体罰後の自殺について行政は責任を負うのか

大阪市立桜宮高校のバスケ部の主将が、顧問の体罰を苦に自殺した事件が、連日報道されています。

この事件、法的に、民事上・刑事上の責任をどこまで問えるかというのはかなり単純な問題でして、ここで少しだけ整理しておきます。

 

まず、体罰を与えた顧問の教師は、刑事責任を免れないでしょう。唇が切れ、ほおが腫れあがるほどに殴ったことは、刑法上の傷害罪に該当します。学校教育法11条でも、教育上、懲戒を加えることはできるが、体罰は許されないと定められています。

(実は、教師が生徒を殴った事例で、有罪になったケース、無罪になったケースといろいろあるようなのですが、これはいずれ、きちっと調べて書きます)

 

では、顧問の教師に、生徒の「死」についても刑事責任を問えるか、つまり傷害致死罪で立件できるかというと、それは無理でしょう。傷害致死罪は、典型的には、殴ったら死んだ、というケースに適用されるものです。

今回、生徒は自殺という方法を選んだわけです。それが日常用語的に「教師が死に追い込んだ」という言い方ができるとしても、刑法上の「因果関係」を肯定するのは困難でしょう。

 

では、民事上の賠償責任はどうか。教師と、学校の設立母体つまり大阪市が今後、民事責任を問われることは考えられるでしょう。この場合も、自殺という結果について責任を問えるか否か、事実関係に照らして充分に検討されるべきことでしょう。

もちろん私も、この事件の結末が悲惨なものであり、亡くなった生徒は可哀そうというほかないという心情は持っています。しかし、法律上の因果関係を認めるためには、本当にその結果が必然的なものであったのか、少年にとって他のやりようがなかったのかなど、冷静に検討する必要があります。

またそのことが、今後の同種の事案を防止することにもつながるはずです。

 

法律的にはその程度の話なのですが、今回、私が違和感を禁じえないのは、大阪市の橋下市長が出てきて、責任は100%行政にある、と断言していることです。

弁護士でもある橋下市長がそこまで言うからには、因果関係などを議論することなく、賠償金をすべて支払う、という趣旨であると、多くの人は感じるのではないでしょうか。

しかし、そうだとすると、今回の事態を本当に検証することにはならないでしょう。それに行政の責任だとすると賠償金は大阪市から出ることになる。大阪市民として高い市民税を払っている私個人的には、本当に全額、市の責任なのか、きちっと検討してほしいと思います。

今回は悲惨なケースだから、それでいいじゃないか、と考える大阪市民も多いでしょう。しかし、そういう前例を作ってしまうと、あの市長のことですから、大衆ウケしそうな場面で出てきては「行政の責任だ」と言い、事実の検証もなく大阪市の財政からばんばんとお金を出しかねない。そういう意味で、今回の市長の対応は疑問なのです。

 

それから、今日の朝刊では、橋下市長が、桜宮高校の体育部の入試を中止すべきだと言ったという報道もありました。ここまで行くと私は、田中真紀子(元)文部大臣が大学の設置を許可しないとか言いだした一件を思いだしたのですが、そのあたりの法的考察は次回に書きます。

小沢事件の控訴審無罪判決について思うこと

小沢一郎が東京高裁でも無罪判決を受けました。

高裁の判断はある部分では地裁よりもさらに少しだけ、検察側(検察官役の指定弁護士)に厳しいものとなっているようですが、基本的な判断の枠組みは変わっていないものと思われます。この事件についての私の感想は地裁判決の際に以下の記事に書いたことと同じです。

小沢一郎無罪の理由 

小沢一郎と木嶋佳苗、有罪無罪の分かれ目 1

同 2

この裁判はもともと、「強制起訴」に基づくものでした。

つまり、東京地検が、「これでは有罪にできない」と考えて起訴しなかった事件を、検察審査会が起訴すべきだと決議したことから、(検察としては起訴したくないけど審査会が言うので強制的に)起訴させられた、という事件でした。

検察官は裁判をする気はないので、3人の弁護士が裁判所から指定されて、検察官役を務めました。それが「指定弁護士」です。弁護士の本業そっちのけで長期間この裁判にかかりきりになったと思われます。一部の弁護士が極めて強度の負担を強いられることを前提に、この制度が成り立っているわけで、その点、今後何らかの見直しが必要だと思います。

