憲法改正規定は改正できるのか 3(完)

少し間が空いてしまいましたが、憲法改正手続きを定めた憲法96条自体を改正することはできるのか、という話をしていて、前回、それを否定する立場を紹介しました。

改正後の規定(新96条)が、改正の根拠規定(現行の96条)を消滅させることは論理的矛盾で不可能である、というのが、否定説の論理です。

 

それに対して、改正を肯定する立場もあります。現行96条がなくなっても、そいつは俺たちの心の中に生きている、それでいいじゃねえか、という考え方です。

いま、ものすごくテキトーに理由づけをしましたが、もちろんきちんとした理論があります。いくつか紹介します。

 

① まずは憲法の条文解釈的な理由づけ。

憲法のどこを読んでも、96条に手を加えてはいけないなどとは書いていない。改正手続きを定めた規定が存在する以上、その規定自体(96条)が改正されうるのは、当然想定されているはずである。

② 次に、主権者の意思という観点から。

憲法は主権者である国民の意思に基づくというが、現代の主権者が憲法を改正したいと思っても、昔(憲法が制定された昭和20年)の主権者が定めた厳しい改正手続きに縛られるというのでは、却って主権者の意思が反映されていない。

③ それから、思想的な理由。

もそも日本国憲法は、第二次大戦後、連合国軍(特にアメリカ)が、日本が二度と強大な国にならないようにタガをはめたもので、日本に対する不信感、警戒感のために、改正手続きも極めて厳しいものとなっている。独立国になった以上は、これを変えるべきである。

 

さて、この問題については、極力、政治思想とかでなく法解釈的な立場から述べると、前々回書きました。もっとも、解釈上は、否定説・肯定説のどちらにもそれなりの論拠があるので、結局はそれぞれの論者の思想によって決めざるを得ないものなのかも知れません。

 

最後に私自身の考えを述べますと、弁護士としてはたぶん少数派だと思うのですが、改正してもいい(肯定説)という立場に傾いています。

理由はいろいろありますが、上記の3つに加えて、いま自民党が考えているのは「議員の3分の2の多数決」の部分を「過半数」に緩めるだけで、その後の国民投票までは廃止しないらしいからです。過半数を取った政党が改正を提案してきても、それがイヤなら国民投票でNOと言えばいいのです。

「過半数を取るだけで憲法を改悪できる」とか言ってる人は、その後の国民投票を信頼していない(つまり国民の目はフシアナであると言っている)わけです。

たしかに、3年半前の衆議院選挙のときのように、民主党みたいな政党が過半数を取ってしまい、国民の多くがそれを支持していた、という状況下では、変な憲法改正が実現してしまうという懸念はあります。しかしそれは次の選挙で変えていくしかない。

そうすることで、憲法、選挙、民主主義といったものが、本当に主権者の意思に基づくものになっていくように思えます。

 

憲法記念日までにこの話を書き終えてしまおうと思っていたので、とりあえず以上で終わりです。ヒマがあれば後日、なお蛇足的な話を書くかも知れません。

憲法改正規定は改正できるのか 2

前回の続き。

衆参両院で3分の2以上の多数を占めて、憲法96条の改正に取りかかろうというのが、いまの自民党の考えです。

しかしその一方、憲法96条は多数決でも変えられないんだ、という考えも根強くあります。たぶん、たいていの憲法学者はそう考えています。その理屈は、「憲法96条を根拠にして、その憲法96条を改正するというのは、論理矛盾であって不可能である」ということです。これをちょっと解説します。

 

日本は法治社会であり、法に違反すると何らかのペナルティが科されます。ではそもそも、それはなぜなのか、という根本的な問題にさかのぼってみます。

 

たとえばA君が他人を殴り、警察に逮捕されたとします。A君が警官に「オマエは何の根拠があってオレを捕まえたんだ!」と逆ギレしたとすると、警官はこう言うことができます。「刑法208条の暴行罪に該当する行為をしたから、刑事訴訟法199条の定める手続きに基づいて逮捕したのだ。何なら刑事訴訟法199条を見てみなさい」と。

