送迎バスの津波事故と幼稚園の責任

幼稚園の送迎バスが津波に巻き込まれて園児が亡くなった事件で、仙台地裁が園の責任を認めて賠償を命じました(17日)。大きく報道もされたので、ご存じのことと思います。

ニュースで第一報を見たときは、厳しい判決だな、と思ったのですが、事案を知るにつけ、これはやむをえないかな、と思っています。

 

事件は、平成23年3月11日の東日本大震災の日、宮城県石巻市の私立幼稚園でのことでした。地震が起きたあとに、園長の判断でバスを出発させました。

幼稚園は高台にあったのに、バスが低地を通行したため、結果としてバスは津波にのまれ、5人の園児が亡くなりました。

裁判での争点は、園長がこのとき、園児を帰すとこういう結果になりうることを予見できたかどうか、ということです。

園長が、この地震がここまでの大地震だとは思っていなかったでしょうし、怖がっている園児たちを早く親元に帰してあげたいと思ったのも理解できなくはない。

もっとも、注意力を働かせれば、大きい揺れが来ている以上、津波が来るかも知れないことは予測しえただろうし、テレビ・ラジオや町内の緊急放送で注意深く情報を集めていれば、いまバスで帰すのは相当危険だということも分かったように思えます。

 

ここの園長がどんな方なのかは存じませんが、東北の気のいいおっちゃんで、園児思いの人だったのだろうと、勝手に思っています。しかし、平時はそれでよくても、異変が起こったときには即座に情報を収集し、園児を守るために的確な判断を下す必要があります。

それに、幼稚園として親から保育料を受け取って子供を預かっているわけですから、高度の注意義務が求められることになります。

そういうことで、幼稚園側が控訴するかどうかは知りませんが、私はこの判決で妥当だと思っています。

 

私が懸念しているのはその先で、園児の遺族は、きちんと賠償が得られるのかどうか、ということです。

判決が命じた賠償は総額1億数千万円です。幼稚園を運営する学校法人に支払い能力があるかどうかは存じません。学校法人も園長個人も、払えなくなって破産でもされると、賠償が得られないという可能性もある。

だから何でも民間にやらせるというのは間違いなんだ、と私のいつもの話に結び付けようというつもりではありません。世間の親としても、何かあったときに賠償金を取れないから私立でなく公立に行かせようとか、そこまで考える人もいないと思います。

しかし、こういう事件が起こったときに、民間組織の脆弱さということを痛感せずにはいられません。

 

私の息子と同じ年頃であろう、亡くなられた園児さんたちの冥福を祈ります。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 補遺

非嫡出子の相続規定に関してブログに書いているうちに、あれこれ思い出すこともあったので、補遺ということで続けます。

今回の最高裁の判断に対しては、やはり批判も強いようです。ネットや新聞の投書欄では、正式な婚姻と不倫との違いがあいまいになるとか、親の世話もしていない非嫡出子が相続だけ平等で良いのか、という意見も散見しました。それらの意見はもっともだと思いますが、ここではあえて最高裁の擁護をしてみたいと思います。

 

最高裁には15人の判事がいますが、今回の判決は、彼ら15人が適当に頭の中で考えただけで出てきたわけではありません。

最高裁には、判事の下に、全国選りすぐりの裁判官が就任する何十人かの「調査官」という人がいて、重要な判決を出すにあたっては、彼らが徹底して、事案の調査をしたり、こういう判決を出したら今後どんな影響が出るかなどを調べたりしています。

今回の判断にあたっても、上記のような批判があるのも当然わかっていて、それも織り込みずみのはずです。少なくとも、外野でヤイヤイ言ってるだけの私たちより、はるかにこの問題のことを熟慮した上での判断だったはずです。

 

加えて思い出すのは、尊属殺人罪を定めていた旧刑法200条が違憲とされたケースです。

殺人罪(刑法199条)の刑罰は、死刑、無期懲役、5年以上の懲役(昔は3年以上)のいずれかですが、かつて存在した尊属殺人罪というのは、親を殺すと死刑か無期懲役のいずれかという、重い刑罰を科していました。

