少し間が空いてしまいましたが、憲法改正手続きを定めた憲法96条自体を改正することはできるのか、という話をしていて、前回、それを否定する立場を紹介しました。
改正後の規定(新96条)が、改正の根拠規定(現行の96条)を消滅させることは論理的矛盾で不可能である、というのが、否定説の論理です。
それに対して、改正を肯定する立場もあります。現行96条がなくなっても、そいつは俺たちの心の中に生きている、それでいいじゃねえか、という考え方です。
いま、ものすごくテキトーに理由づけをしましたが、もちろんきちんとした理論があります。いくつか紹介します。
① まずは憲法の条文解釈的な理由づけ。
憲法のどこを読んでも、96条に手を加えてはいけないなどとは書いていない。改正手続きを定めた規定が存在する以上、その規定自体(96条)が改正されうるのは、当然想定されているはずである。
② 次に、主権者の意思という観点から。
憲法は主権者である国民の意思に基づくというが、現代の主権者が憲法を改正したいと思っても、昔(憲法が制定された昭和20年)の主権者が定めた厳しい改正手続きに縛られるというのでは、却って主権者の意思が反映されていない。
③ それから、思想的な理由。
そもそも日本国憲法は、第二次大戦後、連合国軍(特にアメリカ)が、日本が二度と強大な国にならないようにタガをはめたもので、日本に対する不信感、警戒感のために、改正手続きも極めて厳しいものとなっている。独立国になった以上は、これを変えるべきである。
さて、この問題については、極力、政治思想とかでなく法解釈的な立場から述べると、前々回書きました。もっとも、解釈上は、否定説・肯定説のどちらにもそれなりの論拠があるので、結局はそれぞれの論者の思想によって決めざるを得ないものなのかも知れません。
最後に私自身の考えを述べますと、弁護士としてはたぶん少数派だと思うのですが、改正してもいい(肯定説)という立場に傾いています。
理由はいろいろありますが、上記の3つに加えて、いま自民党が考えているのは「議員の3分の2の多数決」の部分を「過半数」に緩めるだけで、その後の国民投票までは廃止しないらしいからです。過半数を取った政党が改正を提案してきても、それがイヤなら国民投票でNOと言えばいいのです。
「過半数を取るだけで憲法を改悪できる」とか言ってる人は、その後の国民投票を信頼していない(つまり国民の目はフシアナであると言っている)わけです。
たしかに、3年半前の衆議院選挙のときのように、民主党みたいな政党が過半数を取ってしまい、国民の多くがそれを支持していた、という状況下では、変な憲法改正が実現してしまうという懸念はあります。しかしそれは次の選挙で変えていくしかない。
そうすることで、憲法、選挙、民主主義といったものが、本当に主権者の意思に基づくものになっていくように思えます。
憲法記念日までにこの話を書き終えてしまおうと思っていたので、とりあえず以上で終わりです。ヒマがあれば後日、なお蛇足的な話を書くかも知れません。