憲法解釈と集団的自衛権 1

毎年のことながら、今年もたくさんのチョコレートをありがとうございました。

さて、ネットニュースで見たのですが、一部の弁護士が、安倍総理に「憲法の基本を学んでね」と、バレンタインのプレゼントに憲法の教科書を送ったという記事がありました。

大阪ふうに言えば「しょーもない」ニュースですが、憲法好きで名前に「憲」の字をいただいている私としては、これに触れずにおれません。

 

私はこれまで、いろんな事件で弁護団に所属していましたが、会議のときなどに弁護士がよくやることとして(弁護士に限らないかも知れませんが)、やたら分厚い資料のコピーをドサッと配布するだけで、「で、何なの?」と感じたことがよくありました。

憲法の教科書を総理大臣に送ったという弁護士の行動を聞いて、そのことを思い出したのです。

 

ネットニュースなどを見た限りで、彼らの言い分をフォローしておきますと、安倍総理の最近の発言のうち、①「憲法とは国家を縛るものだというのは昔の考え方だ」、②「集団的自衛権を行使できるか否かについては、私が責任をもって解釈する」と言ったあたりを問題としているようです。

この①については、自民党がずいぶん以前から言っていることなので、今さら特に触れません。だた、ひとことだけ言うと、「憲法」の最もシンプルな定義は「国家の基本となる法律」のことなので、必ずしも「国の権力を縛るもの」ではなく、「国のあり方、国柄」を示すものだという安倍総理の表現は、全くの間違いというわけではないと考えます。

 

上記の弁護士がいま問題にしているのは、②の、「集団的自衛権」が日本に認められるか否か、その解釈を総理大臣が示す、というあたりなのだと思います。

集団的自衛権というと、言葉は難しいですが、簡単に説明します。

 

まず、「自衛権」とは、わが国が自分の国を守る権利です。

たとえば中国が尖閣諸島を征服し、さらに沖縄、九州、本州と攻め込んできたとしたら、自衛隊が出動して中国軍による侵略・略奪を排除する、それが自衛権です。それすら認められない(つまり外国に侵略されたら何もできない)というのは、国としての体をなしておらず、解釈としてあり得ないでしょう。

 

次に「集団的自衛権」とは、自衛権を国の集団で行なうことです。たとえば、中国がアメリカの領土やら軍艦を襲ったとして、日本がアメリカと一致協力してアメリカを守るための行動を行なうことです。

この集団的自衛権というものを日本が持っているのかどうか、この点は、わが日本国憲法には、何も書かれていないのです。

書かれていないから、「解釈」として、それを認めようとしているのが安倍総理です。それに対して、一部の弁護士が、それは間違いだと言って、憲法の教科書を「プレゼント」したというわけです。

用語の解説をひととおり行ったところで、次回に続きます。

音楽と嘘と法的責任 2(完)

前回は雑談ばかりだったので、今回は早速本題から入ります。

 

まず、佐村河内さんのCDを買ったという人が、「耳が聞こえない作曲家というから感動してCDを買ったのだ、ウソならカネ返せ」と言ったとしたら、認められるかどうか。

これはおそらく無理でしょう。CDの売買契約を取り消す理屈としては、詐欺(民法96条)が考えられますが、CD屋さんが意図的に客を欺いたわけではないから詐欺にあたらない。

(民法95条の錯誤も考えられますが、この場合は「動機の錯誤」にすぎない。長くなるので解説は省略)

 

それに、きっかけはどうあれ、今回の騒動のあと、CDは逆に売上げが伸びているみたいですし、CDで音楽を聴くにあたって、作者の耳が聞こえないなどというのは、あくまでサイドストーリーでしかない。

(前回紹介した、音楽好きのバーのマスターも、たいしたことない音楽だと思ってCDを捨ててしまったらしく、今になってそのことを悔やんでいるそうです)

 

