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5月の連休過ぎのある朝、飛垣の事務所にアポなしでやってきたのは、20歳代半ばの男性であった。
飛垣は彼を一目見て、相談客ではないと分かった。
スーツ姿のその青年の襟には、青・赤・白と三色の三つ葉マークのバッジが付いている。
司法試験を終了して弁護士になるまでの間の研修期間を過ごしている、司法修習生だ。
「佐藤晃一と申します。突然の訪問すみません、先生」
「ああ、修習生の方だね。ウチに何か?」
司法修習生である期間中は、その三つ葉のバッジさえ付けていれば、裁判所に検察庁、そして弁護士事務所へと、「研修」名目で自由に出入りできる。
飛垣自身もかつての修習時代、大阪や京都の様々の弁護士事務所へ訪れては、研修もそこそこに北新地や祇園に連れていってもらった恩義がある。
だから、今まだようやく弁護士5年目を迎えたに過ぎない飛垣としても、尋ねてくる司法修習生には親切に対応しようと心がけている。
佐藤と名乗った司法修習生は続けた。
「はい、司法修習の期間が終われば、この事務所に置いていただきたいのです」
寝耳に水であった。飛垣はまだ、人を採るようなことは全く考えていない。
「え! 何でまた、ウチの事務所に…」
「ご存じのとおりで、今後弁護士人口は増加します。大阪の巨大法律事務所だって、その人数を吸収しきれない。それに僕は、若い先生がいる新しい事務所でやりたいんです。特に飛垣先生は、どんな小さな事件でも、熱弁を振るって解決に導いてくれるって評判を聞きまして」
どこでそんな評判が流れているんだろう。それともお世辞を言っているのだろうか。
「そう言ってくれるのは有難いけど、うちは事務員2人の給料を払うのがせいぜいなんだよ。弁護士を雇うほどの事務所じゃない。悪いけど…」
そう聞いて佐藤修習生はいったん肩を落としたが、さらに食い下がってきた。
「では、せめて修習期間中は、ここに出入りすることを認めてくださいませんか。評判の飛垣先生の仕事のやり方を、見てみたいのです」
ひとまずその日は、飛垣は佐藤を返した。
司法修習生として法律事務所に身を置いている期間中は、指導担当の弁護士がついており、また司法研修所から与えられた多くの課題をこなす必要もあり、とても他の事務所に身を置く余裕があるはずもない。
飛垣は佐藤の指導担当弁護士である、大阪弁護士会のある中堅弁護士に問合せをした。
「ああ佐藤君かね。構わんよ。課題さえこなしてくれたら、後は自由にやってくれと言ってあるんだ。君の事務所さえよければ、ちょっと様子を見せてやってくれんか」
とその中堅弁護士は気楽に言った。
飛垣が京都で修習をしていたころは、課題をこなせば後は木屋町で飲んでいた。他の法律事務所に身を置いて勉強したいなどとは、わずか5年ほどの差ながら、時代の変化を感じざるをえない。よほど勉強していなければ就職に差し支えるほど、弁護士も就職難なのであろうか。
もっとも、司法修習生として来てもらう分には給与を支払う必要はなく、飛垣の事務所の財政的負担にならないし、今抱えている問題からして、男手が一人でも増えるとむしろ安心かも知れない。
問題とは、この2か月ほどの間、夏恵に付きまとう渥美の存在であった。それを理由に司法修習生を置くというのも、彼に対して気が引けるが、そういうこともあって飛垣は佐藤の出入りを許すことにして、彼に電話をかけた。
もちろん、そうは言っても夏恵は飛垣自身が守るつもりであり、佐藤にボディガードをさせるつもりはない。
翌日朝、早速佐藤が三つ葉バッジをつけて飛垣の事務所に現れた。
飛垣の事務所は、入り口のカウンターの向こうに事務作業スペースとして夏恵と令子のデスクがあり、奥まったところに、飛垣のデスクと相談用の応接スペースがある。
かつて令子がこの事務所に乗り込んできたとき、事務作業用に大きな会議用のテーブルを導入したため、佐藤はそこの一角に座ることになった。
「飛垣先生、今日の予定はどうなっていますか」
と佐藤は早速聞いてくる。
「いや、特にないんだけどね。あ、令子ちゃんが裁判所に訴状を提出に行くから、もしヒマだったら一緒に行ってくる?」
飛垣は事務所で夏恵と残っていた。なるべく、夏恵を一人にせずに自分がそばにいるようにした。
佐藤は令子と出かけている他は、事務所で事件記録に目を通したり、研修所の課題を片付けたりしていた。飛垣の事務所もさして忙しくはない。
しかし、修習生にとって一番の研修は弁護士の仕事ぶりをそばで見ることである。
飛垣は佐藤が事務所に出入りするようになって3日目、彼を大阪地裁に連れていった。
法廷に立ち合わせるつもりであるが、事件自体は何でもない民事事件で、書面を提出して数分で終了した。
昼どきであったので二人して地裁の地下食堂へ降り、飛垣は好物の「ネギラーメン」をとった。佐藤はきつねうどんに、小鉢の焼きおにぎりをつけていた。
「あまり参考にならない事務所で悪いね、ウチも結構ヒマなんだ」
「いえ、とんでもないです」
「ところで、」とラーメンを食べる合間に飛垣が聞く。「聞いていいかな。僕の評判なんて、そんなのどこで聞いたの?」
「ああ、」佐藤が答える。「ネットですよ」
「え?」
「今や何でもインターネットです。評判のよい弁護士はインターネット上に名前が挙がってます。飛垣先生の名前もネットで見ました」
そういうものなのか。インターネットに疎い飛垣には分からない。しかし飛垣を知る何者かが、そのようなことをネット上に投稿したとすれば、誰であろうか。ぼんやり考えている飛垣に、さらに佐藤が尋ねてきた。
「ところで、私からも聞いてよいですか、先生」
「あ、うん、何?」
「先生は、夏恵さんがお好きなんですか」
飛垣の鼻からネギの破片がこぼれた。
「いや、失礼しました。ただ何だか、常に先生と夏恵さんが一緒におられるような気がして」
飛垣は佐藤に、この間の事情を話した。夏恵が不審な男性につきまとわれていること、そして、男手が増えると安心だと思って彼に来てもらったことも正直に話した。
「なるほど、そういうことがあったんですか」
と納得しつつも、佐藤はまだなお食いついてくる。
「いや、でもね、それだけじゃなくて、飛垣先生の夏恵さんを見る目がとても優しそうだなと思ったのです。つまらないことを言ってすみませんでした」
彼は将来、手ごわい弁護士になるだろう。飛垣は考えながらネギラーメンを食べ終えた。
昼食後は淀屋橋から心斎橋まで、二人で雑談をしながら歩いて帰った。
御堂筋の銀杏並木の緑色が濃くなってきていた。暑い夏になるだろうなと飛垣は思った。 |
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続く ...
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