明石歩道橋事故 免訴判決に思うこと 2(完)

前回の続きで、免訴という聞きなれない判決についてもう少し触れます。

日経新聞(20日夕刊)によると、この10年間で免訴判決は9件あったとのことです。

近年、免訴で注目を集めたのは、平成20年の、横浜事件の再審判決です。

これは、第二次大戦直後、治安維持法によって処罰された出版関係者が、治安維持法は戦後廃止されたはずであることを理由に再審を求めたもので、戦中戦後の混乱期に起きた、やや特殊なケースといえるでしょう。当時のブログ記事。 

まだ他に8件あるというのですから、私には意外に多いなと感じました。

免訴は前回書いたとおり、法律が廃止されたとか、時効にかかったなどの場合に言い渡されるのですが、そんな事件、普通に考えて検察は起訴しないだろうからです。

 

検察側(検察官役の指定弁護士。いちいち断るのが面倒ですが)の論理は、前回書いたとおりで、過失の共犯が成立するから時効は止まっていた、というものです。

しかし、「過失の共犯」なるものが、そもそも認められるのか、これは一つの大問題です。

たとえば、故意の犯罪であれば、犯人グループが「一緒にアイツを殺ってしまおう」などと、犯行前に意を通じることができるから、共犯というものが認められる。

しかし、過失の犯罪というのは、交通事故が典型例で、意図せずウッカリ起こしてしまうものだから、意を通じて行うことは常識的に考えがたい。

この問題に対する最高裁の立場ははっきりしておらず、学説や裁判例も分かれているようです。だから、今回の歩道橋事故で副署長を有罪にしようと思えば、過失の共犯を裁判所に認めさせるという、いわばウルトラCみたいなことに成功しなければならなかったわけです。

もちろん、事故の直後に起訴していれば、時効の問題にならなかったのだから、検察の怠慢じゃないかという人もいると思いますが、今回、神戸地裁は、過失の共犯どころか過失そのものを認めなかったのですから、起訴していても無罪になっただけでしょう。

 

検察審査会の議決に基づく強制起訴では、先日の小沢一郎など、無罪判決が続いており、制度の見直しが必要との意見もあります。それに対して、いや検察が白黒つけなかった事件にきっちりケリをつけたのだから、結論が無罪や免訴というならそれでいいんだ、という声もあるでしょう。

結論はともかく裁判自体は意義があったという声も多い中、被告人になった副署長は、約3年続いた裁判を経るうちに、黒かった髪の毛が真っ白になったそうです。強制起訴という制度の過酷な一面が如実にあらわれていると思います。

この事件は検察官役の指定弁護士が控訴したらしく、まだ続きます。有罪か免訴かの最終的な決着はまだついていませんが、この件についてはひとまず以上です。

 

明石歩道橋事故 免訴判決に思うこと 1

明石の歩道橋事故で、警察署の副署長に「免訴」の判決が出ました(神戸地裁、20日)。とはいえこのニュース、すでに新聞テレビで充分、論じつくされた気もします。情報の即時性がないのは、一弁護士が片手間に書いているブログの限界としてご了承ください。

この事件は平成13年の花火大会で起きました。歩道橋に人が密集して11人が死亡したそうです。警察署や警備会社の担当者が数名、業務上過失致死罪で有罪になったのですが、トップである署長・副署長も罪を負うのかが問題となりました。

 

当ブログでも繰り返し述べていますが、ある組織のもとで何らかの事件・事故が起こった際に、その組織が賠償責任に問われるのは当然としても、組織のトップである個々人に刑事罰を食らわせるのは、よほど慎重にしないといけない、というのが私の考えです。

検察側も(手前味噌ですが)私と同じように考え、この副署長を不起訴としましたが、検察審査会は起訴すべきであると議決し、平成22年4月に起訴されました。

そして裁判所が出した結論は、有罪でも無罪でもない「免訴」で、「もう時効だから裁判しない」ということです。刑事訴訟法の337条に規定があり、時効にかかったり、法律が変わって刑罰が廃止されたりした際に出されるものです。

