内閣不信任と一事不再議 2

前回の続きで、「一事不再議」(いちじふさいぎ)について。

似たような言葉で「一事不再理」(いちじふさいり)というのがあります。これは、刑事裁判の大原則で、一度裁判が終わったら、同じ事件を再度裁判にかけてはならないということで、憲法39条に定められています。


国会での一事不再議とは、一度審議が終わった議案を、同じ会期中に再度審議しなおすことはできないということです。

これは、明治憲法には規定があったのですが、現在の日本国憲法には定められていません。とはいえ、一度多数決で決まったことについて、もう一度評決しなおすのは時間の無駄だから、当然のこととして、そういう慣行が形成されてきました。

今年の通常国会の会期は8月いっぱいまでで、その間、同じ議案を審議することはできないことになります。


しかし、「内閣不信任」という決議案のタイトルが同じでありさえすれば、一事不再議が機械的に適用されるわけではないはずです。

これは、刑事裁判での一事不再理を考えてみれば明らかです。たとえばある人が本屋で万引きして窃盗罪で裁判を受け、執行猶予となり釈放されたが、その直後、スーパーで万引きしたとします。

窃盗罪の裁判を一度受けたから、スーパーの万引きは同じ窃盗罪で裁けないかというと、それは明らかにおかしい。1件目の窃盗と2件目の窃盗は「別の事件」であって「一事」ではないので、刑事裁判にかけることができます。

国会でも、「一事」といえないような事情の変化があれば、審議は可能です。憲法の教科書では、「事情の変更により合理的な理由があれば、再提案も可能」(佐藤幸治)などと書かれています。

 

菅総理は、東日本大震災の後、意味なく視察に行って現場を混乱させ、災害対策基本法などの法律を活用できず、無駄な会議体をつくってばかりいた。そうした対応のまずさが、6月の不信任決議案の提出の理由となった。

その後、早期辞任をにおわせて不信任案が否決されるや、「辞めるとは言ってない」と詐欺としか言えないロジックで総理の座に居座り続け、震災復興に明確な方針を示すこともなく、原発問題等では思いつきの発言を繰り返した。

これでは、不信任案の否決という執行猶予判決の後に、改めて別の罪を犯したのに等しい。

すぐ辞めると思わせておいて辞めようとしないのは、不信任案の否決の際に想定されていなかった(総理大臣がそこまでのペテンを使うとはさすがに誰も思わなかった)事情の変更が生じたと言えるのであり、もはや「一事」ではない。

ですから、小沢一郎でも誰でもいいから内閣不信任決議案を提出しないことには、本当に、「不信任案が一度否決された後の内閣は好き放題してもクビにできない」という、最悪の慣行ができてしまうのです。

内閣不信任と一事不再議 1

小沢一郎が内閣不信任案を提出する構えを見せているらしい(本日の産経朝刊など)。

前提として、衆議院が時の内閣を信任しない、という決議を出すことは、憲法上、重大な効果があります。内閣は10日以内に総辞職するか、衆議院を解散しないといけなくなる(憲法69条)。議院を解散した場合でも、総選挙が行なわれたあとには、内閣はやはり総辞職しないといけない(70条)。

だから不信任決議はいずれにせよ、総理大臣以下、内閣を構成する大臣すべてをクビにする効果をもたらします。

行政のトップである内閣が、主権者である国民の意に反する行動を取る場合に、国民の代表である国会は、内閣を変えてしまうことができるという趣旨です。

 

もっとも、国会には「一事不再議」の原則があります。

「この6月に一度、不信任案を否決されているから、もう同じ不信任決議案を審議することはできない」という考え方もありえます。たぶん菅総理もそう考えています。しかしそこは、法律うんぬんでなくて常識で考えてみてください。

もしそういう理屈が通るなら、いったん不信任決議が否決されれば、それ以降、総理大臣がどんなことをしたってクビにはできず、その責任を問えないことになります。そんなことは、およそ民主国家の憲法が想定している事態であるはずがない。

