相撲協会は「公益」法人たりうるか


人というものについてお話ししたついでに、「相撲協会」にも触れます。


これは、民法や商法といった古くからある法律に則って作られるものではなく、わざわざその法人を作るために個別の法律を新たに制定するというものです。

具体例を挙げると、昔、郵便事業は「郵政省」という国の機関が統括していましたが、近年になって「日本郵政公社法」という法律を作り、それに基づいて平成15年、「日本郵政公社」という特殊法人ができ、そこが郵便を扱うことになった。

郵便の仕事は「公益」を担うので、社団法人や財団法人でも良さそうなのですが、それだとおそらく、国の監督が弱くなってしまうということでしょう。社団法人・財団法人は、設立時に国の許可が要るというだけで、あとの運営は国があれこれ指示するわけではないので。

このように特殊法人は、国の組織をスリム化するという名目で作られることが多いのですが、実際には、退職した官僚がそこに天下りし、高い報酬を得ているなどのケースもあり、非難が寄せられた。

そこで、あまたある特殊法人についてもスリム化することが要求されることとなった。
日本郵政公社も、小泉政権下での郵政民営化により、「日本郵政株式会社」となったことは、皆さんの記憶にも新しいと思います。

そしてスリム化の流れは、社団法人・財団法人にも及びました。

そもそも、天下りの温床となっている点では、特殊法人も、社団法人・財団法人も、大した違いはない。例えば、法務省官僚や最高裁判事を務めた人が、社団法人の理事長となって、法人から多額の貸付けを受けていたという話は当ブログでも書きました。こちら

だから今後は、公益を担う団体であるのか否かの審査を厳しくしようということになった。
すでに存在する法人については、真に公益を担う法人は「公益社団法人・公益財団法人」とし、これまで通り、法人税の軽減などの特権を維持することとした。
それ以外は「一般社団法人・一般財団法人」として、株式会社に近い扱いをすることとなった。

では、日本相撲協会は、「公益」法人であり続けることができるのか。
大相撲に八百長が横行しているのであれば、もはや神事とか国技などに値せず、あとは見せ物と割り切って、プロレスみたいに株式会社に運営させれば良いとも考えられます。

「公益」認定を受けるための申請は再来年までです。そのときまでに、財団法人日本相撲協会はいかなる答えを出すのでしょうか。

社団法人と財団法人と株式会社の違い

相撲協会を例に財団法人というもについて書きましたが、ついでにもう少し、法人と言う制度について触れます。

財団法人とならんで、「社団法人」という言葉もよく聞きますが、これも元は民法に規定があって、公益目的として国から許可を受けた団体である点は同じです。違うのは、財団法人は財産の集まり、社団法人は人の集まりであるという点です。
多大な財産の寄付がなくても、ある目的のもとに人が集まって労力を結集する、というイメージです。

私になじみ深いところで例を挙げると、「社団法人全日本テコンドー協会」(傘下の大阪府テコンドー協会で監事をしています)、「社団法人日本バーテンダー協会」(私がよく飲みにいくバーのマスターが多数加入しておられます)などがあります。

さて、法人というシステム(人やモノの集まりをひとりの人として扱う仕組み)のうち、もっともポピュラーなのは、「株式会社」を典型とする「会社」でしょう。
これは、元は商法(現在は会社法)に規定がありました。

民法上の社団法人や財団法人みたいに、公益を目的としなくてもよく、私的利益(つまり儲け)を追求してよい。営利を目的とした人の集まりなので、会社とは別名、「営利社団法人」と呼ばれます。

そして、資本主義・自由主義社会においては、国家は個人の営利追求に口出ししてはいけないことになっているので、会社の設立には国の許可は不要で、法務局に届出さえすれば設立が認められることになっています。

こういう次第で、世の中の法人には、ものすごく大ざっぱにわけると、
①民法を根拠とし、公益を目的として、国の許可を得て設立する、社団法人や財団法人
②商法を根拠とし、営利を目的として、国の許可不要で設立できる会社
の2種類があるということになります。

それ以外に、法人と名のつくものでは「特殊法人」というものがあります。これはまさに特殊なので次回に譲ります。

ということで、法人制度の解説など始めてしまい、いま何の話をしているのか分かりにくくなっているかも知れませんが、特殊法人を含めた法人制度の変革が、相撲協会にも影響を与えずにおかない、ということを書こうとしています。次回に続く。

「財団法人」ってどんな人?