 

事故があったのが平成13年で、業務上過失致死罪の時効は当時の刑事訴訟法によれば5年なので、普通に考えると、平成22年に起訴した時点で時効になっている。

これを有罪に持ち込もうという検察側(検察官役の指定弁護士)の論理は、副署長も現場の担当者と「共犯」であった。そして、刑事訴訟法上、共犯が裁判にかかっている間は時効は進まない、だから副署長はまだ時効でない、というものです。

現場担当者の裁判は、平成14年から19年まで続いたので、この期間を除外すると、確かに時効の5年は過ぎていないことになります。

 

しかし、神戸地裁は、副署長に過失はないし、過失の共犯も成立しない、と言いました。

警察署の副署長クラスの人が、個々の現場での警備にまで関与しているわけではないし、担当者と共同作業していたわけでもないから、刑事責任までは問えない、ということです。

警察としての組織的責任、道義的責任の問題はさておいて、副署長個人の刑事責任の有無については、極めて真っ当な判断であったと、個人的には考えています。

次回もう少しだけ続く予定。

尖閣寄付金の返還請求は可能か

少し前、新聞かネットで、尖閣諸島の購入のために東京に寄付をした人の一部が、それを返せと言いだしたという話を聞きました。時期を逸した感もありますが、その件について触れます。

 

ご存じのとおりで、東京都の石原都知事(当時)が、東京で尖閣諸島を買い取って中国の侵略から守ると言いだして、東京都がそのための寄付を募ったところ、多くの賛同者から、合計10数億円の寄付金が寄せられました。ちなみに私は大いに賛同したものの、寄付まではしておりません。

しかし結局、野田総理(当時)が国で買い取ると言いだし、国有化されました。

石原さんの東京都なら尖閣をきっちり守ってくれると思ったから寄付したのだ、都が買わないのなら返せ、と言いたくなる気持ちもわかります。その主張が法的に認められるかについて、ちょっと検討します。

 

何らかの理屈を考えるとすれば、一つには民法95条の「錯誤」で、錯誤(勘違い)に基づく意思表示は無効にできる、というのが挙げられます(もう少し専門的にいうと、動機の錯誤ではありますが、その動機は表示されている、と見ることも可能と思います)。

もう一つは民法553条の「負担付き贈与」で、贈与をする場合に負担(条件)を付けることができるというものです。寄付をするに際して、東京都が尖閣を買うという条件がついていた、その条件を果たさなかったのだから、契約違反で贈与を取り消す、というわけです。

 

似たような話が、大阪にもあったのを思いだしました。児童文学者らが、大阪府立の児童文学館に多数の児童書を寄付しましたが、橋下府知事(当時)は、児童文学館を廃止して本は府立図書館に移す、と言いだしました。

児童文学者らは、児童文学館のためと思って寄付したのだから、廃止するのなら返せ、ということで裁判を起こしました。当時のブログ記事はこちら(平成21年3月記)。

その後のことはブログに書いていませんでしたが、平成23年に、児童文学者らの請求は棄却されています。贈与契約の上で、府側に、児童文学館を存続させ、そこで寄贈本を保管する義務(負担)までは定められていなかった、というのが理由のようです。

 

東京都の問題に戻りますと、結局ポイントとなるのは、東京都が寄付を募る際に「尖閣諸島を購入するための資金にします」と明確に用途を限定していたかどうかでしょう。

実際には、寄付を募るホームページや文書に(私ははっきり覚えていませんが)「購入または活用のため」と書かれていたらしく、そうなると「今後、国に寄付して活用してもらう」と言われれば、東京都に義務違反はない、となってしまいそうです。

東京都への寄付金返還請求は南堀江法律事務所へご相談を!と宣伝しようかと企んでいたのですが、無理そうなので宣伝は差し控えておきます。

体罰教師はどう裁かれたか 3(完)