たとえば、民主党でもどこでもいいですが、あるときの衆議院選挙で、ある政党が過半数の議席を取り、その政党から総理大臣が選ばれたとします。そしてその直後に、その政党の一部の議員が総理大臣とグルになって、わざと不信任案を提出します。その政党が過半数を取っているわけですから簡単に否決されます。次の会期になったら同じことを繰り返す。

するとどうなるか。その総理大臣は、衆議院議員の任期の丸4年、何をやっても許されることになります。憲法解釈としてありえない話です。


菅総理は「民主主義とは期限を区切った独裁だ」と常々から言っているらしい。たしかに憲法上、内閣総理大臣は行政のトップとして強大な権限を与えられているから、その言葉はある側面においては当たっているかも知れない。しかし菅総理が馬鹿なのは、そういう「極論」を、文字通り実行に移そうとするところなのです。

さて、一事不再議ということについて、もう少しきちんと解説したいのですが、それは次回に続く。

最高裁で強姦事件に逆転無罪判決 3(完)

続き。
最高裁で無罪判決が出た強姦事件の真相は、判決を読むかぎり、被告人の男性が、被害者とされた女性に、3万円を払う約束で「手で抜いてもらった」だけのようです。
男性が3万円を支払わずに逃走したことから、ややこしくなった。

ではこの男性、3万円を払う約束を破ったことについて、刑事責任は問われないのか。
刑法の教科書などには、売春代金を支払わなかったら犯罪になるか、ということが論じられています。本件も同じ問題であると考えてよい。

たとえば飲食店で食事したあと、「財布を忘れたから取ってきます」と言ってそのまま逃げると詐欺罪になるし、「こんなマズイ料理でこの俺からカネを取るのか!」などと凄んで食事代を踏み倒すと恐喝罪になる。

売春代金についても、同じように詐欺罪や恐喝罪になる、という考え方もありますが、一方で、売春でお金を稼ごうなどと考える女性側も間違っているから、男性側に刑罰まで与える必要はない、という考え方も有力です。

最高裁はどう言っているかというと、こういうケースについての判例はないようです。おそらく、そんな事例は滅多に刑事裁判にならないからだと思われます。

もし女性が、「やらせてあげたのに代金を払ってくれなかった」と言って警察に駆け込んだとしても、警察はまともに取り合わないでしょう。せいぜい、その男性を呼び出して注意し、女性にも「そんな商売やめなさい」と諭して終わり、となることが多いでしょう。

今回の事件も、女性が「強姦された」と被害届を出したから刑事裁判に発展したのであって、「手で抜いてあげたのに3万円払ってくれなかった」と申告していたら、ここまで大ごとにはならなかったはずです。

そういった、有罪・無罪が微妙である点に加えて、強姦の裁判で無罪判決が出ているため、「ならば詐欺罪か恐喝罪で」と改めて起訴されることもないでしょう。
「一事不再理」の原則で、いったん無罪になった事件を蒸し返すことはできないということです。

(このケースで詐欺・恐喝罪での再起訴に一事不再理が適用されるかどうかには議論の余地があると思いますが、専門的になりすぎるので省略します。刑事訴訟法を学んでいる方は、公訴事実の同一性の範囲に入るか否か、考えてみてください)

逆に、この事件を「強姦」と届け出た女性には、虚偽告訴罪(犯罪でないものを犯罪と申告すると罪になる)が成立しないのか、ということも問題となると思います。
理論上は、そうなると言えそうです。

もっとも、今回の被告人男性が虚偽告訴罪で女性を逆に告訴したとしても、元はと言えば手で抜いてもらおうなどとしたのが間違いじゃないか、身から出た錆じゃないか、ということで、警察官に諭されて終わりなのではないかな、と思います。

