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連載小説「熱弁飛龍」

連載小説 [熱弁飛龍]
■【熱弁飛龍 大団円・青雲の轍】 その5


7月。湿気の強い空気がまとわりつくような、大阪らしい朝であった。

その日は午前10時から、少年・光藤章の審判が大阪家裁で行われることになっており、飛垣は朝早くから事務所に出て、審判の準備をしていた。
夏恵が午前8時半には出勤し、裁判所へ提出する最終意見書を持っていくことになっていたが、彼女は時間になっても現れない。

午前9時、定刻になって、令子と佐藤修習生が事務所に出てきた。
「おはようございます。夏恵さんは、もう家裁へ出かけたんですか?」
「いや、まだ来ていないんだよ」
これまで、遅刻が一切なかった彼女だ。飛垣も不安に感じ始めている。
事務所の電話が鳴った。飛垣がとっさに受話器を取ると、夏恵の声が聞こえた。
「ああ、遅いよ、何かあったの?」
「先生……」
飛垣はその声にただならぬものを感じた。彼女は何かにおびえている。遅刻などという問題ではないと、彼は直感した。
「…あの、今日の件です。家裁の少年審判に行く前に、『古い法廷』に行ってください。先生の大好きな『古い法廷』です。法廷の裏側の通路を通って、私は令状部にいます。来てください。必ず…」
飛垣が何か言おうとしたところで、電話が切れた。
先月、山口県から電話をかけてきたホンコン・ジョーの言葉を思い出した。渥美が夏恵を狙って、中国のマフィアに手を回していると。嫌な予感が走った。
「佐藤くん、令子ちゃん、留守番を頼むよ!」
飛垣は事務所を飛び出した。

出勤中の夏恵の身に、何かあったのだ。
彼女が言った、飛垣の大好きな「古い法廷」とはきっと、心斎橋清水町通り、彼の行き着けのバー「オールドコート」に違いない。
では「法廷の裏側の通路」「令状部」とは――。
飛垣は通りから「オールドコート」の入り口に通じる細い路地を、さらに奥へ分け入った。
バーの建物と隣りの塀の隙間を抜け、裏手にまわったところに、ひっそりと廃ビルが建っていた。ビル1階の入り口はベニヤ板で封がされているが、その脇に地下に入る道がある。
大阪地裁の「令状部」は、地下1階にある。夏恵はこの地下にいるに違いない。

階段を下りた先の扉には鍵がかけられておらず、飛垣がそれを押し開けた。
かつてはここもバーであったのだろうか、ほこりの積もったカウンターが奥へ続いていて、薄暗い店内に目をやると、いちばん奥で夏恵が一人、スツールに座っていた。
「夏恵ちゃん!」
「あ、先生! 来ないで!」
飛垣が夏恵に近寄ったとき、先ほど入ってきた扉から4人のヤクザ風の壮漢が現れ、扉の鍵を内側から閉じた。
「何だ、お前ら、夏恵ちゃんに何をしたんだ」
「兄ちゃん、何か知らんけど、ウチの雇い主がもうすぐこの女の子を引き取りに来るから、それまで待っててもらわんと困るんや」
飛垣はポケットの携帯電話に手を伸ばしたが、画面には「圏外」の文字が表示されていた。
4人の男が飛垣を取り囲むように近づいてくる。
「ここまで来たら、電波は通じへんで。上からの命令でその女の子には手は出せんのやけど、お前にはちょっとの間、黙っといてもらおか」
1対4。場所は密室。かなり絶望的な状況である。男たちとの距離は3メートルほどまでに近づいている。
そのとき飛垣に異変が起こった。

「はははははは…!」彼が突然笑いだしたのだ。「お前ら、いい話を聞かせてやろう」
壮漢たちは目を見開いて飛垣を見た。彼が話し続ける。
「関ヶ原の戦いのときのことだ。徳川家康の軍勢に敗れた石田三成は、捕らえられて処刑されることになった。そして刑場にいく直前、獄吏から柿の実を渡された。
しかし三成は、柿は腹を冷やすと言って食べなかったのだ。
あとは首を切られるだけなのにと、獄吏は笑ったさ。しかし、三成の傍らにいた彼の幼い子供は、せっかくの柿を食べ損ねて、ひもじくて泣いていた…」
男どもが予想外の展開に呆気に取られているのを見計らって、飛垣は夏恵に向けた背中に手を回し、カウンターのほうを指し示した。カウンターの内側に電話機があるのに、夏恵は気付いた。戸惑う男たちを前に、さらに話は続く。
「三成の子は、泣いたさ、そう、声を上げて泣いた…」
「……はぁ?」
「ふふふ、お前ら、まだわからんのか」
飛垣は彼らを見据えて、言い放った。
「その、泣いていた子供。それが…この俺だああっ!」
男たちは静まりかえっていた。
「こいつ何言うとんねん…」
その隙に、夏恵はカウンターにある受話器を取り上げていた。
「あっ、あの女!」
気付いたときには遅かった。
「清水町通りの『オールドコート』奥、雑居ビルの地下です。監禁されているんです。すぐ来てください!」
飛垣は悠然と、夏恵を連れて出口に向かう。
「さあ、かかってくるやつはいるか」
壮漢たちもさすがに、警察に連絡が入ったとあっては手出しできない。

ビルを出て、清水町通りに出た。朝日がまぶしい。人通りもあり、もう一安心である。
そこでパトカーが到着するのを待っている飛垣を見て、夏恵が言う。
「あの、待っても無駄だと思うわ、飛垣さん」
「え、どうして?」
「あの電話、通じてなかったのよ。電話が使えないって、彼らも知らなかったみたいね」

飛垣は慌ててタクシーを拾い、夏恵とともにその場を離れた。時計は9時45分。間もなく、少年審判の始まる時間である。飛垣はそのまま家庭裁判所へ向かった。

タクシーに乗ってようやく安心したのか、夏恵の体が震えだした。
「怖かったわ、私」
「何があったの?」
「事務所に向かおうとしていて、心斎橋筋をはずれたところで車に連れ込まれたの。9時に事務所に連絡しないと怪しまれるからって言って、地上に出してもらって電話したんだけど。あの人たち、何なのかしら」
「渥美だよ。あいつが変な連中に手を回したみたいだ。ひとまず、今日のことは警察に届けよう」
「渥美さんが…? 私、どうしたらいいの」
「大丈夫だ、守ってあげるさ、夏恵ちゃん。僕が守ってあげる」
タクシーの後部座席で、飛垣が夏恵の肩にそっと手を回していた。
続く ...







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