緊急事態宣言 どこまでの強制力が認められるべきか

前回、コロナ特措法に基づく緊急事態宣言の内容を紹介しました(なお、法律の名前は、前回書いたとおり、「新型インフルエンザ等対策措置法」であり、それが新型コロナにも適用されるようになった、ということなのですが、以下「コロナ特措法」の用語を使います)。

● 強制力はなくて良いのか、またそもそも、なぜ強制力がないのか

緊急事態宣言が出ても、多くは「要請」が引き続き行われるだけであって、個々の住民の行動はそれほど規制されないし、一部の外国のような罰則があるわけでもありません。

むしろ、緊急事態宣言というのに「その程度でええの?」と感じた方も多いかと思います。

その点は、おそらく、日本人の国民性からして「要請」であっても多くの人が従うだろうから、「命令」や「罰則」によらなくても相当の効果があげられる、ということなのでしょう。

しかし、常にそれで解決するのかというと、そんなことはない、と、今回明らかになった部分もあります。

たとえば、外国から日本に帰ってきて、熱がある人に対し検査を求めたところ「応じない」と言って帰ってしまったというケースが複数ありました。

感染症法(正式名称は「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」)という法律には、一定の感染症(新型コロナもこれに含まれるようになりました)にかかっている人に対し、知事が入院するよう勧告し、それで従わない場合は入院させる措置も取れると定められています(19条)。

しかし今回のように、熱はあるけど感染しているか否かハッキリしない人に入院や検査を強制することはできない。コロナ特措法にも、こういう場合に検査や入院をさせる根拠規定はありません。

そのため、ごく一握りの、要請に応じない人がいたとして、それに対しては何らの強制ができないわけです。

結果として、要請に応じる大多数の人がバカを見る結果になりかねないし、要請に応じない人からの感染が拡大するリスクを除去しえない。果たしてそれで良いのか、今回疑問に感じた人も多いでしょう。

もっとも、一般論で言うと、法律や政令で、個々の国民の移動や生活を、あまり厳密に縛ることは、日本国憲法の定める人権との兼ね合いで違憲となる可能性が出てきます。

● 大日本帝国憲法下ではどうであったか

そこで、緊急事態における政府の措置がどうあるべきか、住民にどこまでの強制ができるのか、これを考えるにあたって、過去の制度にさかのぼって検討することとします。

(以下の記述は、昭和49年に出版された、有斐閣法律学全集に所収の故・我妻栄「法学概論」を参照しております。この書籍は、私があまり知らない分野の法律を参照する際、その法律が法体系全体の中でどういう位置づけや特色を持つのかを知るため、常に参考にしています。)

まず、戦前までさかのぼって、大日本帝国憲法のころはどうだったかというと、緊急時には、天皇陛下が戒厳令を出し(14条)、法律に定めるべき事項は緊急勅令を出す(8条)ことができました。

実際、大正12年の関東大震災のときは、そういう対応だったようです。

このように、緊急事態を宣言するということは、平時であれば国会において法律で定めるべき事柄を、急ぐ必要があるので政府が政令で定めることを許容する、ということを意味します(戒厳令や緊急勅令と言っても、立憲君主制ですから、実際は政府が決めて天皇陛下の名で出していたはずです)。

このように、本来は国会で法律で決めないといけないことを、国民の生命身体を保護する必要があるときに、政府が決めることを「国家緊急権」と言います(憲法の教科書的には、もっと複雑な定義なり解釈なりがあることは理解してますが、研究論文でもないのでその点は省きます)。

戦後できた日本国憲法には、戒厳令や緊急勅令など、国家緊急権に相当する条文はありません(その理由は、GHQが日本政府にあまり強い権限を持たせたくなかったからでしょう)。

● 戦後にできた災害対策基本法の内容

とはいえ、関東大震災のような災害に見舞われたらどうするかとの観点から、また直接的には、昭和34年の伊勢湾台風による東海地方の災害を受けて、昭和36年に災害対策基本法が成立しました。

