高嶋政伸の離婚裁判についての点描 1

高嶋政伸と美元の夫婦の離婚訴訟が決着しました。1審では高嶋政伸の離婚請求が認められ、その後、高嶋政伸が訴えを取り下げ、協議離婚が成立したようです。

 

訴えの取下げに関して少しだけ解説しますと、原告(本件では高嶋政伸)は、判決が確定するまでの間、訴えを取り下げることができます。敗訴した美元が高裁へ控訴するかしないかギリギリの時期でしたが、控訴できる間は地裁の判決は確定していないので、この時点での取下げはもちろん可能です。

ただし取下げには被告側(美元)の同意が必要です。取下げというのは、勝ち負けを決めないままに訴訟を終わらせるということですので、もし訴えられた側が、勝ち負けハッキリさせたいと考えていれば、取下げで終わらせることはできません。

今回の訴訟では、訴えを取り下げることに美元が同意し、その際、離婚条件について話し合いが行なわれて、お互い離婚届にサインして、協議離婚ということになったものと思われます。

 

芸能ニュースではこれまで派手に報道され、訴えの取下げという顛末を意外に感じた方もおられるかも知れませんが、弁護士としては、ありがちな話だなと思っています。

調停や裁判で離婚が決まった場合、離婚届に双方サインしなくても、裁判所の判断の結果として離婚が自動的に成立します。そして戸籍には「調停により離婚」「裁判により離婚」と記載されます。美元が実際にどう思ったかは知りませんが、それを嫌う人は多いようです。

私も過去の依頼者の案件で、離婚調停のあとで、互いに合意の上で協議離婚の形をとって終わらせたケースがいくつかあります。この場合は、戸籍には「協議離婚」と記載されます。

同じ話を、戦後の民法の第一人者であった故・我妻栄氏が、書いておられます。

要約すると、「離婚の話を裁判所に持ち出したとなれば、世間的には、何か因縁をつけたように見られ、再婚にも差し支える。協議離婚だといえば、穏やかな話し合いの結果だと認めてもらえる」と、多くの人が裁判を嫌うのはなぜか、という随筆の中で触れられています(作品社「日本の名随筆 裁判」)。

美元はこの裁判で有名になってしまったので、裁判で離婚を争った過去を消せないと思うのですが、やはり戸籍にそれが載るのはイヤ、と思ったのかも知れません。

 

もちろん、戸籍の記載だけでなく、今後高裁で延々と争っていくことの手間や時間を考え、また離婚条件についても双方の納得ずくで話し合える(裁判離婚となると離婚条件は裁判所が決める)ことを考えると、双方にとって、訴えの取下げにより協議離婚するメリットは大いにあったと思います。

一部報道では、訴えの取下げによって「裁判はなかったことになった」と報じられていましたが、両者にとっては、この裁判は納得ずくでの協議離婚に至る過程として、決して無駄ではなかったと思います。

 

さて、東京地裁がそもそも、高嶋政伸を勝訴させた原因はどこにあったのか、という点については、私なりに思うところもあるのですが、そのあたりは次回にでも書く予定です。

世襲制限に民主党政権の末期を見る

野田総理が、今度の衆議院総選挙で、世襲の議員は党の公認を与えないと言っているようです。

昔の貴族や殿様のように、世襲でないとその地位につけないというのならともかく、世襲すること自体は悪くないはずで、議員である以上は選挙を経て国民から選ばれていることには変わりありません。それで何が悪いのか、と思ったのですが、すでに同じ内容を過去に書いていました。

 世襲の何が悪いのか 

なお、この記事を書いたのは3年と少し前の、平成21年6月です。

当時は、麻生総理(この人も世襲議員)のころで、自民党政権の末期のころでした。麻生総理が夜な夜なホテルのバーで葉巻をふかしているとか、どうでもいいような批判が連日マスコミで流されて支持率は低迷、その直後の解散総選挙で、民主党への政権交代となったのは記憶に新しいと思います。

 