この条文は、親との関係において子を低く見るものであって平等違反だ、という意見もありましたが、戦後、最高裁は長らく、この規定を合憲としてきました。

しかし、昭和48年に最高裁は判例変更し、この規定が違憲であると断じました。

問題となった事案は、父が実の娘に対し、幼いころから性行為を含む虐待を繰り返し、娘が思い余った末に父を殺してしまったというものです。

親を大事にすべきなのは当然のことである、しかし、親殺しにもいろんな事情があるのであって、どんなにひどい親でも、殺してしまったら一律に死刑か無期懲役しか選択できないのは重すぎる、ということで、この規定は違憲とされたのです。

(なお、実際には、情状酌量などで無期懲役よりは軽くできるのですが、刑法の規定上、一番軽くしても3年半の実刑となります。通常の殺人罪なら、執行猶予をつけることが可能で、結果としてこの娘は執行猶予となりました。)

 

非嫡出子の相続分に関しても、ケースごとに様々な事情があるのであって、一律に半分にしてしまうのは不合理だと、最高裁は考えたわけでしょう。

ただ、最後に私見を付け加えると、尊属殺の規定は、どんなひどい親であっても殺すと必ず実刑になってしまうという、比較的わかりやすい不合理さが含まれていたと思うのですが、非嫡出子の相続規定については、相続分が半分とされることで何か耐え難いような事態が生じていたのかというと、そこは実感しにくいところです。

そういう意味でも、今回の判断は、今後も議論を呼ぶことになるのかも知れません。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 2(完)

前回の続き。

非嫡出子の相続分について定めた民法の規定を確認しますと、民法900条4号に、兄弟姉妹の相続分は同じ、と書いてあって、その但書きに「ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし(以下略)」とあります。

一方、憲法14条には、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地によって(中略)差別されない」とあります。

非嫡出子という社会的な身分や門地(生まれ)を理由に、相続分が半分とされているのだから、民法900条4号但書きは憲法14条違反だ、という理屈です。

たしかに条文の文言上はそう読めますし、多くの憲法学者は早くから、民法のこの規定を批判していました。しかし最高裁は長らくこの規定を合憲とし、一番最近では平成7年にも合憲判決を出しました。

 

その理由は、ごく単純にいえば、前回書いたとおりの話になります。

非嫡出子(典型的には愛人の隠し子)からすれば、相続分が半分とは不当だ、と思うでしょうし、一方、正妻と嫡出子からすれば、愛人の子などが出てきても1円もやりたくないと思う。民法の規定は、その間を取った、ということです。

私自身は、これはこれで合理的な仕組みだと思うので、違憲無効にする必要はないという考えでした。

 

これは、6年半ほど前に私がブログで書いたことですが(こちら)、当時、内閣府の世論調査で、非嫡出子の相続分は半分という民法の規定を変えるべきかどうかという質問に対して、「変えないほうがよい」との回答が41%で、「変えるべきだ」という24%を大きく上回ったそうです。

そして、ここ6、7年の間で、この問題に対する国民感情や世論が、そう大きく変わったとは感じません。非嫡出子の相続分は半分で充分だ、と率直に感じる人が今の日本社会に多くいるとしても(私もその一人なのですが)、それは決して、克服されるべき差別意識であるとも、前時代的な考え方であるとも思えません。

 

もちろん、最高裁は、世論調査だけで結論を決める場ではありませんが、それでも、法律の解釈にあたっては、国民感情とか社会の趨勢とかいったものが、それなりに重視されます。

そう考えると、平成7年に合憲判決が出された当時と、このたび違憲判決が出たこの平成25年とで、この問題をめぐる国民感情やその他の社会情勢が、判例を正反対にひっくり返さないといけないほどに変わったといえるのか、その点は正直なところ、少し疑問に感じるところです。

とはいえ、私は弁護士なので、相続問題にあたっては、最高裁の判例に沿ってやっていくことになります。今回の記事はあくまで私が最高裁判決に感じたことを書いたということで、この話を終わります。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 1