A君がさらに、「法律に書いてあったからって、それで何でオレを逮捕できるんだ!」と食ってかかったらどうか。

警官はさらに言います。「日本国憲法59条の定める手続きに沿って刑事訴訟法が成立したからだ。何なら憲法59条を見てみなさい」と。

A君がさらに「憲法に基づいていればオレを逮捕できるっていう理由は何だ!」と言ったとします。これに対してはどう答えるべきか。

これが明治時代なら「それは憲法が、主権者である天皇陛下が神勅に基づいてお定めになったものだからだ」と答えることになるでしょう。

現代なら、「それは憲法が、キミ(A君)を含め、主権者である国民の意思によって成り立っているからだ」という答えになるでしょう(今の憲法は国民の意思に基づくものではなくてアメリカが戦後のどさくさに押し付けたものだ、という論理もあり、それはある程度事実だと思うのですが、その議論は今は置いておきます)。

 

このように、警察に限らず、国家の組織や権力は、すべて憲法に、究極的には主権者の意思に由来するものだから、その存在と行動が許される、ということになっています。

 

憲法の改正ということに関して、もう一つ例を挙げます。たとえば、戦争放棄と戦力不保持を定めた憲法9条が改正され、新9条に基づき国防軍が誕生したとします。

護憲論者であるBさんが、国防軍と新9条に対して、「軍隊などというけしからんものが、なぜ存在しているのだ」と食ってかかったら、こう答えることができるでしょう。

「憲法96条の定める手続きに沿って、きちんと新9条に改正されたからだ。何なら憲法96条を見てみなさい」と。

 

では最後に、憲法96条そのものを改正した、という例で考えてみます。新96条は、3分の2ではなく過半数で良いとか、国民投票は要らないとかいった内容にしたとします。

さっきのBさんが「憲法みたいに大切なものを、そんなに軽く変えることができる新96条はけしからん」と言ったとします。

新96条はどう答えるか。「憲法96条の定める手続きに沿って、きちんと新96条に改正されたのだ。何なら憲法96条を見てみなさ…あれっ?」となるはずです。

新96条が存在する根拠となる元の憲法96条は、改正されることによって消滅してしまっているからです。

 

改正規定である憲法96条を改正して新96条にしたとすると、その瞬間に、新96条の存在根拠がなくなってしまうことになる。だから多数決を取ってもそんな改正はできないのだというのが、改正否定派の理屈です。

ターミネーター2みたいな話で、憲法96条は最初から自らを破壊することができないものとしてプログラムされている、というわけです。

 

長くなりましたので、次回へ続く。

憲法改正規定は改正できるのか 1

自民党政権になって再び注目を浴びだした、憲法改正の問題について触れます。

憲法を論じるとなると、どうしても個々人のイデオロギーや政治論を反映しやすくなってしまうのですが、ここでは極力、法の規定の解説と、その解釈という観点から論じることとします。

 

いま安倍総理がしようとしているのは、憲法96条の改正です。

96条は、憲法の改正手続きについて定めたもので、憲法を改正しようと思ったら、衆参両院で、総全員の3分の2以上の多数決を取った上で、国民投票で過半数の賛成を得ないといけない、とあります。

これは、普通の法律を作ったり改正したりすることと比べると、相当高いハードルです。

 

これが普通の法律なら、過半数の賛成でいい。しかも、国会は議員の3分の1以上が出席すれば開催できる(定足数)。

つまり、衆議院は定数480ですから、3分の1(160)のさらに過半数で81。つまり81人の賛成があれば衆議院を通ることがありうるのです。

 

憲法改正の場合、定足数というものはなくて、「総議員」と条文にあるから、正味480の3分の2以上で、320人の賛成が絶対に必要となる。

いま、衆議院で与党となっている自民党の議席が295、その仲間の公明党が31で、合計326議席です。公明党が賛成すれば3分の2を超えますが、公明党はどうも憲法改正には消極的なようです。

そのこともあってか、維新の会の石原慎太郎が先日の代表質問で「いずれ公明党に足を引っ張られるぞ」と言い、安倍総理を苦笑させたという映像をご覧になった方も多いと思います。