では、佐村河内さんを招いてのイベントやコンサートが中止になった場合、イベントの主催者は、チケットの払戻しなど諸々の損害を、佐村河内さんに請求できるか。

これは認められる可能性が高いように思えます。

イベントに参加する客としては、やはり、佐村河内さんというすごい音楽家を見たいがためにお金を払うのです。その正体がペテン師だと知れば、そんなもの見にいきたくない。

この場合、作者の経歴は、サイドストーリーなどではなく、観客のニーズを呼び起こすメインストーリーとなっており、そこにウソがある以上、イベントも成り立たない。そんなウソをついたほうは、賠償を求められてもやむをえない、ということになると思われます。

 

それから、報道されているとおりで、耳が聞こえるのに聞こえないと言って障害年金を受け取った場合、身体障害者福祉法により懲役などの刑罰に処せられる可能性があります。

そこまで行くかというと、警察・検察は「佐村河内さんが障害者手帳を取得した当時、本当は耳が聞こえていた」ということを立証しなければならず、それはなかなか困難なように思えます。

 

さて、渦中の佐村河内さんは、「近いうちに公の場で謝罪します」というファクスを報道機関に寄こしたようですが、この人の口から本当のことが聞けるのはいつのことでしょうか。

ちなみに、前回書いた「ブルース・リーをノックアウトした男」ことジョー・ルイスは後日、「本当にブルース・リーをノックアウトしたんですか?」と聞かれ、こう答えたそうです。

「ブルース・リーは酒を飲めないけど、俺は軽く3杯はイケるぜ」と。つまり飲み比べならブルース・リーをノックアウトできるというわけで……よく袋叩きにされなかったものです。

もはやメディアから袋叩きの佐村河内さんですが、その肉声を待ちたいと思います。個人的にはそんなに憎めない人なので、ジョー・ルイスなみに開き直った言い訳を期待しています。

音楽と嘘と法的責任 1

出遅れた感じがしますが、佐村河内守さんのことについて触れます。

といっても、私自身はこの方をほとんど知りませんでした。この人のCDを一度だけ聴いたことがあって、それは、私の行きつけの堀江かいわいのバーで、音楽好きのマスターが「耳の聞こえない日本人の音楽家ということで注目を集めているそうです」と言って、交響曲ヒロシマだったか何かを流してくれたのです。

私自身は、ピンとこないと言いますか、日本人の音楽家ならまだ喜多郎の「シルクロード」(「笑い飯」が奈良県立民族博物館の漫才で「ぱぱぱーぱぱー」と口で言ってるあの音楽です)のほうが、ずいぶんいいと思いました。

 

その音楽が、そもそも佐村河内さんの作曲ではなく、ゴーストライター(新垣さん)が作った曲だったということで大騒ぎになっていますが、このことに関して私の感想を述べます。

 

もともと、音楽や芸能の世界では、その宣伝に、ある程度の誇張や虚偽は頻繁に含まれています。

全く話が変わりますが、1970年代にブルース・リーの映画がヒットしたとき、アメリカのジョー・ルイスという空手家が主人公を演じた「ジャガーNo1」という映画が作られ、この映画のキャッチコピーとして、ジョー・ルイスは「ブルース・リーをノックアウトした男」と紹介されていました。

ジョー・ルイスがブルース・リーと戦ってノックアウトしたという事実はなく、このキャッチコピーは明らかに虚偽なのですが、これが問題になることはありませんでした。

その理由は、この映画が全くヒットしなかったこともありますが、当時そのキャッチコピーを真に受ける人がほとんどいなかったためです。

もし、誰かがこのキャッチコピーを真に受けて「映画を観たけどジョー・ルイスがぜんぜん強そうじゃなかった、カネ返せ」と言ったら通るかといえば、それは無理でしょう。

ブルース・リーをノックアウトしたかどうかは、映画の「サイドストーリー」でしかなく、その部分に多少のウソがあっても、映画の価値自体は変わらない、ということです。

 

佐村河内さんの「耳が聞こえないのに自分で交響曲を作曲した」というウソも、それと同じレベルの話であると、当初は感じました。

それで憤っている人がいたとしたら「あんなパッとしない音楽に、耳が聞こえないって触れこみだけで乗ってしまうのがおかしい」というのが、正直なところ、私の第一印象でした。