今回の指定弁護士は、もちろん何の愚痴も言わないでしょうけど、いかにがんばっても、検察が無理だと思った事件を、突然駆り出された弁護士が有罪に持ち込むというのも相当に無理があるようで、強制起訴された刑事裁判では無罪判決が続いています。この点も、今後の検討課題となるでしょう。

なお、過去の無罪事案についての記事はこちら

強制起訴 初の無罪判決を受けて 1

同 2

もっとも、こういった話はすでに新聞テレビ等で出尽くしたと思うので、ひとことだけ付け加えます。

政党の代表や幹事長まで務めたほどの小沢氏が、政治資金についてよくわからない会計処理をして、秘書任せだったとしか説明しないことについて、私は依然、政治家としての資質はどうかと思います。

しかしそれと刑事責任は別ということで、今回、東京高裁は刑罰まで科する必要はないと言いました。政治的、道義的な責任と、刑事責任は別ものということです。

他には例えば、JR福知山線の脱線事故では、JRが遺族や負傷者に民事上の賠償責任を負うのは明らかですが、社長ら個人に刑事責任を問うべきか否かは別問題です。

現に、当時の担当部長(JR西日本の前社長)は起訴された後、神戸地裁は無罪の判決を出しました。さらに、起訴されなかった他の元社長3人が、検察審査会の議決に基づき強制起訴され、審理中であったかと思います。

本来は、道義的責任、民事上の賠償責任のレベルの話であるのに、何か不祥事があれば特定の「犯人」を追及してその人に刑事罰を負わせないと気が済まない、そういう風潮が、強制起訴という制度と結びついてしまうと、今後も無理かつ無用な刑事裁判が起こされることになるでしょう。

大学設置不認可という愚挙について

文部科学大臣の田中真紀子氏が、大学3校の設置認可を拒否しました。

田中氏と民主党に言わせれば、得意の「政治主導」で、官僚主導により無駄な大学が増えるのを排した、ということになるのでしょうか。しかし私には、どうも違和感を禁じ得ません。それは多くの方も同じではないかと思います。

 

まず、前提となるところから解説しますが、大学設置の認可は、大学を開いてよいという国のお墨付きであり、関係者にとって致命的に重要な部分となります。

仮に私が、「私立山内大学」という看板で学生を集めたとします(勝手に大学を名乗ること自体、学校教育法違反なのですが)。で、学生に「君はこの大学をシュセキで卒業だ。シュセキいうても首席じゃなくてお酒の席(酒席)だけどね」(←浜村淳のギャグ)と卒業させたとして、その学生には「大学卒業資格」はありません。

一般企業は見向きもしないでしょう。また国家試験の多くは大学の過程を修了することが受験資格とされるのですが、当然、その受験資格もない。そんな大学には誰もいきません。

 

かように、行政の不認可というのは、当事者である大学関係者には、極めて不利益な処分となります。そのため、それに対しては、行政訴訟といって、司法の場で争うことができます。したがって、不認可処分が自主的に覆されない限り、大学側は今後、文部科学大臣である田中氏を訴えて、不認可の撤回を求めることになるでしょう。

 

するとどうなるか。ここからは予測ですが、司法つまり裁判所は、法令に則って、認可すべきであったか否かを審理することになります。

学校教育法3条によると、「学校を設置しようとする者は、文部科学大臣の定める基準に従い、これを設置しなければならない」(要約)とあります。

大学側は、文部科学省の役人の指導のもと、その基準に従って、開学準備をしてきたはずです。それを田中氏が、「私が文部科学大臣になったから基準を変えて厳しくします」と言って通用するのだとすれば、誰も行政を信用しなくなるでしょう。役所の指導に従っていても、いつ変な大臣が現れてひっくり返されるか知れないわけですから。

田中氏のいう不認可の理由だって、「大学設置基準のどの部分に反しているから」という具体的なものでなく、「大学が増えすぎて質が落ちているから」という抽象論に留まります。それで不認可にされては大学側としては「とばっちり」でしかありません。

 

ですので、行政訴訟をすれば、今回の不認可はひっくり返ると思います。

問題は、今から裁判を起こしても、来春の入学に間に合わないであろうことです。関係者(職員として採用を予定されていた人など)に大損害が発生することが容易に予想されます。

その損害は、「国家賠償」という裁判手続きで賠償してもらえるのですが…と解説するのも空しくなります。賠償金だって、田中氏や民主党が払うのではなく、国庫つまり税金から支払うのですから。

