本当にブルース・リーをノックアウトしたんですか?」と聞かれ、こう答えたそうです。

「ブルース・リーは酒を飲めないけど、俺は軽く3杯はイケるぜ」と。つまり飲み比べならブルース・リーをノックアウトできるというわけで……よく袋叩きにされなかったものです。

もはやメディアから袋叩きの佐村河内さんですが、その肉声を待ちたいと思います。個人的にはそんなに憎めない人なので、ジョー・ルイスなみに開き直った言い訳を期待しています。

音楽と嘘と法的責任 1

出遅れた感じがしますが、佐村河内守さんのことについて触れます。

といっても、私自身はこの方をほとんど知りませんでした。この人のCDを一度だけ聴いたことがあって、それは、私の行きつけの堀江かいわいのバーで、音楽好きのマスターが「耳の聞こえない日本人の音楽家ということで注目を集めているそうです」と言って、交響曲ヒロシマだったか何かを流してくれたのです。

私自身は、ピンとこないと言いますか、日本人の音楽家ならまだ喜多郎の「シルクロード」(「笑い飯」が奈良県立民族博物館の漫才で「ぱぱぱーぱぱー」と口で言ってるあの音楽です)のほうが、ずいぶんいいと思いました。

 

その音楽が、そもそも佐村河内さんの作曲ではなく、ゴーストライター(新垣さん)が作った曲だったということで大騒ぎになっていますが、このことに関して私の感想を述べます。

 

もともと、音楽や芸能の世界では、その宣伝に、ある程度の誇張や虚偽は頻繁に含まれています。

全く話が変わりますが、1970年代にブルース・リーの映画がヒットしたとき、アメリカのジョー・ルイスという空手家が主人公を演じた「ジャガーNo1」という映画が作られ、この映画のキャッチコピーとして、ジョー・ルイスは「ブルース・リーをノックアウトした男」と紹介されていました。

ジョー・ルイスがブルース・リーと戦ってノックアウトしたという事実はなく、このキャッチコピーは明らかに虚偽なのですが、これが問題になることはありませんでした。

その理由は、この映画が全くヒットしなかったこともありますが、当時そのキャッチコピーを真に受ける人がほとんどいなかったためです。

もし、誰かがこのキャッチコピーを真に受けて「映画を観たけどジョー・ルイスがぜんぜん強そうじゃなかった、カネ返せ」と言ったら通るかといえば、それは無理でしょう。

ブルース・リーをノックアウトしたかどうかは、映画の「サイドストーリー」でしかなく、その部分に多少のウソがあっても、映画の価値自体は変わらない、ということです。

 

佐村河内さんの「耳が聞こえないのに自分で交響曲を作曲した」というウソも、それと同じレベルの話であると、当初は感じました。

それで憤っている人がいたとしたら「あんなパッとしない音楽に、耳が聞こえないって触れこみだけで乗ってしまうのがおかしい」というのが、正直なところ、私の第一印象でした。

ただ、佐村河内さんは、多くの人が同情を寄せてしまいやすい、感動させられてしまいやすい部分に対して、それとわかって意図的にウソをついているあたりが、やはり悪質なのだろうなと、今は感じています。

この「ウソ」についていかなる法的責任が発生するかは、次回に述べます。

新弁護士加入のお知らせ

今回の記事は事務所の宣伝とごあいさつです。

このたび、当・南堀江法律事務所の所属弁護士として、西平守和弁護士が加わることとなりました。

西平弁護士は、医師の国家資格を持ち、勤務医としての経験を有し、さらに法科大学院を経て司法試験に合格したという経歴の持ち主です。司法修習生として当事務所にて弁護士実務の研修を経たことが縁となって、当事務所に所属する運びとなりました。

西平弁護士は引き続き、現役の医師として現在も臨床の現場に立っているため、当事務所には非常勤となりますが、医療の分野と法律の分野を架橋して、人の悩み、痛み、紛争等を解決すべく、その能力を発揮してくれることと存じます。

 

当事務所としても元々、医療関係の訴訟を重点的な取扱い分野としておりますので、今後一層、この分野に積極的に取り組んでいきたいと考えております。

また、最近、当事務所にも相談が増えつつある交通事故案件にも、医師の観点を取り入れつつ、取り組んでいきたいと思います。

幸い、当事務所は特定の保険会社との提携関係がありませんので、医療問題、交通事故などについて、立場を問わず、広く対応できるものと考えております。

医療に関する法律相談については、西平弁護士と私でお聞きすることになります。上記のとおり西平弁護士は非常勤ですので、ご相談ご希望の方は、相談可能な日程を当事務所にお問い合わせ願います。

 

さらに、この機会に当事務所の所属弁護士の紹介をさせていただきます…

 

すでに当事務所にて5年のキャリアを積んでいる真鍋直樹弁護士は、民事・刑事を問わず多様な事件の処理をこなしてきた他、全国B型肝炎訴訟弁護団に所属し、B型肝炎ウィルス感染被害の救済に奔走しております。

B型肝炎被害の分野に関しては、真鍋弁護士がエキスパートですので、ご相談ご希望の方はお問い合わせください。

 

各弁護士の経歴・役職・自己紹介などについては、当事務所ホームページの弁護士紹介のコーナー(こちら)からご覧いただけます。

私(山内)の経歴が一番パッとしない気もしますが、今後とも、当事務所と各所属弁護士を、よろしくお願いします。