自民党はそんな状況下で、世襲の議員は親と同じ選挙区から出馬できないという決まりを作ろうとしていたそうです。

たしかに、故・田中角栄元総理の、地元新潟での抜群の人気を引き継いで、田中真紀子が余裕で選挙に勝てたであろうことを想像すると、親の地盤で選挙をさせるのは不公平にも思える。

しかし、だからといって一律それを否定してよいのかというと、それは大問題です。田中真紀子というひどい例を挙げましたが、中にはきっと世襲ながらきちんと教育されたすぐれた二代目の議員もいるはずです。

地元選挙区の人たちは心底、その二代目を支持したいと考えているにもかかわらず、同じ選挙区から出れないとなれば、選ぶ側の選挙権の侵害であり、立候補したい側の被選挙権の侵害になります。

 

結局、自民党のこの案は、知らないうちに立ち消えになったようです。

そして今また、民主党が似たようなことを提案しています。

思えば、政権の末期を迎えた政党は、何となく国民ウケしそうな政策を打ち出して、人気取りをしようとするのかも知れません。その際の政策は、分かりやすければ分かりやすいほど良いということで、極端に走りがちになるのでしょう。

世襲議員の出馬に一律に制限を加えるという、一見して何となく政治を刷新するようで良さそうな話ですが、実際には選挙権、被選挙権の侵害という、憲法違反の大問題を含んでいます。

そんな話が「何となくウケそうだから」出てくるというあたりに、間違いなく民主党も末期なのだろうなと感じさせられました。

「政治主導」ということについて思い返してみる

やはりというべきか、田中真紀子氏は多くの批判を受けて、大学設置不認可を見直すようです。この人を文部行政のトップにした野田総理の見識も疑われます。

 

さて、根本的なことを言うと、行政のトップに国会議員がいるのは、憲法がそれを求めているからです。すべての役所、省庁のトップである内閣総理大臣は国会議員から指名されます(憲法67条)。

省庁のトップである各大臣は、内閣総理大臣が指名します。民間や学者からも登用されますが、大臣のうち過半数は国会議員である必要があります(68条)。

この趣旨はお分かりだと思いますが、行政に対して主権者である国民が監視できるようにする、ということです。行政に携わる官僚は、公務員試験を経て採用されるのであって、国民から直接信頼され選ばれたわけではない。そこで、官僚の上に、国民による選挙で選ばれた国会議員を大臣に持ってきて、最終的な決済の判断と責任を委ねるわけです。

 

民主党は3年前に政権交代を果たしたときに舞い上がってしまい、国民から選ばれて大臣になったんだから何をしても許される、と思ってしまったのです。それが民主党の好きな「政治主導」です。

政治主導のために振り回されている官僚のためにひとこと擁護すると、官僚の仕事の良いところは、法律や先例にしばられるため、どういう行動を取ってくるかは、法律や先例を知っておけば大体読める、ということです。

今回の大学設置だって、関係者は、学校教育法とかそれに基づく設置基準に沿って準備を進め、「これならOK」との見通しを立てていたはずです。

社会において何らかの経済活動をするときに、この「見通しが立つ」というのは極めて重要な要素であって、それがないと何の活動もできません。

 

たしかに官僚主導も行き過ぎると、「法律の解釈上認められていない」「先例がないからダメ」など、硬直化した運用で規制ばかり増やして、国民生活に不便を来すことがあるかも知れない。

そういうときには、大臣が出てきて、官僚を適宜指導するなり、国会で法律を変えるなりして、善処すればよいのです。そうでないときは、大臣は黙って官僚に仕事を任せておけば良いのです。

 

考えてみれば、民主党が政治主導と言いだしたときには、官僚主導以上の弊害を生みだしてきました。

政権交代直後、当時の国土交通大臣の前原氏が、国土交通省による八ッ場ダムの建築の中止を決めました。結局、工事は再開されましたが、まさに時間の無駄でした。また建設作業の中止・再開で、要らぬ費用が国庫から消えたはずです。

レンホウさんらの事業仕分けでは、堤防の建築費用が削られました(そのことと東日本大震災の死者数との因果関係は知りませんが)。また、学術研究のための予算が削られ、山中伸弥氏のようなノーベル賞級の学者が、スポンサーについてもらうために研究時間を削ってマラソン大会に出場したりするハメになりました。

