ハワイにて思ったことなど 1

今回は私ごとの雑談です。

少し前にもここで書きましたが、9月上旬に妻子とともにハワイに行っておりました。ハワイに行ったのは初めてですが、思いのほか、楽しく過ごしました。

 

ワイキキビーチに面したホテルのレストランで、ハワイの先住民の女性がフラダンスを踊るのを観ながらディナーを食べたりするのは、たしかに楽しい経験でしたが、一方で、やや複雑な思いもしました。

それは、間違っていれば現在、日本の国もハワイにようになっていたかも知れない、ということです。

ご存じのとおり、ハワイはアメリカ領です。いま、ウィキペディアで調べた程度の知識だけで書いていますが、18世紀末にカメハメハ大王が統一したハワイ王国は、その後、列強(イギリス、フランス、アメリカ)の侵略を受け、19世紀末にはハワイ王国が滅び、アメリカに併合されました。

 

もし日本も同じ道をたどっていたとしたら、今の日本には皇居も伊勢神宮もなく、その跡地にゴルフ場やレストランができていたかも知れません。レストランでは、日本人の生き残りが、ディナータイムに盆踊りでも踊っていたかも知れません。

これは決して荒唐無稽な想像ではなく、江戸時代に日本に黒船がやってきてからというもの、欧米の列強は、あわよくばハワイみたいに征服しようと、本気で考えていたはずです。

そうならなかったのは、先人たちが命がけで国を守ろうとがんばってくれた結果であり、最後には第二次大戦で敗れたとはいえ、連合国側に「この国を滅ぼすのは無理だ」と思わしめたからです。

そんなことを、夜の太平洋を眺めつつ、かつてはこの海に散っていったであろう先人たちに感謝の思いを捧げました。

 

そして、現在では隣の国が、あわよくば尖閣諸島やら沖縄やら日本本土やらを奪ってやろうと狙っています。自分の息子のためにも、国をどう守るかを、一人一人が自分自身の問題として考えていかなければならないと、思った次第です。

今ここで、憲法を改正して国防軍を…という話をするつもりはありません。ハワイでおっさんが酔っ払いながら考えた話を、憲法改正に結び付けるのは大いなる論理の飛躍であるのは承知しております。

ただ、日本の先人がもし、何の打算や戦略も見通しもなく、平和的解決を、対話を…などと繰り返すだけであったとしたら、今の日本はハワイのようになっていただろうなと、ちょっと怖くなったことは付け加えます。ハワイの現地人は、それくらい気のいい人ばかりでした。

 

今後もヒマがあれば、思い出したようにハワイで感じたことを書くかも知れません。

送迎バスの津波事故と幼稚園の責任

幼稚園の送迎バスが津波に巻き込まれて園児が亡くなった事件で、仙台地裁が園の責任を認めて賠償を命じました(17日)。大きく報道もされたので、ご存じのことと思います。

ニュースで第一報を見たときは、厳しい判決だな、と思ったのですが、事案を知るにつけ、これはやむをえないかな、と思っています。

 

事件は、平成23年3月11日の東日本大震災の日、宮城県石巻市の私立幼稚園でのことでした。地震が起きたあとに、園長の判断でバスを出発させました。

幼稚園は高台にあったのに、バスが低地を通行したため、結果としてバスは津波にのまれ、5人の園児が亡くなりました。

裁判での争点は、園長がこのとき、園児を帰すとこういう結果になりうることを予見できたかどうか、ということです。

園長が、この地震がここまでの大地震だとは思っていなかったでしょうし、怖がっている園児たちを早く親元に帰してあげたいと思ったのも理解できなくはない。

もっとも、注意力を働かせれば、大きい揺れが来ている以上、津波が来るかも知れないことは予測しえただろうし、テレビ・ラジオや町内の緊急放送で注意深く情報を集めていれば、いまバスで帰すのは相当危険だということも分かったように思えます。

 

ここの園長がどんな方なのかは存じませんが、東北の気のいいおっちゃんで、園児思いの人だったのだろうと、勝手に思っています。しかし、平時はそれでよくても、異変が起こったときには即座に情報を収集し、園児を守るために的確な判断を下す必要があります。

それに、幼稚園として親から保育料を受け取って子供を預かっているわけですから、高度の注意義務が求められることになります。

そういうことで、幼稚園側が控訴するかどうかは知りませんが、私はこの判決で妥当だと思っています。

 

