「反原発」運動に思う

このところ、法律と関係ない話題が多くてすみません。

小泉元総理が反原発とか脱原発とか言い出して、少しだけこの問題がにぎやかになってきたので、私なりの考えを整理しておきたいと思い、触れてみる次第です。

 

過去にもここで書きましたが、私は以前、息子を連れて歩いているときに、もう少しで車にひかれそうになったという経験が二度あり(一つは変な薬を飲んでた人で、後に逮捕され、もう一つは前方不注視で交差点に入ってきたトラックで、すぐ後ろの人が巻き込まれた)、そのとき、原発を廃止するくらいなら先に自動車を廃止したほうが良いと、ある程度本気で考えました。

原発廃止論者でそこまで考えている人がいるかどうか知りませんが、そういう思想は古くからあります。有名なところでは「自然に帰れ」と言ったルソーで、文明や科学技術を否定する考え方です。

 

もう一方の考え方としては、文明や科学技術は確かに事故その他の矛盾を生じさせるが、それをも含めて受け入れ、肯定せざるをえない、というのがあります。思想家で言えばニーチェがたぶんそういう考え方だったかと思います。

私は、原発から自動車からすべて廃止してしまうというのは、やはり極論だと言わざるをえず、この考え方に与したいと思います。

 

原発廃止論者がすべてルソーみたいに考えているわけではないと思うので、そういう人たちは、科学技術のうち原子力発電のみを否定し、その他は受け入れる、という考え方を取っていることになります。

そうすると、科学技術の発展の中で、原発だけを切り離して否定する理由があって然るべきだと思うのですが、そうした議論はあまり聞かれません。

 

小泉元総理は、フィンランドの核廃棄物の処理場で、何百メートルの穴を掘ってそこで核廃棄物を10万年ほど保存しないといけないという話を聞いて、原発は廃止しないといけないと思ったと、講演で語ったそうです。

しかし、考えてみれば、そういった矛盾や不都合は、あらゆる科学技術に含まれています。

自動車は毎日、全国どこかで交通事故を起こし、人を死なせています。被害者が子供だったとしたら、その子はその後の楽しい子供時代、青春時代を否定されます。その子が成人すれば、結婚して子供も産んだでしょうし、さらにその子が子を産んだでしょう。

そう考えると、交通事故1つで、今ある命と、今後産まれるはずだった命が、たくさん奪われたことになります。

「核廃棄物を残すのは10万年後の人類に対し無責任だ」と感じる人もいると思いますが、交通事故1つあれば、10万年後に存在しているはずの多くの命は奪われるのです。無責任どころの話ではなく、存在自体を否定されるのです。

 

交通の発達による交通事故に限らず、工業の発展は産業廃棄物による公害や、不慮の事故による死亡事故を生じます。医学・薬学の発展も、時に医療事故や薬害による被害を生じさせる。

ですから、ルソー流でない原発廃止論を取る限りは、他の科学技術が含む不都合は承認するのに、原発の不都合のみはなぜ否定するのか、明らかにする必要があります。

その点を、多くの人にとって共感しうる程度に説明できる思想が出てくれば、反原発運動は、一層の深みと広がりを持つことになるでしょう。

今はそういう思想がないので、反原発運動は、個々の市民の寄せ集めの市民運動にすぎず、また、落ち目の政治家が寄り集まるための掛け声にしかなりえていないのです。

 

最高裁は原発審査を積極化するのか

最高裁が、原子力発電所の設置許可について、より踏み込んだ審査をしようと模索しているようです(東京新聞など)。

 

これまで、原発の周辺住民が「原発の設置をやめろ」と裁判で度々争ってきたこと、しかし最高裁はすべて住民敗訴の判決を書いてきたことは、多くの方が何となくご存じだと思います。

前提として、そもそも最高裁は原発の設置の是非を審査できるのか、というと、これは可能です。原発も法律に則って設置されるので、その是非は司法の判断に服します。

具体的には、内閣総理大臣が、原子炉規制法に則って、原子力委員会の意見を聞いて、原発の設置許可を出します。

許可を出して良いか否かの基準として、原子炉規制法24条は「平和目的であること」「原子力の利用が計画的にできること」「設置者(電力会社など)に技術的能力があること」「災害防止の上で問題がないこと」などの条件をあげています(ごく大ざっぱに要約)。