生徒を叩いた教師に無罪の判決を下した昭和56年の東京高裁判決を、前回に引き続き、紹介します。判決文は、極めて詳細に論じているのですが、ごく概要のみ述べます。

判決は、学校教育法11条が禁じている体罰とは「懲戒権の行使として相当と認められる範囲を越えて有形力を行使して生徒の身体を侵害し、あるいは生徒に対して肉体的苦痛を与えることをいう」と定義します。

「有形力の行使」というと小難しいですが、物理的な力を加えること、つまり手を出すことと理解してください。

そうすると、東京高裁は、教師が生徒を懲戒するやり方として、「口頭で注意する=適法、体罰を行なう=違法」という2分類だけがあるのでなく、その間に「手は出るけど相当の範囲内=適法」という行為が存在すると考えているわけです。

 

もちろん、手は出さないに越したことはない、でも、生徒を励ますときなどに肩を叩くなどのスキンシップも一切できないというのもおかしいし、また、生徒をたしなめる際に口頭だけでは「感銘力」に欠けてしまうこともある(「感銘力」というのは判決文の表現そのものです。何だかそういうタイトルで本でも出せそうな言葉です)。

そういう理由で、教師には、一定限度で有形力を行使することを認めてやらなければ、「教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがある」と。このカッコ内は判決文そのものの引用でして、判決文には似つかわしくない、熱のこもったことを言っています。

そして、本件に関して言えば、生徒をたしなめる必要性や、暴行の程度が必ずしも強くないことなどから、相当の範囲内であって違法でない、と言ったわけです。

 

長々と解説してしまいましたが、結論自体は、多くの人にとって常識に沿った内容ではないでしょうか。体罰が禁止されると言っても、判例上は、手を出したら即処罰というわけでは決してないことを、知っておいていただければと思います。

 

補足ですが、この記事を書くついでに教育法関係の本を参照しているうちに、最高裁でも、民事事件ですが、一定範囲で手を出すことを適法と認めた判決を知りました。今回紹介した東京高裁以上のことは言っていないので、これ以上は触れませんが、日付だけ紹介しておきます。最高裁平成21年4月28日判決です。

あと、紹介してきた上記の東京高裁の事例ですが、これまで男性教師と書きましたが被告人は女性教師のようでしたので、訂正します。

柔道界なども体罰問題でゴタゴタしてきましたが、この問題についてはひとまず以上です。

体罰教師はどう裁かれたか 2

前回の続きです。

お読み出ない方は、前回記事の最後の事例を読んでいただくとして、この教師がなぜ無罪になったか、やや理論的に検討します。

 

まず、生徒は教師に叩かれた8日後に脳内出血で死亡しています。紹介した他のケースでは傷害致死罪が成立していますが、この教師は死の責任を問われていない。その理由はというと単純で、叩いたことと死亡したことの因果関係が証明されなかったからです。

人を叩いて死なせるには、相当に強度の力が必要になるでしょう。しかし、叩いた現場を見ていた他の生徒たちの証言からは、そんなに強く叩いていた様子もなかった。また医学的にも、叩かれたところが悪化して死に至ったという証拠も出なかった。

生徒はその当時、もともと風疹のため体調が悪かったそうで、だから脳内出血を生じるのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ「叩いたことが原因で死んだ」と検察が立証できない以上、死の責任は問えません。

 

では、叩いたことは事実なのに、暴行罪すら成立せず無罪になったのはなぜか。

それは一言でいいますと、刑法上の「正当行為」にあたるとされたからです。

似たような制度で「正当防衛」というのがあって、これはご存じかと思います。このままでは自分が殺されるという状況で、襲ってくる相手を殺したような場合、形の上では殺人罪にあたりますが、身を守るためにやむをえなかったということで、無罪とされます。

