DNAだけで親子の縁は切れない 2(完)

前回の続き。

もう少し法律解釈的な点を掘り下げますと、前回紹介した民法772条1項に「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」と定められています。

前回書いたとおり、世の中の大半の父子関係はその推定どおりで問題はない(むしろ、推定されないほうが大変なことになる)。しかし、ごく例外的にそうじゃないケースはあり、その場合は、「推定」をくつがえすに足りる証拠を出せば、父子関係を否定することができることになります。

 

問題は、どういう証拠を出せば、推定をひっくり返せるかです。

古くから典型的にあったケースとしては、夫が戦争で外国に赴任しており、妻と性交渉が全くなかったはずであるのに、妻が子供を身ごもったというものです。

この場合、父子関係を否定したい夫側は、入出国の記録を取り寄せたりして、「この期間は日本にいなかった、だから妻との交渉はなかった」との証拠を出せば、父子関係の推定を否定してもらえる余地がある。

妻側が父子関係を否定されたくなかったら、反対の証拠(たとえば、夫が提出した入出国記録が偽造であるという証拠とか、実は赴任中にもちょっとだけ帰国していたことが分かるような入出国記録とか)を探して提出することになる。

裁判の勝ち負けがどう決まるかというと、考え方は極めてシンプルでして、上記のように具体的な証拠を重ね、誰もが「こういう事実があるなら、たしかにこの結論になる(たとえば父子関係が存在しない、またはする)んだな」と納得できるか否かが重要なのです。

 

最近は、科学技術の発達によって、DNA鑑定はじめ、いろんな科学的証拠が出てくるようになりました。ではDNA鑑定結果が、推定をくつがえす証拠になるか。

DNA鑑定の報告書には、その人のDNA型というものが、アルファベットとか数字とかで羅列されていて、それをつきあわせた結果、この夫とこの子が父子である確率は何%、と書かれているのですが、それですべてを決してよいかというと、多くの方は不安を感じるのではないでしょうか。

DNA鑑定がどこまで正確で信用できるかというと、ブラックボックスみたいなものです。「科学的にはこうなるんだ」と言われると検証の余地もない。上記のような「外国に行ってたんだから性交渉はなかったはずだ」という誰でも分かる議論が成り立たない。

また、鑑定業者には失礼ながら、すべての業者の調査を信用できるのか、悪意はなくとも検体の取り違えなどないのかと、疑いうる余地はいくらでもある。もちろん、最高裁としても人間の遺伝子のことなど専門外なので、どの鑑定、どの業者なら信用できるとお墨付きを与える能力もない。

 

そういった理由で、最高裁は今回、DNA鑑定だけを証拠として父子関係をひっくり返すことを否定したのだと思っています。

では、どうすれば良いのかというと、最高裁は判決文で「立法の問題」と言っています。つまり、どういう場合にどういう手続きを取るべきかは、国会で決めなさいということです。

それがない以上は、婚姻中の子は原則どおり夫の子と推定する、法律にそう書いてあるからそう解するほかないというわけです。子供の地位の安定のためにも、この結論で良いのではないかと考えています。

DNAだけで親子の縁は切れない 1

前回、PTAのことについて書いたら、意外な反響があって驚いています。反響と言っても、ご意見・ご感想・参考情報のご教示などのメールが2件と電話が1件だけなのですが、普段、ブログの内容に関してメールや電話いただくことなど滅多にないものですから。

で、その話はいずれ書かせていただくとして、今回は昨日の最高裁判決を取り上げます。

DNA鑑定の結果として実の父と子でないと判明したとき、戸籍上の親子であることを取り消せるか否かの点について、最高裁は「取り消せない」と言いました。

 

この問題は昨年の末に、大澤樹生と喜多嶋舞の間で、その子が実は大澤と血がつながっていなかったという話のときに紹介したと思います(こちら)。

この2人がどうなったかは知りませんが、実際、「親子関係不存在」を訴えて、最高裁まで争っていた夫婦がいたわけです。

 