その維新の会(54議席)と組んで3分の2をクリアしても、まだ参議院があります。

 

参議院は定数242で、3分の2以上となると162人の賛成が必要です。

現在、参議院では自民党83議席、公明党19議席で、合計102議席。維新の会(3議席だけ)を加えても到底、3分の2に及びません。蓮舫さんらがいる参院の民主党がまだ85議席とがんばっています。

この夏、参議院議員選挙があり、総数のうち半分が選挙を受けます(参議院は任期6年で、3年ごとに半分ずつ改選すると憲法に書いてあり、たぶん小学校の社会科でも習ったと思います)。民主党がずいぶん減るとは思うのですが、自民党とその他の改憲勢力を含めて3分の2に届かせるには、よほどの大勝が必要なのです。

安倍総理が、アベノミクスで株価か急上昇したのに浮かない顔をしているのは、お腹が痛いからではなく、自分自身と党に対して、常に引き締めを図っているからです。

 

そして、衆参両院で3分の2を取って憲法改正が可決されても、国民投票で過半数の得票を要します。国民投票などというのも、通常の法律を決める際には求められていません。

過去、憲法改正のための国民投票というのは行われたことがなく、その結果がどう出るかは、通常の選挙の票読みより難しいでしょう。

 

憲法を変えるというのは、それくらいに大変なことなのです。そういう大変な手続きを、憲法96条が求めているのです。ならば、その96条自体を変えてしまおう、というのが、いまの自民党の考え方なのです。

続く。

成年後見と選挙権 2(完)

前回の続き。

被後見人が選挙権を持たないとの公職選挙法の規定は、私も結論としては違憲無効で良いと考えており、今回の東京地裁判決が妥当と思います。

前回、指摘し忘れていましたが、問題の条文は公職選挙法11条1項で定められており、その1号に、被後見人が掲げられています。ちなみに、この条項には、他に選挙権が剥奪される人として、刑務所に入っている人とか、選挙違反の罪を犯した人などが掲げられています。ここだけ見ると、被後見人と犯罪者を同一に扱っているというわけです。

 

私自身の狭い経験ですが、私も弁護士ですので後見人をしたことも何度かあります。

あるケースでは、家裁で後見人に選任されるのに先立って、その被後見人(80歳程度の女性)と面談に行きました。確かに、細かい話は心もとないとはいえ、受け答えに大きな問題はありません。

親族の方が言うには「今日は若い男前の弁護士さんが家に来てくれるっていうんで、おばあちゃん、朝から楽しみにしてたんですよ。お化粧も濃いめにして」とのことでした。

この被後見人のおばあちゃんは、自分のおかれた状況(自分の判断能力が弱っていること)を把握しており、財産管理を弁護士に委ねるということも理解しています。若い男が来るから綺麗にしておこうという意識までお持ちです。私が期待に沿うほどの男前だったかどうかは知りませんが。

これくらいの理解力を持っている人であれば、選挙権を行使することに問題があるとは思えません。どの党が好きとか、どの候補者が男前だ、くらいの判断はできるでしょう。私自身も、そしておそらく多くの有権者も、その程度の判断で投票をするわけですから。

 

被後見人になる人の判断能力の程度もいろいろで、もっと重い障害や痴呆で、選挙や投票の意味すら理解しない人も中にはいるでしょう。その場合、その被後見人の選挙権を後見人が悪用して、1人で2票を投じてしまうという弊害も考えられる。

しかし、公職選挙法の問題は、それぞれの被後見人の能力を問題とせず、一律に選挙権を奪ってしまうというところにあります。

生じうる弊害は、選挙管理委員が監視するとか、選挙犯罪で摘発するといった方法で抑制すべきことです。もしその弊害が完全に除去しえないとして、少なくとも、被後見人から一律に選挙権を奪うことのほうが問題としては大きいと思います。

 