つまらない事件が偉大な法原則を生む、と何かの教科書で読んだ記憶がありますが、今回も、つまらない事件が注目すべき最高裁判決を生んだ、そんな事件だったという感想です。
終わり。

最高裁で強姦事件に逆転無罪判決 2

前回の続き。
痴漢事件では最近、無罪判決が増えつつあり、強姦事件でも今回、最高裁で無罪判決が出ました。これまで、無実なのに見過ごされて有罪とされた事件も、おそらく皆無ではないでしょう。

この手の事件で冤罪が生じやすい理由は、客観的な証拠が乏しいことや、目撃者が少ないために被害者の証言が決め手になってしまう点にあります。

被害者は、自分が刑事裁判に巻き込まれ、法廷で証言するのも恥ずかしいことであるのに、あえてウソの被害申告をするはずもない、だから被害者の証言は信用してよい。一方、容疑者や被告人は、自分が有利になるよう弁解するのが常であるから、その証言は疑ってかかる必要がある。これが従来の傾向だったと思います。

前回書いたとおり、大多数のケースでは、その考え方でよいのです。ただ、その一般論が妥当しないケースも少数ながら存在する。 

記憶に新しいところでは、2年前、大阪の地下鉄の車内で、女性が乗り合わせた男性客を痴漢として訴え、その男性客が一時、身柄拘束されるという事件がありました。女性は示談金をあてにしてその男性をゆするつもりだったのです。

これは、背後にその女性の友人の男子大学生(後に虚偽告訴罪で実刑)がいて、計画的に行なわれたという、かなり特異なケースであったといえます。

しかし、被害者の証言には時としてウソが混じること、そして、真実であれウソであれ、女性の「このひと痴漢です」の一言で男性は簡単に逮捕されてしまうことを、この事件は明らかにしました。この事件ではたまたま早い段階で真実が露呈したとはいえ、たいていのケースでは長い身柄拘束となり、痴漢と言われた男性は社会的に抹殺されてしまう。

ですから、被害者の証言を重視することは当然であるとしても、それを偏重することはあってはならない。それは刑事訴訟法の教科書にも出てくるような基本的なことなのですが、これまでは軽んじられてきたのです。

今回の無罪判決が出た事件に話を戻しますが、前回書いたとおり、被告人の男性が当初から言っていたのは、「3万円払うからと言って手で抜いてもらった」ということです。しかし男性は3万円を払わず逃走した。

最高裁の判決には明確には触れられていませんが、判事の頭の中には「3万円を払ってくれなかった腹いせで強姦と訴えたのかも知れない」ということがあったでしょう。
そういう点でも、被害者の証言はよくよく吟味される必要があった。今回の最高裁のスタンスは妥当であったと思います。

さて、ではこの被告人、強姦ではないとしても、3万円を払わなかったことについては何の責めも負わなくてよいのか。その点は次回に検討します。

最高裁で強姦事件に逆転無罪判決 1

最高裁での無罪判決について触れます。
強姦の容疑で、1審・2審で有罪にされていた被告人に対し、最高裁は逆転無罪判決を下しました(7月25日)。

最高裁というところは、憲法や法律の解釈について審理するところであって、事実そのもの(強姦したか否か)について立ち入って検討することは基本的にはないので、ここまで踏み込んだ判断をすることは異例です。

と、ここまで書いて、以前にも同じような話を書いたなと思いだしたのですが、2年前、強制わいせつ事件で被告人が最高裁で逆転無罪になった判決に触れていました。
最高裁で逆転無罪というのがいかに「異例」かについては、こちらこちらをご覧ください。

以前に書いたのと重複する話は省略するとして、今回の事件の内容を紹介します。

なお、今回の最高裁判決は、最高裁のホームページから見ることができます。
興味のある方は「裁判所」で検索して裁判所のトップページへ行き、「最近の判例一覧」→「最高裁判所判例集」と進んでください。7月25日の「強姦被告事件」の判決です。PDFファイルで、当事者の名前以外は全文見ることができます。