私ごとながら、ここ1週間ほど、所用でハワイにおりました。

ハワイでも日本のニュースが見れるチャンネルがあり、この間、驚いたニュースといえば、東京五輪の開催決定と、もう一つは、最高裁が非嫡出子の相続分について新たな判断をしたことです。

この最高裁の判断、すでに報道によりご存じのことと思われ、今さらブログ記事にするのも時期を逸したように思いますが、少し触れてみます。

 

民法では、非嫡出子(父母が婚姻関係にない子)の相続分は、嫡出子の半分とすると規定されていたのですが、今回の最高裁の判断では、これが憲法の禁じる「差別」にあたるということで、無効となりました。

 

これをどう感じるかは、皆さんもご自身に置き換えて考えてみてください。

たとえば私には、妻と長男がおり、仮に私が3000万円の遺産を残して死ぬと、妻の相続分が2分の1、子供の相続分も2分の1だから、妻と長男が1500万円ずつ相続します。

もし、長男のほかに、妻との間に産まれた次男がいれば、子供は2分の1の相続分を人数に応じて頭割りするので、妻1500万、長男750万、次男750万円の相続となる。嫡出子同士の相続分は平等です。

 

もし私が、長男のほかに、ミナミのクラブのホステスを愛人にして、その愛人に隠し子を産ませたとします。私と愛人は結婚していないから、隠し子は非嫡出子です。嫡出子である長男に比べて、半分しか相続分がない。結果、妻1500万円、長男1000万円、隠し子500万円の相続分になります。

愛人とその子からすれば、どうして非嫡出子だというだけで差別されるんだ、と感じるでしょう。

一方、妻からすれば、私が死んだあとに、見知らぬホステスが子供を連れて相続分よこせと言ってきたら、1円でもやりたくない、と思うかも知れません(本人に確かめたわけではありません)。

 

愛人と子供を作るんなら、誰からも文句が出ないようにするのが男の甲斐性じゃねえか、と思う人もいるでしょうし、私もそう思います。しかし問題はそういう通俗的なことではなく、現に嫡出子と非嫡出子の間で相続問題が頻発しており、法律自体が両者の相続分の違いを正面から認めてしまっているのをどう考えるか、ということです。

憲法14条は法の下の平等を規定していますが、これまで最高裁は、「合理的な制度である」として合憲と判断してきました。この度の判決は、最高裁が自らの判例を変更した点でも画期的なものです。

次回、もう少し続く予定です。

「冷凍庫写真」の店員に店舗閉鎖の責任を問えるか。

大阪市の幼稚園民営化の第1期案が発表され、思うところは多々ありますが、それに対する反対運動は今後も私のほうで進めていくとして、当ブログでは、そろそろ別の話題に行きます。

 

最近、コンビニや飲食店の店員が、冷凍庫に入ってふざけている写真をネットに載せて、大問題に発展したりしております。

この問題に限らず、多くの方がお気づきだと思いますが、インターネットというのは便利な反面、人をアホにしてしまいます。

どんなことでも、ある事柄や問題についてネットを検索すれば、自分と同じ見解を持っている人のサイトなどに行き当たることができます。自分の頭で調べたり考えたりすることなく、ネットだけ見て安心してしまう。

また、どんな愚にもつかない投稿であっても、フェイスブックやら何やらで、たいていのことには何人かが「いいね!」と言ってくれます。それで、自分の言動が常に賛同、賞賛されていると思い、その言動をエスカレートさせます。

今般の事件は、そういう、ネットでアホになった人たちがしたことで、それについてこれ以上ここで論じようとも思いません。

ただ、ブロンコビリーというステーキ屋が、冷凍庫に入った写真をネットに載せた社員を解雇し、損害賠償請求までするというニュースがあったので、この点についていちおう法的に検討したいと思います。

 