そういうことで、東京地裁は違憲判決を出しましたし、私もこの判断に賛成です。

国側はすでに控訴したようで、これには批判も向けられています。おそらく政府の考えは、裁判を続けておいて、その間に公職選挙法をきちんと改正しようということでしょう。

時間かせぎと言われるかも知れないですが、選挙の現場としては一地裁の判断に従って良いのかどうか混乱が生じかねないので、国会が正式な対応を法律で決めるということだと思います。

これは一票の格差のところでも少し書きましたが、今後、国会が裁判所の意をくんで、混乱が生じないよう法的な手当てを行なうということです。

 

この問題については以上です。引き続き、ブログテーマのリクエストをお待ちしております。

成年後見と選挙権 1

今回の記事は、大阪ミナミで小料理屋の若女将をされている島之内あけみさん(29歳、仮名)からのリクエストです。

「一票の格差」の問題を書いてきましたが、公職選挙法がらみでもう一つ、成年後見人がついた人は選挙権を失うとの規定が先月、東京地裁で、憲法違反で無効だとされました。この問題に触れてほしいとのことですので、解説します。なお、仮名だけじゃなくて小料理屋も若女将もウソなのですが、リクエストがあったのは本当です。

 

知的障害や、高齢や痴呆で判断力が低下している人について、その財産管理などを行なうのが成年後見人です。その人の親族や弁護士が、家庭裁判所の審査を受けた上で就任します。

この場合、成年後見人がついた人は、成年後見人と呼ばれ、財産管理権がなくなり、自分で契約などを結べなくなるほか、選挙権も失うと定められています。

 

成年被後見人とは、字のとおり、成年にして後見されている人のことです。

なお、これと対応して未成年被後見人というのもあり、これは知的能力とは関係なく親権者がいなくなった場合につきます。以下、長ったらしいので「成年」は省略しますが、被後見人と書いたら成年被後見人のことと思ってください。

ちなみに、比較的最近まで、被後見人は、禁治産者(きんちさんしゃ)と呼ばれていましたが、言葉の響きが悪いのか、平成11年に民法が改正され、呼び名が変わりました。

「治産」とは自分の財産を管理・処分することを意味するので、それが禁じられている人ということで言葉自体は間違っていないと思うのですが、たしかに「禁」という言葉がつくことで、法律家でない人が聞けば、何か悪いことをして財産を奪われた人、というイメージを持たれることもあったのかも知れません。

 

被後見人は財産管理権がなくなるというのは、悪い人に騙されて財産を奪われるのを防ぐためで、これは合理性があります。というより、後見制度はそもそも、そのようにして財産を失うことを防ぐために設けられた制度です。

たまに、後見人である親族や弁護士自身が、預かっている財産を横領するという事件がありますが、そこは家庭裁判所にきちっと監督してもらうことです。もちろん、そんなことをすれば横領罪で捕まりますし、弁護士の資格も剥奪です。

 

では、被後見人から選挙権まで奪うのはどうか。

選挙権を奪う趣旨は、おそらく、被後見人は知的能力が弱っているからどの候補者が良いか判断できないとか、後見人が被後見人の投票権を悪用しかねないとかいうことでしょう。

そしてもう一つ、禁治産者と呼ばれていたころの偏見もあったのではないかと想像します。

禁治産者という言葉は、明治29年にできた民法に定められました。公職選挙法は昭和25年、戦後の普通選挙制度の開始にあわせて作られたものですが、さすがに今ほどに人権意識も強くなく、禁治産者に対する無理解や偏見から、特に深く考えることもなく選挙権なしとしてしまったのではないでしょうか。

 

あれこれ書いているうちに長くなったので、この問題に対する私の考えは次回に書きます。

「選挙無効」のその後 2(完)

前回の続き。

一票の格差を是正すると言っても、議員の数を増やさずにそれを行なうのは至難のことであろう、というところまで書きました。で、今後はどうなるか。

 

今の状況を大雑把におさらいすると、多くの選挙区で投票価値の不平等が生じていることについて、司法権の親分である最高裁は昔から「違憲だけど選挙は無効にしない」と言っていた。

しかし、国会が定数是正に乗り出さないため、最高裁の子分である広島高裁が「11月までに是正しなければ無効にする」と言い、さらにその弟分である広島高裁岡山支部は血気に逸って「いますぐ無効にする」と言い出しました。

