「人が死んだから入試を中止すべきだ」という「論理」について

前回に引き続き、16日産経朝刊から、桜宮高校の入試に関する橋下市長の発言を引用(一部要約または補足)しますと…

「問題を黙認してきた過去の連続性を断ち切るために、入試をやめるべきだ」、「命をなくすのに比べれば、体育科と普通科の違いは大したものではない」(体育科を受けたい者は普通科を受ければよい)、「仲間が命を落とした状況で部活をやるのは人間としてダメだ」、などと言ったそうです。

生徒の自殺という、悲惨な結果があるために、反論するのが困難な雰囲気があるかも知れないのですが、さすがに上記の発言がメチャクチャであるのは、多くの方が感じ取っているのではないかと思います。

 

私ごとの話になって恐縮ですが、大学時代に法学部の講義で教授が言ったことで、今でもよく思い返す言葉があります。それは、「そのこと自体は誰も否定できない大前提から、具体的な結論を導いてはならない」ということです。

この方は商法の教授で、手形法という学生には不人気な講義をサボりつつ聞き流していたのですが(そのせいで司法試験のとき、一から勉強しなおすハメになりました)、この言葉だけはよく覚えています。

 

橋下市長の上記の発言について言えば、「体罰という問題は黙認されるべきではない」、「生徒が命をなくすことがあってはならない」、「仲間が命を落としたという状況を軽んじるべきではない」という「大前提」、これ自体は誰も否定できないことです。

橋下市長は、だから「入試は取りやめ」「体育科を受けたければ普通科を受けよ」「部活は当分中止」だ、という具体的な結論を導いているわけですが、果たしてこれが必然的な論理と言えるでしょうか。

「今回の問題はきちんと検証し、再発防止に努める」その一方で、これからの入学希望者のために「入試は入試として行なう」という考え方も、充分成立するはずです。

 

前々回、田中真紀子前文部科学大臣の「大学不認可」問題を思いだしたと書きましたが、田中氏も橋下市長と同じ「論理」を使っているのです。

田中氏は、「大学の質の低下は防がなければならない」という大前提から、「だから今回申請のあった3つの私立大学は認可しない」という結論を導いているのです。この前提と結論は結びついていないことは、誰しもお分かりだと思います。

 

さらに話は飛んで、先日の衆院選で、日本維新の会の候補者の運動員が多数、公職選挙法違反で逮捕されたという報道がありましたが、最近何だかウヤムヤになっています(さすがに、橋下市長がこの事件から世間の目をそらすために桜宮高校の問題を取り上げているとは思いませんが)。

この事件に関しても、橋下市長や田中前大臣の好きな「論理」を使えば…

「政党の運動員が公職選挙法違反で多数逮捕されたという状況は軽くみるべきではない」、だから、「維新の会の議員は全員辞職するべきだ」と、こういう主張も成り立つのです。もちろん橋下市長がそんなことを言われれば「それとこれとは話が別だ」と逆ギレするでしょうが。

 

この件に関しては以上です。と書こうとしたところで、今朝(18日)の朝刊によれば橋下市長が「入試を中止しないなら市の予算を使わせない」と言いだしたそうです。ここまで来ると、大阪市民としては、無関係な子供の将来を人質に強権を振るうような人を市長に選んでしまったことを、そろそろ恥じるべきです(私は入れてませんが)。

次回以降はこの問題から少し離れ、体罰に関する実際の裁判例などを紹介する予定です。

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