 

…余力があれば次回もう少し続きます。

大王製紙の背任事件に見る実刑と執行猶予の分かれ目

大王製紙の前会長・井川意高氏(以下敬称略)に対し、特別背任罪で懲役4年の実刑判決が下りました(東京地裁、10日)。

この事件、多くの方がご存じだと思いますが、井川が、大王製紙の創業者一族として、社長の立場にあったのをいいことに、関連会社を含めて総額約55億円を借りて、夜遊びやカジノに散財したという事件です。

 

背任とは、わかりやすく言えば、他人のために働く立場にある人が、その地位を悪用して利益を得るという犯罪です。刑法247条で5年以下の懲役。

会社の社長などは、会社のために働く義務があるのに、その地位や権限を悪用して自身の利得をはかりがちなので、会社法960条で特別背任罪という条文が用意されていて、懲役10年以下と、さらに刑罰が重くなっています。

 

井川の弁護人は、創業一族が大王製紙の株を売って、それで55億円を返したのだから、執行猶予にすべきだ、と主張したようですが、裁判所は受け入れませんでした。

ここで私は、音楽プロデューサーの小室哲哉氏(以下敬称略)の事件を思いだします。小室は、自分の曲の権利を売るなどと言って他人から5億円をだまし取ったとして、詐欺罪で起訴されました。なお、詐欺罪は刑法246条で、10年以下の懲役なので、条文上の罪の重さは特別背任罪と同じです。

結果は、懲役3年・執行猶予5年の判決でした。まだ執行猶予中のはずですが、5年間まじめにしていれば、小室は刑務所に行かなくてすみます。

小室は執行猶予、井川は実刑判決。井川はまだ高裁、最高裁と争うのかも知れませんが、この判決が確定すれば、すぐにでも刑務所に行かなくてはなりません。この2人の差はどこから来るのか。

 

以前、小室に執行猶予判決が出たとき、実刑と執行猶予の分かれ目について、思うところをブログ記事を書きました(こちら)。

要約すると、1つは被害弁償が充分になされたかどうか、もう1つは本人の「今後まじめに生きて行きます」といった反省の弁を裏付けるだけのものがあるかどうかである、と書きました。

小室は、5億円の詐欺被害に対して、利息と慰謝料あわせて6億5000万円を払いました。エイベックスに立て替えてもらったようですが、いずれにせよ、個人に対する被害弁償としては充分と思われます。

一方、井川による被害額は、55億円です。金額だけでも小室の11倍で、これだけでも実刑に値すると言えるかも知れない。また、一族が株を売って返したとはいえ、企業の運転資金に長い間、55億円もの穴をあけたわけだから、企業経営をたいへんな混乱に陥れたでしょう。それを考えると、最終的には返したでしょ、と言って済まない部分もある。

また、小室は世の中に出てまた真面目に音楽でも作っていれば、立ち直りも期待できるし、エイベックスが立て替えてくれた6億5000万円だってきちんと返せるかも知れない。

しかし、井川は企業グループの御曹司で、「金持ちだからモテてた」というだけであって、それを離れるとどうやって立ち直っていくのか、よく分からない部分がある。自分の才覚で改めて55億を稼いで一族に返せるとも思われない。

 

そのあたりが考慮されたのではないかと思います。なお、この記事は新聞やネットニュースの報道で知りえた事実に基づいて、あくまで私(山内)の個人的見解を述べたものであることを最後に付言させていただきます。

暴力団に殺害を依頼する思慮の浅さに驚く

34歳の派遣社員の女性が、暴力団員に同僚の殺害を依頼したとかで逮捕されたそうです。

報道によると、1週間以内に殺してほしい、とその同僚の写真を送り、殺してくれたら100万円払う、と手紙に書いてあったとか。受け取った暴力団員が殊勝にも順法精神を発揮し、警察に届け出たそうです。

 

新聞やネットニュースには「暴力行為法違反」とありますが、正確には「暴力行為等処罰ニ関スル法律」という、大正15年にできた法律で、その第3条1項に、殺人等をさせる目的で金品を供与することを約束すると、6か月以下の懲役または80万円以下の罰金(要約)とあります。

 

それにしても、そんな方法で嫌いな相手を殺すなど、うまく行くはずがないのです。私は、この女性が、そんなことすらわからずに殺害依頼を実行したことに、おそろしい想像力の欠如のようなものを感じます。