私が懸念しているのはその先で、園児の遺族は、きちんと賠償が得られるのかどうか、ということです。

判決が命じた賠償は総額1億数千万円です。幼稚園を運営する学校法人に支払い能力があるかどうかは存じません。学校法人も園長個人も、払えなくなって破産でもされると、賠償が得られないという可能性もある。

だから何でも民間にやらせるというのは間違いなんだ、と私のいつもの話に結び付けようというつもりではありません。世間の親としても、何かあったときに賠償金を取れないから私立でなく公立に行かせようとか、そこまで考える人もいないと思います。

しかし、こういう事件が起こったときに、民間組織の脆弱さということを痛感せずにはいられません。

 

私の息子と同じ年頃であろう、亡くなられた園児さんたちの冥福を祈ります。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 補遺

非嫡出子の相続規定に関してブログに書いているうちに、あれこれ思い出すこともあったので、補遺ということで続けます。

今回の最高裁の判断に対しては、やはり批判も強いようです。ネットや新聞の投書欄では、正式な婚姻と不倫との違いがあいまいになるとか、親の世話もしていない非嫡出子が相続だけ平等で良いのか、という意見も散見しました。それらの意見はもっともだと思いますが、ここではあえて最高裁の擁護をしてみたいと思います。

 

最高裁には15人の判事がいますが、今回の判決は、彼ら15人が適当に頭の中で考えただけで出てきたわけではありません。

最高裁には、判事の下に、全国選りすぐりの裁判官が就任する何十人かの「調査官」という人がいて、重要な判決を出すにあたっては、彼らが徹底して、事案の調査をしたり、こういう判決を出したら今後どんな影響が出るかなどを調べたりしています。

今回の判断にあたっても、上記のような批判があるのも当然わかっていて、それも織り込みずみのはずです。少なくとも、外野でヤイヤイ言ってるだけの私たちより、はるかにこの問題のことを熟慮した上での判断だったはずです。

 

加えて思い出すのは、尊属殺人罪を定めていた旧刑法200条が違憲とされたケースです。

殺人罪(刑法199条)の刑罰は、死刑、無期懲役、5年以上の懲役(昔は3年以上)のいずれかですが、かつて存在した尊属殺人罪というのは、親を殺すと死刑か無期懲役のいずれかという、重い刑罰を科していました。

この条文は、親との関係において子を低く見るものであって平等違反だ、という意見もありましたが、戦後、最高裁は長らく、この規定を合憲としてきました。

しかし、昭和48年に最高裁は判例変更し、この規定が違憲であると断じました。

問題となった事案は、父が実の娘に対し、幼いころから性行為を含む虐待を繰り返し、娘が思い余った末に父を殺してしまったというものです。

親を大事にすべきなのは当然のことである、しかし、親殺しにもいろんな事情があるのであって、どんなにひどい親でも、殺してしまったら一律に死刑か無期懲役しか選択できないのは重すぎる、ということで、この規定は違憲とされたのです。

(なお、実際には、情状酌量などで無期懲役よりは軽くできるのですが、刑法の規定上、一番軽くしても3年半の実刑となります。通常の殺人罪なら、執行猶予をつけることが可能で、結果としてこの娘は執行猶予となりました。)

 

非嫡出子の相続分に関しても、ケースごとに様々な事情があるのであって、一律に半分にしてしまうのは不合理だと、最高裁は考えたわけでしょう。

ただ、最後に私見を付け加えると、尊属殺の規定は、どんなひどい親であっても殺すと必ず実刑になってしまうという、比較的わかりやすい不合理さが含まれていたと思うのですが、非嫡出子の相続規定については、相続分が半分とされることで何か耐え難いような事態が生じていたのかというと、そこは実感しにくいところです。

そういう意味でも、今回の判断は、今後も議論を呼ぶことになるのかも知れません。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 2(完)

前回の続き。

非嫡出子の相続分について定めた民法の規定を確認しますと、民法900条4号に、兄弟姉妹の相続分は同じ、と書いてあって、その但書きに「ただし、嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の二分の一とし(以下略)」とあります。

一方、憲法14条には、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地によって(中略)差別されない」とあります。

非嫡出子という社会的な身分や門地(生まれ)を理由に、相続分が半分とされているのだから、民法900条4号但書きは憲法14条違反だ、という理屈です。

たしかに条文の文言上はそう読めますし、多くの憲法学者は早くから、民法のこの規定を批判していました。しかし最高裁は長らくこの規定を合憲とし、一番最近では平成7年にも合憲判決を出しました。