そして今回の大学不認可問題は繰り返すまでもありません。

 

考えてみれば、民主党の言う政治主導が、行政の硬直化という弊害を緩和する方向に働いたことは、私の知る限りでは、これまで一度もありません。

あれもダメ、これも削る、で結局、官僚以上に、国民の生活を規制し続けました。これが政治主導というのであれば、官僚主導の世の中のほうが、よほどマシです。

人権救済法は要らない

今回はリクエストがありましたので、民主党が閣議決定したという「人権侵害救済法案」のことについて書きます。

どういう法律かというと、報道されているとおり、「人権委員会」という委員会を作って、その委員会が民間人から「人権侵害だ」という通報を受けて、人権侵害の有無を調査したり、勧告したりすることができ、人権委員会の指示に従わないと罰金を払わないといけなくなったりするとのことです。

この法律のおかしさについては、以前、某県が「人権条例」を廃止したというニュースに触れて書きました(こちら)。私の言いたかったことは、今もこれと同じであり、これにつきています。

 

この機会に少しだけ付け加えて書きます。

政治評論家の宮崎哲弥氏が、週刊文春の連載で、この法案について触れていました(9月20日号)。ここで宮崎氏は、アメリカの弁護士出身の学者の著書を以下のように引用します。

「政府が人権重視をアピールするのは、ステーキ屋が牛の愛護運動をするのと同じだ。なぜなら、人権とは公権力が個人に対してやってはいけないことを規定したものであり、したがって人権を侵害できる機関は政府(公権力)のみだからだ」と(以上、要約して引用)。

つまり人権とは、国民が国(政府、公権力)に対して主張するものとして憲法に定められています。人権侵害救済法案が想定しているのは、差別や虐待などのようですが、これは職場や家庭など、あくまで民間の内部でのことです。これは民法などの法律によって解決されるべきもので、人権を持ちだすべき場面ではないのです。

 

それでも、人権大好き人間は言うでしょう。「人権は国に対して主張すべきものだなんて、国家や王様が絶対的権力を持って国民をしばりつけていた大昔の考え方でしょ? 現代では、国家か個人かを問わず、広く人権を主張することを認めていいはずです」と。

しかしその考え方を取ると、人権のインフレ現象が起きると言われています。世の中、ありとあらゆる不満について個々人が「人権侵害だ」と言いだすことによって、本当にあってはいけない人権侵害(公権力が言論の自由を封殺するなど)が生じても「また人権屋が騒ぎ立ててるわ」というだけで済まされてしまうおそれがある。

 

あと、憲法学者の樋口陽一氏の「憲法」(第三版)によると、法務省の人権擁護局が受け付けた「人権救済の申立て」のうち、公務員(つまり公権力)による人権侵害の割合は統計上、9%だけで、残り91%が民間による侵害(つまり本来は人権問題でない)の事案だそうです。

この状況下で人権侵害救済法ができたら、この誤った人権意識が広まったまま固定してしまうでしょう。

法案は閣議決定された段階で、まだ国会の審議を経ていません。おそらく廃案になるとは思うのですが、今の野田内閣は政府の方針としてこれを実現しようと考えているわけですから、ずいぶん気色の悪い話ではあります。

外国の国旗を奪うと何罪になるか

中国で、日本の大使が乗った自動車が中国人の暴漢に襲撃され、日本国旗が奪われるという事件がありました。その犯人は、中国の役所にて「行政拘留5日」の処分を受けた、とのことです。

行政拘留というのは、行政(役所)の処分として身柄を拘束するということで、日本にはない制度です。公開法廷で裁判を開いて審理するのではなく、役所の内部で処理してしまったわけですから、中国人らの氏名や、具体的な行為、動機、なぜ5日という軽い処分で終わったかなど、すべてはウヤムヤのままです。

 

なお、日本国内において、大使の車から外国の国旗を奪うような行為をやるとどうなるかといいますと、刑法92条、外国国章損壊罪で、2年以下の懲役または20万円以下の罰金となります。