相撲の話のついでに書きますが、日本相撲協会が、一連の不祥事により、財団法人と認められなくなるかも知れない、といった話が報道されたりしています。
この、財団法人というものについて、少し触れます。

財団法人というのは、ひとことでいうと、「財産の集まりをひとりの『人』として扱う」ものだとご理解ください。

外国の例ですが、ロックフェラー財団やカーネギー財団をイメージしてもらったらよいかと思います。功成り名遂げて、たくさんの財産を築きあげた篤志家が、「今後は私の財産を青少年の育成に役立ててもらいたい」ということで、その財産を寄付するとします。

この財産が「人」となります。と言っても、ドラゴンクエストのゴールドマンみたいに金塊が人のカタチになって動き出すわけではありません。
誰かがその財産を銀行に預けて運用したり、青少年の育成などの目的にそった支出を行う事務を行うことになります。

日本では、財団法人の規定は、明治29年にできた民法の中にありました(その後の改正については追って触れます)。そこでは、私的利益を目的とせず、公益を目的とした団体は、官庁の許可に基づいて法人として扱う、とされています。

きちんと調べていませんが、お相撲さんの団体は江戸時代かもっと以前からあり、興行利益などでそれなりの財産を持っていた。明治時代になって民法ができて、お相撲さんたちが、「これからは財団法人としてやっていこう」ということになった。

相撲は昔から日本人に親しまれてきたので、公益目的の団体であると国からお墨付きをもらうのは簡単だったはずです。こうして、「財団法人日本相撲協会」ができた。協会の公式ホームページによると、これが大正14年のことだそうです。

お相撲さんたちが築いてきた財産は、力士の育成や、国技館の建設などに使われることになった。財団法人の中でそうした事務を行うのが「理事」という人で、現在の日本相撲協会では九重や貴ノ花がいます。理事の中で一番偉い人を「理事長」といい、放駒がこれにあたります。

で、財団法人がひとりの「人」として扱われる、ということの意味はといいますと、
たとえば、枡席で出てくる弁当にしても、発注するのは九重、場所当日に弁当を受け取るのは貴ノ花、弁当代を払うのは放駒、というふうにバラバラだと、弁当の仕入れ一つとっても多くの親方衆の間を行き来しなければならず、弁当屋さんとしては面倒くさい上に暑苦しい。

だから、日本相撲協会という窓口を一つ作ってもらって、そこに行けば用事が済むようにしてもらうわけです。この際、日本相撲協会という窓口は、あたかも一人の人間のように、各種の連絡を受けつけてくれて、後は内部で然るべく処置を取ってくれる。

このシステムが「法人」であり、文字どおり、民法などの法律によって、財産や人間の集まり全体が、一個の人間のように扱われる、ということです。

と、別に相撲協会のことを詳しく書くつもりもないのですが、財団法人というものの仕組みや成り立ちについてイメージしてもらうべく、触れてみました。

今後、相撲協会が財団法人であり続けることができるのかどうかということについては、次回以降に続く。

八百長裁判は間違っていたのか

大相撲の八百長問題がふたたび世間をにぎわせています。



以前、「週刊現代」の八百長報道に対し、裁判所が出版元の講談社に対し、相撲協会への4000万円超の賠償を命じました。今や講談社側は「それ見たことか」と思っているはずで、実際、相撲協会に対して逆に賠償を求める動きもあると、ネットニュースで見ました。

では、講談社に賠償を命じた判決は間違っていたのか、ということについて触れます。

まず、他人の名誉を害するようなことを言ったり書いたりすると、名誉毀損となり、刑法上も犯罪になるし、民事上も賠償問題になる。その事柄が、真実かウソかは、ひとまず問題ではない。

これまで世間は、大相撲に八百長はないと信じていたわけです。「昔から八百長は当然行われていた」と、知ったふうなことを言う人がいますが、少なくとも大半の人はそう信じていなかったからこそ、相撲の試合を熱心に観戦してきたのです。
そういう状況下で「大相撲は八百長だ」と公言すると、これは名誉毀損となると言ってよいでしょう。

ただ、報道する側にも、表現の自由、報道の自由があるし、むしろ、世の中に不正義があるのなら、それを暴くという役割も期待されている。

そこで、その報道内容が、①公共的なことがらであり、②公益を目的とした報道であり、かつ、③真実と認めることが相当だ、と思われることであれば、相手の名誉よりも報道の自由のほうを表現し、法的責任を問わないこととされています。

細かい議論は省きますが、相撲協会は公益を目的とした財団法人であり、そのため税金が安いなどの特権を得ていますので、①と②は認めてよい。

③は、きちんと調査して、相当な証拠や根拠も揃っていて、「そこまでの資料があるのなら、週刊誌側が八百長の存在を信じたとしても当然だろう」といえる状態だったのなら、その要件を満たします。