 

その理由は、ごく単純にいえば、前回書いたとおりの話になります。

非嫡出子(典型的には愛人の隠し子)からすれば、相続分が半分とは不当だ、と思うでしょうし、一方、正妻と嫡出子からすれば、愛人の子などが出てきても1円もやりたくないと思う。民法の規定は、その間を取った、ということです。

私自身は、これはこれで合理的な仕組みだと思うので、違憲無効にする必要はないという考えでした。

 

これは、6年半ほど前に私がブログで書いたことですが(こちら)、当時、内閣府の世論調査で、非嫡出子の相続分は半分という民法の規定を変えるべきかどうかという質問に対して、「変えないほうがよい」との回答が41%で、「変えるべきだ」という24%を大きく上回ったそうです。

そして、ここ6、7年の間で、この問題に対する国民感情や世論が、そう大きく変わったとは感じません。非嫡出子の相続分は半分で充分だ、と率直に感じる人が今の日本社会に多くいるとしても(私もその一人なのですが)、それは決して、克服されるべき差別意識であるとも、前時代的な考え方であるとも思えません。

 

もちろん、最高裁は、世論調査だけで結論を決める場ではありませんが、それでも、法律の解釈にあたっては、国民感情とか社会の趨勢とかいったものが、それなりに重視されます。

そう考えると、平成7年に合憲判決が出された当時と、このたび違憲判決が出たこの平成25年とで、この問題をめぐる国民感情やその他の社会情勢が、判例を正反対にひっくり返さないといけないほどに変わったといえるのか、その点は正直なところ、少し疑問に感じるところです。

とはいえ、私は弁護士なので、相続問題にあたっては、最高裁の判例に沿ってやっていくことになります。今回の記事はあくまで私が最高裁判決に感じたことを書いたということで、この話を終わります。

非嫡出子相続分差別に違憲判決 1

私ごとながら、ここ1週間ほど、所用でハワイにおりました。

ハワイでも日本のニュースが見れるチャンネルがあり、この間、驚いたニュースといえば、東京五輪の開催決定と、もう一つは、最高裁が非嫡出子の相続分について新たな判断をしたことです。

この最高裁の判断、すでに報道によりご存じのことと思われ、今さらブログ記事にするのも時期を逸したように思いますが、少し触れてみます。

 

民法では、非嫡出子(父母が婚姻関係にない子)の相続分は、嫡出子の半分とすると規定されていたのですが、今回の最高裁の判断では、これが憲法の禁じる「差別」にあたるということで、無効となりました。

 

これをどう感じるかは、皆さんもご自身に置き換えて考えてみてください。

たとえば私には、妻と長男がおり、仮に私が3000万円の遺産を残して死ぬと、妻の相続分が2分の1、子供の相続分も2分の1だから、妻と長男が1500万円ずつ相続します。

もし、長男のほかに、妻との間に産まれた次男がいれば、子供は2分の1の相続分を人数に応じて頭割りするので、妻1500万、長男750万、次男750万円の相続となる。嫡出子同士の相続分は平等です。

 

もし私が、長男のほかに、ミナミのクラブのホステスを愛人にして、その愛人に隠し子を産ませたとします。私と愛人は結婚していないから、隠し子は非嫡出子です。嫡出子である長男に比べて、半分しか相続分がない。結果、妻1500万円、長男1000万円、隠し子500万円の相続分になります。

愛人とその子からすれば、どうして非嫡出子だというだけで差別されるんだ、と感じるでしょう。

一方、妻からすれば、私が死んだあとに、見知らぬホステスが子供を連れて相続分よこせと言ってきたら、1円でもやりたくない、と思うかも知れません(本人に確かめたわけではありません)。

 

愛人と子供を作るんなら、誰からも文句が出ないようにするのが男の甲斐性じゃねえか、と思う人もいるでしょうし、私もそう思います。しかし問題はそういう通俗的なことではなく、現に嫡出子と非嫡出子の間で相続問題が頻発しており、法律自体が両者の相続分の違いを正面から認めてしまっているのをどう考えるか、ということです。

憲法14条は法の下の平等を規定していますが、これまで最高裁は、「合理的な制度である」として合憲と判断してきました。この度の判決は、最高裁が自らの判例を変更した点でも画期的なものです。

次回、もう少し続く予定です。