正当防衛を定める刑法36条の1つ手前の35条に正当行為の規定があり、「法令又は正当な業務による行為は、罰しない」(つまり無罪)とされています。

この条文がないと、警察官が容疑者を捕まえるのは逮捕監禁罪、医師が患者の体にメスを入れるのは傷害罪になってしまいます。これらは警察官や医師の「正当な業務」だから許される、ということです。

 

ついでに、民法822条には、親権者は子の監護教育に必要な範囲でその子を懲戒することができる(要約)とあり、親がしつけのために子を叩くことも、「法令」に基づく行為として、許されます。もちろん、限度を超えたり、教育とは関係ない虐待であったりすると、罪になります。

そして、学校教育法11条では、教師は教育上必要があるときは、生徒に懲戒を加えることができる(要約)とあります。しかし親と違うのは、この条文に但し書きがあって、「ただし、体罰を加えることはできない」と明確に定められていることです。

したがって、条文をただ普通に読むと、教師は体罰を加えてはいけない、学校教育法で禁止されているのだから、体罰を加えたら正当行為でなくて犯罪になる、ということになります。

 

ですので、生徒を叩いた教師を無罪にした昭和56年の東京高裁の判決は、条文をただ普通には読まなかったということになります。つまり一定範囲で体罰を許したわけですが、その論理については次回、詳細に述べる予定です。

体罰教師はどう裁かれたか 1

長い前振りを終わりまして、体罰に関する刑事裁判の例を紹介します。専門的に調べたわけではなくて、刑法の教科書に引用されているレベルですが。理論的な検討はあとに回して、事案の内容と判決の結論を、4つほど紹介します。

 

昭和62年、神奈川県の市立小学校での事件。

養護学級を担任する男性教師が、児童(8歳)が習字の課題をなかなか終えようとしないことなどから、自分がなめられていると感じ、児童の頭部をゲンコツで3、4回殴打しました。児童は翌日、硬膜外血腫等で亡くなりました。

教師には、傷害致死罪で懲役3年の実刑判決(昭和62年8月26日 横浜地方裁判所川崎支部)。

教師はこの判決に不服として控訴したようですが、高裁の判断は追跡できていません。いずれにせよ、こんな小さい子をゲンコツで殴ってはダメだろうなと思わせます。

 

昭和61年、石川県での市立中学での事件。

男性教師が、担任するクラスの男子生徒が忘れ物を繰り返しするので、宿直室に呼び出して、往復ビンタで4発ほど叩きました。生徒がしょげてしまったので、教師は、元気を出せ、というつもりで「先生にかかって来い!」と、けしかけました。生徒は先生を手で軽く押した程度だったのですが、教師はその手をとって柔道の投げ技を出しました。宿直室の畳の上とはいえ、生徒は後頭部を強く打ってしまい、3日後に脳挫傷で亡くなりました。

教師には、傷害致死罪で懲役2年6か月、執行猶予3年の判決(昭和62年8月26日 金沢地方裁判所)

偶然にも、1つめのケースと同じ日の判決で、有罪の結論は同じですが、執行猶予がついています。教師が熱意の末にやったことが予想しない結果となった、と言えなくもないことや、市と両親との間で示談が成立していることなどが理由のようです。

 

昭和60年、岐阜県の県立高校での事件。

男性教師が、茨城県への研修旅行の際、担任するクラスの生徒たちが禁止されているドライヤーを持ってきたことから、部屋で正座させたうえでビンタしつつ、「何で持ってきたんだ」と聞いても、生徒が答えないため憤激し、頭部を殴打し、肩を蹴りつけて転倒させ、倒れた生徒の頭部を二度ほど蹴り、起きあがろうとした生徒の肩や腹を蹴りつけました。生徒はその約2時間後、急性循環不全で亡くなりました。

教師には傷害致死罪で懲役3年の実刑判決(昭和61年3月18日 水戸地方裁判所土浦支部)。

相当に執拗な暴行なので、実刑で当然でしょう。

 

