「豊かな言葉」について弁護士が考えたこと 2

前回、プラトンの「ソクラテスの弁明」にもとづいて、ソクラテスに死刑判決が下ったところまでお話ししました。その続きを、同じプラトンの著書「クリトン」「パイドン」に沿って書きます。

 

ソクラテスは牢屋に入れられ、死刑を待つ身となりました。しかし、いまだソクラテスを支持してくれる有力者もいて、彼らは、牢屋の番人にワイロ(裏金)を渡してソクラテスを脱走させる準備をします。

そして、ソクラテスの弟子のひとり、クリトンが牢屋にやってきて、「あんなデタラメな裁判にしたがう必要はない」と、ソクラテスに脱獄するよう言ったのですが、ソクラテスはきっぱりと断ります。

有名な「悪法もまた法なり」の話です。ソクラテスは言いました。

「私はこれまで、アテナイの住民として、アテナイの国と法律に守られながら、平穏に暮らしてきた。いま、国が法にのっとって決めたことが、たまたま私に都合の悪いことだからと言って、それを破ることはできない」と。

そして死刑執行の日、ソクラテスはたくさんの弟子に囲まれながら、アテナイの役人から渡された毒いりの杯を静かに飲みほし、死んだのです。

 

何とまあ、ソクラテスはガンコで変わった人のようでした。それでも、自分の信じるところに従って、最後まで自分の言葉を曲げずに、堂々と死を受け入れた、そのあたりに、一種の爽快さを感じます。

私はいま弁護士となって、言葉や論理を武器に仕事をしているわけですが、もしかしたら、中学生のときにソクラテスから受けた強烈な印象が、弁護士を目指した原因の一つになっているのかも知れません。

 

豊かな言葉について書くと言いつつ、ぜんぜんそんな話になってない、ですって?

まあ、それが大人の社会というものです。そもそも、ネットの見出しに大きな期待を寄せてはいけません。ネットに書かれてあることは、このブログも含めて、ろくでもないことばかりです。ネットで豊かな言葉を探すヒマがあったら、今すぐパソコンの電源をオフにして、プラトンでも何でも読んでみましょう。

 

「何か言葉を拾わないと課題が完成しない」という人に、最後に一つの言葉を紹介します。

ソクラテスが毒を飲んで横になり、それが全身に回って、もうすぐ死ぬというとき、ソクラテスはふと顔をあげてクリトンに言います。

「アスクレピオスに鶏を捧げておいておくれ」と。これが最後の言葉になりました。

アスクレピオスとは、古代ギリシアの医学の神様で、当時の人々は、病気が治ったとき、この神様に鶏をお供えする習慣があったそうです。ソクラテスは、死んで魂が肉体から解放されることを、病気から回復することのように考えていたのでしょう。

みなさんもこの冬、風邪などひいて学校を休んでしまったりしたら、風邪が治って学校に復帰したとき、「ふ、アスクレピオスに鶏を捧げてきたぜ」とでも友達のみんなに言ってみてください。カッコいいかどうかは責任持ちませんが。

おわり。

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