今回、八百長のやり口を具体的に相談するようなメールのやり取りの存在が、警視庁によって明らかにされました。これは、野球賭博の捜査のために力士から押収した携帯電話を調べて得た証拠のようです。
(警察が、野球賭博の捜査とは関係のない八百長の資料まで大っぴらにする権限があるのか、という点は疑問ですが、それはいずれ検討するとします)

出版社には、さすがにそこまで調べるほどの能力も権限もなく、ここまで決定的な証拠はない状態で、八百長報道をしたわけです。

もちろん、関係者からの聴き取りや裏付けなど、それなりの取材はしたでしょう。しかし、個人のブログとかではなく、大量の発行部数と読者を持つ週刊誌が報
道する以上は、相当に強力な根拠を持つことが求められるというべきで、例えば「有力な情報筋から聞いた」というだけでは、「八百長の存在を信じたとしても
当然だ」とまでは言えないでしょう。

講談社に賠償を命じた判決の趣旨は、その時点では確実とまではいえない程度の資料に基づいて八百長報道をしてしまったという点に違法性が認められたのであって、その判断は間違っていないというのが、私の個人的な理解です。

台湾の冤罪事件と、日本の死刑制度

死刑制度について書こうとしています。
秋葉原の連続殺傷事件の審理も終わりましたが、今朝私が関心を持ったのは、産経の小さい記事です。
 
台湾で最近、冤罪つまり無実の罪で死刑にされた人が出たらしい。
幼女を暴行し殺害した容疑で、台湾の軍人が軍事裁判にかけられ、処刑されたあとになって、真犯人が見つかったのだそうです。
 
外国の話であり、軍事裁判という特殊性もあるのかも知れませんが、それでも、日本と台湾の刑事裁判制度に、そう大きな違いがあるとは思えません。
取調べを受け、裁判にかけられ、法廷で言い分を聞いてもらった上で、刑が下される、という点は全く同じはずです。
誤審、冤罪というのは、その可能性を常に否定できないという、まさに実例です。
 
さて、死刑制度というものがなぜ存在するかというと、よく言われるのは、1つには、犯人に対する被害者や遺族ひいては国民全体の報復であるという点と、もう1つは、死刑という厳罰があることで犯罪が抑止されるという点です。
 
ではその一方で、冤罪で死刑判決が出てしまったらどうするのか。
台湾では現に起こりましたし、日本では、無実なのに10数年も服役させられた菅家さんの事件がありました。昨年は検察による証拠偽造疑惑まで出た。日本でも冤罪で死刑になった人が、これまでにもいるかも知れないし、これから出てくるかも知れない。
 
「そんなことがあってはならない」というのは当然です。しかしそれは理想論に過ぎず、冤罪で死刑になってしまう可能性をゼロにはできないことをどう考えるか、という問いに答えたことにはならない。
 
これに対する答えは、二つしか考えられないでしょう。
一つは、死刑を廃止することです。「死刑廃止論」の著者で元最高裁判事の団藤重光氏は明確にこの立場です。
 
もう一つは、間違いが起こるかも知れないけど、死刑制度は重要だから残しておく、という立場です。
この立場は言い換えれば、冤罪で死刑にされる人がいたとしたら、その人には、我々の報復感情を満たすため、そして犯罪抑止のために、「申し訳ないけど死んでいただく」というスタンスを取ることを意味します。
 
私は、死刑制度がこのような側面を持つことを踏まえた上で、この後者の立場を取ります。
以前にも書きましたが、冤罪で死んだ人が出たら「もう仕方がない」と考えるほかない。それが私や家族の身に及んだとしても同じです。100パーセント間違いのない裁判、というものはありえないので、死刑制度を容認する以上、そう考えるしかない。
 
台湾の事件では、台湾の総統が遺族に謝罪したそうですが、今後、金銭的な補償も出るのでしょう。
 
ちなみに日本には刑事補償法という法律があり、冤罪と判明した際の補償金を定めています。その第4条3項に、「死刑の執行による補償においては、三千万円以内で裁判所の相当と認める額の補償金を交付する」とあります。
 
国の法律自体が、冤罪での死刑がありうることを前提としている点が、少し恐ろしいです。でも、死刑制度とはこういうものなのです。

なぜか「小沢被告」と書かないマスコミの不思議について

前回の話の続きを書こうとしているのですが、小沢一郎が起訴された後も、新聞・週刊誌は「小沢被告」という表現を使わず、「小沢氏」「小沢元代表」などと書いています。



起訴されて刑事裁判を待つ身になった人を、刑事訴訟法上「被告人」といい、マスコミ用語ではなぜか「人」を省略して「被告」と表現しています。これまで、どんな人であれ、起訴されれば新聞・テレビでは「被告」と呼ばれてきたと記憶しています。