国側(選挙管理委員会)が上告したので、この問題に対し、改めて親分(最高裁)が出てきて決着をつけることになります。

 

最高裁の判決までの間に、国会が、至難の定数是正をやり遂げれば、おそらく最高裁は選挙無効とまでは言わないでしょう。「国会の意気に感じて、過去のことはなかったことにする」ということです。

 

では、国会がそれをやり遂げなければどうなるか。いろんなことが想定されますが、一つには、最高裁はこれまでの立場を踏襲し「無効にしない」と言うかも知れません。

今回は、子分が親分の気持ちを充分に代弁してくれたから、親分としては「まあ、この程度にしてやるが、今度はホントに無効にするぞ」と言って終わらせるわけです。

 

その対極の考え方としては、司法権のメンツにかけて、最高裁自ら「無効」の宣告をすることが考えられます。

その場合は再選挙となるわけですが、そうなると、どの選挙区で選挙するのか(またはすべてやり直しか)、選挙手続きはどうするのか、現行の公職選挙法で問題ないのか、または法改正が必要なのかetc、いろんな実際上の問題が発生します。

それらの問題は、最高裁の調査官(全国から選り抜きの裁判官が就任する)が下調べをするはずです。法律を改正してその後の手続きを整える必要がある場合は、法務省か総務省あたりの官僚が事前に法案を作り、内閣法制局を通じて国会に提出されるでしょう。官僚らは国会議員に根回しして、国会の衆参の本会議で可決される。

こうして、もし選挙無効の判決が出たとしても、その後の手続きがきちっと決められていることになる。

 

最高裁が影響力の大きい判決を出す際には、(私自身が見たわけではありませんが)こうした動きが行われているはずです。最高裁と内閣と国会、親分衆どうしが水面下で話し合って、極力、混乱が生じないようにするわけです。

そういうわけで、最悪、選挙無効の判決が出ても、すべての国会議員が突然いなくなるとか、選挙前の民主党政権が復活するとか、そういう事態にはならずに、落ち着くべきところに落ち着くだろうと思っています。

「選挙無効」のその後 1

「一票の格差」問題について、続き。昨日(3月26日)は、広島高裁岡山支部が、違憲無効の判決を出し、しかも、25日の広島高裁本庁のような「何月何日までに改正しなければ」という猶予期間すら与えませんでした。

前回書いたとおりで「将来効判決」など認められるかどうか疑問の余地があるので、こっちのほうが筋は通っているとは思います。もっとも、最高裁に上がってまだ裁判は続くでしょう。

 

この問題、今後どうなるのか、もし国会が定数是正をせず放置したら、本当にその議員は地位を失うのか。この点は新聞などで一通りのシミュレーションが書かれていると思うので、事細かには書きませんが、考えられる2、3のことを書いてみます。

 

まず考えられるのは、国会が対処することです。さすがに、何もしないということはないでしょう。

しかし、選挙区や定数をいじることには、いろんな利害やら思惑が混じってくるでしょうし、それを抜きにしても、各選挙区の人口にきちんと比例した形で議員定数を割り当てるのは、相当に困難な作業なはずです。

 

どの地域でも、人口というものは、出生、死亡、引越しなどで常に流動しており、各選挙区の最新の人口データを把握しておくという作業自体が非常に面倒でしょう。

それに、人口比例を徹底するとなると、大阪1区みたいに有権者が20万人くらいいても議員が1人である、と考えたとき、過疎地の選挙区は議員がゼロになるでしょう。東北の被災地などはどんどん人口が流出していて、被災地からは議員を1人も出せないことにもなりかねない。

どんな過疎地でも最低1人は議員を国に出せるようにする、と考えると、大阪や東京の多くの選挙区では、人口比でもっとたくさんの議員定数を割り当てる必要が生じます。つまり議員の総数を増やす必要がある。

民主党政権のころから「0増5減」なんて案が出されていますが、議員を減らした上で人口比例の選挙区割りを考えるのはほとんど不可能なのです。

 