ただ、佐村河内さんは、多くの人が同情を寄せてしまいやすい、感動させられてしまいやすい部分に対して、それとわかって意図的にウソをついているあたりが、やはり悪質なのだろうなと、今は感じています。

この「ウソ」についていかなる法的責任が発生するかは、次回に述べます。

新弁護士加入のお知らせ

今回の記事は事務所の宣伝とごあいさつです。

このたび、当・南堀江法律事務所の所属弁護士として、西平守和弁護士が加わることとなりました。

西平弁護士は、医師の国家資格を持ち、勤務医としての経験を有し、さらに法科大学院を経て司法試験に合格したという経歴の持ち主です。司法修習生として当事務所にて弁護士実務の研修を経たことが縁となって、当事務所に所属する運びとなりました。

西平弁護士は引き続き、現役の医師として現在も臨床の現場に立っているため、当事務所には非常勤となりますが、医療の分野と法律の分野を架橋して、人の悩み、痛み、紛争等を解決すべく、その能力を発揮してくれることと存じます。

 

当事務所としても元々、医療関係の訴訟を重点的な取扱い分野としておりますので、今後一層、この分野に積極的に取り組んでいきたいと考えております。

また、最近、当事務所にも相談が増えつつある交通事故案件にも、医師の観点を取り入れつつ、取り組んでいきたいと思います。

幸い、当事務所は特定の保険会社との提携関係がありませんので、医療問題、交通事故などについて、立場を問わず、広く対応できるものと考えております。

医療に関する法律相談については、西平弁護士と私でお聞きすることになります。上記のとおり西平弁護士は非常勤ですので、ご相談ご希望の方は、相談可能な日程を当事務所にお問い合わせ願います。

 

さらに、この機会に当事務所の所属弁護士の紹介をさせていただきます…

 

すでに当事務所にて5年のキャリアを積んでいる真鍋直樹弁護士は、民事・刑事を問わず多様な事件の処理をこなしてきた他、全国B型肝炎訴訟弁護団に所属し、B型肝炎ウィルス感染被害の救済に奔走しております。

B型肝炎被害の分野に関しては、真鍋弁護士がエキスパートですので、ご相談ご希望の方はお問い合わせください。

 

各弁護士の経歴・役職・自己紹介などについては、当事務所ホームページの弁護士紹介のコーナー(こちら)からご覧いただけます。

私(山内)の経歴が一番パッとしない気もしますが、今後とも、当事務所と各所属弁護士を、よろしくお願いします。

血縁なき子供への認知の無効請求 2(完)

前回から、間が空いてしまってすみません。父親が認知した子が自分の子でなかった場合、父親はその認知をなかったことにできるか、という問題をどう考えるべきか、という話をしようとしていました。


これまでの裁判例や学説は様々でしたが、主流的な考え方は「血縁がない場合であっても、錯誤に基づく認知でない限り、無効とできない」といったものではないかと思います。

逆にいうと「血縁のない子で、かつ、錯誤つまり勘違いによる認知であれば、無効にできる」ということです。この考え方に基づいて、ケースをわけて検討してみます。

①血縁がある子を認知した場合。

世の中の認知の大半がこれでしょう。実際に血縁のある自分の子を認知したケースですから、当然、あとから無効にすることを認めるべきではありません。

②血縁がないが、それを知らずに認知した場合。

女性から「あなたの子よ」と騙されて認知した場合です。この場合は、血縁がなく、かつ錯誤もあるので、認知無効にできることになります。

(大澤樹生と喜多嶋舞のケースと似ていますが、婚姻関係にある男女の場合は「親子関係不存在」や「嫡出否認」の裁判となり、婚姻関係にない場合が、この「認知無効」の問題となるというのは、前回書いたとおりです)