外国国章損壊罪は、外国に侮辱を加える目的で、外国の国旗を、損壊、除去、汚損することで成立します。損壊とは、破ったり燃やしたりすることで、除去とは、引きずり降ろしたり、今回の事件のように奪い去ることを言い、汚損とは文字どおり汚すことです。

外国が掲げているものに限られるので、たとえば西天満のアメリカ領事館でアメリカの国旗を引きずりおろすと外国国章損壊罪になりますが、大阪ミナミのバーボン・バーで酔っ払いが店内のアメリカ国旗を引きずりおろしても、この罪には該当しません。もっとも、引きずりおろすだけではなくて、破いてしまったりすると、別途、器物損壊罪が成立します。刑法261条で3年以下の懲役または30万円以下の罰金です。

 

なお、日本国内で日本の国旗を引きずり降ろしたりしても、外国の旗ではないので、外国国章損壊罪は当然、成立しません。もっとも、やぶいてしまうと上記と同様、器物損壊罪が成立します。

 

整理しますと、日本国内で外国が掲げている外国の国旗は、引きずりおろしたり、やぶいたりすると、外国国章損壊罪になります。

日本の国旗や、日本人が私的に掲げている外国の国旗は、引きずりおろすだけでは罪になりませんが、破ったりするところまでいくと、そこで初めて器物損壊罪が成立します。

このように、外国が掲げている旗に対しては、それを妨害する行為が広く処罰されているのが明らかであると思います。その理由については諸説ありますが、外国に対する敬意というものが根底にあることは間違いないでしょう。

 

今回の中国での事件の処理を見て明らかになりましたが、中国には、そういう条文が存在しないか、または存在したとしてもきちんと適用されないようです。

つまり、互いの敬意に基づいた付き合いが期待できない相手であるということであり、このことは今回の件を機会によく理解しておくべきであると思われます。

最高裁は原発審査を積極化するのか

最高裁が、原子力発電所の設置許可について、より踏み込んだ審査をしようと模索しているようです(東京新聞など)。

 

これまで、原発の周辺住民が「原発の設置をやめろ」と裁判で度々争ってきたこと、しかし最高裁はすべて住民敗訴の判決を書いてきたことは、多くの方が何となくご存じだと思います。

前提として、そもそも最高裁は原発の設置の是非を審査できるのか、というと、これは可能です。原発も法律に則って設置されるので、その是非は司法の判断に服します。

具体的には、内閣総理大臣が、原子炉規制法に則って、原子力委員会の意見を聞いて、原発の設置許可を出します。

許可を出して良いか否かの基準として、原子炉規制法24条は「平和目的であること」「原子力の利用が計画的にできること」「設置者(電力会社など)に技術的能力があること」「災害防止の上で問題がないこと」などの条件をあげています(ごく大ざっぱに要約)。

だから、この条件にあてはまらないのに原発設置許可を出したとすると、法律違反の設置許可だから許可を取り消せ、原発設置をやめろ、と言えることになる。


かと言って、裁判官は法律の解釈については詳しいものの、原発の設備をみて安全かどうかを判断するような能力はさすがにない。

したがって、最高裁としてはこれまで、許可に至る手続きがきちんと行われたか否か、という観点のみを審査し、原子力に関する専門的・技術的事項には立ち入らずに、そこは原子力委員会の判断に大きく委ねる姿勢を取ってきました。

つまり裁判所は、中身には深くは関わらず、傍からみて手続き的におかしいところがある場合にのみ、違法と判断する、ということです。

たとえば、何の実験や検証も経ていないのに原子力委員会が安全と結論したとか、委員会は危険だと言っているのに総理大臣がOKを出したとか、原子力委員会が10人いたら10人全員が東電の社員で構成されていたとか、原子力委員会が48人いてAKB48で構成されていたとか、ずいぶん限られた範囲となるでしょう。

 

これは裁判というシステムの限界であり、国のエネルギー政策については、政治の判断に大きく委ねるということを意味するのであって、個人的にはやむをえないことだと考えています。

