袴田事件 再審決定に思ったこと 3

前回、警察組織が容疑者にウソの自白をさせることがあると、お話ししました。なぜそういうことが起こるのかについて、もう少し付け加えます。

 

捕まった人がどうなるかというと、①警察署の留置場に入れられて取調べを受ける。②起訴されれば被告人となって拘置所に送られ、裁判の日を待つ。③有罪で懲役の実刑を食らうと、刑務所に送られる。ただし死刑囚は②の拘置所のままである。と前々回に書きました。

そして、袴田さんも、その他の再審で無実が確定している人も、多くは①の段階でウソの自白をさせられています。近年では、女児殺害容疑で無期懲役刑を食らって20年近く服役していた菅家さんが5年前に釈放され、その後の再審で無罪が確定しましたが、この方もウソの自白をさせられています。

 

この段階で、弁護士は何をしてたんだ? と感じた方もおられると思います。

この点、私が言うと言い訳じみてしまいますが、一般論でいうと「そもそも弁護士がついていなかった」というケースが多々あると考えられます。

もともと、日本国憲法の規定がそうなっているのです。

憲法34条には、何びとも、弁護士に依頼する権利を告げられない限り、逮捕・勾留されない(要約)、とあります。これは上記の①の段階の話です。

そして憲法37条には、被告人は弁護士をつけることができる。被告人が自ら弁護士に依頼できないときは、国が弁護士をつける(要約)、とあります。これは②の段階です。

 

①と②で大きな差があるのがお分かりだと思います。

①の、逮捕され取調べを受ける段階、つまり容疑者(法律上は被疑者といいます)の段階では、アメリカの刑事ドラマみたいに、「お前には弁護士を呼ぶ権利がある」とひとこと言えばいいのです。

容疑者のほうで「弁護士なんか誰も知りません」「弁護士に頼むお金がありません」といえば、「じゃあ、仕方ない」ということで、弁護士なしで留置場での勾留を続け、取調べをしてよいことになっています。

②の段階、つまり被告人になって裁判を受ける段階では、弁護士をつけて法廷で弁護してもらうことができます。弁護士をつけられない人は国費で弁護士をつける。これが国選弁護人です。

このように、憲法上、弁護士が必ずいないといけないのは②の段階のみです。

①の段階でもし刑事がムチャをしたとしても、②の段階では弁護士がつくし、裁判官がきちんと裁いてくれるから、無実の人がいてもきちんと見抜いてくれるだろう。と、憲法をつくる段階では、そう考えられていたようです。

 

実際には、そうはならなかった。だから再審で無罪になったというケースが、これまでにも多数でてきました。

(再審で無罪になったケースの実例は書ききれません。興味がある方は、刑事訴訟法の教科書を読まなくても、「再審」で検索してウィキペディアでもご覧いただければ、かなり詳細に書かれています)

警察が無理な取調べをし、冤罪を生んできた、その根本的な原因は、このように日本国憲法にあるのです。

続く。

袴田事件 再審決定に思ったこと 2

袴田さんは、警察の取調べを受けている段階で、無実であるのに「自白した」とされています(もちろんこれは弁護側の主張です。検察側は今も袴田さんが真犯人と言っています。その点は、今後の再審の中で明らかにされるのでしょう)。

 

警察署の留置場に留め置かれ、連日、刑事の取調べを受けている、それは過酷な状況であるのは分かるとしても、袴田さんは元プロボクサーで、心も体もずいぶんタフな人だったはずです。そんな人でもウソの自白をしてしまうものなのか。

これはいくら議論しても実感できるものではないので、乏しいながら私の見聞を書きます。

 

私は実際に、警察署の取調室に入ったことがあります。いや容疑者としてではありません。

被害者側の代理人として、告訴状を出したり、被害相談をしたりすることがあるのですが、そういうときは、署内の会議室とか食堂の片隅で話を聞いてもらうことが多いです。

あるとき、食堂も会議室も使用中だったのか、刑事課の奥の小部屋に入れられたことがあります。

これが取調室か、と思いました。畳2枚分くらいの、コンクリートの狭い部屋で、かなりの圧迫感でした。ここにずっといたら、確かに精神の平衡を失うかも知れないと思いました。

 