それによりますと、事件は少し理解しがたいものでした。
事件は、平成18年、千葉市内で起こっています。被害女性(当時18歳)の供述によると、被告人の男性(現在53歳だから当時50手前)に、市内の路上で「ついてこないと殺す」と言われ、ビルの階段の踊り場に連れていかれ、そこで強姦されたとのことです。
1審・2審は女性の供述に従って、被告人を有罪とした。

被告人の弁解はこのようなものです。
自分は手に3万円を持って、通りすがりのその女性に声をかけ、以下最高裁判決そのまま引用しますが「報酬の支払を条件にその同意を得て」「手淫をしてもらって射精をした」とあります。

書くのをはばかりますが、たぶん…「3万円あげるから手で抜いて」とでも声をかけたのでしょう。ちなみにこの男性は、ビルの階段の踊り場で抜いてもらったあと、3万円を払わずに逃走しています。


この男性のやっていることもどうかと思いますが、それが事実とすれば、同意の上で手で射精させてもらったというだけであって、強姦にはなりえない。

この事件で証拠となるものと言えば女性の供述だけでした。
これまでの刑事裁判の傾向としては、被害者の証言がかなり重視されていました。もちろん、一般論としてはそれで良いのです。

しかし被告人側が「濡れ衣だ」「被害者がウソをついているんだ」と反論しても、「被害者は被告人と利害関係もないし、別に恨みを持っていたわけでもないから、わざわざウソをつく理由がない」として、反論がたやすく排斥される傾向がありました。

最近は、被害者の供述を偏重しすぎることなく、被告人の供述と比べて、どちらがより信用できるかということが吟味されつつあるようで、裁判のあり方としては、当然、こちらのほうがより望ましいと思います。

この件、次回にもう少し続く。

(続)橋下知事の名誉毀損訴訟――逆転勝訴の意味

前回の続き。
光市母子殺害事件の弁護団と、橋下知事の裁判は、最高裁で橋下氏が逆転勝訴となりました。

元々の刑事事件が、犯行当時未成年だった被告人が母と子を殺害したという陰惨な案件で、その被告人を弁護した弁護団が世論の反感を買っていて、大阪府知事になる前のタレント弁護士だったころの橋下氏がテレビを通じて懲戒を呼びかけたという、特殊な背景事情があって注目された事件です。

ただ、橋下氏の勝訴判決の意味するところは「橋下氏のやったことが正しく、弁護団のしていることは誤っている」と最高裁が判断したというわけでは、もちろんありません。

この民事裁判で争われたのは「橋下氏が弁護団の弁護士らに賠償金を払う義務があるかないか」ということであって、これについての最高裁の結論は「橋下氏は弁護団に迷惑をかけたかも知れないけど、それは弁護士としてガマンしてやるべき範囲であった」ということです。

弁護士の仕事は、紛争時に当事者の一方に味方することであるから、当然、反対側の当事者からは恨みを買う。社会的に耳目を集める事件であれば、世論の批判も買う。もともとそういう仕事なんだからガマンしなさい、と言われれば確かにそうです。
だからこの最高裁判決に対する私の感想は、まあそんなものかな、という程度です。

やや話が変わりますが、私が興味深く思ったのは、1審で橋下氏が敗訴して800万円の賠償を命じられたときに、さっさと弁護団の弁護士らに800万円払ったということです。

まだ高裁、最高裁と争えるのに、早々と払ってしまった理由として大きいのは「利息」でしょう。
判決で支払いを命じられているのに支払わないと、利息がつきます。しかも利率は民法上、年5%とされています。今のご時世、郵貯の定額貯金でもつかないほどの高利息です。

最高裁まで長々と争ってその上で敗訴すると、利息分も払わないといけない。
この事案では、1審の判決から最高裁判決まで、2年半くらいかかっているから、もし1審の判決がひっくりかえらなかった場合、800万円×5%×2.5年で、100万円くらい余計に払わないといけなかった。