これは前回少し述べたとおり、新型インフルエンザ等対策特別措置法と似ている部分があります。

たとえば、コロナ特措法では自宅待機要請ができるように、災害対策基本法では、災害地において住民に対する避難指示ができます(60条)。

政府が災害緊急事態を宣告すると、供給が不足している生活必需品の流通を制限でき、生活に必要な物の価格の上限を決めるなどして価格統制でき、金銭債務の支払についてモラトリアムをもうけることができる(諸々の支払の期限を延ばす)、といった定めがあります(109条1項)。

もっとも、この法律が成立するまでの経緯は簡単ではなかったようです。理由は、この法律が、日本国憲法に定めのない国家緊急権を認めたものではないのか、政府に対して憲法上の根拠なく国民の生活に対する規制を認めるものではないのか、という指摘が寄せられたからです。

ちなみに、「法学概論」を読む限りでは、その指摘をしたのは当時の社会党でしょう。このころの社会党は最近の野党よりはよっぽどしっかりしていたようです。モラトリアムを労働者の給料については適用しない(従業員の給料の支払を延ばすのは認めない)としたのは社会党の主張によるとの記載があり、これはもっともなことだと私も思います。

災害緊急事態において政府ができることを相当に限定して、この法律がようやく成立したあとも、この法律の合憲性を疑問視する学者の見解もあるようです。

● 改めて、コロナ特措法の限界について

それで、現代に戻ってきて、コロナ特措法に関して私見を書きます。

住民に対して自宅待機の「要請」しかできないとか、施設に対しても使用制限の「要請」またはせいぜい「指示」しかできないというのは、昭和の災害対策基本法のときと同じ問題を引きずっているからでしょう。

あまりに強い規制を定めると、憲法違反との指摘が出て、法律がなかなか制定できないし、成立後の運用においても常に憲法違反の問題が出てくるからです。

だから法律としては「要請」という「お願いベース」のものにならざるをえない。物資の収用みたいに強制力と処罰規定がある条文もあるけど、それはコロナ特措法全体から見るとわずかでしかない。

そして、今回の検査拒否みたいに「お願い」に従わない人が出てきたらどうなるかというと、結論として、現行法下ではどうもできない、ということになるでしょう。

日本国憲法とコロナ特措法を読めば、そういう結論にならざるをえません。そして、それで良いのかどうかというと、私には疑問を感じざるを得ません。

最近、ネット上での議論を見てますと、私の同業者(弁護士)や一部の議員の方の中には、「今回のことを踏まえて、憲法上も国家緊急権を認めるべきだ」という意見があり、一方では、「コロナ特措法等での緊急事態宣言と、国家緊急権は別問題だから、コロナ問題にかこつけて憲法改正に結び付けるべきではない」という意見もあります。

私は、コロナ特措法の解釈適用は、憲法を前提に、その枠内でしかできないのだから、この2つが別問題であるはずがなく、コロナ特措法の改正にあたって、根本的には国家緊急権についてどう考えるかを論じる必要があると考えております。

では、憲法改正して国家緊急権を盛り込むところまで行くべきなのか、というと、そこまで明確に考えているわけでもありません(そもそも、想定外の事態のことを事前に条文で定めることができるのか、という問題もあります)。

とはいえ、緊急事態に適用される法律が「お願いベース」のものであって良いのか否か、コロナが収束したら、このたびの問題を忘れることなく、議論になれば良いと考えております。

憲法解釈と集団的自衛権 2

前回の続きとして、集団的自衛権を憲法解釈として認めることについて検討します。

まず、今回の安倍総理の発言(集団的自衛権に関しての憲法解釈を私が示す、と言ったこと)に対して、「解釈による改憲」を認めることになるとの批判があります。

つまり、憲法を改正するには本来、国会の議決と国民投票という手続きが必要なのに、それを解釈つまり権力者の思いつきだけでやってしまうことになる、という批判です。

これは、一部の「護憲派」が好きなレトリックですが、稚拙かつ悪質な「言いがかり」にすぎません。安倍総理は当然ながら、自分の頭一つで憲法の条文を変更(つまり改憲)しようとしているわけではありません。憲法に明確な規定がないことについて、憲法の条文の解釈を示そうとしているだけです。