もう一つ、これは私の経験ではなく聞いた話です。

私が司法修習生だったころ、大阪地検に配属されて、容疑者の取調べをしたことがあります。これは検察の仕事を学ぶために、司法修習生が皆やることです。

私と同期だったある司法修習生は、指導役の検事から「容疑者にちゃんと罪を認めさせて、反省していると供述をとって、それを調書に残せたら、あとは不起訴で釈放しよう」という方針を伝えられていたのですが、容疑者が意地を張っているのか、なかなか自供しない。

その司法修習生は困ってしまい、その容疑者を護送してきた刑事に、どうしたものかと相談しました。

するとその刑事が言った言葉は「わかりました。型にハメて来ますわー」。

そして刑事は容疑者を警察署に連れて帰りました。

数日後、再びその刑事に連れられて検察庁に現れた容疑者は、司法修習生に対し、「すんません、私がやりました、すんません!」と、恐縮しきりで自白したそうです。

 

聞いた話なので多少の誇張が混じっているかも知れないのですが、司法修習生が同僚の司法修習生にわざわざウソの話をする理由もないので、たぶん実話なのだと思います。

袴田さんも、具体的に何をされたかは知りませんが、こうして「型にハメられた」のだろうと想像しています。

続く。

袴田事件 再審決定に思ったこと 1

前回の予告どおり、袴田事件に触れます。

これは、さかんに報道されていてご存じだと思うのですが、昭和41年、静岡の味噌の製造会社の専務の自宅が放火され、4人の死体が発見されたという事件です。

元プロボクサーの袴田巌さんが逮捕され、警察の取調べの段階ではいったん自分がやったと認めましたが、裁判の段階では無実を主張しました。しかし裁判所の認めるところとはならず、静岡地裁は昭和43年、死刑判決を下し、最高裁で昭和55年に死刑判決が確定しました。

袴田さんは昭和41年の逮捕以後、ずっと身柄拘束されていたのですが、先月、静岡地裁の再審開始決定を受け、釈放されました。

 

まず前提として、捕まった人がどこに入れられるのか、という話をします。すでに過去にも書きましたが、今回の事件の根っこにもその問題があると思うので、改めて書きます。

 

① まず、警察に逮捕された人は、警察署にある留置場に入れられます。そこで警察署の刑事の取調べを受けます。

袴田さんは静岡県下の警察署に留置されて取調べを受け、この段階でいったんは「自白」しました。

 

② 取調べが終わって検察に起訴され、刑事裁判を受ける立場(被告人)となった人は、拘置所へ移され、裁判の日を待つことになります。

犯罪が比較的軽微で、身元もしっかりしているなどの理由で、拘置所に閉じ込めておく必要はないと判断されると、一定のお金を預けて出してもらうこともできます。これが「保釈」です。

袴田さんは、4人殺害という重大嫌疑を受けていたので、当然、保釈はされていません。

 

③ 裁判で有罪となり、懲役の実刑判決を食らうと、今度は刑務所に行きます。そこで刑期に服する間、いろんな仕事(刑務作業)をします。

袴田さんは、この刑務所には行っていないはずです。現に袴田さんが釈放されたとき、出てきたのは東京の小菅にある東京拘置所からでした。

 

このように、死刑囚は③の刑務所ではなく、②の拘置所にいることになります。

理由は知りませんが、私の理解では、刑務所とは社会復帰のための場所であり、刑務作業も社会復帰の準備に他なりません。しかし死刑囚は社会復帰を前提としていない。死刑執行を待つだけの身です。だから純粋に「待つ」ことだけを目的とする施設である拘置所に入っているのだと思われます。

 

ですから拘置所の中では、裁判の日を待つ被告人と、死刑執行の日を待つ死刑囚の、2種類の人が拘置されていることになります。

そして死刑囚の部屋は独房で、他の死刑囚と会話も禁じられ、死刑執行の日は伝えられることなく、その日が来たら、看守が朝とつぜん迎えにきて、そのまま死刑台に送られる、という話も、多くの方がご存じかと思います。

袴田さんは昭和41年の起訴後、48年間を拘置所ですごし、そのうち最高裁判決後の36年間を、確定死刑囚ということで、絞首刑になるのは今日か明日かという気持ちですごしてきたことになります。

次回へ続く。

新年度に「過去ログ」を見返して

4月に入りました。

毎年この時期は、裁判官も人事異動のシーズンであり、裁判所がバタバタしていて法廷での弁論があまり開かれません。したがって我々弁護士も裁判所に行く用事がなく、スケジュールがやや楽になります。