最後に、昭和51年、茨城県の市立中学での事件。

女性教師が、学校での体力測定の日に、ある生徒が悪ふざけをしたり、他の生徒をバカにするような言動をした生徒に対し、頭を平手で押し、軽く握った手の内側(ゲンコツではないほう)で何度か叩きました。生徒はその8日後、脳内出血により死亡しました。

1審の東京地裁は暴行罪で有罪としましたが、2審の東京高裁は、無罪の結論を出しています(昭和56年4月1日)。これが無罪になった理由については、次回に検討したいと思います。

「入試中止」のその先は

もう少しだけ、前回の話の続きを書きます。

大阪市教育委員会が、桜宮高校体育科の入試中止を決めました。とはいえ、普通科の入試を体育科の科目でやるようですから、橋下市長は主張を通して名を取り、教育委員会は実質上は体育科を存続できて実を取ったというところでしょうか。

 

今回明らかになったのは、教育委員会の中立性といっても、市長や知事が予算を使わせないとチラつかせれば、独断が通るということです。

これが先例となると、何か事件が起こるたびに、その責任の所在をきちっと検証することなく、唐突に市の制度が変えられ、無関係の市民に不測の支障が生じることも考えられるわけです。

市の行政の運営としてはずいぶん不安定になってしまうという懸念を持ちますが、これ以上の話は政治の領域かと思いますので、この程度にします。

 

ただ、橋下市長が「入試中止」とブチあげたせいで、そこばかりが注目されるようになってしまいましたが、生徒が自殺していることの民事責任、刑事責任については、これから追及されていくことですので、この問題についての、教師、学校、市の対応を、今後もよく注意して見ていく必要があると思います。

 

これは前の話の繰り返しになりますが、橋下市長は100%行政の責任と発言しました。では今後、生徒の遺族が学校や市に賠償を求める裁判を起こした場合に、市側の弁護士は責任の所在を争わず賠償に応じるのか(それはそれで問題なのも、前に述べたとおり)。

また、行政のトップであり、体罰容認論者であった橋下市長は、何らかの責任を取るのか(取らないと思いますけど)。

そして、教師は刑事裁判にかけられるのか。何罪に問われ、生徒が自殺したという事実は、そのときどう斟酌されるのか。

これらはすべて、これから時間をかけて検討されていく問題です。

 

そして、体罰を行ない生徒を死に至らしめた教師は、これまでどのように刑事責任を問われてきたか、ということで、実際の裁判例を参照いただければと思うのですが、今回はその前振りだけで、あとは次回に続きます。

「人が死んだから入試を中止すべきだ」という「論理」について

前回に引き続き、16日産経朝刊から、桜宮高校の入試に関する橋下市長の発言を引用(一部要約または補足)しますと…

「問題を黙認してきた過去の連続性を断ち切るために、入試をやめるべきだ」、「命をなくすのに比べれば、体育科と普通科の違いは大したものではない」(体育科を受けたい者は普通科を受ければよい)、「仲間が命を落とした状況で部活をやるのは人間としてダメだ」、などと言ったそうです。

生徒の自殺という、悲惨な結果があるために、反論するのが困難な雰囲気があるかも知れないのですが、さすがに上記の発言がメチャクチャであるのは、多くの方が感じ取っているのではないかと思います。

 

私ごとの話になって恐縮ですが、大学時代に法学部の講義で教授が言ったことで、今でもよく思い返す言葉があります。それは、「そのこと自体は誰も否定できない大前提から、具体的な結論を導いてはならない」ということです。

この方は商法の教授で、手形法という学生には不人気な講義をサボりつつ聞き流していたのですが(そのせいで司法試験のとき、一から勉強しなおすハメになりました)、この言葉だけはよく覚えています。

 

橋下市長の上記の発言について言えば、「体罰という問題は黙認されるべきではない」、「生徒が命をなくすことがあってはならない」、「仲間が命を落としたという状況を軽んじるべきではない」という「大前提」、これ自体は誰も否定できないことです。

