坂口安吾「大阪の反逆」を読んで思ったこと

 ずいぶん久々の投稿となっていまいました。

 最近になって、坂口安吾の「大阪の反逆」を読みました。これは昭和22年に書かれたもので、副題は「織田作之助の死」。坂口安吾が織田作之助の死後、追悼の思いを込めて書いた短編です。
(現在手に入りやすいものとしては、新潮文庫の「不良少年とキリスト」という文庫本の中に収録されています。)

 織田作之助は、将棋の阪田三吉が、当時の名人・木村義雄と対局したときに、初手に「端歩」をついたエピソードを自らの小説(「驟雨」他)で取り上げています。
  将棋の初手で端の筋にある歩をつくのは、その後の攻撃につながらない悪手とされていますが、織田作之助はこれを、オーソドックス(ここでは、伝統や権威といった意味合いで使われています)に対する反逆であり、将棋の可能性を高めるものとして、絶賛していました。

 坂口安吾は、「大阪の反逆」の中で、全体的には大阪の人間を好意的に評価しており、その気質として「新型好みのオッチョコチョイの如くだけれども、実質的な内容をつかんでいる」などと表現しています。
 しかし、端歩については、否定的に評価します。

 坂口安吾のいうところを単純にまとめるとこういうことです。
 将棋でも芸術でも文学でも、オーソドックスに対し反逆するというのであれば、物事の真理を追究して考え抜いた末に行われるべきものである。単に反逆だけが目的となって中身の伴わない行為は意味を持たない、と。

 端歩については「まさしくハッタリによって芸術自体を限定し低めてしまったバカバカしい例であり、大阪の長所はここに於て逆転し、最大の悪さとなっている」とかなり厳しい表現で述べています。

 私はこの部分を読んで、今の大阪の政治的な状況、具体的にはあの「大阪都構想」を思い出しました。

 東京都に対する単純な対抗心で「大阪都」なるものを作ると特定の政治家(当時の橋下知事)が言い出し、それが一部住民には熱狂的に支持された。
 しかも、実際に示された都構想なるものは、東京に対する反逆ですらなかった。「大阪市」という政令指定都市を廃止し、予算も権限も縮小された4つの区に分割するだけの話でした。
 大阪市が存在することでどのような弊害が生じているのか、大阪市を廃止させない限り解決しない問題とは何なのか、それが大阪市を廃止することでどう良くなるのか、ということについて、具体的な話は、誰からも何も語られなかった。

 二度に渡って莫大の税金を浪費した住民投票は幸いにも僅差で否決され、大阪の良心がかろうじて示されたと感じましたが、もし、特に二度目の住民投票が可決されていれば、いわゆる新型コロナ禍の中で、大阪市の各部署は「大阪市を廃止するためだけの事務」に忙殺され、ただでさえ都道府県単位で全国ワーストであった大阪府の新型コロナ感染による死者数はもっと増えて、混乱の極みに達していたでしょう。

 大阪都構想とそれに対する熱狂は、大阪の人間の本来愛すべきオッチョコチョイな部分が、悪い方向に出てしまった最たるケースだと考えています。
 将棋の端歩なら自分が勝負に負けるだけで済むけど、こと政治・行政がそちらに向かってしまうと、全住民にとって悲惨な結果を生みます。

 近く衆院選が行われますが、自らの住む町のため、国のための議論をしてくれているのは誰か、冷静に判断して票を入れたいものです。