法律上は何が問題かというと、民法772条1項で、「妻が婚姻中に懐胎した子は、夫の子と推定する」とあります。最高裁で争われていた事案は、妻が婚姻中に他の男性の子供を身ごもったようなのですが、この規定のために、血のつながった父親でなく、戸籍上の夫の子とされたわけです。

もっとも、この規定が合理性ある条文であることは、争う余地がないと思われます。この規定がないと、とんでもないことになります。

たとえば子供が産まれたとき、父親が喜び勇んで役所に出生届を出しに行く。母と子の関係は、出産に立ち会った医師が出生証明書を書いてくれるから問題なく証明できる。しかし父と子の関係についての証明書はない。

役所の戸籍課で「この赤ちゃんの父親があなたであることの証拠はあるんですか。なければ出生届は受付できませんよ」と言われたら、怒り出さない父親はいないでしょう。

世の中の大半の夫婦において、妻が婚姻中に懐胎すれば、その夫が父親といえるでしょう。その事実(難しく言えば「経験則」)を制度にしたのがこの規定です。

 

婚姻中に他の男性の子を身ごもるというのがどういう状況の下で行われたのかは、特に詮索しません。ただ、DNA鑑定の結果として血がつながっていなかったら父子関係を否定することができるとすると、明らかに不合理なことが生じるでしょう。

一つは、妻の側が愛人の男を作って、その男性の子を産み、夫の子供であると偽って育てさせておいて、あとから「あなたは父親じゃないから縁を切ってくれ」などと言いだすことが可能となる。

もう一つは、夫の側でも、妻が別の男性との間に作った子がかわいくて、「俺の子供として育てよう」と言って戸籍にいれておきながら、「やっぱりやめた、籍から出てくれ」などという身勝手が可能になる。

(本件事案がそうであったということではありません。あくまで極端な例として考えうるケースを書いております)

 

上記の過去のブログ記事の中でも、DNA鑑定だけで親子関係不存在を認めて良いかどうかについては慎重に考えている法律家が多い、という話をしましたが、結論としては今回の最高裁の判決で妥当だと考えています。

もう少しだけ次回に続く。

血縁なき子供への認知の無効請求 2(完)

前回から、間が空いてしまってすみません。父親が認知した子が自分の子でなかった場合、父親はその認知をなかったことにできるか、という問題をどう考えるべきか、という話をしようとしていました。


これまでの裁判例や学説は様々でしたが、主流的な考え方は「血縁がない場合であっても、錯誤に基づく認知でない限り、無効とできない」といったものではないかと思います。

逆にいうと「血縁のない子で、かつ、錯誤つまり勘違いによる認知であれば、無効にできる」ということです。この考え方に基づいて、ケースをわけて検討してみます。

①血縁がある子を認知した場合。

世の中の認知の大半がこれでしょう。実際に血縁のある自分の子を認知したケースですから、当然、あとから無効にすることを認めるべきではありません。

②血縁がないが、それを知らずに認知した場合。

女性から「あなたの子よ」と騙されて認知した場合です。この場合は、血縁がなく、かつ錯誤もあるので、認知無効にできることになります。

(大澤樹生と喜多嶋舞のケースと似ていますが、婚姻関係にある男女の場合は「親子関係不存在」や「嫡出否認」の裁判となり、婚姻関係にない場合が、この「認知無効」の問題となるというのは、前回書いたとおりです)

③血縁がないが、それを知って認知した場合。

女性から「あなたの子にしてあげて」と言われて、自分の子じゃないと知りつつ認知した場合です。前回紹介した最高裁のケースはこれにあたります。

自分の子じゃないと知ってあえて認知するわけですから、従来の考え方によれば、錯誤はなく、無効にできないことになります。


ところが、今回、最高裁は、この③のケースを無効とすることを認めたわけです。

つまり最高裁は、錯誤があったか否かではなく、基本的に、血縁の有無を前提に認知の効力を判断すべきことを明らかにしたのです。そして血縁のない父親は、前回引用した民法786条の「利害関係人」にあたるとして、無効を主張できるとしました。