そもそも、原発の是非という国論を二分する問題について、裁判所が断を下すとなれば(最終的には原発を止めるか否かを、最高裁を構成する15人の裁判官だけで決めることになる)、民主主義の観点から非常に大きい問題です。

それでも、最高裁の内部では「政治に任せきりで良いのか」という自問が始まったようです。記事によると、最高裁に全国の裁判官35人が集まって報告書を出したり議論したりしたとのことで、これが直ちに個々の裁判の結果に影響するわけではないと思われますが、その動き自体は注目に値いするでしょう。

尖閣問題備忘録 補遺2

前回の続き。

日本人が尖閣諸島に上陸したことについて、軽犯罪法違反の疑いがあるということで、沖縄県警が事情聴取を行なったとのことです。結果的に、立件はされない方向で終結するようですが、このことについて少し触れます。

 

軽犯罪法の条文にあたるかというと、使えそうなものは、第1条第32号の「入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入った者」くらいしか見当たりません。

これは「田畑」が例として挙げられていることから分かるように、せいぜい、スイカ泥棒あたりを想定したような条文であるとしか思えません。

軽犯罪法は他に、空き家に侵入した(同1号)、乞食行為をした(22号)、風呂や更衣室を覗いた(23号)、公道で痰を吐いたり、立小便をしたりした(26号)などに適用されます。ちょっとした秩序を乱す行為を、広く浅く処罰するというイメージです。

ちなみに刑罰は、拘留(30日未満)または科料(1万円未満)と、かなり軽く定められています。とはいえ、これも立派な犯罪であり、警察がその気になれば、ちょっとしたことでもすぐに「軽犯罪法違反で現行犯逮捕だ」と言ってパクってしまうことが可能になる。

軽犯罪法第4条には、それを懸念して、「この法律の適用にあたっては、国民の権利を不当に侵害しないように留意し、その本来の目的を逸脱して他の目的のためにこれを濫用することがあってはならない」と明記されています。

 

したがって、本来はスイカ泥棒などに軽くお灸をすえるために存在する条文を、尖閣に行った日本人に適用しようというのは、明らかに適用されるべき場面が違うものであり、そこには「他の目的」、つまり対中関係の配慮という政治目的があるとしか考えられない。つまり軽犯罪法4条の趣旨を害するものです。

それに、日本人に対して軽犯罪法が適用できるのであれば、中国人に対して「犯罪は成立しない、だから入国管理法に則り強制送還した」という日本政府の立場に明らかに矛盾することになります。

さすがに、日本人に対してのみ軽犯罪法を適用するという、国内的にも対外的にも笑われるような法律の解釈適用は踏みとどまったようですが、それでも、中国人に対しては軽犯罪法の適用すら問題とされなかったのであり、この顛末には釈然としないものが残ります。


ひとまず、備忘録としては以上で終わります。職業柄、どうしても条文上の根拠が気になって、長々と書いてしまいました。

あと、個人的には、今回尖閣に上陸した日本人の気持ちはわからなくもないですが、今それをしてどうなるんだろうか、というのが正直な感想です。法律家としては、有事法制をきちんと確立して、小舟でなくて自衛艦を堂々と派遣すべきであると考えます。

尖閣問題備忘録 補遺1

前回の記事を書いたあと、尖閣諸島に今度は日本人の地方議員らが上陸し、軽犯罪法違反の容疑がかかったということで、それと絡んで少し書き足します。

 

まずは前回の補足です。

入国管理法違反で警察に逮捕された中国人らは、検察に送致されることなく、入国管理局に身柄を渡され、中国に帰ったのはご存じのとおりです。

検察に送致されずにすむのは本屋の万引きみたいな微罪処分に限られるはずなのに、国境の侵犯という重大犯罪(と私は思う)について送致されなかったのは、何か条文上の根拠があるのかということが、職業上、気になっていました。