 

たしかに、つまらないチンピラ以下の連中が、「ヤクザに手をまわしてお前を殺すぞ」などという脅し文句を使うことはよくあります。しかし、ヤクザにだって生活があるので、他人から多少の金銭をもらったところで、恨みもない人を殺すはずがないのです。

これは、ずいぶん前に当ブログ(楽天ブログのころ)でも書きましたが、暴力団のいわゆる「鉄砲玉」が誰かを殺す際には、組の幹部としては、物すごいお金を用意する必要があります。

鉄砲玉は逮捕され、10数年は服役するでしょう。その間、鉄砲玉に妻や子供がいれば、経済的に面倒を見てやらなければなりません。鉄砲玉が出所してきたら、組の幹部として迎え、それなりの報酬を与えて、一生、組で食わしてやらないといけない。そう考えると、殺人1件あたりの経済的コストは数千万から億単位になるでしょう。

そこまでしないと、鉄砲玉になってくれる構成員などいません。

以上の話は、たしか故・胡桃沢耕史さんの小説で読んだ記憶があるのですが、そうでなくても、100万円程度のハシタガネで無関係の他人を殺すなど、誰にとっても割に合わない話であることは、ちょっと考えればわかるはずなのです。

 

それから、数年ほど前によく聞いたのは、「中国系のマフィアに頼めば、安いお金で人を殺してくれる」などという話です。

少なくとも、実際にそんな理由で人が殺されたというニュースは聞いたことがありません。ちなみに私自身、中国人の容疑者を刑事裁判で弁護したことは何度かありますが、私が経験した限りでは、彼らは自分自身の欲望や恨みのために、盗みや暴力沙汰を起こすのであって、その点は日本人と変わりはありません。

それに、今となっては経済的には中国のほうが元気なのだから、日本で安いカネで殺人を請け負う理由などないことは、弁護士でなくても少し考えればわかるでしょう。

 

冒頭の女性は、年齢的にはいい大人のはずなのに、「ヤクザに頼めば人を殺してくれる」などという得体の知れない噂を、何も考えずに真に受けてしまったのでしょう。ちょっと考えれば、そんなことする人はいないとわかったはずなのです。知人の殺害を依頼すること自体もおぞましい話ですが、こういった思慮のなさに、よりいっそう驚かされました。

亀岡の暴走事故は「危険運転」と言えるのか

京都・亀岡で無免許の少年が自動車を居眠り運転で暴走させ、多数の児童が死傷した事件で、遺族の方々が少年らに「危険運転致死傷罪」の適用を求め、署名活動や再捜査の申入れをしているというニュースがありました。

この事件は極めて悪質で悲惨なものであり、遺族の気持ちは察するにあまりあることに全く異論はありません。私自身、幼稚園児の子を持つ親として、恐怖と憎悪を感じました。

 

しかし、ここで度々申し上げているとおり、こうした署名活動には、私はいつも違和感を禁じえません。

一つには、検察の判断が、署名の多さや遺族の声の大きさで左右されるのは不合理だろうということです。これは過去にも触れたとおりですので、あわせてこちらをご参照ください。

 

もう一つは、これも述べたことがありますが、この危険運転致死罪(刑法208条の2)という条文が、運用如何では極めて危険なものであり、その適用にはもっと慎重であるべきだと思われるということです。

通常の交通事故死に適用される自動車運転過失致死は、上限が懲役7年ですが、危険運転致死罪が適用されると、上限が懲役20年となり、他の条文(道交法違反など)との組み合わせによっては、最高30年までの懲役刑が可能となります。

どういう場合に危険運転致死罪が適用されるかというと、条文には、「アルコールや薬物で正常な運転が困難な状態で自動車を運転した」「車を制御困難な高速度で走らせた」、「高速度で通行妨害目的で他の車に接近した」、「高速度で赤信号を無視した」、こういう事情で人をひいて死なせた場合に適用されることになっています。

特に最後の部分など、ドライバーの方は怖いと思うのではないでしょうか。交差点で信号が変わりそうだから、ちょっとスピードを上げ、赤信号だけど、他の車が交差点に進入してくるギリギリくらいで通過した、という状況は、決して珍しいものでないと思います。その状況で人をはねて死なせてしまうと、懲役20~30年もありうるというわけです。

 