 

どんな憲法問題であれ、「解釈」は避けて通れません。

前回、「自衛権」の説明として、具体的には有事の際に自衛隊が出動して国を守る権利であって、それが認められない以上は国としての体をなさない、と当然のように書きました。

しかし、実際は自衛隊すら、憲法解釈のひとつとして、その存在を認められているにすぎません。 その解釈ひとつとっても、戦後ずいぶん揺れ動いてきました。

戦後すぐのころは、政府は憲法9条の解釈として「完全非武装」を想定していました。その後、朝鮮戦争などの動乱があり、政府が警察予備隊(のちの自衛隊)を創っていくにあたり、「戦力」の解釈を微妙に変更させているのです。自衛隊は、戦車もイージス艦も持っているが、それは他国を脅かす程度のものではないので、「戦力」には当たらないと。

現在の隣国の不穏な動きを見て、そんな解釈変更はけしからん、自衛隊は即時なくすべきだ、という人がどれだけいるでしょうか。

 

安倍総理に憲法の教科書を送った弁護士がどういう見解であるかは知りません。

もし、さすがに自衛隊は必要だ、と考えているのだとしたら、国を守るために「憲法解釈」が必要であり、時にはその解釈に変更がありうることを認めていることになります。

徹底した非武装・平和主義の立場に立って、自衛隊の存在自体を認めない、という立場に立つのであれば、集団的自衛権という、いわば末端の問題で安倍総理を批判するのではなく、憲法解釈の変更により自衛隊の存在を認めたことを批判すべきことになります。

つまり、昭和30年前後の総理大臣だった吉田茂や鳩山一郎に文句を言うべきことになりますが、いずれも故人なので、その孫である麻生太郎元総理や、鳩山由紀夫元総理にでも文句を言えば良いでしょう。

 

…と、国防上の重要問題にはどうしても憲法の解釈が必要で、それは国際情勢などに応じて変遷していかざるをえない、という話をしているうちに、長くなってしまいました。

現在議論されている集団的自衛権の問題は、憲法解釈としてどう扱われているか、それは次回に続きます。

憲法解釈と集団的自衛権 1

毎年のことながら、今年もたくさんのチョコレートをありがとうございました。

さて、ネットニュースで見たのですが、一部の弁護士が、安倍総理に「憲法の基本を学んでね」と、バレンタインのプレゼントに憲法の教科書を送ったという記事がありました。

大阪ふうに言えば「しょーもない」ニュースですが、憲法好きで名前に「憲」の字をいただいている私としては、これに触れずにおれません。

 

私はこれまで、いろんな事件で弁護団に所属していましたが、会議のときなどに弁護士がよくやることとして(弁護士に限らないかも知れませんが)、やたら分厚い資料のコピーをドサッと配布するだけで、「で、何なの?」と感じたことがよくありました。

憲法の教科書を総理大臣に送ったという弁護士の行動を聞いて、そのことを思い出したのです。

 

ネットニュースなどを見た限りで、彼らの言い分をフォローしておきますと、安倍総理の最近の発言のうち、①「憲法とは国家を縛るものだというのは昔の考え方だ」、②「集団的自衛権を行使できるか否かについては、私が責任をもって解釈する」と言ったあたりを問題としているようです。

この①については、自民党がずいぶん以前から言っていることなので、今さら特に触れません。だた、ひとことだけ言うと、「憲法」の最もシンプルな定義は「国家の基本となる法律」のことなので、必ずしも「国の権力を縛るもの」ではなく、「国のあり方、国柄」を示すものだという安倍総理の表現は、全くの間違いというわけではないと考えます。

 