こういう場合、店側は社員にどこまで損害賠償請求ができるか。

たとえば、ローソンでは冷凍庫のアイスの上に人が乗っかっていましたが、それで形が崩れたりして売り物にならなくなったアイスの原価分については、店員の不法行為を理由に損害賠償請求が可能でしょう。

ネットに載せた場合は、風評被害による精神的苦痛を受けたことを理由に、多少の慰謝料は請求できるでしょう。

 

では、その店員をクビ(解雇)にするのは適法か。

法的には、その職場の就業規則で定められている解雇事由にあたるかどうかの問題ですが、多くの場合、「会社の信用を著しく毀損した場合」は解雇できるなどと書かれているでしょうし、それに該当する(つまり解雇できる)のだろうと思っています。

仮に、問題を起こした店員が「解雇は無効だ」と争ってきても、恥の上塗りになるだけでしょう。

 

さらに、ローソンでは、店を閉鎖するという処置をしました。これがモデルケースになって、この手の問題が発覚した店舗は皆、店を閉めてしまっているのですが、その分の損害賠償(店舗閉鎖による売上げ減や、店の撤去費用など)を求めることはできるでしょうか。

ブロンコビリーがどこまで考えているかは知りませんが、そこまでは無理なのではないか、というのが私の考えです。

たとえば、実際に食中毒を出してしまった飲食店でも、食品衛生法に基づいて何日かの業務停止処分を食らうことがあっても、たいていは営業再開していることを考えると、店を閉めてしまうのは行き過ぎた自主規制であって、それはあくまで会社の判断であり、そこまで店員の責任にできるわけではないように思えます。

 

おそらく私なら、自宅の近くのコンビニでそんな事件があったとしても、商品さえ入れ替えてくれれば、たぶんまた利用するでしょう。

発覚、即、閉鎖という過剰な自主規制をしてしまうのは、経営者側もまた、ネット情報に毒され、ネット上での風評被害を過大に配慮してしまったことによるのかも知れません。

やっぱり市立幼稚園の民営化に反対する 3(完)

前回、幼稚園民営化の是非は結局、大阪市議会で決まることで、私は一保護者として言うだけのことは言って、民営化が決まってしまったらあきらめる、と書きました。それが自由主義・民主主義であると。

ただ、この問題に限らず一般論として、民主主義とは結局、多数決ですから、少数者の保護はどうしても薄くなります。後から考えて、多数決で決めたことが間違っていたという例も、歴史上たくさんあります。

そんな多数決の危うさをどうカバーするかというと、多くの立憲主義国家では、司法権つまり裁判所が登場し、立法(国会や地方議会)や行政が多数決で決めたことが間違っていないか、審査することになります。

 

そして、民営化問題に関しても、実は近時、重要な司法判断が出ていました。私は恥ずかしながら弁護士であるのに最近までこの判例を知らず、幼稚園のママさん達から指摘を受けて知るに至りました。

最高裁平成21年11月26日判決です。

事案は、横浜市が、平成15年、市の公立保育所を全廃する旨の条例を市議会で制定し、その条例が争われました。

 

1審の横浜地裁(平成18年5月22日判決)は、ごく単純化していうと、在籍する園児たちの保護者との協議を充分つくさずに民営化を断行したことは行政の裁量として許される範囲を超えるものだと言いました。

そして、すでに民営化は終わってしまっているので、今さら公立に戻すのは混乱が生じるからそこまで言わないが、原告となった園児たちの保護者に1世帯あたり10万円の賠償金を払いなさい、と命じました。

 

2審の東京高裁(平成21年1月29日)は、条例そのものは、そもそも司法判断の対象にならないとして、保護者の訴えを却下しました。

ここは法律をやってない方には分かりにくいですが、たとえば、自衛隊が嫌いな人が「自衛隊法は憲法9条違反だ」と裁判したとしても、その人に具体的な不利益が及びもしていないのに、法律の存在そのものを争うのはできないことになっている、と理解してください。法律をやってる方は、行政事件訴訟法9条の処分性の要件のことだとお分かりでしょう。