もちろん、800万円を受け取った弁護団側も、別にお金が欲しくて裁判をしたわけではないだろうから、お金は手つかずのまま置いておき、最高裁判決を受けて、橋下氏に返金したでしょう。

裁判で負けても開き直ってお金を払わない、という人が非常に多い昨今、負けたらさっさと払う、逆転されたら返す、というやり取りは、大変フェアであると思えます。橋下氏と弁護団の思想的な対立は激しいものと思われますが、そのあたりはさすがに弁護士同士ということなのでしょう。

ということで、最高裁判決の原文にも当たらないままに雑多な感想を書いてしまいましたが、とりあえず以上です。

橋下知事の名誉毀損訴訟――逆転勝訴の意味

最近、更新頻度が落ちつつありますが、今回は橋下知事の名誉毀損事件の逆転勝訴判決についてです。

おおよその経緯は皆さんご存じだと思いますが、平成19年、知事になる前の橋下弁護士が、テレビで、光市母子殺害事件の被告人の弁護団に対する懲戒請求を呼びかけ、弁護士会に懲戒請求が殺到した。その弁護団の弁護士が橋下氏を訴えたという事件です。

平成20年10月、1審・広島地裁は、弁護団に対する名誉毀損と、不法行為の成立を認めた。前者は、弁護団への誹謗中傷により、各弁護士の名誉をおとしめたということで、後者は、懲戒請求への対処などにより業務に支障が生じた、ということです。

私は、この判決が出た直後、旧ブログにて、名誉毀損の成立は少し疑問に思う、と書きました(こちら
)。
 

憲法は弁護士に被告人の弁護をするよう定めており、それに沿って堂々弁護活動すればよく、その弁護士の名誉が橋下氏の発言で傷つくわけでもなかろう、ということです。もちろん、そうした弁護活動の必要性を理解しない人も多くいますが、それは元々そうなのであって、橋下氏の発言で新たに名誉が毀損されるわけではない、と思いました。

2審の広島高裁は、私の見解に従って(というわけではないでしょうが)、名誉毀損の成立は否定し、不法行為のみを認めました。
そして7月15日の最高裁判決は、不法行為の成立も否定し、弁護団側の請求をすべて棄却して、橋下氏の全面勝訴となった。

新聞等を読む限り、理由はいろいろ書かれています。
橋下氏の発言は不適切であるが、弁護士に対する懲戒請求という制度がある以上、その利用は広く認められるべきで、各弁護士がそれに対応すべきことも当然である。弁護活動は重要だが、弁護士はそれに理解を得るよう努力することも求められている。等々。

ただ、これらの理由はあくまで「傍論」であり、直接的な理由は、「弁護士業務に重大な支障は生じていない」ということのようです。

懲戒請求をされた弁護団の各弁護士は、それに対する答弁書を弁護士会に提出するなど、それなりの対応を求められたはずですが、実際にどれくらいの負担が生じたのかは、記事にも出てないので、よくわかりません。ただ最高裁は「受忍限度」(ガマンしてやるべき限度)の範囲内だった、と言っています。

次回にもう少し続く。

チーム・ドラゴンが国を滅ぼす

松本龍とかいう人が菅内閣の「復興担当大臣」となって以降、この人がいろいろ批判を受けているという話を聞きました。

たしかに、この人が被災者支援のための部局を自ら「チーム・ドラゴン」と呼んだのは極めておこがましいと思います。70年・80年代に少年の時期を過ごした者にとって、「ドラゴン」と名乗ることを許せるのは、ブルース・リーと倉田保昭だけです。

また、民主党政権の目玉として作った「国家戦略局」という部局も、平時ですら全く機能しなかったのに、今またなぜ「復興担当大臣」というポストをわざわざ作るのか(これは民主党政権が国交省など既存の役所とポストを使いこなせないことを意味する)、といった批判もあてはまるでしょう。

