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季節は春――4月のある日の朝。
心斎橋の雑居ビルにある飛垣の事務所は、南向きの窓から春の日差しが差し込んで暖かかった。
しかし、夏恵は憂鬱であった。先月、事務所に現れた男性・渥美洋行のことが気にかかっているのだ。事柄が事柄なだけに、飛垣も気まずくなりがちである。
「京都から夏恵さんを追いかけてここまで来るなんて、何だか気持ちの悪い人よね。婚約破棄の相談なんか、きっと口実に過ぎないのよ」
令子が飛垣や夏恵の沈黙をよそに語っていた。
彼女自身はかつて、飛垣を追いかけて京都にある祖父のもとを飛び出し、この事務所に強引に移籍してきたのであるが、そういったことは忘れているようであった。
その朝、問題の渥美から事務所に電話があった。
「渥美さまですか。ご相談のご予約でしょうか」
令子が電話に出ると、電話の向こうの男は曖昧な返事をしてすぐ電話が切れてしまう。
その日の午後、飛垣が法廷に出るべく事務所ビルを下まで降りたとき、エントランスの前に渥美が立っていた。
「ああ、こないだの方ですね。今日は何かご相談ですか」
飛垣は警戒しつつも、とぼけて聞いてみる。
「ああ、いや、通りかかっただけで…。じゃあ…」
とだけ言って、渥美は去っていった。
京都の人間が心斎橋まで、「通りがかり」はなかろう。
飛垣もさすがに心配になり、その日の定刻に夏恵や令子が帰ったあと、白鳥桂司へ電話した。かつて夏恵が勤めていた「京都三条法律事務所」で、夏恵が秘書役を担当していた同期の弁護士である。
「久しぶりだな。事務所は順調か? 飛垣」
大阪へ移ってから久しく聞いていなかった友人が、電話の向こうで懐かしそうに言う。
「おい白鳥、君のところの元相談客が、最近ウチにも来るようになってな」
「繁盛しているな、いいことじゃないか」
「そういうことじゃない。夏恵ちゃんが何だか、付きまとわれてるみたいで気にしてるんだ。渥美とかいう名前だが」
「渥美か…」
呑気だった白鳥の声が一瞬、くぐもった。
「知ってるのか」
「ああ…。ウチにも、案件として成り立たないような相談ばかり持ちかけてくる客だったな。俺をご指名でくることが多かったんだけど、あれはきっと、秘書の夏恵ちゃん見たさだったんだろうなと思ってる」
「そんなのがどうして俺のところに追っかけてくるんだ?」
「事情はわからんが、こっちのほうで何かわかるか、調べてみる」
いったん電話を切った後、ほどなく白鳥から電話がかかってきた。
「ウチの事務局に聞いてみた。夏恵ちゃんに事務的な連絡があるから移籍先を教えてほしいと聞かれて、別のスタッフが教えてしまったらしい」
弁護士の本職ならともかく、事務員の移転先を本人の承諾なしに漏らすなどとは、不注意と言わざるをえない。弁護士は自分の名前と責任で仕事をするから、常に自分の所在は明らかにすべきであるが、事務員は機械的事務を行う立場に過ぎない「黒子」だからだ。
「すまない、俺が注意しておくべきだった」
「いや、君のせいじゃない、気にするな。こっちで何とか対処するよ」
飛垣は白鳥を気遣いつつ、電話を切った。
次の日の朝一番に、夏恵から事務所に電話連絡があった。
「体調不良」を理由に休みたいとのことであった。
「参ったなあ。僕はどんな変な客でも対応できるけど、夏恵ちゃんが狙われるとなったら話は別だし。このままもし、退職でもされたらどうしよう」
飛垣は令子を前に、一人嘆いていた。
しかしそれを受けて令子は平然と言った。
「私は、夏恵さんが毅然と対応すべきだと思います」
飛垣は驚いて、意外な顔で令子を見た。令子はさらに続ける。
「うちのおじいちゃんの事務所だって、今は京都有数の老舗だって言われてるけど、変わった依頼者はたくさんいましたわ。そういう人の対応をするのが私たちの仕事だと思うし、そういう人が払ってくれる相談料や着手金が、私たちの給料になるんですもん」
夏恵がかつて勤めていたのは、企業法務を中心とする、京都有数の大事務所であった。客層は常識のある企業人に限定されている。
一方、令子の祖父である弁護士・御池規一の事務所は、企業でも個人でも、いろんな階層の人間を相手にしている小さな事務所であった。確かに、令子や飛垣がいた頃にも、大小さまざまな事件、さまざまな依頼者がいた。
その点、令子はどんな人間の対処にも強いのかも知れない。彼女はさらに続けた。
「だいじょうぶですよ、飛垣先生。もし夏恵さんが事務所を辞めても、私が支えていきますから」
その夜、飛垣はバー「オールド・コート」のカウンターにいた。
隣りに同期の弁護士・真野祐樹がいる。飛垣が久しぶりに声をかけて、ここで待ち合わせしたのだ。
今回の一件について相談に応じてもらうつもりであったのだが、飛垣の話を聞いて真野が言ったのは、
「なるようになるだろう」
ということだけだった。
「お前らしいな」
いつもクールな真野に、この手の相談をするのが間違っているのかも知れない、そう思って飛垣は話題を変えた。
「どうだ、最近は例の彼女とうまくいってるか。まあ、お前の彼女がどの人だったか、もう混乱して忘れてしまったけどな」
「ああ、あの話か」。真野が珍しく笑ってみせた。「俺が探していた人。俺がかつて『スリー・マティーニの女』と呼んでいた女性。連絡先も知らないけど、もしどこかのバーで再会できたら、そのときこそ口説こうと思っていた」
「で、会えたのか?」
「会えた。とあるミナミのバーでな。俺はそこで付き合いを申し込んで、OKをもらった。今はその彼女が本命だ」
真野らしい話だ。
運命という言葉を飛垣は信じないが、良い出会いも、悪い出会いも、すべてはそういうめぐり合わせなのかも知れない。そのめぐり合わせの中で、良い出会いは活かし、悪い出会いは跳ね除けていくしかない。
明日、夏恵は事務所に来てくれるだろうか。彼女の顔を思い浮かべていた飛垣に、真野はさらに付け加えて言った。
「ま、なるようになるさ。でも、本当に好きな相手は、全力で守ってあげるべきだ」
その一言に背中を押されたような気がして、飛垣はグラスの底に残っていたクレイモアのハイボールを飲み干した。 |
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続く ...
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