憲法96条の改正の先に

憲法96条の改正の可否について、少し書かせていただきましたが、では、改正規定を変えたとして、その先、何を変えるのか。

憲法改正論者の多くは、戦争放棄、戦力不保持を定める9条を変えるべきだと考えているでしょう。これについては、人それぞれに多くの思いや考えがあると思いますが、私個人は、改正すべきだと考えているほうです。

日本の自衛隊は、たぶん世界中でも匹敵する軍隊がほとんどいないくらいの実力を持っています。そしてそれは、一国民として極めて頼もしいものと思っています。

それを、あれは「戦力」「軍事力」じゃない、「自衛力」であるから憲法9条には反しない、国際法上、戦力と自衛力の違いは云々…などとワケのわからない議論を並べないとその存在を説明できないというのであれば、それは憲法のほうがおかしいのでは、と思わざるを得ないからです。

 

あと、私がおかしいと思っているのは「上諭」(じょうゆ)です。

上諭というのは、日本国憲法の一番最初に「朕は…」で始まる一文が掲げられており、それを指します。

朕つまり昭和天皇は「帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し」この日本国憲法を公布する、と書いています(原文を見たい方は、六法全書かインターネット検索で読んでみてください)。

 

帝国憲法73条とは、明治憲法にあった、憲法改正のための規定で、現在の日本国憲法の96条にあたります(なお、明治憲法73条では、国民投票までは必要とされておらず、議会の3分の2以上の多数決で改正可能でした)。

つまり昭和天皇が、日本国憲法の冒頭で、この憲法は明治憲法73条の手続きに則って改正されたのだと宣言しているわけです。

そして、日本国憲法ができたことで、明治憲法は効力を失ったと解さざるをえません。明治憲法では主権者は天皇、日本国憲法では主権者は国民、とされていて、明らかに矛盾するので両立しえません。

 

ここで、当ブログの拙文を辛抱強くお読みいただいた方には、何かおかしいことに気づきませんでしょうか。

前々回に書いた、憲法96条の改正が不可能であるという論拠の一つとして「96条を変えようとすると、その瞬間に96条が消滅してしまい、新96条が存在する根拠が失われてしまう」という理屈を紹介しました。

しかし、日本国憲法そのものが、明治憲法73条に基づいて定められたと言っておきながら、その明治憲法を消滅させてしまっているわけです。同じ理屈でいくと、日本国憲法が存在する根拠自体、失われていることになるのです。

 

そのあたりはどう説明されているかというと、そこから先はもう、憲法の教科書みたいな話になってしまうので書きません。

このように、第二次大戦後のどさくさに慌てて作られただけあって、矛盾も見受けられるのです。それだけ最後に付け加えて、この話題を終わります。

憲法改正規定は改正できるのか 3(完)

少し間が空いてしまいましたが、憲法改正手続きを定めた憲法96条自体を改正することはできるのか、という話をしていて、前回、それを否定する立場を紹介しました。

改正後の規定(新96条)が、改正の根拠規定(現行の96条)を消滅させることは論理的矛盾で不可能である、というのが、否定説の論理です。

 

それに対して、改正を肯定する立場もあります。現行96条がなくなっても、そいつは俺たちの心の中に生きている、それでいいじゃねえか、という考え方です。

いま、ものすごくテキトーに理由づけをしましたが、もちろんきちんとした理論があります。いくつか紹介します。

 

① まずは憲法の条文解釈的な理由づけ。

憲法のどこを読んでも、96条に手を加えてはいけないなどとは書いていない。改正手続きを定めた規定が存在する以上、その規定自体(96条)が改正されうるのは、当然想定されているはずである。

② 次に、主権者の意思という観点から。

憲法は主権者である国民の意思に基づくというが、現代の主権者が憲法を改正したいと思っても、昔(憲法が制定された昭和20年)の主権者が定めた厳しい改正手続きに縛られるというのでは、却って主権者の意思が反映されていない。

③ それから、思想的な理由。

もそも日本国憲法は、第二次大戦後、連合国軍(特にアメリカ)が、日本が二度と強大な国にならないようにタガをはめたもので、日本に対する不信感、警戒感のために、改正手続きも極めて厳しいものとなっている。独立国になった以上は、これを変えるべきである。