最近は節電のためもあってあまりテレビを見ません。見たい番組といえば、CSで再放送中の「秘密戦隊ゴレンジャー」と「スーパーロボット マッハバロン」だけで、今のテレビがいかに面白くないかは、この稿の本題ではないのでさておきますが、さきほど、しばらくぶりにテレビのニュースを見ました。

松本大臣が、東北地方のある知事に、「知恵を出さないところは助けない」といったことは、(政府がそれ以上の知恵を出すという条件つきなら)まだ容認する余地があるとして、別の知事には、数分遅れてきたことをあげつらって「自分(知事)が入ってから呼べ」と、数分待たせたことを叱責したという映像を見て、批判されているのはこれらのことかと知りました。

私が思い出したのは、これまた私ごとながら、うちの先祖のことです。

史実かどうかは知りませんが、司馬遼太郎の「功名が辻」によると、山内一豊の妻の千代(大河ドラマでは仲間由紀恵が演じた)は、太閤・秀吉の側室である淀殿から大阪城に来るよう呼び出されましたが、淀殿を待っているうちにトイレに行きたくなり、行って戻ってくると、淀殿がすでに面会の間に現れて、千代を待っていた。
後から、淀殿の女官が、淀殿を待たせたことで千代を叱責すると、千代は女官に「鬼婆あ」と言い放って帰ったそうです。

淀殿とその取り巻きの高圧的な態度が、その後の関ヶ原の戦いや大阪の陣で豊臣家を滅ぼすきっかけを作ったとも言われるように、それになぞらえると、松本大臣が菅政権を滅ぼすかも知れません。

しかも、松本大臣が、この件についての釈明を求められて、「九州の人間じゃけん、語気が荒いこともあって…」と、ことさらに九州弁を使って弁明したのは、九州の方に対する侮辱にあたるでしょう。

たとえば松本大臣が大阪出身であったとして、「わて大阪の人間でっさかいにギャグで言うたんでんがな、堪忍したっとくんなはれ」と言ったとしたら、誰も許す気にならないでしょうし、何より大阪の人間が怒るでしょう。

このような人に、国難とも言うべき東日本大震災の復興を委ねるとは、やはり菅内閣と民主党政権は早晩滅びる、と言うより、すでに滅びているのでしょう。

ということで、久々にテレビでイヤなものを見せられたので雑多な感想を書き連ねてしまいました。このあとCSで「スーパーロボット マッハバロン」を見て寝ます。


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7月6日追記。
上記の話を5日深夜、shinobiブログ(http://minamihorie.blog.shinobi.jp/)のほうに書いたら、翌6日にはこの大臣、辞任してしまいました。とりあえずそのままここにも掲載します。

大阪地裁の新館建設騒動に思う 2

大阪・西天満での、大阪地裁の新館建築騒動、続き。

周辺住民の同意がないままに着工されようとしていることについて、「法の番人」がそんなことしていいのか、というニュアンスの記事をネットニュースなどで見ました。しかし、先に結論を言ってしまうと、裁判所のやっていることは違法ではありません。

大阪地裁の敷地はたぶん国有地で、その敷地内に裁判所新館という国の建物を建てるわけです。自分の土地に自分の建物を建てるのと同じで、本来、他人に横やりを入れられる筋合いはない。

ただ、都市計画法や建築基準法の規制上、この地域では何階建て以上はダメとか、耐震強度を備えていないとダメといった規制はあるのですが、そうした基準を数字の上でクリアしていさえすれば、役所が建築確認を出し、建築ができるようになる。

では、周辺住民への説明会を開催したというのは、何のためなのか。
昨日の新聞記事によると、大阪地裁は「大阪府の規定」に基づいて説明会をした、とありました。「規定」というのが微妙なところです。国会が作った法律でも、府議会が決めた条例でもない。