だから、この条件にあてはまらないのに原発設置許可を出したとすると、法律違反の設置許可だから許可を取り消せ、原発設置をやめろ、と言えることになる。


かと言って、裁判官は法律の解釈については詳しいものの、原発の設備をみて安全かどうかを判断するような能力はさすがにない。

したがって、最高裁としてはこれまで、許可に至る手続きがきちんと行われたか否か、という観点のみを審査し、原子力に関する専門的・技術的事項には立ち入らずに、そこは原子力委員会の判断に大きく委ねる姿勢を取ってきました。

つまり裁判所は、中身には深くは関わらず、傍からみて手続き的におかしいところがある場合にのみ、違法と判断する、ということです。

たとえば、何の実験や検証も経ていないのに原子力委員会が安全と結論したとか、委員会は危険だと言っているのに総理大臣がOKを出したとか、原子力委員会が10人いたら10人全員が東電の社員で構成されていたとか、原子力委員会が48人いてAKB48で構成されていたとか、ずいぶん限られた範囲となるでしょう。

 

これは裁判というシステムの限界であり、国のエネルギー政策については、政治の判断に大きく委ねるということを意味するのであって、個人的にはやむをえないことだと考えています。

そもそも、原発の是非という国論を二分する問題について、裁判所が断を下すとなれば(最終的には原発を止めるか否かを、最高裁を構成する15人の裁判官だけで決めることになる)、民主主義の観点から非常に大きい問題です。

それでも、最高裁の内部では「政治に任せきりで良いのか」という自問が始まったようです。記事によると、最高裁に全国の裁判官35人が集まって報告書を出したり議論したりしたとのことで、これが直ちに個々の裁判の結果に影響するわけではないと思われますが、その動き自体は注目に値いするでしょう。

身近に起こった交通事故、そして原発再稼働に思うこと

今回は法律と関係なく、私ごとと雑談を書きます。


最近、私はクルマにからんで怖い思いを2回、味わいました。

一つは、ゴールデンウィークの最終日、5月6日の朝です。私は息子を連れて西区の自宅かいわいを散歩していました。木津川に沿って北から南へ、京セラドームに向けて歩いていたとき、私たちのすぐ横の車道で一時停止していたワゴン車が急発進し、曲がり角で曲がりきれずに、付近の町工場の壁に激突して、そのまま走り去っていったのです。

ちょうど、京都・亀岡で暴走車が多数の児童を死傷させた事故のあった直後でもあり、おかしな人が乗っているのではないか、もしまた私たちのほうに走ってきたらどうしようかと、家に帰るまでの間、非常に怖かったです。

3日後くらいに、その運転手は逮捕されました。脱法ハーブを吸引した上でレンタカーを運転し、福島区や西区でひき逃げ・当て逃げを繰り返したということで、今月12日、危険運転致傷罪で起訴されたと、新聞で見ました。

 

もう一つは、新聞には載っていなかったようですが、身近で起きた交通事故です。

6月7日の朝、私がいつものように、出勤途中に妻と一緒に息子を地元の幼稚園に送り出す道中で、私たち家族3人が交差点の横断歩道を渡ったすぐ後ろで、自転車に乗った男性が、交差点を左折しようとした大型トラックに巻き込まれるという事故がありました。

被害者の方は、命に別状なかったと聞きましたが、これも一歩間違っていれば私たちが巻き込まれていたかも知れないと思うと、今でも怖ろしい思いがします。

 

話は飛躍しますが、私は、これほどまでに他人に危害を加えるクルマなどというものを、いちど廃止してみたらどうかと、たまに考えることがあります。最近、車がらみで変な事件が多いし、私自身も立て続けに怖い思いをしたので、いっそう思います。

もちろん、クルマが世の中からなくなれば、ものすごい不便が生じるでしょう。物流は壊滅的になり、救急患者の搬送などに支障が生じて死者が出るかも知れません。大半の人は「そんな社会は考え得ない」と思われるでしょう。もちろん私自身も、これが現実味のない極論であることを理解しています。

 