③血縁がないが、それを知って認知した場合。

女性から「あなたの子にしてあげて」と言われて、自分の子じゃないと知りつつ認知した場合です。前回紹介した最高裁のケースはこれにあたります。

自分の子じゃないと知ってあえて認知するわけですから、従来の考え方によれば、錯誤はなく、無効にできないことになります。


ところが、今回、最高裁は、この③のケースを無効とすることを認めたわけです。

つまり最高裁は、錯誤があったか否かではなく、基本的に、血縁の有無を前提に認知の効力を判断すべきことを明らかにしたのです。そして血縁のない父親は、前回引用した民法786条の「利害関係人」にあたるとして、無効を主張できるとしました。

そうすると、前回紹介したような、一時的な「ええかっこしい」だけで他人の子供を認知し、育てられなくなったら認知をひっくり返すという、男の身勝手が許されることになるし、その子の福祉にも適さない、という懸念が残ります。

その点は、最高裁の判決文によると、「血縁のない父親の認知無効の主張は、権利の濫用にあたるものとして認められないこともある」と述べています。

(判決文は、最高裁のホームページで誰でも読めます。「判例情報」→「最高裁判所判例集」→「平成26年1月14日」で期日指定で検索してください)


今回の事案は、新聞報道によると、日本人男性がフィリピン女性の子供を、自分の子でないと知って認知して、日本国内に招き入れたというケースであり、すでにこの男女は長年別居している上に、フィリピンに帰れば実の父親もいるようなので、日本人男性の認知を無効としても、子供にかわいそうなことにはならない。

また、詳細は判決文に書かれていませんが、結論として認知が無効とされたということは、男性のほうでも、単なる身勝手で認知をひっくり返したというわけでもなかったのでしょう。


今回の最高裁判決で、割と重要な実務上の問題が、割とシンプルな考え方で統一されました。

「認知の効力は血縁を基本に考えるが、子供の福祉も重視しつつ、男が身勝手にひっくり返すことも許さない」ということで、結論としては妥当なものであろうと思います。

血縁なき子供への認知の無効請求 1

遅いごあいさつとなりましたが、今年もよろしくお願いします。

昨年から、親子と戸籍に関する問題にばかり触れている気がしますが、また重要な判決が出たので、それに触れておきます。最高裁が14日、血縁のない子に対する認知の無効請求は可能であると判断しました。

 

昨年末に触れた大澤樹生の子供の問題と似通っているところがあるので、そのとき書こうかとも思ったのですが、少し異なる場面の問題ですので、触れずにおきました。今回、タイムリーな判決が出たので、この機会にあわせて触れておきます。

大澤樹生の一件は、戸籍上の婚姻関係にあり、その夫婦の子(嫡出子)と思われていたが違った、という問題で、「親子関係不存在確認の訴え」という裁判が行われることになります(「嫡出否認の訴え」の話は細かくなるので省略します)。

 

一方、「認知」とか「認知無効の訴え」いう問題は、夫婦関係にない男女とその子との間で発生します。

古くから典型的にあるのは、妻子ある男性Aが愛人との間に子供を作ってしまい、愛人から「奥さんと別れてくれとは言わないけど、この子を認知して」と迫られる場面でしょう。Aが認知届を役所に提出することで、その子とAの親子関係が発生します。

その子は愛人の戸籍に入りますが、戸籍には父としてAの氏名が記載されます。具体的効果としては、Aは子供の養育費を愛人に払う必要が生じるし、Aが死亡した場合には子供に相続権が発生します。

このように、認知というのは、婚姻関係にない男女の間に生まれた子供に対し、身分的・経済的な保護を与えるための制度といえます。

 

ですから、民法の規定では、認知の効果がひっくり返されてしまわないよう、厳重に規定しています。

民法785条では「認知をした父または母は、その認知を取り消すことができない」と規定されています。(なお、「母は」とありますが、母親は実際には子供を生むわけですから、わざわざ認知しなくても、生んだという事実だけで母親と子の関係が認められるとされています)。

認知する父と認知される子に血縁が存在する場合は、当然それで良く、あとから「認知は無効だ」などと言わせる必要はありません。

 

