体罰教師はどう裁かれたか 3(完)

生徒を叩いた教師に無罪の判決を下した昭和56年の東京高裁判決を、前回に引き続き、紹介します。判決文は、極めて詳細に論じているのですが、ごく概要のみ述べます。

判決は、学校教育法11条が禁じている体罰とは「懲戒権の行使として相当と認められる範囲を越えて有形力を行使して生徒の身体を侵害し、あるいは生徒に対して肉体的苦痛を与えることをいう」と定義します。

「有形力の行使」というと小難しいですが、物理的な力を加えること、つまり手を出すことと理解してください。

そうすると、東京高裁は、教師が生徒を懲戒するやり方として、「口頭で注意する=適法、体罰を行なう=違法」という2分類だけがあるのでなく、その間に「手は出るけど相当の範囲内=適法」という行為が存在すると考えているわけです。

 

もちろん、手は出さないに越したことはない、でも、生徒を励ますときなどに肩を叩くなどのスキンシップも一切できないというのもおかしいし、また、生徒をたしなめる際に口頭だけでは「感銘力」に欠けてしまうこともある(「感銘力」というのは判決文の表現そのものです。何だかそういうタイトルで本でも出せそうな言葉です)。

そういう理由で、教師には、一定限度で有形力を行使することを認めてやらなければ、「教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがある」と。このカッコ内は判決文そのものの引用でして、判決文には似つかわしくない、熱のこもったことを言っています。

そして、本件に関して言えば、生徒をたしなめる必要性や、暴行の程度が必ずしも強くないことなどから、相当の範囲内であって違法でない、と言ったわけです。

 

長々と解説してしまいましたが、結論自体は、多くの人にとって常識に沿った内容ではないでしょうか。体罰が禁止されると言っても、判例上は、手を出したら即処罰というわけでは決してないことを、知っておいていただければと思います。

 

補足ですが、この記事を書くついでに教育法関係の本を参照しているうちに、最高裁でも、民事事件ですが、一定範囲で手を出すことを適法と認めた判決を知りました。今回紹介した東京高裁以上のことは言っていないので、これ以上は触れませんが、日付だけ紹介しておきます。最高裁平成21年4月28日判決です。

あと、紹介してきた上記の東京高裁の事例ですが、これまで男性教師と書きましたが被告人は女性教師のようでしたので、訂正します。

柔道界なども体罰問題でゴタゴタしてきましたが、この問題についてはひとまず以上です。

押尾学の刑事裁判に決着

当ブログでかつて触れたけど、この度の震災以降はもうどうでもよくなった感のある話はいくつもあります。

その筆頭は沢尻エリカが離婚するしないといった話で、今や多くの人にとって、どうでもいいか、またはそもそも思い出しもしない話題となっているでしょう。
海老蔵が舞台に復帰すると言われても、まあ、好きな人が見に行くんだからそれでいいじゃないの、と思います。

同じく芸能がらみの話題としては、押尾学が懲役2年半の実刑判決を受けました(東京高裁、18日)。これは、刑事裁判としてもやや注目に値する部分を含んでいるし、何より、人がひとり亡くなっている事件でもあるので、この段階で整理しておきます。

すでにここでも何度か触れましたが、押尾学は「保護責任者遺棄致死罪」で起訴されました。問題点を単純化して書くと、以下の2つです。

1、押尾学は、死亡した女性を保護してやるべき義務があったか。女性は自分の意思で合成麻薬を飲んだのであって、助けてやる義務はなかったのではないか。
2、押尾学が、その女性を部屋に遺棄(放置)したせいで女性が死亡したといえるか。もし押尾学がすぐに救急車を呼ぶなどしても、助からなかったのではないか。

東京地裁は、1の点では押尾学に保護すべき義務を認め、2の点では、救急車を呼んでも助かったとまでは証明されていないから、死亡したことまでは責任を問えない、とした。
結論として、「保護責任者遺棄罪」(「致死」の部分が削られた)の成立を認め、懲役2年半とした。