 

さて、この問題については、極力、政治思想とかでなく法解釈的な立場から述べると、前々回書きました。もっとも、解釈上は、否定説・肯定説のどちらにもそれなりの論拠があるので、結局はそれぞれの論者の思想によって決めざるを得ないものなのかも知れません。

 

最後に私自身の考えを述べますと、弁護士としてはたぶん少数派だと思うのですが、改正してもいい(肯定説)という立場に傾いています。

理由はいろいろありますが、上記の3つに加えて、いま自民党が考えているのは「議員の3分の2の多数決」の部分を「過半数」に緩めるだけで、その後の国民投票までは廃止しないらしいからです。過半数を取った政党が改正を提案してきても、それがイヤなら国民投票でNOと言えばいいのです。

「過半数を取るだけで憲法を改悪できる」とか言ってる人は、その後の国民投票を信頼していない(つまり国民の目はフシアナであると言っている)わけです。

たしかに、3年半前の衆議院選挙のときのように、民主党みたいな政党が過半数を取ってしまい、国民の多くがそれを支持していた、という状況下では、変な憲法改正が実現してしまうという懸念はあります。しかしそれは次の選挙で変えていくしかない。

そうすることで、憲法、選挙、民主主義といったものが、本当に主権者の意思に基づくものになっていくように思えます。

 

憲法記念日までにこの話を書き終えてしまおうと思っていたので、とりあえず以上で終わりです。ヒマがあれば後日、なお蛇足的な話を書くかも知れません。

憲法改正規定は改正できるのか 2

前回の続き。

衆参両院で3分の2以上の多数を占めて、憲法96条の改正に取りかかろうというのが、いまの自民党の考えです。

しかしその一方、憲法96条は多数決でも変えられないんだ、という考えも根強くあります。たぶん、たいていの憲法学者はそう考えています。その理屈は、「憲法96条を根拠にして、その憲法96条を改正するというのは、論理矛盾であって不可能である」ということです。これをちょっと解説します。

 

日本は法治社会であり、法に違反すると何らかのペナルティが科されます。ではそもそも、それはなぜなのか、という根本的な問題にさかのぼってみます。

 

たとえばA君が他人を殴り、警察に逮捕されたとします。A君が警官に「オマエは何の根拠があってオレを捕まえたんだ!」と逆ギレしたとすると、警官はこう言うことができます。「刑法208条の暴行罪に該当する行為をしたから、刑事訴訟法199条の定める手続きに基づいて逮捕したのだ。何なら刑事訴訟法199条を見てみなさい」と。

A君がさらに、「法律に書いてあったからって、それで何でオレを逮捕できるんだ!」と食ってかかったらどうか。

警官はさらに言います。「日本国憲法59条の定める手続きに沿って刑事訴訟法が成立したからだ。何なら憲法59条を見てみなさい」と。

A君がさらに「憲法に基づいていればオレを逮捕できるっていう理由は何だ!」と言ったとします。これに対してはどう答えるべきか。

これが明治時代なら「それは憲法が、主権者である天皇陛下が神勅に基づいてお定めになったものだからだ」と答えることになるでしょう。

現代なら、「それは憲法が、キミ(A君)を含め、主権者である国民の意思によって成り立っているからだ」という答えになるでしょう(今の憲法は国民の意思に基づくものではなくてアメリカが戦後のどさくさに押し付けたものだ、という論理もあり、それはある程度事実だと思うのですが、その議論は今は置いておきます)。

 

このように、警察に限らず、国家の組織や権力は、すべて憲法に、究極的には主権者の意思に由来するものだから、その存在と行動が許される、ということになっています。

 

憲法の改正ということに関して、もう一つ例を挙げます。たとえば、戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法9条が改正され、新9条に基づき国防軍が誕生したとします。

護憲論者であるBさんが、国防軍と新9条に対して、「軍隊などというけしからんものが、なぜ存在しているのだ」と食ってかかったら、こう答えることができるでしょう。

「憲法96条の定める手続きに沿って、きちんと新9条に改正されたからだ。何なら憲法96条を見てみなさい」と。

 

