最高裁は原発審査を積極化するのか

最高裁が、原子力発電所の設置許可について、より踏み込んだ審査をしようと模索しているようです(東京新聞など)。

 

これまで、原発の周辺住民が「原発の設置をやめろ」と裁判で度々争ってきたこと、しかし最高裁はすべて住民敗訴の判決を書いてきたことは、多くの方が何となくご存じだと思います。

前提として、そもそも最高裁は原発の設置の是非を審査できるのか、というと、これは可能です。原発も法律に則って設置されるので、その是非は司法の判断に服します。

具体的には、内閣総理大臣が、原子炉規制法に則って、原子力委員会の意見を聞いて、原発の設置許可を出します。

許可を出して良いか否かの基準として、原子炉規制法24条は「平和目的であること」「原子力の利用が計画的にできること」「設置者(電力会社など)に技術的能力があること」「災害防止の上で問題がないこと」などの条件をあげています(ごく大ざっぱに要約)。

だから、この条件にあてはまらないのに原発設置許可を出したとすると、法律違反の設置許可だから許可を取り消せ、原発設置をやめろ、と言えることになる。


かと言って、裁判官は法律の解釈については詳しいものの、原発の設備をみて安全かどうかを判断するような能力はさすがにない。

したがって、最高裁としてはこれまで、許可に至る手続きがきちんと行われたか否か、という観点のみを審査し、原子力に関する専門的・技術的事項には立ち入らずに、そこは原子力委員会の判断に大きく委ねる姿勢を取ってきました。

つまり裁判所は、中身には深くは関わらず、傍からみて手続き的におかしいところがある場合にのみ、違法と判断する、ということです。

たとえば、何の実験や検証も経ていないのに原子力委員会が安全と結論したとか、委員会は危険だと言っているのに総理大臣がOKを出したとか、原子力委員会が10人いたら10人全員が東電の社員で構成されていたとか、原子力委員会が48人いてAKB48で構成されていたとか、ずいぶん限られた範囲となるでしょう。

 

これは裁判というシステムの限界であり、国のエネルギー政策については、政治の判断に大きく委ねるということを意味するのであって、個人的にはやむをえないことだと考えています。

そもそも、原発の是非という国論を二分する問題について、裁判所が断を下すとなれば(最終的には原発を止めるか否かを、最高裁を構成する15人の裁判官だけで決めることになる)、民主主義の観点から非常に大きい問題です。

それでも、最高裁の内部では「政治に任せきりで良いのか」という自問が始まったようです。記事によると、最高裁に全国の裁判官35人が集まって報告書を出したり議論したりしたとのことで、これが直ちに個々の裁判の結果に影響するわけではないと思われますが、その動き自体は注目に値いするでしょう。

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