本題とは外れますが、そういうこともあって、議員の数をもっと減らせという意見には私は反対です。

ちなみに議員定数削減に反対するもう一つの理由は、もし3年前の衆議院選挙が、議員定数が現行の480でなく、たとえば300くらいで行われていたとしたら、その300人が全員、民主党の議員だったという、悪い冗談みたいな話が現実化しかねないということです。

と、話がそれたままになってしまいましたが、選挙無効判決のその後について、次回もう少し書きます。

「選挙無効」は名判決か

裁判所は「一票の格差」が違憲だと言っても選挙は無効にしない、と書いたら、とたんに広島高裁が無効判決を出しました。これは日本国憲法下における裁判所で初の判断で、画期的なことには間違いありません。少し解説します。

 

そもそも、裁判所が、すでに行われた選挙が無効だなどと言えるのか。

有権者が皆して投票に行った結果を一握りの裁判官がひっくり返してよいのか、というと、最高裁の立場は「イエス」です。

憲法98条には、この憲法に違反する法律や国の行為は効力を有しない、と定められています。公職選挙法に定められた選挙区の区割りの上で、投票価値の不平等が生じている場合(その意味は前回書いたとおり)、その選挙区割りと、それに基づいて国が行なった選挙は効力を有しない、という理屈です。

 

次に、無効になるのは、一部の投票価値が不平等な選挙区に限られるのか、区割り自体が根本的に間違っているのだからすべての選挙区を無効にするのか、という問題がありますが、これはややこしいので省略します。

広島高裁は、広島1区・2区だけ違憲無効と言いました。

 

もっとも、これまで、裁判所は、違憲だけど無効にしない、という判断を繰り返してきました。

前回書いた、事情判決というものです。これは、行政事件訴訟法という法律の31条にきちんと規定があるのですが、公職選挙法219条で、事情判決の条文は適用しない、と明記されています。つまり、選挙関係の裁判で、事情判決を出してはいけない、と法律に書いてあるのです。

この点、最高裁は、事情判決の条文を適用するのではない、「事情判決の法理」を適用して、選挙は無効にしないんだ、と言ってきました。「法理」の部分は、趣旨、意図、精神、気持ち、スピリッツ、ソウルと読み替えてもらっても構いません。

混乱を生じさせたくないという最高裁なりの苦肉の策だと思いますが、何となく、「ヘリクツ」の印象を免れません。

最高裁がこういったのは昭和51年のことです。これは間違いなく、「今回は無効とまでは言わないけど、早く選挙区割りを改定して、投票価値の平等を実現させなさいよ」という、国会に対するメッセージだったわけです。

 

それが長年放置されて、今回ついに、最高裁の子分である広島高裁が「無効」と言ったわけです。

では広島1区・2区ではすぐ選挙やり直しかというと、「一定期間内に是正しなければ無効」ということで、今年の11月27日までの間に、選挙区を是正しなさいと言いました。そうしなければいよいよ無効にすると。

これは憲法の教科書などでは、将来に無効の効果が出るということで「将来効判決」などと呼ばれますが、果たして裁判所がそんな判決を出せるかどうかは議論があります。

裁判所は、合憲ならそのまま有効、違憲なら直ちに無効、と判断すべきなのであって、「一定期間放置すると無効となる」という宣言を出すことが可能なのか。広島高裁は「司法権の行使の方法のあり方として許される」と言っていますが、「事情判決の法理」と同じで、法的根拠はないのです。

 

理論面だけでなく実際的なところでも、今年の11月27日が来て、「はい、アウトです、選挙やり直し」または「ちゃんと改正したから許してあげます」という判断を、誰がどういう手続きで行うのか。これは極めて重要な問題のはずなのですが、法律に定められていない。

 

国会の怠慢に対する司法権の怒り、そして戦後初の判断を下した広島高裁の裁判官の覚悟のほどは、私もひしひしと感じるのですが、今後どういう手続きになるの?ということを考えると不明な点が多いです。