そうすると、前回紹介したような、一時的な「ええかっこしい」だけで他人の子供を認知し、育てられなくなったら認知をひっくり返すという、男の身勝手が許されることになるし、その子の福祉にも適さない、という懸念が残ります。

その点は、最高裁の判決文によると、「血縁のない父親の認知無効の主張は、権利の濫用にあたるものとして認められないこともある」と述べています。

(判決文は、最高裁のホームページで誰でも読めます。「判例情報」→「最高裁判所判例集」→「平成26年1月14日」で期日指定で検索してください)


今回の事案は、新聞報道によると、日本人男性がフィリピン女性の子供を、自分の子でないと知って認知して、日本国内に招き入れたというケースであり、すでにこの男女は長年別居している上に、フィリピンに帰れば実の父親もいるようなので、日本人男性の認知を無効としても、子供にかわいそうなことにはならない。

また、詳細は判決文に書かれていませんが、結論として認知が無効とされたということは、男性のほうでも、単なる身勝手で認知をひっくり返したというわけでもなかったのでしょう。


今回の最高裁判決で、割と重要な実務上の問題が、割とシンプルな考え方で統一されました。

「認知の効力は血縁を基本に考えるが、子供の福祉も重視しつつ、男が身勝手にひっくり返すことも許さない」ということで、結論としては妥当なものであろうと思います。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 2(完)

前回の続き。

非嫡出子の相続分について定めた民法の規定を確認しますと、民法900条4号に、兄弟姉妹の相続分は同じ、と書いてあって、その但書きに「ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし(以下略)」とあります。

一方、憲法14条には、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地によって(中略)差別されない」とあります。

非嫡出子という社会的な身分や門地(生まれ)を理由に、相続分が半分とされているのだから、民法900条4号但書きは憲法14条違反だ、という理屈です。

たしかに条文の文言上はそう読めますし、多くの憲法学者は早くから、民法のこの規定を批判していました。しかし最高裁は長らくこの規定を合憲とし、一番最近では平成7年にも合憲判決を出しました。

 

その理由は、ごく単純にいえば、前回書いたとおりの話になります。

非嫡出子(典型的には愛人の隠し子)からすれば、相続分が半分とは不当だ、と思うでしょうし、一方、正妻と嫡出子からすれば、愛人の子などが出てきても1円もやりたくないと思う。民法の規定は、その間を取った、ということです。

私自身は、これはこれで合理的な仕組みだと思うので、違憲無効にする必要はないという考えでした。

 

これは、6年半ほど前に私がブログで書いたことですが(こちら)、当時、内閣府の世論調査で、非嫡出子の相続分は半分という民法の規定を変えるべきかどうかという質問に対して、「変えないほうがよい」との回答が41%で、「変えるべきだ」という24%を大きく上回ったそうです。

そして、ここ6、7年の間で、この問題に対する国民感情や世論が、そう大きく変わったとは感じません。非嫡出子の相続分は半分で充分だ、と率直に感じる人が今の日本社会に多くいるとしても(私もその一人なのですが)、それは決して、克服されるべき差別意識であるとも、前時代的な考え方であるとも思えません。

 

もちろん、最高裁は、世論調査だけで結論を決める場ではありませんが、それでも、法律の解釈にあたっては、国民感情とか社会の趨勢とかいったものが、それなりに重視されます。

そう考えると、平成7年に合憲判決が出された当時と、このたび違憲判決が出たこの平成25年とで、この問題をめぐる国民感情やその他の社会情勢が、判例を正反対にひっくり返さないといけないほどに変わったといえるのか、その点は正直なところ、少し疑問に感じるところです。

とはいえ、私は弁護士なので、相続問題にあたっては、最高裁の判例に沿ってやっていくことになります。今回の記事はあくまで私が最高裁判決に感じたことを書いたということで、この話を終わります。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 1