とはいえ、弁護士としても、事務所でたまっている書面作成の仕事などを片付けないといけないので、ヒマというわけではありません。

 

さて先週末、ふと思い立って、過去に自分の書いたブログを見ていたのですが、楽天ブログで書き始めたのが(こちら)、平成18年7月のことですから、あと2年と少しで10年になるわけです。

最近は更新頻度が鈍っておりますが、10周年を達成したら、それを記念して、ブログ記事の傑作選を集めて本にする予定です(エイプリルフールのウソです。こんなこと書くと出版業者が本当に「本を作りませんか?」と営業の電話をかけてきたりするのですが、こんな駄文を本にする気は全くありません)。

 

最近、ブログ更新のペースが鈍っている理由は4つあります。

1つめは本業が幸いにも多忙であるから。2つめは自宅で書こうとしても(独身時代はそうしていた)、今は自宅に帰ると子供と遊ばないといけないから。3つめは幼稚園のPTA活動に時間を割かれるためです。

4つめが最大の理由なのですが、雑文とはいえ8年近くも書いておりますと、いろいろ新しい事件が起こっても、その事件に関する法的論点についてはすでに書いたことがあるものが多く、同じ話を重ねて書くのも気乗りしない、という点にあります。

 

今回は話があちこちに行って恐縮ですが、過去に自分が書いたものを見返してみたのは、「袴田事件」のことを調べようと思ったからです。

最近、連日報道されたのでご存じと思いますが、死刑判決が確定していた人が、再審の開始決定を受けて釈放されたという件です。

 

死刑制度とか刑事裁判の再審についても、ここで度々触れてきましたし、この事件の再審請求は古くから行われていたので、当ブログでも自分で過去に何か書いていたかと思って遡ってみたのです。とはいえ、該当記事が出てこなかったので、まだ触れていなかったようです。

この機会に触れてみるつもりなのですが、多くは過去に書いたことの繰返しになると思います。それでも、目新しい問題も含むようですので、それを自分なりに整理してみるつもりです。

今回は予告だけで終わります。

一市民の見た「大義なき市長選」 2(完)

幼稚園民営化の条例案を通すために、橋下市長がここ数か月でしようとしてきたことを、前回書きました。市長は、これを早期に実現するため、行政各部と、公立幼稚園の現場に指示を出しました。

私が聞いた限りでは、①障害児受入れを義務付ける私立幼稚園の選定、②そこに給付する補助金などの予算編成、③私立幼稚園の教員が障害児教育ができるようになるための研修プログラムの作成などです。

この③などは、私立幼稚園の教員が、これまで何の縁もなかった公立幼稚園へ行き、障害児のいるクラスに配属されて「実践教育」を受けるわけでしょうから、その子の親はどう思うのか、また公立幼稚園側はその子の個人情報をどこまで明かしてよいのかなど、多くの問題が生じるでしょう。

しかし、大阪市の職員や、公立幼稚園の先生方は、私の接する限りでは極めて真面目で熱心な人ばかりなので、そういった予算編成やプログラム作りのために、多くの時間を割いたはずです。

それが、前回書いたとおり、2月のはじめに橋下市長がブチギレ再選挙をやると言い出したために、すべて宙に浮いてしまったのです。

 

市長選挙をするために、どんなに抑えても6億円くらいは必要になると言われています。

橋下市長や子分の区長、維新の議員たちは「公立幼稚園の予算に年間25億円もかかる」と言いましたが、今後、橋下市長が1回ブチギレるたびに市全体の幼稚園の年間予算の約4分の1が吹き飛ぶことになるわけです。

加えて、無駄になるのは、目に見える費用として出ていく6億円だけではありません。

上に述べたように、大阪市の職員や、公立教育の現場の教員たちは、橋下市長の「思いつき」を実現するために、予算編成やプログラム作成などの業務に追われています。そのためにかかった時間も、労力の成果も、宙に浮いてしまっています。つまり無駄です。

私が一幼稚園児の父親としてこの数か月間を垣間見ただけでも、これだけのマンパワーの無駄が生じているのです。大阪市政全体で生じているそうした無駄をコストとして見積もれば、損失はもっと増えるでしょう。

 