そういう意味で、今回の広島高裁の判決は、従来の最高裁のメッセージを一歩強めるということに主眼を置いた、いわば大岡裁き的な判決であったのかも知れません。

最高裁での最終的な判断が待たれます。

「一票の格差」の何が問題か

3週間ぶりくらいの更新なのですが、毎度時期おくれの話題ながら、「一票の格差」とか「投票価値の平等」と言われる問題について書きます。昨年12月に行なわれた衆議院選挙が違憲であると、あちこちの裁判所で判決が出ていますので、その意味について。

とはいえこの問題、裁判所は長年、同じことを言っているので、熱心にこの裁判をやってる弁護士の方には申し訳ないですが、個人的にはあまり興味がありません。

 

とりあえず具体例でお話ししますと、私の住む選挙区は大阪1区です。大阪府大阪市の中央区・西区を中心に人口の多い選挙区で、有権者数は20万人くらいいるでしょう。有権者の過半数の投票を得ると1位になって当選するから、約10万票を取れば議員になれる。

逆の言い方をすれば、大阪1区の人は、10万人あたりに1人の衆議院議員を国会に送り出せることになります(実際には昨年、大阪1区で当選した人は8万票くらいでした。全員が投票に行くわけではないためです)。

これに対して、人口の少ない県、仮にA県の1区としますが、A県大字ド田舎字大田舎を中心に(もちろん架空の地名です。レツゴー三匹のネタです)、過疎地域の選挙区で、有権者は2万人しかいないとする。すると、A県1区では1万票取れると議員になれる、つまり1万人あたりに1人の衆議院議員を送り出せる。

このように、A県は1万人いれば国に一人の代表を送り込めるのに、大阪では10万人そろわないと送り込めない。このとき、A県の投票権の価値は、大阪に比べて10倍強いということになります。

 

実際には、10倍も差があるという状況はなくて、大きくても5倍ほどです。そして、これまでは都市部よりも農村部の投票価値が強いと言われていました。

農村から人口が流出していけば、選挙区(公職選挙法に定められている)を改正して、都市部の議員数を増やしていくべきだったのが、長年、政権与党だった自民党は農村部に支持基盤を持つことから、その改正を意図的にさぼったとも言われています。

民主党に政権が変わったあとの3年半も、この問題は結局手つかずでした。

 

考えてみれば、そもそも、過疎が進む農村部の投票価値が強いのが問題なのか、特に最近は震災を受けた東北部の投票価値はもっと強くてもいい(議員をもっと増やしてもいい)というふうに、一票の格差はもっと柔軟でも良いのではないか、という考えもありうるでしょう(正直なところ、私はそう思ってます。そのせいもあって、この問題はあまり興味ないのです)。

 

それでも、最高裁は、投票権の平等は憲法の要請である、頭数だけで1人1票というだけでなく、投票価値も平等である必要がある、と昔から言っています。

昨年の衆院選は、一票の格差は2倍前後でしたが、それでも、公職選挙法の改正を長年ほったらかしにした国会の怠慢を違憲とし、その状態で行われた選挙も違憲という判断が相次いでいます。

 

では、違憲の選挙なら無効なのか。あの選挙で議席を得た議員はその地位を失い、安倍総理の指名も無効で、この間に国会が決めたことも全部無効でやり直しとなるのか、というと、それではあまりに混乱が生じます。加えて選挙前の民主党政権が復活するのかと言われたら、なおさらまっぴらな方が大半でしょう。

だからこういうとき、裁判所は、「事情判決」と言って、違憲だけど諸々の事情にかんがみて、すでにやっちゃった選挙までは無効にしない、という判断をします。今回もそうです。

結局それで国会も安心して、選挙区改正をまたほったらかす、という状況が続いてきたのです。

 

今回も、裁判所はこれまでと同じことを言っています。いつか違うことを言ったら、そのときはまたこのブログで書きますが、それまでの間、このテーマについては以上で終わります。

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追伸!