これに対して、最高裁は言いました。

条例は公立保育所の廃止を定めており、それは当時の園児たちに、近い将来、公の保育が受けられなくなるという不利益を及ぼすではないか、だから司法審査の対象になるのだ、ということで、東京高裁の判断は誤りだとしたのです。

しかし、最高裁判決の時点で当時の園児たちはすでにみんな卒業してしまっており、もはや裁判する実益がない、ということで、最終的に、保護者の請求を棄却しました。

もっとも、最高裁が、公立の保育施設を条例により廃止する行為は、裁判所による司法判断の対象になると明言したことは注目されるべきです。

 

大阪市役所と大阪市議会は、よくよくこの最高裁判決の言わんとする趣旨を理解すべきです。

そして、もし大阪市議会で公立幼稚園の廃止が可決されたら、あきらめずに司法の場に打って出ることも視野に入れつつ、今後の動きを見守っていきたいと考えております。

成年後見と選挙権 2(完)

前回の続き。

被後見人が選挙権を持たないとの公職選挙法の規定は、私も結論としては違憲無効で良いと考えており、今回の東京地裁判決が妥当と思います。

前回、指摘し忘れていましたが、問題の条文は公職選挙法11条1項で定められており、その1号に、被後見人が掲げられています。ちなみに、この条項には、他に選挙権が剥奪される人として、刑務所に入っている人とか、選挙違反の罪を犯した人などが掲げられています。ここだけ見ると、被後見人と犯罪者を同一に扱っているというわけです。

 

私自身の狭い経験ですが、私も弁護士ですので後見人をしたことも何度かあります。

あるケースでは、家裁で後見人に選任されるのに先立って、その被後見人(80歳程度の女性)と面談に行きました。確かに、細かい話は心もとないとはいえ、受け答えに大きな問題はありません。

親族の方が言うには「今日は若い男前の弁護士さんが家に来てくれるっていうんで、おばあちゃん、朝から楽しみにしてたんですよ。お化粧も濃いめにして」とのことでした。

この被後見人のおばあちゃんは、自分のおかれた状況(自分の判断能力が弱っていること)を把握しており、財産管理を弁護士に委ねるということも理解しています。若い男が来るから綺麗にしておこうという意識までお持ちです。私が期待に沿うほどの男前だったかどうかは知りませんが。

これくらいの理解力を持っている人であれば、選挙権を行使することに問題があるとは思えません。どの党が好きとか、どの候補者が男前だ、くらいの判断はできるでしょう。私自身も、そしておそらく多くの有権者も、その程度の判断で投票をするわけですから。

 

被後見人になる人の判断能力の程度もいろいろで、もっと重い障害や痴呆で、選挙や投票の意味すら理解しない人も中にはいるでしょう。その場合、その被後見人の選挙権を後見人が悪用して、1人で2票を投じてしまうという弊害も考えられる。

しかし、公職選挙法の問題は、それぞれの被後見人の能力を問題とせず、一律に選挙権を奪ってしまうというところにあります。

生じうる弊害は、選挙管理委員が監視するとか、選挙犯罪で摘発するといった方法で抑制すべきことです。もしその弊害が完全に除去しえないとして、少なくとも、被後見人から一律に選挙権を奪うことのほうが問題としては大きいと思います。

 

そういうことで、東京地裁は違憲判決を出しましたし、私もこの判断に賛成です。

国側はすでに控訴したようで、これには批判も向けられています。おそらく政府の考えは、裁判を続けておいて、その間に公職選挙法をきちんと改正しようということでしょう。

時間かせぎと言われるかも知れないですが、選挙の現場としては一地裁の判断に従って良いのかどうか混乱が生じかねないので、国会が正式な対応を法律で決めるということだと思います。

これは一票の格差のところでも少し書きましたが、今後、国会が裁判所の意をくんで、混乱が生じないよう法的な手当てを行なうということです。

 