それから、損得の話でいうと、橋下市長は「大阪都」構想が実現すれば、年間約900億円の収支改善になるから、市長選挙の6億の出費など何でもない、と言いました。

しかしこれは、多くの方もお気づきの通り、以下の2点において、明らかな詭弁です。

まず、橋下市長が仮に市長に再選されたとしても、議会で維新の会は過半数を取れていませんし、公明党が今後協力に回る可能性は低い。議会が変わらない以上、大阪都だって否決されるので、市長選だけもう1回やるのは無意味です。

(公明党は橋下市長にさんざん罵倒されていましたが、それで今後もし、維新の協力に回るようなことがあったとしたら、談合によってよほどの利益・権益を与えることを言い含められたと、市民は見るべきです)

もう一点。900億円などという数字を示されると、何となく、ちゃんとしたデータがあって本当なのかな、と思ってしまいがちですが、これもマヤカシです。

たとえばこれまで、橋下市長と維新の人たちは「区長や小学校長に民間の人材を投入すれば現場は良くなる」と言っていたのに、実際には、たくさんの不祥事や辞職で混乱ばかり生じています。その程度の単純な見通しすら間違うような人たちの出した計算ですから、きっと間違っています。

もし本当に計算が合っているのなら、年間25億円しか要らない公立幼稚園は、なおさら存続させるべきでしょう。

 

「大義なき市長選」などと新聞等にも書かれていますが、何の意味もない上に、損失や人材の疲弊という害悪ばかり生じる選挙です。

いつも話を息子の幼稚園にからめてしまってすみませんが、市長選挙に際して一市民、一保護者として感じたところを述べました。

一市民の見た「大義なき市長選」 1

この3月に、大阪市長選挙が行われるということで、わが大阪市はいろいろとゴタゴタしています。

今回の選挙に至った直接の事情は、これまで橋下市長や維新の会と友好的関係にあった公明党が離反し、それに橋下市長がブチギレて再選挙を言い出したわけです。「ブチギレ」などとは稚拙で品のない表現だと我ながら思いますが、今回はまさに「ブチギレ」という表現がピッタリきます。

このへんの事情を、一市民の観点から、少し書かせていただきます。

 

以前、公立幼稚園民営化の問題に絡んで、昨年11月の大阪市議会にて、民営化条例案は、維新の会以外の政党がすべて反対したため、(ごく一部の廃園等を除いて)否決されたと書きました。

しかしその後、一部保護者や市会議員からの話として、橋下市長と維新の会は今年の2月に民営化案を再提出すると聞きました。維新の会は昨年11月の否決後、公明党にしきりに秋波を送っているため、今度は可決される見込みが出てきた、という話も聞きました。

 

なお、今回のゴタゴタで、市政がこのように一部政党の密室での「談合」によって進められていることも明らかになりました。

補足ですが私自身は、市民の利害の調整の場としての談合を否定しません。しかし、「公開討論会」が好きな橋下市長が、実際には談合を繰り返しており、そして談合での密約(公明党が維新の会に協力するという約束)を破られたと言ってブチギレているのが滑稽に感じます。

 

11月に否決されたばかりの幼稚園民営化案を、3か月後の2月にまた提出して通るのか、誰でも疑問に思うでしょうけど、実際には上に述べたとおりの「談合」が行われていたわけです。でも、橋下市長もさすがに「談合により今回は可決されました」とあからさまに言うことはできない。

これを正当化する方法は2つです。1つめは「条例案を練り直して、誰もが納得できる民営化プランを示すこと」です。しかし、橋下市長も維新の議員も、そこまで頭は良くないので、3か月間で条例案の練り直しをするなど不可能です。

もう1つの方法は「社会情勢が変化したと示すこと」です。橋下市長はこちらを取りました。具体的に言うと、障害を持つ児童を、私立幼稚園でも受け入れることができるための、体制づくりです。

 

公立幼稚園のなくすことへの批判として、新聞などでもよく報じられていたのは、私立幼稚園は経営効率や収益を重視せざるをえないので、障害児を受け入れてくれなくなる、ということでした。

だったら、そういう状況をなくせばいいのでしょう、と橋下市長は考えたのです(私がここで述べてきたとおり、民営化の問題はその点だけはないのですが)。

私立幼稚園でも障害児を受入れできるように、橋下市長は何をしようとしたか。

まず、私立幼稚園のいくつかを指定し、そこに障害児の受入れ義務を負わせるのです。私立幼稚園側が「受入れできる体制にないのですが」と言ったとしたら、補助金を出したり、園内に介助などの設備を作れるよう金銭的援助をします。