もっとも、上記のような事例で危険運転致死罪が適用されたケースは、私はまだ聞いたことがないし、実際には、もっと悪質な赤信号無視の事案に限られるのであろうと想像しています。

しかし、危険運転致死罪の適用を求める活動というのは、その適用を拡張してほしいと言っているわけです。それでいけば、私が上に挙げた事例でも、ばんばん危険運転致死罪を適用すべきだ、ということになりそうです。

「無免許運転だったのに適用されないのはおかしい」という声もありますが、「無免許運転」というのは、危険運転致死罪の条文のどこにも書かれていないのです。


繰り返しますが遺族の気持ちは痛いほどによくわかります。

「危険運転致死罪」なんていう条文ができてしまったせいで、通常の「自動車運転過失致死罪」があたかも「危険」じゃない事故であるかのような印象になってしまい、こんな悲惨な事故を「危険運転」と言ってくれないのはおかしい、という気持ちもあるでしょう。

しかし、今回の事故は危険運転致死罪の条文に書かれておらず、この条文ができたときには想定されていなかったはずのケースです。今回、危険運転致死罪の適用を認めてしまうと、間違いなく、今後一気にその運用の幅が広がります。条文にないけど結果からみて悪質な事故だから条文の解釈を広げてしまう、という先例ができてしまいます。

その摘発の対象となるのは、私たち自身かも知れないのです。検察には冷静で厳密な判断を求めたいと思います。

生活保護の不正受給が含む問題について

しばらくブログの更新が空いてしまいました。久々の投稿は、今さらながらの感もありますが、生活保護の話です。

次長課長というお笑い芸人がいて、その片割れの河本(敬称略)という人の母親が、河本にそれなりの収入があるにもかかわらず、生活保護を受給していたという話です。

この件についての結論はすでに報道されているとおりで、違法とまでは言えないけど、ほめられたものではないということで、私もそう思います。

 

いちおう法的解説を加えますと、民法877条1項には、「直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある」と定められています。これを根拠にして、たとえば貧しい暮らしをしている母親は、裕福な息子に対して、扶養してくれ、と求めて裁判を起こすことができる。

そうなると裁判所は、双方の資産や収入を考慮して、息子は母親に月々いくらを支払え、という形で具体的な扶養義務を負わせることができます。

しかし、この手の裁判はめったに行われないですし、私自身もそんな依頼を受けたことはありません。多くの人は、そんな面倒な裁判をするくらいなら、生活保護の申請をするでしょう。

 

親族による扶養と、国家による生活保護。

生活保護法によれば、親族による扶養が優先し、それすら受けられない人が国家による庇護を受けるということになっています。そのため、生活保護の申請を受けた役所は、親族に対する問い合わせをしているようです。

その問い合わせに対し、売れない芸人だったころの河本は、「母親を養うほどの余裕はありません」と答えたのでしょう。私はそのことを責める気にはなれません。私だって、もし役所から同じ問い合わせを受けたら、同じように答えたのではないかと思います。

河本の母親も、そういう経緯で生活保護を受給するようになったのでしょう。

 

ここで、不正受給を徹底的に防ぐべきだというのであれば、役所に強大な権限を与え、情報収集を容易にできるようにしてやるべきです。

個々の国民の資産や収入を、厚生労働省がすべて把握できるようにすべきです。全国の銀行は、厚生労働省からの照会があれば、預金者の口座情報(残高や入出金の履歴)を、直ちに回答するよう義務づけすべきです。

私などは、本気でそうすべきだと考えていますが、「個人情報」を国家が集中的に管理するのは望ましくない、と考える人も多いはずで、だからこの問題は直ちに解決することはないでしょう。

 

河本の一件が今後どうなるかというと、生活保護法77条は、扶養してやるべき義務を本来負う人がそれを果たさずに、生活保護が支給された場合、役所は後からそれを義務者に請求できる、とあります。

ですから今後、河本に対して、役所から「払った生活保護を返してくれ」という手続きが行われるかも知れません。河本がそれに応じれば、法的にはそれでお咎めなしです。

 

後味の悪い話ではありましたが、では私たちが同じ立場にいたとしたら、国家を頼らずに身を切って親族を支えてあげたと言えるのか。また今後このようなことを防ぐために、国家にもっと強大な権限と情報収集能力を与えるべきなのか。