これは「建築指導要綱」などと呼ばれるもので、役所が作ったものです。役所(行政)は法律を作る権限はないので、これには法的効力はなく、あくまで、「行政指導」です。
「大きな新築建物を建てる場合は、周辺住民によくよく説明して、できればOKを取りつけてくださいね」という、役所の指針というか「お願い」に過ぎません。

もちろん、周辺住民との調和のためには、そのお願いに基づいて住民の同意を取り付けるのが望ましいのは当然です。ただ大阪地裁は説明会を5回ほど開いているようですので、説明義務は果たした、ということでしょう。
そして今後、建築確認に基づいて建築を進めることに違法性はありません。

それにしても、私の事務所は裁判所からやや離れたところにあるせいもあって、建築反対デモを起こした西天満の人々の気持ちは今ひとつよくわかりません。

しかし、傍からみていて思うのは、西天満という、駅からのアクセスも悪く、便利でもない土地なのに賑わっているのは、裁判所があるためで、裁判所相手に仕事している弁護士が集中するからです。
だからこそ、ビルには空室がほとんどないし、ちょっと上品で高い料理屋でも弁護士の客がついてそれなりに繁盛する(弁護士の私が言うと手前味噌ですが)。

つまり裁判所と西天満の人々は「共存共栄」でやってきたと思うのです。
裁判所の肩を持つつもりはないのですが、新館建設でもいいじゃないの、もっと人が集まるし、というのが個人的な感想です。

大阪地裁の新館建設騒動に思う 1

仕事でちょくちょく霞ヶ関の東京地裁に行きますが、裁判所の建物の前でよく、拡声器で何かしゃべり続けている男性がいたり、団体でノボリを掲げてビラを配っている人を見かけたりします。

私はあまり関わりませんが、おそらく、その人たちにとって何らかの不服な判決が出て、そのため裁判所に対する抗議行動をしているのだろうと思います。

そういう人たちの気持ちはわからなくはないのですが、それは裁判というものを根本的に誤解していると言わざるをえません。
裁判は、法論理と証拠に基づいて勝敗が決まるものであって、裁判所の前の抗議行動で結論を動かそうと考えること自体がおかしいのです。

もし、そうした行動で判決が左右されるのだとすれば、性能のいい拡声器を持ってきて大きな声を出したほうの勝ち、少しでも団体の構成員に動員をかけて多人数でビラをまいたほうの勝ち、ということになってしまい、それはおよそ、法治国家における司法のあり方ではない。

と、長い前置きですが、今回の主題はそういう話ではありません。

最近、大阪地裁でも、裁判所周辺をデモ行進している一団に出くわしまして、彼らの掲げているノボリを見てみますと、「裁判所の新館建設に反対」ということでした。

大阪市北区西天満にある大阪地裁の敷地内では、現在、本館の北西側に新館の建設工事が始まろうとしています。デモ行進する彼らが言うには、建てるなら南東側に立ててほしいとのことです。

少し細かい話になりますが、大阪地裁の北西側は、オフィスや店舗が多く、そこに新館を建てると、日照や通風が悪くなるということです。たしかに、裁判所の北方向には、昔から骨董品などで有名な老松通りがあるし、私の好きなバーや料理屋も北西側にあります。

一方、裁判所の南側は堂島川に面していて開放されており、東側には裁判所の別館や天満警察などの建物があるだけで、個人に対する影響は少ない、だからそちらに建てればいいじゃないか、ということでしょう。

大阪地裁はこれまで、周辺住民への説明会を何度か開いて、警備の面などから北西側が望ましいということを説明したものの、住民の合意は得られなかったようです。しかし合意のないまま、来月から新館建設工事に着工するとのことで、それに対する抗議デモが、また昨日も行なわれたと、今朝の産経にありました。

法の番人たる裁判所が、住民の合意もなしに建築を推し進めることには、当然異論もあると思われますが、私見については次回に続きます。