さらに「そんな教育ノウハウを持った教員がいないのですが」という私立幼稚園のために、そこの先生を公立幼稚園で研修させる制度も作ろうとしました。

 

かくて、公立幼稚園を潰して予算を浮かせる、ということを実現するために、障害児の受入れのため私立幼稚園に新たな予算をつけ、またそこの教員を公立幼稚園で学ばせる、というわけですが、おかしいと思われませんでしょうか。

それなら、最初から公立幼稚園を潰す必要はないじゃないか、と多くの人は感じると思うのです。

結局、そうした制度づくりも、市長選挙が始まるために途中で放棄され、今は宙に浮いた形になっているのです。

次回に続く。

「バー 鉄の扉」で検索された件について(雑談)

かたい話が続いたので今日は雑談です。

数日前に、当ブログへのアクセス数が急に増えたことがありまして、要因は何だろうと管理用ページを見ると、検索キーワードで「大阪 バー 鉄の扉」というのがたくさん出てきました。

 

2月19日の新聞やネットニュースで見ましたが、大阪のとある「隠れ家」的なバーが、「食べログ」に自分の店が掲載されているのを削除するようにと、食べログの経営母体(カカクコム)を提訴した、とのことです。

その店では、鉄の扉の周辺に「開けるな」と貼り紙がしてあり、扉を開けるとゴージャスな作りのバーになっていて、お客さんをそのギャップで驚かせたいのに、食べログに書かれるとその目論見がバレてしまう、だから削除せよ、というわけです。

食べログ側は「表現の自由」を理由に、削除には応じない構えのようです。

 

これでなぜ、当事務所のブログのアクセス数が上がるかと言いますと、「大阪 バー 鉄の扉」というキーワードが、ある記事にヒットしてしまうからのようです。

このメインブログとは別に、私がたまに書いているブログ(こちらで、私の好きなバーの紹介をしているのですが、その中で、難波の法善寺横丁にある「BAR川名」という店について、目だたないところに「鉄の扉」があって…と書いたのが、検索でヒットしてしまうのでしょう。

言うまでもありませんが、この「BAR川名」は、上記の記事で訴訟を起こした店ではありません。バーには詳しい私も、その店がどこであるのか、全く存じません。

 

ちょっと話は変わりますが、私はバーでも小料理屋でも「隠れ家」を売りにする店があまり好きではありません。

隠れて飲みたいのであれば、自宅か、愛人の家か、どこかの穴ぐらで飲めば良いのです。バーなど、外部の店で飲む以上は、そこは他の客も出入りする「パブリック」な場であり、誰に見られても恥ずかしくない立ち居振る舞いをしないといけないと考えています。

店主としても、パブリックな場を提供する者として、どんな客にもきちんと対応し、特定の客と慣れあうようなマネをしてはいけないと思います。

常連さんたちが集う秘密の隠れ家で、店主は常連たちにネットに書かないよう申し伝えているような店を、私も紹介されて何軒か知っていますが、そういういかにも「内輪で盛り上がってる」感のある店には、私はまず通いません。

 

さて、この裁判が今後どうなるかというと、私にはどちらでも良い気がしますが、確かに食べログ側は店の誹謗中傷を行なっているわけではない以上、削除せよというのは認められにくいかも知れません。もっとも、私だったら、そんなことで揉めるくらいなら削除くらいは応じたほうが早いと思うのですが。

幸い、私のブログは、店主に断って書いているわけではありませんが、これまで苦情が出たことはありません。でも何らかの苦情が出れば、直ちに削除するつもりでおります。

憲法解釈と集団的自衛権 4(完)

長々と書いてきましたので、ちょっとだけ整理します。

集団的自衛権を認めるべきかどうかの議論には2種類あり、①憲法の解釈という観点から、合憲か違憲かという議論と、②日本の国益や安全というメリットの観点から、認めたほうが良いかどうかという議論です。

①については前回書いたとおり、学説は分かれており、解釈上はどちらもありえます。②は、政治・外交の世界の問題なので、一法律家が軽々に判断を下すのは控えます。

ただ、①の側面において、解釈上、認める余地もある以上は、②の側面において、日本はどんな場合にどこまでのことができるのか、といったことを具体的に議論していくほうが、よほど良いと思っています。

それを、一部の人たちは、上記①の部分で「議論しようとすること自体がありえない」と言って安倍総理を批判しているわけですが、これはかつて、原発事故が起こったときのことを議論してこなかったために東日本大震災で大変な混乱が生じたことを思い出させる、危険な発想であると感じます。