ちなみに、微罪なら警察でお叱りを受けて終わり、ということには、きちんと条文上の根拠があります。刑事訴訟法246条に「警察は犯罪の捜査をしたら速やかに事件を検察に送致しないといけない、但し、検察官が指定した事件はこの限りではない」(要約)、とあります。この「指定」ということで、検事総長が「犯情の極めて軽微なものは警察の判断で許してよい」という通達を出しているのが、その根拠にあたります。

 

日本における刑事事件はすべて、検察が刑事裁判にかけるか否かを決める建前になっています。本屋の万引きですら、警察レベルで終わらせるためには、条文上の根拠と、検事総長のお墨付きが必要なわけです。ならば、国境侵犯が許される根拠は何か。

弁護士といっても、さすがに日本国内のあらゆる法律のすべての条文を知っているわけではありませんので、私は前回の記事を書いた時点では恥ずかしながら、直接の根拠を存じませんでした。

その後、同業者の指摘で知りましたが、それは入国管理法65条であるようです。

そこには、「警察が密入国者を逮捕した場合、その者が他に罪を犯した容疑のないときに限り、その者を(検察ではなくて)入国警備官に引き渡すことができる」(要約)とあります。

 

公務執行妨害罪という犯罪が成立しているじゃないか、と誰しも考えるはずですが、日本政府はそうは考えず、他に犯罪は成立しない、だから入国管理局に渡した、と述べたのは前回書いたとおりです。

このことについて、政府が、「大人の対応」として事を荒立てないためにまずは中国人にお帰り願った、と正直に言うのであれば、まだマシなのです。そうではなくて、刑事訴訟法や入国管理法を厳正に適用した結果こうなりました、というのであれば、それは明らかに間違った法律解釈であって国民に対するペテンである、と私は思うのです。

 

日本人に対する軽犯罪法の適用について論じようと思っていたのですが、長くなってしまったので次回に続く。

今回の尖閣問題についての備忘録

中国がまたも尖閣諸島に不法侵入しました。たかが一弁護士のブログで政治的なことを論じるのも詮ないことですので、あくまで法律解釈の観点から、私の感じた疑問を述べたいと思います。

 

中国人らは、入国管理法違反の容疑で警察に逮捕されましたが、早くも彼らは、強制送還されるらしい。この素早さは何かと言うと、刑事訴訟法で、逮捕による身柄拘束は48時間まで、と限られていることによります。

しかし、通常は、逮捕されたら警察から検察に事件が送致されると、これも刑事訴訟法で決まっています。警察サイドで事件を終わらせて良いのは、「微罪処分」といって、たとえば本屋で雑誌を万引きして警察でお叱りを受けて帰された、というようなケースに限られます。

本屋の万引きも立派な犯罪ですが、集団的・計画的かつ強行的な不法入国を、これと同視するのは明らかに疑問です。ここに政治的意図が働いたとしか考えられません。

 

2年前にも同じように中国人船長が同じようなことをして逮捕されたことを、誰しもご記憶であると思います。このときは、逮捕のあと検察に送致され、勾留という身柄拘束がされたあと、刑事裁判が始まるかと思っていたら、しばらくして「釈放」されました。(当時のブログ記事はこちら

これも政治的介入があったとしか思えない不可解な幕切れでしたが、仙谷官房長官(当時)が、「地検の判断を尊重する」と、地方の役人にその判断の責任を押し付けました。

 

今回はなぜ、事件を検察に送らないかというと、2年前のときのように、船で意図的に体当たりしてきたような攻撃がなかったので、公務執行妨害などの刑法上の犯罪にあたらず、刑事裁判で裁けない、ということのようです。だから不法入国のみが問題となり、それは入国管理局という役所の所管となり、行政処分として強制送還されることになる、ということだそうです。

 

しかし、今回の中国船も、海上保安庁の巡視船に対し、レンガなどを投げつけていたと報道されています。船体を少しキズつけた程度で、人に当たってケガをさせていたわけでないようですが、それは立派な「暴行」です。