この問題については以上です。引き続き、ブログテーマのリクエストをお待ちしております。

成年後見と選挙権 1

今回の記事は、大阪ミナミで小料理屋の若女将をされている島之内あけみさん(29歳、仮名)からのリクエストです。

「一票の格差」の問題を書いてきましたが、公職選挙法がらみでもう一つ、成年後見人がついた人は選挙権を失うとの規定が先月、東京地裁で、憲法違反で無効だとされました。この問題に触れてほしいとのことですので、解説します。なお、仮名だけじゃなくて小料理屋も若女将もウソなのですが、リクエストがあったのは本当です。

 

知的障害や、高齢や痴呆で判断力が低下している人について、その財産管理などを行なうのが成年後見人です。その人の親族や弁護士が、家庭裁判所の審査を受けた上で就任します。

この場合、成年後見人がついた人は、成年後見人と呼ばれ、財産管理権がなくなり、自分で契約などを結べなくなるほか、選挙権も失うと定められています。

 

成年被後見人とは、字のとおり、成年にして後見されている人のことです。

なお、これと対応して未成年被後見人というのもあり、これは知的能力とは関係なく親権者がいなくなった場合につきます。以下、長ったらしいので「成年」は省略しますが、被後見人と書いたら成年被後見人のことと思ってください。

ちなみに、比較的最近まで、被後見人は、禁治産者(きんちさんしゃ)と呼ばれていましたが、言葉の響きが悪いのか、平成11年に民法が改正され、呼び名が変わりました。

「治産」とは自分の財産を管理・処分することを意味するので、それが禁じられている人ということで言葉自体は間違っていないと思うのですが、たしかに「禁」という言葉がつくことで、法律家でない人が聞けば、何か悪いことをして財産を奪われた人、というイメージを持たれることもあったのかも知れません。

 

被後見人は財産管理権がなくなるというのは、悪い人に騙されて財産を奪われるのを防ぐためで、これは合理性があります。というより、後見制度はそもそも、そのようにして財産を失うことを防ぐために設けられた制度です。

たまに、後見人である親族や弁護士自身が、預かっている財産を横領するという事件がありますが、そこは家庭裁判所にきちっと監督してもらうことです。もちろん、そんなことをすれば横領罪で捕まりますし、弁護士の資格も剥奪です。

 

では、被後見人から選挙権まで奪うのはどうか。

選挙権を奪う趣旨は、おそらく、被後見人は知的能力が弱っているからどの候補者が良いか判断できないとか、後見人が被後見人の投票権を悪用しかねないとかいうことでしょう。

そしてもう一つ、禁治産者と呼ばれていたころの偏見もあったのではないかと想像します。

禁治産者という言葉は、明治29年にできた民法に定められました。公職選挙法は昭和25年、戦後の普通選挙制度の開始にあわせて作られたものですが、さすがに今ほどに人権意識も強くなく、禁治産者に対する無理解や偏見から、特に深く考えることもなく選挙権なしとしてしまったのではないでしょうか。

 

あれこれ書いているうちに長くなったので、この問題に対する私の考えは次回に書きます。

「選挙無効」のその後 2(完)

前回の続き。

一票の格差を是正すると言っても、議員の数を増やさずにそれを行なうのは至難のことであろう、というところまで書きました。で、今後はどうなるか。

 

今の状況を大雑把におさらいすると、多くの選挙区で投票価値の不平等が生じていることについて、司法権の親分である最高裁は昔から「違憲だけど選挙は無効にしない」と言っていた。

しかし、国会が定数是正に乗り出さないため、最高裁の子分である広島高裁が「11月までに是正しなければ無効にする」と言い、さらにその弟分である広島高裁岡山支部は血気に逸って「いますぐ無効にする」と言い出しました。

国側(選挙管理委員会)が上告したので、この問題に対し、改めて親分(最高裁)が出てきて決着をつけることになります。

 

最高裁の判決までの間に、国会が、至難の定数是正をやり遂げれば、おそらく最高裁は選挙無効とまでは言わないでしょう。「国会の意気に感じて、過去のことはなかったことにする」ということです。

 