 

さらに言うと、仮に「集団的自衛権を一切認めない」という立場にたったとして、安倍総理の憲法解釈に異を唱えるだけでは、この問題は決して解決しません。

なぜなら、「護憲派」の皆さんが大好きな憲法9条の2項には「陸海空軍その他の戦力」は保持しない、と抽象的に書かれてあるだけなので、常に「解釈」の問題が生じるのは避けられないからです。

そのため、古くは自衛隊や日米安保が「戦力」にあたるかどうかが解釈上の問題となり、近年では国連平和維持活動(PKO)や集団的自衛権が問題として生じてきました。

ですから、集団的自衛権を認めない立場の方々が、この問題を根本的に解決しようと思ったら、取りうる方法はただ一つです。それは、憲法を改正して、9条に「集団的自衛権は、これを保持しない」という一節を付け加えることです。

つまり「改憲」が必要なのです。憲法を改正して、集団的自衛権は認めないと明記しない限り、この問題は解決しません。

 

しかし、集団的自衛権反対派の方から改憲の議論は出てきません。その理由は、以下の2つのいずれかでしょう。

一つは、憲法をきちんと読んでいないので、「護憲」に徹したところで、集団的自衛権に関して解釈問題が発生することに気づいていないため。

もう一つは、そこには気づいているのだけど、改憲に向けて政治力を結集するなどの努力をするのが面倒で、「護憲」を唱えているだけのほうが楽だと思っているため。

 

安倍総理に憲法の教科書をプレゼントした一部の弁護士がどういう考えであったのか、私は知りません。ただ、何の議論も展開することなく、総理大臣に教科書を送り付けて何かを成し遂げた気になっているのだとしたら、同じ弁護士として恥ずかしい限りです。

集団的自衛権について、肯定・否定いずれの立場にたつかは、主権者である私たち国民一人ひとりが判断すべきことですが、「憲法を勉強し直せ」「立憲主義からしてありえない」などという一部の法律家の妄言には惑わされないようにしてほしいと思います。

憲法解釈と集団的自衛権 3

本題の、集団的自衛権の話にようやく入ります。

集団的自衛権の意味は前々回に書いたとおりですが、具体的には、日本が侵略を受けたときにアメリカが助けにきてくれる、という代わりに、アメリカが攻められれば日本も助けにいく、ということです。

アメリカ本土を他国の軍隊が攻め込むことは考えにくいのでしょうけど、たとえば北朝鮮がアメリカに向けてミサイルを撃ち、それが日本の上空を通過中に、日本の自衛隊がそれを迎撃してよいか、といったことが想定されています。

 

集団的自衛権を認めないと、アメリカを狙っているミサイルには手出しできない、ということになります。

それで日米は対等な同盟国と言えるのか。そんな日本を、万一の有事の際にアメリカが本気で防衛してくれると思うのか。そういったあたりが、集団的自衛権を認めるべきだという立場の方の論拠です。

一方で、そんなものを認めてしまうと、「アメリカの大義」とやらで日本に関わりのない無用な戦争に巻き込まれる、というのが反対論の根拠でしょう。

 

ここでは、集団的自衛権そのものの是非を論ずるのが本題ではありません。それは政治、外交、国防に関わる問題ですので、一弁護士が論じるには重すぎます。

あくまで、憲法の解釈上の問題として、集団的自衛権を認めるのは合憲か違憲かについて、どんな議論になっているかを紹介します。

 

これまでの政府見解は「権利としては持っているが、行使することはできない」という立場でした。権利なのに行使できないという論理は、いかにも不自然です。そして安倍総理がその解釈を変更しようとしているわけです。

 

憲法学者はどう言っているかというと、集団的自衛権を否定する(認めれば憲法違反である)という立場が有力です。

元東大教授の故・芦部信喜(あしべのぶよし)氏の「憲法」(岩波書店)という教科書には「日本国憲法の下では認められない」と明確に書かれています。

弁護士が安倍総理にプレゼントしたというのも、この本です。憲法学界の通説とも言える教科書で、私も司法試験の受験生のころに繰り返し読んでおり、思い入れはあります。

とはいえ、あくまで学界内で権威があるというだけであって、最高裁がこの教科書に準拠しているわけではないし、政府見解とも異なります。

 