単純に勝ち負けのみで書くと、有罪が認められた部分は検察の勝ち、「致死」の部分が削られたのは押尾学の勝ち、ということになります。

押尾学は「保護責任者遺棄罪」すら成立しないとして高裁へ控訴しました。検察としても当然、「致死」まで認められるべきだと控訴してくると思ったら、検察側は控訴しませんでした。検察側が控訴しなかった理由は当事者でないので存じませんが、「救急車を呼んでいたら救命できた」ということを医学的に立証するのが難しかったのでしょう。

そのため高裁の判断は、「保護責任者遺棄罪」か「無罪」に絞られることとなりました。
結論としては、押尾学の控訴に見るべき理由がなく、高裁は地裁の判断そのままを受け入れました。
押尾学が上告したため、この事件は最高裁で判断されることになりますが、判断が覆る可能性は極めて低いと思われます。

ということで、この問題の考察は以上です。
亡くなられた女性のご冥福を祈ります。そして、りあむ君の幸せな将来を祈ります。

大阪市は無くなるのか

統一地方選挙、大阪では、府・市とも「大阪維新の会」が躍進しました。
橋下知事の掲げる「大阪都構想」に、これで弾みがつくのでしょう。

ただ、私には、この大阪都というのが、いま一つよくわかりません。
ひとことで言えば、大阪府と大阪市を一体化し、大阪市を解消し、「二重行政」による行政の無駄をなくす、ということのようです。

しかし、府や県の中に市があるというのは、大都市ではたいていそうであり(東京23区のみが例外)、おかしなこととも思えません。

二重行政の無駄というのも、私にはあまりピンとくるものがありません。
たとえば、大阪には大阪府立大学と大阪市立大学という2つの大学があり、それが「無駄」と言う向きもあるのかも知れません。しかし、公立大学に入りたいと真剣に考えている受験生やその親にとって、2つも大学があるのは無駄だと言う気にはなれません。

何より個人的にイヤなのは、「大阪都」という呼び名です。慣れていないだけかも知れませんが、いかにも言いにくいし、語感も美しくない。

どなたかが指摘しておられ、私も確かにそうだなと思うのは、日本において「都」とは、もともとは天皇のおわす「みやこ」を意味します。
東京都には皇居があり、京都には今も御苑がある。大阪にはありません。

いや、かつては「難波宮」があったではないか、という方もおられるかも知れませんが、それなら、平城京のあった奈良は「奈良都」と呼ばれるべきことになります。
平清盛は一時的に福原に遷都したから「兵庫都」、清盛亡き後の平家は安徳天皇とともに大宰府に落ちのびたから「福岡都」と呼ばれるべきことになります。
でも奈良、兵庫、福岡でそれを言う県民の方はおられないと思います。

大阪には、天皇はおわさないけど、「みやこ」ではない都市、というところにアイデンティティを見出すべきであって、単に東京への対抗意識から「都」を名乗るのは、畏れ多いし呼びにくいだけ、というのが私の考えです。

ただとにかく、今回の選挙の結果を受け、今後の大阪府政・市政において、維新の会は無視できない存在となるでしょう。その活躍をまずは見守りたいと思います。

「大阪市をぶっ潰す」というのが橋下知事の持論ですが、生まれも育ちも大阪市である私としては、「市を府に吸収することで、いかなる具体的メリットがあるのか?」「その政策は、私たちの市を取り潰さないと実現しないことなのか?」ということを常に問うていきたいと思います。

東京電力の賠償責任 2

東電の賠償責任について、続き。
東電はいくらの賠償金を払うことになるかについて。

まず東電は、1200億円までなら払えます。そういう保険に入っているからです。これも「原子力損害の賠償に関する法律」に規定があり、原子力事業を行なおうとする者は、事前に、保険会社に1200億円の保険をかけておかなければならない、とされています(7条)。

危険物を扱う者は、何かあったときの賠償に応じる準備をしておかないといけない、という趣旨で、車に乗る人が最低でも自賠責保険に入らないといけない(自動車損害賠償保障法)というのと同じです。

ただ、自動車事故なら、そこから発生する損害はだいたい予測できる。
たとえば私が学生時代にバイクに乗っていたときは、最悪でも人ひとり死なせてしまうくらいだろうと思い、「対人1億円」の任意保険をかけていました。

しかし、原子炉を扱う業者にとって、最悪のケースが発生した場合の損害額は予想もつかないでしょう。
では「1200億円」の保険、という数字はどこから出ているのか。
少し前にここで紹介した我妻栄の「法学概論」によると、「わが国の保険会社の保険引受能力によって定められた」とあります。