私ごとながら、ここ1週間ほど、所用でハワイにおりました。

ハワイでも日本のニュースが見れるチャンネルがあり、この間、驚いたニュースといえば、東京五輪の開催決定と、もう一つは、最高裁が非嫡出子の相続分について新たな判断をしたことです。

この最高裁の判断、すでに報道によりご存じのことと思われ、今さらブログ記事にするのも時期を逸したように思いますが、少し触れてみます。

 

民法では、非嫡出子(父母が婚姻関係にない子)の相続分は、嫡出子の半分とすると規定されていたのですが、今回の最高裁の判断では、これが憲法の禁じる「差別」にあたるということで、無効となりました。

 

これをどう感じるかは、皆さんもご自身に置き換えて考えてみてください。

たとえば私には、妻と長男がおり、仮に私が3000万円の遺産を残して死ぬと、妻の相続分が2分の1、子供の相続分も2分の1だから、妻と長男が1500万円ずつ相続します。

もし、長男のほかに、妻との間に産まれた次男がいれば、子供は2分の1の相続分を人数に応じて頭割りするので、妻1500万、長男750万、次男750万円の相続となる。嫡出子同士の相続分は平等です。

 

もし私が、長男のほかに、ミナミのクラブのホステスを愛人にして、その愛人に隠し子を産ませたとします。私と愛人は結婚していないから、隠し子は非嫡出子です。嫡出子である長男に比べて、半分しか相続分がない。結果、妻1500万円、長男1000万円、隠し子500万円の相続分になります。

愛人とその子からすれば、どうして非嫡出子だというだけで差別されるんだ、と感じるでしょう。

一方、妻からすれば、私が死んだあとに、見知らぬホステスが子供を連れて相続分よこせと言ってきたら、1円でもやりたくない、と思うかも知れません(本人に確かめたわけではありません)。

 

愛人と子供を作るんなら、誰からも文句が出ないようにするのが男の甲斐性じゃねえか、と思う人もいるでしょうし、私もそう思います。しかし問題はそういう通俗的なことではなく、現に嫡出子と非嫡出子の間で相続問題が頻発しており、法律自体が両者の相続分の違いを正面から認めてしまっているのをどう考えるか、ということです。

憲法14条は法の下の平等を規定していますが、これまで最高裁は、「合理的な制度である」として合憲と判断してきました。この度の判決は、最高裁が自らの判例を変更した点でも画期的なものです。

次回、もう少し続く予定です。

「選挙無効」のその後 2(完)

前回の続き。

一票の格差を是正すると言っても、議員の数を増やさずにそれを行なうのは至難のことであろう、というところまで書きました。で、今後はどうなるか。

 

今の状況を大雑把におさらいすると、多くの選挙区で投票価値の不平等が生じていることについて、司法権の親分である最高裁は昔から「違憲だけど選挙は無効にしない」と言っていた。

しかし、国会が定数是正に乗り出さないため、最高裁の子分である広島高裁が「11月までに是正しなければ無効にする」と言い、さらにその弟分である広島高裁岡山支部は血気に逸って「いますぐ無効にする」と言い出しました。

国側(選挙管理委員会)が上告したので、この問題に対し、改めて親分(最高裁)が出てきて決着をつけることになります。

 

最高裁の判決までの間に、国会が、至難の定数是正をやり遂げれば、おそらく最高裁は選挙無効とまでは言わないでしょう。「国会の意気に感じて、過去のことはなかったことにする」ということです。

 

では、国会がそれをやり遂げなければどうなるか。いろんなことが想定されますが、一つには、最高裁はこれまでの立場を踏襲し「無効にしない」と言うかも知れません。

今回は、子分が親分の気持ちを充分に代弁してくれたから、親分としては「まあ、この程度にしてやるが、今度はホントに無効にするぞ」と言って終わらせるわけです。

 