この問題は、お笑い芸人が頭を下げて終わり、というような話ではなく、私たち個々の国民に対する、そういった問いかけを含んでいると思います。

小沢一郎と木嶋佳苗、有罪無罪の分かれ目 2

前回の続き。

木嶋佳苗も小沢一郎も、間接証拠だけの裁判となり、木嶋は有罪、小沢は無罪となりました。その判断の分かれ目は何かというと、私は、「疑わしきは罰せず」(疑わしいだけでは処罰できない)の大原則によるものであると考えています。両事件に即して見てみます(以下、検察側・弁護側の主張とも、単純化して述べます)。

 

木嶋佳苗の裁判では、「木嶋が付き合っていた男性が続けて3人、練炭を炊いて死んでいるのが見つかった」というのが間接証拠でした。ここから検察側は、木嶋が3人を殺したとしか考えられない、と主張しました。

弁護側は、それは「たまたま」だと反論しました。

裁判官と裁判員は、木嶋が「疑わしい」だけでなく、殺したと「確信できる」と考えました。付き合っていた男性が「たまたま」3人連続で練炭自殺をするということは、頭の中では想定できなくもないけど、合理的に考えれば「そんなことありえへんやろー」ということです。

 

小沢一郎の裁判では、「4億円の政治資金を帳簿に記載しなかった」ことが間接証拠でした。検察側は、「億単位の金を、秘書の一存で動かすはずがない。小沢が違法な処理を指示したとしか考えられない」と主張しました。

弁護側は、「秘書が勝手にした。小沢は、まさか秘書が違法な処理をしているとは知らなかった」と反論しました。

裁判官は、小沢は「疑わしい」けど、自ら違法な処理だと知ってて秘書に指示したとは「確信できない」と考えたわけです。秘書に任せきりであったため、4億円を記載しないことが違法だと知らなかった可能性がある、というわけです。

 

ここまで読んでいただいた方には、この2つの事件の違いが、腑に落ちましたでしょうか。付き合っていた男性がたまたま3人連続で練炭自殺をした、という弁解と、秘書任せであったのでまさか違法な処理をしているとは思わなかった、という弁解。

どちらも、「そんなことありえへんやろー」と思いますが、そのありえない度合いが、木嶋のほうがより強い、小沢の弁解は、まだありうるかも知れない、ということです。

「いや、両者の違いがよく分からない」という方もおられると思います。その疑問はそのとおりです。小沢一郎の無罪はそれくらいにきわどいものだったと思ってください。

 

「秘書が勝手にした。違法な処理をしているとは知らなかった」などという弁解は、政治家としては恥ずべきものだし、小沢一郎以下、民主党が野党のころ、自民党に対しさんざん「秘書のやったことは政治家の責任だ」と主張してきたとおりです。

ただ東京地裁としては、小沢一郎の政治的責任はともかく、刑事裁判で有罪にして刑事責任を問うには一歩足りなかった、と考えたのでしょう。

検察官役の指定弁護士が高裁に控訴するかどうかは今後の検討事項であり、これを書いている時点(平成24年5月6日)でまだ無罪が確定しているわけではありません。仮に無罪が確定したとすれば、政治家として恥ずべき主張で無罪になった以上、今後は政治の場(つまり国会)で、政治家としての説明責任が果たされて然るべきだと考えます。

小沢一郎と木嶋佳苗、有罪無罪の分かれ目 1

小沢一郎の無罪判決について、続き。

有罪すれすれだけど無罪になった理由は、4億円の政治資金を帳簿に載せなかったことが、違法な虚偽記載であると知らずにやっていた可能性がある、という点にある…と言われてもよくわからない話だと思います。

ひとまずここでは、今回の裁判所の判断の仕組みを、他の事件と比較して述べてみます。

 

最近注目を集めた事件として、木嶋佳苗という自称セレブ女性が、付き合った男性を次々に殺害したという容疑で起訴され、裁判員裁判を通じて死刑判決が出たことは、よくご存じのことと思います。

この事件では、木嶋本人は殺害を否認しており、また被害者にあたる男性も皆死んでいるので、目撃者もいない。直接証拠がなく、検察は間接証拠だけで殺人を立証することになりました。

 

直接証拠というのは、その証拠から犯罪事実が直接導かれるものを言います。

典型的には容疑者本人の「私が殺しました」という自白、それから目撃者の「あいつが殺すのを見ました」という目撃証言がこれにあたります。いずれもそこから、「殺した」という犯罪事実が導かれます。もちろん、自白にも目撃証言にも、ウソが混じることがあるので、本当のことを言っているかどうかは慎重に検討する必要があります。