しかし、クルマによる犯罪や、交通事故が毎日のように生じており、日本全国で死者が出ない日はないでしょう。

その失われる人命をどう考えるかという点については、クルマ社会というものを受け入れる以上、「命を落とす人はかわいそうだけど、クルマは便利だから仕方がない」と考える他ない。クルマを容認することは、「世の中の利便性のために、ある程度の犠牲はやむをえない」という選択をすることを意味します。

 

さらに話は飛びますが、政府は大飯原発を再稼働させると判断しました。私としては、当然の判断であったと思います。クルマは、無免許の未成年者や、脱法ハーブを吸引した馬鹿が運転していることもありますが、少なくとも原発は、それに比べれば随分マシなはずです。

原発を停止・廃止すべきだと考える方々には、クルマが今日も明日も、人を死なせ続けるであろうことをどう考えるのか、原発がダメだとしたらクルマはなぜその存在を許されるのか、聞いてみたいです。

 

亀岡の事件では、遺族の方々が加害者に厳罰を求める署名活動をしていて、(その当否はともかくとして)、その気持ちはよくわかると、つい先日書きました。もし遺族の方がここで「クルマを廃止せよ」という署名活動をしたとすれば、おそらく大半の人は、それは極論だ、と思われるでしょう。

同じように、福島の原発事故を受けて、菅元総理や東電など関係者を厳罰にせよ、というのであれば、まだ理解できるのです。しかし、原発自体を廃止せよ、というのは、結局、交通事故が生じるからクルマを廃止せよというのと同じ論理であって、私にはどうも現実味のない極論でしかないと思ってしまうのです。

 

まとまりのないまま長々と書いてしまいましたが、以上で終わります。

教育不足の板長のごとき総理

この度の震災で被害を受けた方々にお見舞い申し上げます。

報道は地震一色でして、伊藤リオンが東京地裁で懲役1年4か月の実刑判決を受けましたが、もはや「え、リオンって誰だっけ?」と思わしめるような、小さな扱いで済まされています。

未曾有の大災害を前に、法律家のブログとしてはどんなアプローチが可能かを考えあぐねた末に、ここはひとまず雑談でも書いてみることにします。

居酒屋評論家として有名な太田和彦さんが、ダメな店の典型は客の前で店員を叱る店だ、とどこかで書いておられ、私もまさにその通りだと思います。

少し高級な店で、板長が客の前で若い板前さんを叱りつけて、そのあと板長が客に「いやすいませんねえ」と笑顔を作ってみせるようなことがあります。

板長としては、仕事は厳しくやっていると見せつけたいのだろうけど、理由は何であれ、食事中に人が叱られているのを見せられると、お酒や食べ物が不味くな
るし、何より、営業中に店員を叱らないといけないのは、普段の教育ができていない証拠だと、そんなことを書いておられました。

私が菅総理に対して気色の悪さを感じるのも、まさに同じ理由です。

菅総理は今般の原発の問題で、東京電力の本店に乗り込み、職員に「どうなっているんだ」「覚悟を決めろ」などと、報道陣に聞こえるように怒鳴りつけたそうです。そのあと記者会見で国民に対し「心配をおかけします」などと述べたとか。

少しは法律家らしいことも書きますが、災害に対する国の責務がどうあるべきかは、法律にきちんと書いてあります。
昭和34年の「伊勢湾台風」を受けて昭和36年にできた「災害対策基本法」がそれで、さらに平成11年には「原子力災害対策特別措置法」という法律が定められています。

詳細は省きますが、これらの法律によると、国は、原子力災害の予防や事後対策のために必要な措置を講じなければならない、と定められています。

菅総理をトップとする日本国政府は、原発が暴走しないよう、関係省庁や電力会社に然るべき指示をして安全な仕組みを確立し、もし事あらば速やかに対処できるような体制を作っておかねばならなかったのです。

今回の東京電力の対応は、確かに素人目に見てモタモタしている印象を受けますが、それでも彼らは現場で文字どおり命がけでやってくれているのだと思います。
そして彼らが命を賭けないといけないような状況に陥らせた最終的な責任は、法律を読む限り、どうしても政府にあると考えざるを得ない。

その政府のトップが、自らの職責を果たさなかったことを棚にあげて現場を怒鳴りつけるという光景に、普段の教育をしないくせに板前をしかりつける板長と同じような不快感を持ってしまうのです。