その対極の考え方としては、司法権のメンツにかけて、最高裁自ら「無効」の宣告をすることが考えられます。

その場合は再選挙となるわけですが、そうなると、どの選挙区で選挙するのか(またはすべてやり直しか)、選挙手続きはどうするのか、現行の公職選挙法で問題ないのか、または法改正が必要なのかetc、いろんな実際上の問題が発生します。

それらの問題は、最高裁の調査官(全国から選り抜きの裁判官が就任する)が下調べをするはずです。法律を改正してその後の手続きを整える必要がある場合は、法務省か総務省あたりの官僚が事前に法案を作り、内閣法制局を通じて国会に提出されるでしょう。官僚らは国会議員に根回しして、国会の衆参の本会議で可決される。

こうして、もし選挙無効の判決が出たとしても、その後の手続きがきちっと決められていることになる。

 

最高裁が影響力の大きい判決を出す際には、(私自身が見たわけではありませんが)こうした動きが行われているはずです。最高裁と内閣と国会、親分衆どうしが水面下で話し合って、極力、混乱が生じないようにするわけです。

そういうわけで、最悪、選挙無効の判決が出ても、すべての国会議員が突然いなくなるとか、選挙前の民主党政権が復活するとか、そういう事態にはならずに、落ち着くべきところに落ち着くだろうと思っています。

体罰教師はどう裁かれたか 3(完)

生徒を叩いた教師に無罪の判決を下した昭和56年の東京高裁判決を、前回に引き続き、紹介します。判決文は、極めて詳細に論じているのですが、ごく概要のみ述べます。

判決は、学校教育法11条が禁じている体罰とは「懲戒権の行使として相当と認められる範囲を越えて有形力を行使して生徒の身体を侵害し、あるいは生徒に対して肉体的苦痛を与えることをいう」と定義します。

「有形力の行使」というと小難しいですが、物理的な力を加えること、つまり手を出すことと理解してください。

そうすると、東京高裁は、教師が生徒を懲戒するやり方として、「口頭で注意する=適法、体罰を行なう=違法」という2分類だけがあるのでなく、その間に「手は出るけど相当の範囲内=適法」という行為が存在すると考えているわけです。

 

もちろん、手は出さないに越したことはない、でも、生徒を励ますときなどに肩を叩くなどのスキンシップも一切できないというのもおかしいし、また、生徒をたしなめる際に口頭だけでは「感銘力」に欠けてしまうこともある(「感銘力」というのは判決文の表現そのものです。何だかそういうタイトルで本でも出せそうな言葉です)。

そういう理由で、教師には、一定限度で有形力を行使することを認めてやらなければ、「教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがある」と。このカッコ内は判決文そのものの引用でして、判決文には似つかわしくない、熱のこもったことを言っています。

そして、本件に関して言えば、生徒をたしなめる必要性や、暴行の程度が必ずしも強くないことなどから、相当の範囲内であって違法でない、と言ったわけです。

 

長々と解説してしまいましたが、結論自体は、多くの人にとって常識に沿った内容ではないでしょうか。体罰が禁止されると言っても、判例上は、手を出したら即処罰というわけでは決してないことを、知っておいていただければと思います。

 

補足ですが、この記事を書くついでに教育法関係の本を参照しているうちに、最高裁でも、民事事件ですが、一定範囲で手を出すことを適法と認めた判決を知りました。今回紹介した東京高裁以上のことは言っていないので、これ以上は触れませんが、日付だけ紹介しておきます。最高裁平成21年4月28日判決です。

あと、紹介してきた上記の東京高裁の事例ですが、これまで男性教師と書きましたが被告人は女性教師のようでしたので、訂正します。

柔道界なども体罰問題でゴタゴタしてきましたが、この問題についてはひとまず以上です。

最高裁は原発審査を積極化するのか

最高裁が、原子力発電所の設置許可について、より踏み込んだ審査をしようと模索しているようです(東京新聞など)。

 