刑法の教科書では、公務執行妨害とは、暴行や脅迫で公務員の公務を妨害することを言い、この場合の暴行とは広い意味を指すと言われます。

その定義についてはいちいち触れません。しかし私が経験した少年事件の中で、ある少年が、白バイの30メートルほど手前で「通せんぼ」しただけで公務執行妨害罪で逮捕されたというケースがあります。この少年のやったことはタチが悪いけど、これが暴行と言えるのかと、私は少年審判で争いましたが、家庭裁判所は「暴行」に当たると認定しました。

公務執行妨害罪というのはそれくらいに広く成立するのです。海上保安庁の船にレンガをぶつけて罪にならないというのは、解釈として明らかにおかしい。

今回、事件を地検に送致させずに、無理やりな解釈をしてまで、警察と行政レベルで話を終わらせようとしたのは、2年前に那覇地検に泥をかぶせて事件を幕引きしたことへの政治的配慮かも知れません。

 

もっとも、過去にも尖閣諸島に不法入国して、裁判にならずに強制送還したケースは、自民党政権下の小泉内閣のときにその例があるようです。野田総理としても、その前例にならったのだ、というのでしょう。

ただ、小泉内閣のときにそのことが今ほど問題にならなかったのは、それ以上に諸外国に日本周辺をおびやかされていなかったからでしょう。小泉元総理は、在任中は「アメリカの言いなり」「日本をアメリカの属国にするのか」などと言われていました。小泉元総理がやろうとした「構造改革」は、私としてもどう評価してよいのか未だに迷うところがありますが、外交に関しては、問題が大きくならないよう、シメるべきところはきっちりシメていたのでしょう。

 

以上、長文かつまとまりのないままですみませんが、備忘録を兼ねた問題の整理ということでご了承ください。

国際司法裁判所はなぜ動けないのか

報道されているとおりで、韓国の大統領が日本の竹島に不法侵入したとのことです。日本は竹島の領有権について国際司法裁判所で審理することを求める方向ですが、韓国はそれに同意しないようです。

 

さて、教科書的な話をしますと、裁判というのは紛争解決の手段のうちで最も強力なものであると、民事訴訟法のテキストなどには書かれています。

なぜ強力かというと、理由は以下の2点です。1つめは、一方が訴えた以上、相手の意向を問わず、裁判が行われる点。2つめは、裁判所が下した判断は強制力をもって適用される点です。

 

たとえば、「恫喝」を紛争解決の手段とするヤクザは、裁判に持ち込まれることを嫌がります。

また私の事務所でよくある案件としては、違法すれすれ(または違法そのもの)の営業をしているような投資業者は「裁判せずに穏便に話し合いませんか」などと言ってきます。そんな連中と話し合っても、引き伸ばされウヤムヤにごまかされて終わるだけなので、速やかに裁判を起こすことにしています。

話を法廷の場に持ち込めば、相手はそれを拒否することはできません。そして裁判所の判断が下れば(賠償金いくらを支払え、など)、相手はそれに従う義務を負います。

 

裁判というものになぜそんな強制力があるかというと、それは、日本の国民に対しては日本国の主権が及び、国家機関である裁判所の判断に服することになるからです。

そしてこのように、紛争が起こった場合は恫喝やごまかしに屈することなく、裁判の場で正当な主張を行えば、国家による保護が与えられるということが、法治国家に生きる私たちの安心感につながっています。

 

しかし、以上のことは、あくまで国内の問題についての話です。国際間、つまり国と国の紛争の場合は、その理屈は通用しません。それぞれの国に主権があるからです。

だから、国際連合の国際司法裁判所、と大そうな名前はついていますが、大したことはできません。「日本は裁判に持ち込みたいみたいだけど、韓国はイヤと言ってるんでね、韓国にも主権があるから無理やり裁判というわけにも行きませんのでして」と言われて終わりです。

 

国際連合が悪いのではなくて、これが国際社会の現実なのです。国際社会とは、「裁判所のない国」のようなものです。恫喝やごまかしをもって、私たちの土地や財産をかすめとろうとする連中が周りにたくさんいるのに、言うていくべき先がどこにもない、そういう状況です。ならばあとは、自分自身が強くなって自分を守るしかないのです。

今回の一件は、このいわば当たり前のことを再認識するきっかけになると思います。