橋下市長は、だから「入試は取りやめ」「体育科を受けたければ普通科を受けよ」「部活は当分中止」だ、という具体的な結論を導いているわけですが、果たしてこれが必然的な論理と言えるでしょうか。

「今回の問題はきちんと検証し、再発防止に努める」その一方で、これからの入学希望者のために「入試は入試として行なう」という考え方も、充分成立するはずです。

 

前々回、田中真紀子前文部科学大臣の「大学不認可」問題を思いだしたと書きましたが、田中氏も橋下市長と同じ「論理」を使っているのです。

田中氏は、「大学の質の低下は防がなければならない」という大前提から、「だから今回申請のあった3つの私立大学は認可しない」という結論を導いているのです。この前提と結論は結びついていないことは、誰しもお分かりだと思います。

 

さらに話は飛んで、先日の衆院選で、日本維新の会の候補者の運動員が多数、公職選挙法違反で逮捕されたという報道がありましたが、最近何だかウヤムヤになっています(さすがに、橋下市長がこの事件から世間の目をそらすために桜宮高校の問題を取り上げているとは思いませんが)。

この事件に関しても、橋下市長や田中前大臣の好きな「論理」を使えば…

「政党の運動員が公職選挙法違反で多数逮捕されたという状況は軽くみるべきではない」、だから、「維新の会の議員は全員辞職するべきだ」と、こういう主張も成り立つのです。もちろん橋下市長がそんなことを言われれば「それとこれとは話が別だ」と逆ギレするでしょうが。

 

この件に関しては以上です。と書こうとしたところで、今朝(18日)の朝刊によれば橋下市長が「入試を中止しないなら市の予算を使わせない」と言いだしたそうです。ここまで来ると、大阪市民としては、無関係な子供の将来を人質に強権を振るうような人を市長に選んでしまったことを、そろそろ恥じるべきです(私は入れてませんが)。

次回以降はこの問題から少し離れ、体罰に関する実際の裁判例などを紹介する予定です。

市長は入試を中止できるのか

前回の続き。

大阪市の橋下市長が、体罰問題の発覚した市立桜宮高校の体育科の試験を中止すべきだと言っているとか。「問題を黙認してきた過去の連続性を断ち切るため」だそうです。教育委員会との議論の中では「廃校もありうる」とも述べたそうです(なお、橋下市長の発言は16日の産経朝刊に基づいています)。

関係のない受験予定者から見れば、全くのとばっちりで迷惑な話としか思えないのですが、私もいちおう弁護士なので、「法的根拠」ということが気になって少しだけ調べてみました。

 

学校教育のことは、学校教育法にだいたい定めてあります。

その中で、学校教育法施行規則の(「施行規則」って何かというと、詳細は省きますが、法律のさらに細かい規則を定めたものです)90条5項によると、公立高校の学力検査は、都道府県・市町村の教育委員会が行なう、とあります。つまり桜宮高校の入試は大阪市の教育委員会が行なうものです。橋下市長にそれを「やめろ」という法的な権限はない。

だから橋下市長が言っているのは、あくまで「教育委員会に対してやめるよう申し入れた」というだけに留まります。

 

では、橋下市長は桜宮高校を「廃校」にできるのか。

これもノーです。学校教育法4条2号で、市町村立の高等学校を設置したり廃止したりするには、都道府県の教育委員会の認可が必要とあります。つまり決めるのは大阪府教育委員会です。

(ついでに、同じ4条の1号で、大学の設置は文部科学大臣の認可が必要とあります。田中真紀子が先日、私立大学の設置を認可しないと言った根拠がこの条文です)

 

このように、判断するのは教育委員会なのです。橋下市長は得意のやり方で教育委員会に圧力をかけていくのでしょうけど、教育委員会としては受験予定の子供たちのためにも、断固入試を行なうべきです。教師の入れ替えや廃校など論外であると考えます。