これまで、原発の周辺住民が「原発の設置をやめろ」と裁判で度々争ってきたこと、しかし最高裁はすべて住民敗訴の判決を書いてきたことは、多くの方が何となくご存じだと思います。

前提として、そもそも最高裁は原発の設置の是非を審査できるのか、というと、これは可能です。原発も法律に則って設置されるので、その是非は司法の判断に服します。

具体的には、内閣総理大臣が、原子炉規制法に則って、原子力委員会の意見を聞いて、原発の設置許可を出します。

許可を出して良いか否かの基準として、原子炉規制法24条は「平和目的であること」「原子力の利用が計画的にできること」「設置者(電力会社など)に技術的能力があること」「災害防止の上で問題がないこと」などの条件をあげています(ごく大ざっぱに要約)。

だから、この条件にあてはまらないのに原発設置許可を出したとすると、法律違反の設置許可だから許可を取り消せ、原発設置をやめろ、と言えることになる。


かと言って、裁判官は法律の解釈については詳しいものの、原発の設備をみて安全かどうかを判断するような能力はさすがにない。

したがって、最高裁としてはこれまで、許可に至る手続きがきちんと行われたか否か、という観点のみを審査し、原子力に関する専門的・技術的事項には立ち入らずに、そこは原子力委員会の判断に大きく委ねる姿勢を取ってきました。

つまり裁判所は、中身には深くは関わらず、傍からみて手続き的におかしいところがある場合にのみ、違法と判断する、ということです。

たとえば、何の実験や検証も経ていないのに原子力委員会が安全と結論したとか、委員会は危険だと言っているのに総理大臣がOKを出したとか、原子力委員会が10人いたら10人全員が東電の社員で構成されていたとか、原子力委員会が48人いてAKB48で構成されていたとか、ずいぶん限られた範囲となるでしょう。

 

これは裁判というシステムの限界であり、国のエネルギー政策については、政治の判断に大きく委ねるということを意味するのであって、個人的にはやむをえないことだと考えています。

そもそも、原発の是非という国論を二分する問題について、裁判所が断を下すとなれば(最終的には原発を止めるか否かを、最高裁を構成する15人の裁判官だけで決めることになる)、民主主義の観点から非常に大きい問題です。

それでも、最高裁の内部では「政治に任せきりで良いのか」という自問が始まったようです。記事によると、最高裁に全国の裁判官35人が集まって報告書を出したり議論したりしたとのことで、これが直ちに個々の裁判の結果に影響するわけではないと思われますが、その動き自体は注目に値いするでしょう。

最高裁で強姦事件に逆転無罪判決 1

最高裁での無罪判決について触れます。
強姦の容疑で、1審・2審で有罪にされていた被告人に対し、最高裁は逆転無罪判決を下しました(7月25日)。

最高裁というところは、憲法や法律の解釈について審理するところであって、事実そのもの(強姦したか否か)について立ち入って検討することは基本的にはないので、ここまで踏み込んだ判断をすることは異例です。

と、ここまで書いて、以前にも同じような話を書いたなと思いだしたのですが、2年前、強制わいせつ事件で被告人が最高裁で逆転無罪になった判決に触れていました。
最高裁で逆転無罪というのがいかに「異例」かについては、こちらこちらをご覧ください。

以前に書いたのと重複する話は省略するとして、今回の事件の内容を紹介します。

なお、今回の最高裁判決は、最高裁のホームページから見ることができます。
興味のある方は「裁判所」で検索して裁判所のトップページへ行き、「最近の判例一覧」→「最高裁判所判例集」と進んでください。7月25日の「強姦被告事件」の判決です。PDFファイルで、当事者の名前以外は全文見ることができます。

それによりますと、事件は少し理解しがたいものでした。
事件は、平成18年、千葉市内で起こっています。被害女性(当時18歳)の供述によると、被告人の男性(現在53歳だから当時50手前)に、市内の路上で「ついてこないと殺す」と言われ、ビルの階段の踊り場に連れていかれ、そこで強姦されたとのことです。
1審・2審は女性の供述に従って、被告人を有罪とした。