一方で、血縁が存在せず、かつ、父親もそれがわかっているのに、認知してしまうケースも、中にはあるそうです。

考えられるのは、成金の社長とかが、場末のホステスと親しくなってしまって、そのホステスが、誰が父親だかわからない幼な子を抱えていたとします。

で、そのホステスに「あなたの子供として認知してあげて」と頼まれた成金社長が、子供かわいさもあり、ホステスへの下心もあり、男の度量を見せようとして「よし、認知してやるよ、わしの子として援助してやろうじゃないかね、ガハハー」と認知してしまうような場合です。

 

今回の事案が、実態としてどういうものだったか、私はまだ存じませんが、最初から血縁がないのをわかっていて認知した部類のケースであったようです。

民法786条には「子その他の利害関係人は、認知に対して反対の事実を主張することができる」とあり、これに基づいて認知の無効を主張することを認めたのが、今回の最高裁の判断です。

以上を前提に、この判断をどう理解すべきかについては、次回に続きます。

当ブログの1年を振り返る

早いもので今年も残すところ1日半です。皆さまの1年はいかがでしたでしょうか。

ここで、自分自身の1年を大げさに振り返ろうというつもりもないですが、当ブログのこの1年を、データに基づいて回顧してみます。

管理人用のページで、今年の1月1日から今日12月30日の朝までのアクセスについて、見てみましたところ、総訪問者数はのべ49,706人、ページビューではのべ94,758ページをご覧いただきました。

 

このサイトに来られた方の検索キーワードのトップ3は以下のとおりです。

1位は、普通ですが「山内憲之」で、832件。

ちなみに、同姓同名の医師が宮崎県におられるので、誰かが宮崎の山内医師のことを調べようとしても私の拙文ばかり出てくるわけで、申し訳ないなあと思っていたのですが、今年、Facebookでその山内憲之さんから友達申請が来まして、とても嬉しかったです。

2位は、「司法試験 勉強法」で777件。

私が司法試験予備校講師を兼業していたころに書いたもの(これ)が、今でもよく参照されているようです。私のころからは司法試験もずいぶん様変わりし、どこまで役立つのかは分かりませんが。

3位は、「弁護士 話し方 豊かな言葉」で690件でした。

ここ数年、夏から秋にかけて、この検索キーワード数が伸びるので、何だろうと思っていたら、小学校の国語の教科書で、いろんな職業の人の豊かな言葉の使い方を調べてみようというテーマがあって、それで検索が増えるのだと、とある教員の方からご教示いただきました。

 

ブログ記事のうち、今年よく参照いただいたテーマのトップ3は以下のとおりです。

1位 「豊かな言葉について弁護士が考えたこと 1」 5,558件。

去年の記事ですが、突出してアクセスが多いです。上記の教員の方のご教示により、「豊かな言葉」と書けば検索数が増えると味をしめて書いたものです。すみません。

2位 「冷凍庫写真の店員に店舗閉鎖の責任を問えるか」 1,563件。

今年、大きな問題になりました。世間一般的にも、耳目を引いたのでしょう。

3位 「市立幼稚園の民営化に反対する」 964件。

個人的な思い入れで、シリーズ記事にしましたが、ご覧下さった皆さんありがとうございました。

 

来年も引き続き、本業の片手間に、思ったこと感じたことを書かせていただきます。

では良いお年をお迎えください。

DNA鑑定と父子の関係 2(完)

前回の続き。

自分の子供だと思っていたら、DNA鑑定の結果、実の子である確率が0%だと判明したら、親は法的には何ができるのか。説明の便宜上、引き続き、大沢樹生と喜多嶋舞、その息子を例にとって進めます。

考えられるのは、前回も少し書きましたが、大沢樹生が親子関係不存在の確認を求めて訴えることです。相手は息子で、未成年ですから親権者も相手にすることになります。今朝みた「おはよう朝日です」の芸能コーナーでは、今の親権者は喜多嶋舞の母のようなので、この人が相手となるわけです。

 

従来、親子関係不存在確認の訴えは、妻が子を出生したが、夫は戦争や海外赴任で全く性交渉がなかったような場合などに起こされてきました。科学の発達により、今回みたいに、DNA鑑定というものが、この訴えのきっかけになることが増えていくのかも知れません。