 

法律論は以上です。

橋下市長はまた、「学校に100パーセント問題があり、入試を続けるべきではない」とも言ったそうです。しかし、学校(または行政)に100パーセント問題があるのかどうかは、前回述べたとおり、今後きちっと検証されるべき問題です。

また、学校に何らかの問題があり、そのゆえに生徒が自殺したという事実があったとして、「入試を続けるべきでない」という結論に果たして結びつきうるのか。これから受験しようとしている人たちは、この事件と全く無関係であるのに、受験直前に多大の支障と混乱を生じさせることが正当化できるとは思えません。

このへんの話について、次回、もう少しだけ続く予定。

体罰後の自殺について行政は責任を負うのか

大阪市立桜宮高校のバスケ部の主将が、顧問の体罰を苦に自殺した事件が、連日報道されています。

この事件、法的に、民事上・刑事上の責任をどこまで問えるかというのはかなり単純な問題でして、ここで少しだけ整理しておきます。

 

まず、体罰を与えた顧問の教師は、刑事責任を免れないでしょう。唇が切れ、ほおが腫れあがるほどに殴ったことは、刑法上の傷害罪に該当します。学校教育法11条でも、教育上、懲戒を加えることはできるが、体罰は許されないと定められています。

(実は、教師が生徒を殴った事例で、有罪になったケース、無罪になったケースといろいろあるようなのですが、これはいずれ、きちっと調べて書きます)

 

では、顧問の教師に、生徒の「死」についても刑事責任を問えるか、つまり傷害致死罪で立件できるかというと、それは無理でしょう。傷害致死罪は、典型的には、殴ったら死んだ、というケースに適用されるものです。

今回、生徒は自殺という方法を選んだわけです。それが日常用語的に「教師が死に追い込んだ」という言い方ができるとしても、刑法上の「因果関係」を肯定するのは困難でしょう。

 

では、民事上の賠償責任はどうか。教師と、学校の設立母体つまり大阪市が今後、民事責任を問われることは考えられるでしょう。この場合も、自殺という結果について責任を問えるか否か、事実関係に照らして充分に検討されるべきことでしょう。

もちろん私も、この事件の結末が悲惨なものであり、亡くなった生徒は可哀そうというほかないという心情は持っています。しかし、法律上の因果関係を認めるためには、本当にその結果が必然的なものであったのか、少年にとって他のやりようがなかったのかなど、冷静に検討する必要があります。

またそのことが、今後の同種の事案を防止することにもつながるはずです。

 

法律的にはその程度の話なのですが、今回、私が違和感を禁じえないのは、大阪市の橋下市長が出てきて、責任は100%行政にある、と断言していることです。

弁護士でもある橋下市長がそこまで言うからには、因果関係などを議論することなく、賠償金をすべて支払う、という趣旨であると、多くの人は感じるのではないでしょうか。

しかし、そうだとすると、今回の事態を本当に検証することにはならないでしょう。それに行政の責任だとすると賠償金は大阪市から出ることになる。大阪市民として高い市民税を払っている私個人的には、本当に全額、市の責任なのか、きちっと検討してほしいと思います。

今回は悲惨なケースだから、それでいいじゃないか、と考える大阪市民も多いでしょう。しかし、そういう前例を作ってしまうと、あの市長のことですから、大衆ウケしそうな場面で出てきては「行政の責任だ」と言い、事実の検証もなく大阪市の財政からばんばんとお金を出しかねない。そういう意味で、今回の市長の対応は疑問なのです。

 

それから、今日の朝刊では、橋下市長が、桜宮高校の体育部の入試を中止すべきだと言ったという報道もありました。ここまで行くと私は、田中真紀子(元)文部大臣が大学の設置を許可しないとか言いだした一件を思いだしたのですが、そのあたりの法的考察は次回に書きます。