上記の弁護士がいま問題にしているのは、②の、「集団的自衛権」が日本に認められるか否か、その解釈を総理大臣が示す、というあたりなのだと思います。

集団的自衛権というと、言葉は難しいですが、簡単に説明します。

 

まず、「自衛権」とは、わが国が自分の国を守る権利です。

たとえば中国が尖閣諸島を征服し、さらに沖縄、九州、本州と攻め込んできたとしたら、自衛隊が出動して中国軍による侵略・略奪を排除する、それが自衛権です。それすら認められない(つまり外国に侵略されたら何もできない)というのは、国としての体をなしておらず、解釈としてあり得ないでしょう。

 

次に「集団的自衛権」とは、自衛権を国の集団で行なうことです。たとえば、中国がアメリカの領土やら軍艦を襲ったとして、日本がアメリカと一致協力してアメリカを守るための行動を行なうことです。

この集団的自衛権というものを日本が持っているのかどうか、この点は、わが日本国憲法には、何も書かれていないのです。

書かれていないから、「解釈」として、それを認めようとしているのが安倍総理です。それに対して、一部の弁護士が、それは間違いだと言って、憲法の教科書を「プレゼント」したというわけです。

用語の解説をひととおり行ったところで、次回に続きます。

内閣不信任と一事不再議 2

前回の続きで、「一事不再議」(いちじふさいぎ)について。

似たような言葉で「一事不再理」(いちじふさいり)というのがあります。これは、刑事裁判の大原則で、一度裁判が終わったら、同じ事件を再度裁判にかけてはならないということで、憲法39条に定められています。


国会での一事不再議とは、一度審議が終わった議案を、同じ会期中に再度審議しなおすことはできないということです。

これは、明治憲法には規定があったのですが、現在の日本国憲法には定められていません。とはいえ、一度多数決で決まったことについて、もう一度評決しなおすのは時間の無駄だから、当然のこととして、そういう慣行が形成されてきました。

今年の通常国会の会期は8月いっぱいまでで、その間、同じ議案を審議することはできないことになります。


しかし、「内閣不信任」という決議案のタイトルが同じでありさえすれば、一事不再議が機械的に適用されるわけではないはずです。

これは、刑事裁判での一事不再理を考えてみれば明らかです。たとえばある人が本屋で万引きして窃盗罪で裁判を受け、執行猶予となり釈放されたが、その直後、スーパーで万引きしたとします。

窃盗罪の裁判を一度受けたから、スーパーの万引きは同じ窃盗罪で裁けないかというと、それは明らかにおかしい。1件目の窃盗と2件目の窃盗は「別の事件」であって「一事」ではないので、刑事裁判にかけることができます。

国会でも、「一事」といえないような事情の変化があれば、審議は可能です。憲法の教科書では、「事情の変更により合理的な理由があれば、再提案も可能」(佐藤幸治)などと書かれています。

 

菅総理は、東日本大震災の後、意味なく視察に行って現場を混乱させ、災害対策基本法などの法律を活用できず、無駄な会議体をつくってばかりいた。そうした対応のまずさが、6月の不信任決議案の提出の理由となった。

その後、早期辞任をにおわせて不信任案が否決されるや、「辞めるとは言ってない」と詐欺としか言えないロジックで総理の座に居座り続け、震災復興に明確な方針を示すこともなく、原発問題等では思いつきの発言を繰り返した。

これでは、不信任案の否決という執行猶予判決の後に、改めて別の罪を犯したのに等しい。

すぐ辞めると思わせておいて辞めようとしないのは、不信任案の否決の際に想定されていなかった(総理大臣がそこまでのペテンを使うとはさすがに誰も思わなかった)事情の変更が生じたと言えるのであり、もはや「一事」ではない。

ですから、小沢一郎でも誰でもいいから内閣不信任決議案を提出しないことには、本当に、「不信任案が一度否決された後の内閣は好き放題してもクビにできない」という、最悪の慣行ができてしまうのです。