手続きとしては、まずは家庭裁判所で調停が開かれ、話合いの場が持たれますが、それで収まらなければ判決が下されることになります。

大沢樹生がもしこの訴えを起こした場合、DNA鑑定という、科学的にもおそらく承認されている方法で親子関係の存在確率は0%だと言われたのですから、訴えを認めて良さそうにも思います。

これが認められると、大沢樹生と息子の親子関係は、法律上、戸籍上も切断され、子供は親権者の戸籍に入ることになります。

 

ただ、一般論として、DNA鑑定が出たから親子関係不存在を直ちに認めてよいかというと、法律実務家(裁判官や私たち弁護士)と学者の中には、慎重論を持つ人も多いようです。

今回のケースは、大沢樹生は騙されていたわけであり、翻弄される子供もかわいそうだけど、親子関係の不存在を認めてやるべきだ、と感じる人が多いのではないかと思われます。

しかし、親子関係不存在の訴えは、こういったケースばかりではありません。

 

適切な例が思い浮かばないので池波正太郎の「真田太平記」を挙げてみますが、真田家の忍者の棟梁・壷谷又五郎は、ある女性と道ならぬ恋に落ちて、子供(佐平次)ができました。又五郎は、佐平次が闇の世界に生きる忍者として育つのを嫌い、真田家の侍・向井家に引き取ってもらいます。

その後、佐平次は向井家の侍として真田家に仕え、一方で又五郎は徳川家の忍者との暗闘の末、佐平次に自分が親であると告げないまま、討死を遂げます(うろ覚えですがだいたいそんな話です)。

佐平次は向井家の子として育ち、佐平次を引き取った侍も、実の父ではありませんが、佐平次に愛情を込めて育てたはずです。

そういう状況で、この親子に全く関係のない第三者がしゃしゃり出てきて、「佐平次は向井家の子供じゃないぞ、壷谷又五郎っていう後ろ暗い忍者の子供だ、何だったらDNA鑑定をして、佐平次を向井家から追い出してしまえ!」と訴えてきたとしたら、「科学的には親子じゃないから」と認めてしまってよいかというと、疑問を感じる方も多いでしょう。

 

そういうわけで、DNA鑑定を理由に親子関係不存在確認を認めて良いか否かについては議論があるところなのですが、DNAだけでは測れない親子の絆も世の中には存在しうる、ということだけ指摘して、この程度にとどめます。

DNA鑑定と父子の関係 1

芸能ニュースネタではありますが、ちょっと興味深い話。

大沢樹生と喜多嶋舞との間に出生したと思われた男子が、DNA鑑定の結果、実は大沢樹生の子ではなかったと判明したそうです。

 

喜多嶋舞はわかっていたのだろうし、それを隠していたのもどうかと思います。大沢樹生も、かわいそうな気がするけど、なぜ今になってDNA鑑定などして、その結果を公表したのか、よくわかりません。

もちろん、大沢樹生が、直ちに親子の縁を切って、だましていた喜多嶋舞に慰謝料を請求します、と言うのなら筋は通っているけど、父としての気持ちは急には変わらない、みたいな煮え切らないことを言っていて、それなら最初から鑑定などすべきでないと感じます。

 

この2人の関係は、ウィキペディア情報によると、平成8年にいわゆる「できちゃった結婚」をし、平成17年に離婚。その際、子供の親権は喜多嶋舞が取りましたが、平成19年には大沢樹生が親権者となったとのことです。

ちなみに、協議離婚の際、親権者は夫婦の協議で決まりますが、その後、親権者を変更することもできます。ただし、変更することについての家庭裁判所の許可が必要です(民法819条)。ですから許可を得た上での親権者の変更だったのでしょう。

 

その後、大沢樹生は、自分と子供のDNA鑑定をしたところ、DNAからして親子関係が存在する確率は0%との結果が出ました。

なぜ鑑定などしようと思ったのか、また、本当の父親は誰なのか、そのへんは私は興味はないので、芸能雑誌に譲るとして、法的なところを検討したいと思います。

 