今回の原子炉事故による被害は、どこまで広がるかわかりません。1200億円は超えるでしょうし、「兆」の単位になるとも言われます。しかし、保険会社がそんな巨額の保険金を支払うとなると会社が潰れるかも知れない。だから保険金の上限が法律で決められているわけです。

これは決して、東電の責任が1200億円に限定されることを意味しません。損害のすべてについて責任を負うけど、支払えない、というだけのことです。
自動車事故で人を死なせて1億円の賠償を命じられた人が、3000万円の自賠責保険にしか入っていなかったというのと同じです。個人なら破産状態です。

しかし東電を破産させるというのも、電力の供給ということを考えれば現実的でない。
そのため法律の16条によると、政府が「必要があると認めるとき」は、「必要な援助を行なう」とあります。

どんなときにどんな援助を行なうのか、これまで明確に論じられたことはないのですが、最終的には国費(すなわち税金)で補償がされるのでしょう。その過程で、東電が国の管理下に置かれることとなるという議論も出ているようです。破産させることができないので国有化するわけです。

このように、原子力災害による賠償については、法律はあっても先例がないため、その解釈には今後も多少の混乱が生じるでしょう。
ただ落とし所としては、東電に可能な限りの責任を果たしてもらい、それで及ばない部分は国、つまり我々国民の税金で支えるという、いわば常識的な結論となると思われます。

安易な増税は許してはいけませんが、ある程度の負担は我々国民一人ひとりが負うべき使命として理解すべきです。
そして、そのときがくれば然るべき税負担にきっちり応じるとして、それまでの間は、効果があるのかないのか分からないのに何でもやたらと自粛するのはヤメにしませんか、というのが私個人の考えです。

東京電力の賠償責任 1

福島の原発はまだ予断を許さない状況のようですが、そろそろ、今後の「賠償」をどうしてくれるのか、という話が出ているようです。

例えば、農作物の出荷停止などによる被害を受けた農家に対しては、農協(以下JA)が融資や補償を行い、その分は農協が取りまとめて東京電力(以下東電)に請求する、ということになるようです。

その東電の賠償責任について書きます。
問題は大きくわけて2つで、1つめは、東電に法律上の賠償責任があるか否か、2つめは、誰がどれだけの賠償額を負担するか、です。

まず1つめの問題。
電力会社の賠償責任については、「原子力損害の賠償に関する法律」が定められていると、少し前にも書いたとおりです。

この法律は、原子力事業者(ここでは東電)に対し、原子力災害については「無過失責任」を負わせます。つまり、原子炉の管理に落ち度はなかったとしても、結果に対する責任を負わせるものです。
本来は、故意も過失もない人に結果責任を問うことはできないというのが法の大原則ですから、これはこれで重い責任です。

ただし、原子炉の事故が「異常に巨大な天災」などにより生じた場合は責任は負わない、とされています(3条)。
私は少し前のブログで、今回の地震は「異常に巨大な天災」にあたるであろうと書きました。しかし政府は「あたらない」として、東電が責任を免れるものではないと考えているようです。

何をもって「異常に巨大」とするのかは、これまでほとんど論じられず、判断基準もないと言えます。この問題を、誰がどう決めるかというと、もちろん裁判所です。

具体的には、JAが東電に賠償を求めて裁判を起こす、東電側が「異常に巨大な天災」であると主張して賠償を拒否する、そうなれば裁判所が判決を出して決着させることになります。

ただ、現在の状況では、東電がこの条文を持ち出して賠償を拒否することはなさそうです。そんなことをすると、東電は轟々たる非難を受けるでしょう。法律を持ち出せば勝てるかも知れないけど、企業の社会的責任を考えて、裁判に持ち込まずに賠償に応じるというのも、ままあることです。

ということで、1つめの問題の回答は、東電に法律上の賠償責任はないかも知れないけど、おそらく東電は自ら任意に賠償責任を負うであろう、ということになります。

そこで2つめの問題。東電はいくらの賠償責任を負うか。ここ最近の報道では、東電が負担するのは1200億円までで、あとは国が負担する、などと言われています。
このことの意味については次回に書きます。

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