 

間接証拠(間接事実とか、状況証拠とも呼ばれる)とは、直接に犯罪事実が導かれるわけではないけど、状況からして「あいつが犯人だろう」と推定できるというものです。

具体例を示したほうが早いと思いますが、木嶋佳苗の裁判では、「木嶋が付き合っていた男性が3人連続で練炭自殺の形で死んでいる」「男性の死亡現場にあった練炭と、木嶋が購入した練炭は同じものである」などがこれにあたります。

ここから直接、木嶋が男性を殺した、と言えるわけではないですが、通常の判断能力を持つ人が推理を働かせれば、やはり木嶋が殺したんだろう、と認定できる、ということです。

(木嶋佳苗被告人は死刑判決に対し控訴しており、今後、高裁での審理が続きます。あくまで、1審の東京地裁はこう判断したが、ただ今後も高裁で審理は続く、という前提でお読みください)

 

直接証拠がなくて間接証拠だけで有罪を立証しないといけない、という点では、小沢一郎の裁判も同じでした。

小沢本人は否認している。一部の秘書が「小沢先生に指示されてやりました」と検察官の前で述べて、その供述調書があったそうですが、検察の取調べに問題があったということで、その調書は証拠としては採用されませんでした。

間接証拠に基づく審理で、木嶋佳苗は有罪で死刑判決、小沢一郎は無罪となりました。その判断の分かれ目はどこにあるかということについては、次回に続きます。

小沢一郎無罪の理由

小沢一郎の刑事裁判は、ご存じのとおり、無罪判決となりました。

無罪の一報を聞いたときは、やはり有罪にするには無理があったのか、とも思ったのですが、判決内容の報道などを見ると、ぎりぎりのところの無罪であったようです。

ここで何度も書いたように、検察が起訴するのをあきらめた事件であったのが、国民から選ばれた検察審査会の議決に基づいて起訴され、国から指名を受けた指定弁護士が検察官役を果たした。

この指定弁護士、例えるなら、大坂夏の陣で真田幸村があと一歩で徳川家康を討ち取るところまで行ったような、そんな働きをしています。

 

この事件での争点は多々ありますが、双方の主張と裁判所の判断は、大ざっぱに書くと以下のとおりです。

 

まず小沢一郎被告人とその弁護人(以下「弁護側」と略記)は、検察審査会の議決に基づく起訴自体がそもそも無効だと主張した。捜査の段階で検察官の行き過ぎがあり、事実に反する捜査報告書が作成されたからだ、という理屈です。

起訴が無効なら、有罪無罪の審理に入る前に裁判を打ち切ることになります。しかし裁判所は、起訴を有効としました。検察審査会が参照した報告書の一部に虚偽があったとしても、小沢一郎を裁判にかけるべきだという審査会の意思は揺らぐものではない、ということでしょう。

 

そこで次に事件の中身の審理に入ることになりますが、それは、小沢一郎が4億円の政治資金を帳簿に記載しなかったことが有罪にあたるか、というものです。

弁護側は、このお金はもともと帳簿に載せないといけないようなお金ではないから、そもそも虚偽記入にあたらない、と主張したが、裁判所は、そんなことはない、虚偽にあたる、としました。

 

虚偽記入があったとしても、小沢一郎は法廷で「秘書に任せきりであったから、自分はあずかり知らない」と証言しました。しかし裁判所は、その証言は信用できない、と断じて、秘書からの報告を受けて了承していた、としました。

秘書が「小沢センセイ、4億円は帳簿には載せませんでしたよ」と言って、小沢一郎が「ああ、そうか。わかった」などと言っていたはずだ、と認めたのです。

 

ここまで認められて、なぜ無罪かというと、小沢一郎はこうしたやり取りに際して、「その4億円は帳簿に載せないといけないものであることを知らなかった」という可能性を捨てきれない、ということのようです。

起訴は有効、虚偽記入も成立、秘書からの報告と了承あり、とそこまで認められて、最後に「違法とわかってやっていたかどうかはわからない」という部分で無罪になったのです。

本当は違法とわかってて自ら秘書に指示したんじゃないの?と思う人も少なくないと思いますが、「疑わしきは罰せず」(疑わしいだけでは処罰できない)というわけで、あと一歩、その部分を証拠で立証できなかった、ということです。

この裁判に関して少し続けます。