では、国会がそれをやり遂げなければどうなるか。いろんなことが想定されますが、一つには、最高裁はこれまでの立場を踏襲し「無効にしない」と言うかも知れません。

今回は、子分が親分の気持ちを充分に代弁してくれたから、親分としては「まあ、この程度にしてやるが、今度はホントに無効にするぞ」と言って終わらせるわけです。

 

その対極の考え方としては、司法権のメンツにかけて、最高裁自ら「無効」の宣告をすることが考えられます。

その場合は再選挙となるわけですが、そうなると、どの選挙区で選挙するのか(またはすべてやり直しか)、選挙手続きはどうするのか、現行の公職選挙法で問題ないのか、または法改正が必要なのかetc、いろんな実際上の問題が発生します。

それらの問題は、最高裁の調査官(全国から選り抜きの裁判官が就任する)が下調べをするはずです。法律を改正してその後の手続きを整える必要がある場合は、法務省か総務省あたりの官僚が事前に法案を作り、内閣法制局を通じて国会に提出されるでしょう。官僚らは国会議員に根回しして、国会の衆参の本会議で可決される。

こうして、もし選挙無効の判決が出たとしても、その後の手続きがきちっと決められていることになる。

 

最高裁が影響力の大きい判決を出す際には、(私自身が見たわけではありませんが)こうした動きが行われているはずです。最高裁と内閣と国会、親分衆どうしが水面下で話し合って、極力、混乱が生じないようにするわけです。

そういうわけで、最悪、選挙無効の判決が出ても、すべての国会議員が突然いなくなるとか、選挙前の民主党政権が復活するとか、そういう事態にはならずに、落ち着くべきところに落ち着くだろうと思っています。

「選挙無効」のその後 1

「一票の格差」問題について、続き。昨日(3月26日)は、広島高裁岡山支部が、違憲無効の判決を出し、しかも、25日の広島高裁本庁のような「何月何日までに改正しなければ」という猶予期間すら与えませんでした。

前回書いたとおりで「将来効判決」など認められるかどうか疑問の余地があるので、こっちのほうが筋は通っているとは思います。もっとも、最高裁に上がってまだ裁判は続くでしょう。

 

この問題、今後どうなるのか、もし国会が定数是正をせず放置したら、本当にその議員は地位を失うのか。この点は新聞などで一通りのシミュレーションが書かれていると思うので、事細かには書きませんが、考えられる2、3のことを書いてみます。

 

まず考えられるのは、国会が対処することです。さすがに、何もしないということはないでしょう。

しかし、選挙区や定数をいじることには、いろんな利害やら思惑が混じってくるでしょうし、それを抜きにしても、各選挙区の人口にきちんと比例した形で議員定数を割り当てるのは、相当に困難な作業なはずです。

 

どの地域でも、人口というものは、出生、死亡、引越しなどで常に流動しており、各選挙区の最新の人口データを把握しておくという作業自体が非常に面倒でしょう。

それに、人口比例を徹底するとなると、大阪1区みたいに有権者が20万人くらいいても議員が1人である、と考えたとき、過疎地の選挙区は議員がゼロになるでしょう。東北の被災地などはどんどん人口が流出していて、被災地からは議員を1人も出せないことにもなりかねない。

どんな過疎地でも最低1人は議員を国に出せるようにする、と考えると、大阪や東京の多くの選挙区では、人口比でもっとたくさんの議員定数を割り当てる必要が生じます。つまり議員の総数を増やす必要がある。

民主党政権のころから「0増5減」なんて案が出されていますが、議員を減らした上で人口比例の選挙区割りを考えるのはほとんど不可能なのです。

 

本題とは外れますが、そういうこともあって、議員の数をもっと減らせという意見には私は反対です。

ちなみに議員定数削減に反対するもう一つの理由は、もし3年前の衆議院選挙が、議員定数が現行の480でなく、たとえば300くらいで行われていたとしたら、その300人が全員、民主党の議員だったという、悪い冗談みたいな話が現実化しかねないということです。

と、話がそれたままになってしまいましたが、選挙無効判決のその後について、次回もう少し書きます。