DNA鑑定は、専門の業者に頼めばやってくれます。

私も、10年ほど前、ある男性依頼者からの相談で「うちの子は絶対に俺の子じゃない、嫁が浮気して生んだ子だ」というので、親子関係の不存在を確認するための調停を家庭裁判所に申し立て、その過程で専門業者に鑑定してもらったことがあります。鑑定費用に20~30万円かかったと記憶していますが、いまはもう少し安くなったのでしょうか。

その結果はといいますと、大沢樹生の一件とは逆で、「親子である確率は99.999%」という結果が出ました。

「100%じゃないんですか?」と鑑定業者の人に聞いたら、「父親(男性依頼者)と全く同じ型のDNAを持つ人が、世界のどこかに存在する可能性があるので、科学的には100%と言い切ることはできません。100%の鑑定結果を出そうと思ったら、世界中の男性すべてのDNAを調べる必要があります」と言われました。

その男性依頼者は、鑑定結果に納得したのか、調停を取り下げました。たぶん今は奥さんお子さんと仲良く暮らしているはずです。

 

大沢樹生の「0%」という結果は、「この父のDNA型からこの子のDNA型があらわれるはずがない」ということで、これはたぶん、科学的に言い切れることなのでしょう。

寄り道が多くて長くなってしまったので、次回に続く。

性同一性障害と戸籍、そして親子 2(完)

前回の続き。

特例法に基づいて男性になった元女性(A)と、その妻の女性(B)が産んだ子(C)の間に、戸籍上の父と子の関係を認めると、最高裁は判断しました。その法律解釈については、前回書いたとおりです。

私の考えとしては、結論としては肯定的に捉えています。積極的な賛成ではなく、最高裁がそう言うんならそれでもいいか、という程度の肯定ですが。

 

たしかに、最初に聞いたときは、私も違和感を覚えました。Bの卵子と第三者の精子から産まれた子が、ABの子として戸籍に記載されるというわけですから。そんな事態は、民法が制定された戦後すぐのころには想定されていなかったでしょう。

しかし、戸籍というのは、「しょせんその程度のもの」なのです。社会の中で、誰と誰が家族・親子であるかということを公的に明らかにするための行政文書に過ぎない。

かつては、血縁(遺伝子)が実の親子関係を決める唯一の手がかりでしたが、今やそれが多様化した。平成15年に戸籍上の性別の変更を認める特例法ができたことは、家族というものの多様化を、わが国の法律が承認したことを意味する。「家族観」は人それぞれだけど、特例法が存在する以上、条文の解釈としてはそう読まざるをえない。

 

さらに突きつめると、戸籍上、子供の父親であるということ自体に、さして重大な意味があるわけではありません。

戸籍上の親子関係があるということの最も大きな意味は、親が死んだときに子供に相続権があるということでしょう。しかし実際には、嫡出子であれ私生児であれ、父親が「この子に私の財産をやる」と遺言を残せば良いわけですから、相続の上で戸籍は決定的な要素ではない。

あとは、戸籍上の親は親権を持ち、子供の住居所を指定できるとか(民法821条)、子供が商売するときに許可を与えることができる(民法6条)といったこともありますが、いまどき未成年の子供が親元を離れて丁稚奉公したり商売を始めたりすることも、まずないでしょう。

あと、親は未成年の子供が勝手に結んだ契約を取り消すことができるので(民法5条)、たとえば子供が勝手にアダルトサイトの利用契約を結んだ場合に取り消せますが、これは別に父親でなくても、母親がしてもよい。

 

このように、戸籍上の父親であるということに、取り立てて大きな意味はないのです。

父と子の絆の意味は、法律の条文や戸籍の紙切れとは別のところに存在するのです。子供にとって父親たるにふさわしい存在であるかどうかは、それぞれの父親の問題であって、その点は、血のつながった親子であれ、養子であれ、今回みたいな元女性の子であれ、変わるところはありません。

今回の最高裁の判断は、親子のあり方、特に親の値打ちはそれぞれの家族が決めることであって、裁判所としては法律に特定の価値観を持ち込まず、条文どおりあっさり適用します、と言わんとしているのであって、それはそれで一つの解釈であろうと考えています。