では最後に、憲法96条そのものを改正した、という例で考えてみます。新96条は、3分の2ではなく過半数で良いとか、国民投票は要らないとかいった内容にしたとします。

さっきのBさんが「憲法みたいに大切なものを、そんなに軽く変えることができる新96条はけしからん」と言ったとします。

新96条はどう答えるか。「憲法96条の定める手続きに沿って、きちんと新96条に改正されたのだ。何なら憲法96条を見てみなさ…あれっ?」となるはずです。

新96条が存在する根拠となる元の憲法96条は、改正されることによって消滅してしまっているからです。

 

改正規定である憲法96条を改正して新96条にしたとすると、その瞬間に、新96条の存在根拠がなくなってしまうことになる。だから多数決を取ってもそんな改正はできないのだというのが、改正否定派の理屈です。

ターミネーター2みたいな話で、憲法96条は最初から自らを破壊することができないものとしてプログラムされている、というわけです。

 

長くなりましたので、次回へ続く。

憲法改正規定は改正できるのか 1

自民党政権になって再び注目を浴びだした、憲法改正の問題について触れます。

憲法を論じるとなると、どうしても個々人のイデオロギーや政治論を反映しやすくなってしまうのですが、ここでは極力、法の規定の解説と、その解釈という観点から論じることとします。

 

いま安倍総理がしようとしているのは、憲法96条の改正です。

96条は、憲法の改正手続きについて定めたもので、憲法を改正しようと思ったら、衆参両院で、総全員の3分の2以上の多数決を取った上で、国民投票で過半数の賛成を得ないといけない、とあります。

これは、普通の法律を作ったり改正したりすることと比べると、相当高いハードルです。

 

これが普通の法律なら、過半数の賛成でいい。しかも、国会は議員の3分の1以上が出席すれば開催できる(定足数)。

つまり、衆議院は定数480ですから、3分の1(160)のさらに過半数で81。つまり81人の賛成があれば衆議院を通ることがありうるのです。

 

憲法改正の場合、定足数というものはなくて、「総議員」と条文にあるから、正味480の3分の2以上で、320人の賛成が絶対に必要となる。

いま、衆議院で与党となっている自民党の議席が295、その仲間の公明党が31で、合計326議席です。公明党が賛成すれば3分の2を超えますが、公明党はどうも憲法改正には消極的なようです。

そのこともあってか、維新の会の石原慎太郎が先日の代表質問で「いずれ公明党に足を引っ張られるぞ」と言い、安倍総理を苦笑させたという映像をご覧になった方も多いと思います。

その維新の会(54議席)と組んで3分の2をクリアしても、まだ参議院があります。

 

参議院は定数242で、3分の2以上となると162人の賛成が必要です。

現在、参議院では自民党83議席、公明党19議席で、合計102議席。維新の会(3議席だけ)を加えても到底、3分の2に及びません。蓮舫さんらがいる参院の民主党がまだ85議席とがんばっています。

この夏、参議院議員選挙があり、総数のうち半分が選挙を受けます(参議院は任期6年で、3年ごとに半分ずつ改選すると憲法に書いてあり、たぶん小学校の社会科でも習ったと思います)。民主党がずいぶん減るとは思うのですが、自民党とその他の改憲勢力を含めて3分の2に届かせるには、よほどの大勝が必要なのです。

安倍総理が、アベノミクスで株価か急上昇したのに浮かない顔をしているのは、お腹が痛いからではなく、自分自身と党に対して、常に引き締めを図っているからです。

 

そして、衆参両院で3分の2を取って憲法改正が可決されても、国民投票で過半数の得票を要します。国民投票などというのも、通常の法律を決める際には求められていません。

過去、憲法改正のための国民投票というのは行われたことがなく、その結果がどう出るかは、通常の選挙の票読みより難しいでしょう。

 

憲法を変えるというのは、それくらいに大変なことなのです。そういう大変な手続きを、憲法96条が求めているのです。ならば、その96条自体を変えてしまおう、というのが、いまの自民党の考え方なのです。

続く。