記憶に新しいのは酒井法子です。
ついこの前まで「のりピー」と言われていたのが、覚せい剤所持容疑で逮捕状が出た直後から「酒井法子容疑者」となり、起訴後は「酒井法子被告」と書かれるようになりました。

私自身は、それらの人が裁判関係の書類などの上で「被疑者(容疑者のこと)」「被告人」と呼ばれるのは仕方ないとしても、新聞やテレビであえて「容疑者」「被告」という肩書をつけるのは、あまり望ましいことではないと思っています。

容疑者、被告といっても有罪判決が確定するまでは「無罪の推定」を受けるということは、私たち弁護士ならわかっているつもりですが、一般の人はその時点でどうしても「犯人」と同一視してしまいがちになるからです。

しかし、新聞その他マスコミがあえて「被告」という表現を使うのであれば、同じ立場の人には等しくその用語を使うべきなのであって、小沢一郎に「被告」の肩書をつけていないことは理解できません。

このあたりのマスコミの意図というのは全く察しかねますが、もしかしたら、プロの検察が起訴したのではなく、素人集団の検察審査会の議決に基づく強制起訴だから、まだまだ有罪になるかどうかわからない、と考えているのかも知れません。

そうだとしたら、主権者である国民の意思にもっと耳を傾けよ、と常々言いながら権力批判をしているマスコミが、国民の意思による決定を軽んじていることになります。
 もし審査会の多数決による強制起訴なんておかしい、信頼できないんだ、と考えているのであれば、新聞で堂々とそういう論陣を張ればよいのです。

そういうわけではないとしたら、他に考えられるのは「起訴されたのが小沢一郎だから」という理由しかありませんが、これでは完全に、マスコミが政権与党、権力者におもねっていることになります。

小沢被告の裁判については、今後粛々と手続きが進み、判決文はいつか公開されるでしょう。結論が有罪であれ無罪であれ、その中で判断の理由が明確に示されるでしょう。
果たして、マスコミが小沢一郎を被告と呼ばない理由は、いつかどこかで明確に示されるのでしょうか。

小沢一郎はついに「被告」となった

小沢一郎が「強制起訴」されたと、各紙一面に大きく見出しが載りました。

 
起訴されて小沢一郎は「被告人」となり、刑事裁判で裁かれる身分となりました。
今後、各メディアは、小沢一郎・元民主党代表を「小沢被告」と表現するのか、またはSMAPの稲垣吾郎が逮捕された際の「稲垣メンバー」みたいな、ことさらに慎重な表現をとるのか、注目したいところです。
 
それにしても、単なる起訴ではなく、「強制起訴」と表現されると、い
かにもキツイ印象を受けまして、あたかも小沢被告が、政治資金の帳簿処理について国会で明らかにせず、ジタバタしているために無理やり起訴されたのか、と
いう感じを受けますが、強制起訴とはもちろん、そういう意味ではありません。
 
起訴されるのは小沢被告に限らず誰でもイヤなので、起訴される側からすれば、起訴とは常に強制的に行なわれるものです。
ここで言う「強制」とは、検察官が起訴する意向がないのに、検察官に有無を言わさず起訴が行なわれるという意味でして、その強制は被告人ではなく、検察側に向けられています。
 
なぜそういうことになるかというと、検察審査会が「起訴せよ」という議決をしたからです。
検察審査会制度については、ここでも何度か書いてきたので(こちらなど)、それ以上には
触れません。
 
強制起訴というのは、法律上はそのような用語はなく、マスコミ用語であると思われます。検察審査会法の条文や、刑事訴訟法の教科書の上では「起訴議決に基づく公訴提起」などと表現されていて、強制起訴という言葉は出てきません。
 
通常、法律用語で「強制」という言葉は、法律や判決で命ぜられたことに国民が従わないとき、国家が国民にそれを強制して実現する場面で使われます(たとえば税金を払わない人の財産を国が差し押さえることを「強制徴収」と言ったりします)。
 
これに対し強制起訴は、国家機関である検察官が「起訴しない」と決め
たことについて、国民から選ばれた検察審査会員が起訴を強制するという制度であり、従来とは正反対に「国民が国家に強制する」ことを意味します。法律上の
通常の「強制」とは逆なので、条文上は「強制起訴」という表現は使われないのかも知れません。
 
用語はともかく、この制度は、検察が一手に握っていた起訴・不起訴の判断権限の一端を国民に委ね、場合によっては国民の判断のほうを重視するという、画期的なものではあります。
ただ、すでにここでも書いたように、起訴する・しないを審査会の多数決で決めていいのかという点には、不安を感じなくはないです。
 
もっとも、民主党は「国民目線」という言葉が好きなようですから、今回の強制起訴に限っては、私としても賛成であり、小沢被告にはぜひとも法廷で、国民目線で語ってほしいと思います。