一方で、学説の中には、集団的自衛権を肯定する見解も存在します。

中央大学教授の長尾一紘(ながおかずひろ)教授が明確にこの立場に立っています。この教授は私の司法試験の口頭試験のときに私の試験官だった人で、同様に思い入れがあります。

長尾教授の「日本国憲法」(全訂第4版 世界思想社)には、「この問題を解決するにはどうすればよいのであろうか。方法は簡単である。政府が集団的自衛権についての見解の変更を公式に発表するだけで足りる」とあります。

この見解に立てば、安倍総理の行動はむしろ望ましいということになります。

このように、憲法学説も分かれているのです。

 

集団的自衛権を認めないという立場に立って安倍総理を批判するのは自由です。しかし法律家がそれをやるなら、自衛隊の存在についてどう考えるか、集団的自衛権を認める見解と認めない見解がある中で、認めない見解に立つ理由は何か、そういったことを明らかにした上で、主張を展開すべきなのです。

教科書をプレゼントしたという弁護士の話を聞いて、弁護団会議で資料だけドサッと配って得意になってる弁護士を思い出したと前々回に書きしましたが、それはまさにこういう点にあります。

具体的な問題を論じるにあたって、いろんな見解を参照したり批判したりしながら、なぜ自分はこの説に立つのか、といったことを説明せず、本や資料だけ持ってきて「これを読めば分かる」などと言うのは、およそ建設的な法律家の態度とは思われないのです。

 

長くなりましたが、次回、締めくくって終わります。

憲法解釈と集団的自衛権 2

前回の続きとして、集団的自衛権を憲法解釈として認めることについて検討します。

まず、今回の安倍総理の発言(集団的自衛権に関しての憲法解釈を私が示す、と言ったこと)に対して、「解釈による改憲」を認めることになるとの批判があります。

つまり、憲法を改正するには本来、国会の議決と国民投票という手続きが必要なのに、それを解釈つまり権力者の思いつきだけでやってしまうことになる、という批判です。

これは、一部の「護憲派」が好きなレトリックですが、稚拙かつ悪質な「言いがかり」にすぎません。安倍総理は当然ながら、自分の頭一つで憲法の条文を変更(つまり改憲)しようとしているわけではありません。憲法に明確な規定がないことについて、憲法の条文の解釈を示そうとしているだけです。

 

どんな憲法問題であれ、「解釈」は避けて通れません。

前回、「自衛権」の説明として、具体的には有事の際に自衛隊が出動して国を守る権利であって、それが認められない以上は国としての体をなさない、と当然のように書きました。

しかし、実際は自衛隊すら、憲法解釈のひとつとして、その存在を認められているにすぎません。 その解釈ひとつとっても、戦後ずいぶん揺れ動いてきました。

戦後すぐのころは、政府は憲法9条の解釈として「完全非武装」を想定していました。その後、朝鮮戦争などの動乱があり、政府が警察予備隊(のちの自衛隊)を創っていくにあたり、「戦力」の解釈を微妙に変更させているのです。自衛隊は、戦車もイージス艦も持っているが、それは他国を脅かす程度のものではないので、「戦力」には当たらないと。

現在の隣国の不穏な動きを見て、そんな解釈変更はけしからん、自衛隊は即時なくすべきだ、という人がどれだけいるでしょうか。

 

安倍総理に憲法の教科書を送った弁護士がどういう見解であるかは知りません。

もし、さすがに自衛隊は必要だ、と考えているのだとしたら、国を守るために「憲法解釈」が必要であり、時にはその解釈に変更がありうることを認めていることになります。

徹底した非武装・平和主義の立場に立って、自衛隊の存在自体を認めない、という立場に立つのであれば、集団的自衛権という、いわば末端の問題で安倍総理を批判するのではなく、憲法解釈の変更により自衛隊の存在を認めたことを批判すべきことになります。

つまり、昭和30年前後の総理大臣だった吉田茂や鳩山一郎に文句を言うべきことになりますが、いずれも故人なので、その孫である麻生太郎元総理や、鳩山由紀夫元総理にでも文句を言えば良いでしょう。

 

…と、国防上の重要問題にはどうしても憲法の解釈が必要で、それは国際情勢などに応じて変遷していかざるをえない、という話をしているうちに、長くなってしまいました。

現在議論されている集団的自衛権の問題は、憲法解釈としてどう扱われているか、それは次回に続きます。