本日(平成25年3月25日)午後1時ころに上記のような記事をアップしたら、とたんに裁判所が発奮したのか(もちろんそういうはずはなく偶然ですが)、広島高裁が選挙を「違憲であり、無効とする」との判決を出したそうです。これは初めての判断です。

なお私は午後4時すぎに配信されたネットニュースでこの判決を知りました。

あの選挙は無効になるのか、その具体的効果が注目されますが、ひとまず今後は、最高裁へ持ち越されて、改めて最高裁の判断を待つことになるのでしょう。

広島高裁の判決の概要が分かりましたら、続報を記載します。

市立幼稚園の民営化に反対する

今回は完全に私ごとの話ですがご了承ください。

 

大阪市には「大阪市歌」というものがあり、長年、大阪市民をやってきた私はその存在すら知りませんでしたが、息子が地元の市立幼稚園に入園したとき、年中・年長の園児たちが入園式で歌っているのを聞いて初めて知りました。

どんな歌かというと、出だしは「高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙」(後略)と、かつて仁徳天皇がいつも上町台地の高津宮から大阪平野を眺めて、人々の家のかまどに煙が立っているか(つまり食糧が行きわたっているか)心配しておられたというエピソードにちなんだ、なかなか良い歌詞なのです。

息子は4月になったら、年中クラスの園児として新入園児を迎え、入園式でこの歌を歌わなければならないので、いま幼稚園で練習させられているらしく、家に帰ってきても断片的に歌っています。

しかし、大阪市は幼稚園を民営化して、その運営を民間の学校法人に委ねる方針のようなので、幼稚園でこの歌は歌われなくなるかも知れません。大阪市から切り捨てられようとしているのに熱心に市歌を覚えようとしている息子を見ると切なくなります。

 

そんな感傷はさておき、幼稚園の民営化の当否について少し書きます。

大阪市に限ったことではないですが、公費の負担を減らすことを目的とした公共機関の民営化は、各所で進められていることと思います。

民間にできることは民間でやってもらうと、大阪市の担当者なども言っているようですが、その理屈だと、民間でできない(またはさせるべきでない)ことと言えば、国防、警察、司法くらいでしょうから、大半の公的機関を消滅させるべきこととなります。

市役所や府庁も要らなくて、民間か、国の出先機関にやってもらえば良いことになりますが、しかしそれは地方分権の流れに反することでしょう。

 

大阪市の幼稚園に関しては、財源上の疑問があります。

とあるデータによると、大阪の市立幼稚園では、児童1人あたりに市が年間約57万円の予算をつけているそうです。私立の場合は、それが約85,000円で済む。大阪の市立幼稚園の児童は約5200人だから、全部を民営化すると、この差額に人数をかけて約25億円の予算を浮かせることができるそうです。

もっとも、幼稚園に予算をつけているのは市だけではありません。国や府も援助しています。国と府の援助は、市立だと年間わずか約500円ですが、私立だと約20万円です。私立でも親の払う保育料が高くなり過ぎないよう、国と府が大幅に負担しているのです。したがって、すべてを民営化すると、国と府の負担が10億円多くなります。

市は予算をカットできるが、国と府は負担が増える。大阪府の財政だって、この先わからないし、橋下府政でもっと悪化したとも一部報道で言われています。今後、府も予算をカットすると言い出すことは充分考えられる。

国と府が負担しきれなくなると、あとは、その年間20万円を親が払うか、学校法人に負担してもらうしかなくなります。幼稚園に子供を通わせられなくなる親も出てくるかも知れないし、また負担に耐え切れずに破綻する学校法人が出てくるかも知れない。

そんな不安を残すのですが、それでも、大阪では維新の会が勢力を保ってゆくでしょうから、公共機関の解体が今後も進んでいくでしょう。

ただ、自民党政権になって、児童教育を無償化するという話も出てきているようですが、国の予算でこれをやるというのであれば、わざわざ公立幼稚園を民営化させる予算上のメリットはなくなるので、それに期待をつなぎたいと思っています。

 

繰り返しますが、大阪市の考えは、市は負担したくないから国と府に依存するというものであって、地方分権に反することです。また市の予算と権限でもって子供を教育するということを放棄するものであって、仁徳天皇が聞いたらお怒りになることでしょう。

まとまらないままですが以上です。