被告人の弁解はこのようなものです。
自分は手に3万円を持って、通りすがりのその女性に声をかけ、以下最高裁判決そのまま引用しますが「報酬の支払を条件にその同意を得て」「手淫をしてもらって射精をした」とあります。

書くのをはばかりますが、たぶん…「3万円あげるから手で抜いて」とでも声をかけたのでしょう。ちなみにこの男性は、ビルの階段の踊り場で抜いてもらったあと、3万円を払わずに逃走しています。


この男性のやっていることもどうかと思いますが、それが事実とすれば、同意の上で手で射精させてもらったというだけであって、強姦にはなりえない。

この事件で証拠となるものと言えば女性の供述だけでした。
これまでの刑事裁判の傾向としては、被害者の証言がかなり重視されていました。もちろん、一般論としてはそれで良いのです。

しかし被告人側が「濡れ衣だ」「被害者がウソをついているんだ」と反論しても、「被害者は被告人と利害関係もないし、別に恨みを持っていたわけでもないから、わざわざウソをつく理由がない」として、反論がたやすく排斥される傾向がありました。

最近は、被害者の供述を偏重しすぎることなく、被告人の供述と比べて、どちらがより信用できるかということが吟味されつつあるようで、裁判のあり方としては、当然、こちらのほうがより望ましいと思います。

この件、次回にもう少し続く。

橋下知事の名誉毀損訴訟――逆転勝訴の意味

最近、更新頻度が落ちつつありますが、今回は橋下知事の名誉毀損事件の逆転勝訴判決についてです。

おおよその経緯は皆さんご存じだと思いますが、平成19年、知事になる前の橋下弁護士が、テレビで、光市母子殺害事件の被告人の弁護団に対する懲戒請求を呼びかけ、弁護士会に懲戒請求が殺到した。その弁護団の弁護士が橋下氏を訴えたという事件です。

平成20年10月、1審・広島地裁は、弁護団に対する名誉毀損と、不法行為の成立を認めた。前者は、弁護団への誹謗中傷により、各弁護士の名誉をおとしめたということで、後者は、懲戒請求への対処などにより業務に支障が生じた、ということです。

私は、この判決が出た直後、旧ブログにて、名誉毀損の成立は少し疑問に思う、と書きました(こちら
)。
 

憲法は弁護士に被告人の弁護をするよう定めており、それに沿って堂々弁護活動すればよく、その弁護士の名誉が橋下氏の発言で傷つくわけでもなかろう、ということです。もちろん、そうした弁護活動の必要性を理解しない人も多くいますが、それは元々そうなのであって、橋下氏の発言で新たに名誉が毀損されるわけではない、と思いました。

2審の広島高裁は、私の見解に従って(というわけではないでしょうが)、名誉毀損の成立は否定し、不法行為のみを認めました。
そして7月15日の最高裁判決は、不法行為の成立も否定し、弁護団側の請求をすべて棄却して、橋下氏の全面勝訴となった。

新聞等を読む限り、理由はいろいろ書かれています。
橋下氏の発言は不適切であるが、弁護士に対する懲戒請求という制度がある以上、その利用は広く認められるべきで、各弁護士がそれに対応すべきことも当然である。弁護活動は重要だが、弁護士はそれに理解を得るよう努力することも求められている。等々。

ただ、これらの理由はあくまで「傍論」であり、直接的な理由は、「弁護士業務に重大な支障は生じていない」ということのようです。

懲戒請求をされた弁護団の各弁護士は、それに対する答弁書を弁護士会に提出するなど、それなりの対応を求められたはずですが、実際にどれくらいの負担が生じたのかは、記事にも出てないので、よくわかりません。ただ最高裁は「受忍限度」(ガマンしてやるべき限度)の範囲内だった、と言っています。

次回にもう少し続く。