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今年の夏はとりわけ暑かったが、9月に入って、さすがに少しは涼しい風も吹くようになっている。
飛垣の事務所への今朝一番の来客は、債務整理の依頼主、堀木文江であった。
彼女は目の前に置かれた100万円ほどの札束を見て、目を丸くしている。
「こ、これが全部、私のお金なのですか?」
「ええ、あなたは何年間も高い利息を払い続けてきた。正当な利率で計算すると、借金はすでに完済どころか、余計に払い過ぎていたんです。サラ金5社のうち4社からそれを取り返しました。残る1社は返還に応じないので、訴訟を提起します」
借金を値切ってもらおうと依頼したら、逆にお金が戻ってきたのだから、堀木は泣かんばかりであった。彼女が目を潤ませて帰っていったのを見て、令子が飛垣を冷やかす。
「先生もたまには、正義の味方になるんですね」
「いや、複雑な気持ちだよ。返してもらって当然のお金なのに、あんなに喜んでもらって、しかもこっちは成功報酬の1割をもらってるんだからさ」
そこへ事務所の電話が鳴って、夏恵がとった。
「もっと複雑な事件よ。穂積さんからお電話」
梅野梢の刑事事件については、前回の公判後、穂積から度々、状況を問い合わせる電話がかかってくる。「被害者」である富井優はまだ見つかっていない。監査法人の同僚にあたる穂積は、和歌山にある富井の実家の住所を調べてくれたのだが、飛垣が手紙を出してみても何らの返答はない。
「富井さんとはまだ連絡は取れていません。実家に連絡してみましたが、まだ返答はないですね」
「先生、梅野のために、全力を尽くしてやってくださいよ。早く富井を見つけて、示談に持ち込んでください」
「当然、やれることは一通りやっています。でも残念ながら、行方不明の人を探すような調査能力は弁護士にはない。できるところからあたっていくしかないのです」
すでに何度も、電話でこの話をした。飛垣は正直なところ少しうんざりしながら、また同じ返答をして、受話器を置く。
とたんにまた電話が鳴って、今度は令子がとった。
「あ…!」と令子は電話口で驚きの声をあげている。
「飛垣先生、富井さんのお父さんって方からよ!」
飛垣は慌しく電話をとった。
「ご連絡ありがとうございます! 弁護士の飛垣です。この度は…」
飛垣の興奮とは裏腹に、父親を名乗るその男性は弱々しく言った。
「いや、うちの優は連絡がつかないんです。あいつもこのことはそっとしておいてほしいみたいなので、放っておいてやってください。私たちも、関わりたくはありませんので…」
か細い声で、電話の向こうの父親は言った。事件の進展に向けての期待は裏切られた。いかなる事情があるかは知らないが、当事者でもない親に、それ以上何も言えなかった。
「進展はなさそうね」
力なく受話器を置いた飛垣をみて、令子が言った。
事務所を閉めたあと、飛垣は汗を流したくなって谷町の「空心少林拳」本部道場へ行った。
黄色や青色の帯を締めた中高生の練習生たちを横目に見ながら、黒帯・初段の彼は、4段の師範代から直々に稽古を受けていた。そのとき飛垣の背後、道場の入り口に人の気配がした。
「やあ、あんたは…」
師範代が声をかけたので振り返ると、そこにいたのは稽古着を身に付けて黒帯を締めた穂積であった。
「稽古をつけてもらいにきました。先日の合宿の続きに、飛垣さんと手合わせ願いたい」
先月の合宿の組手試合で引き分けたことを、まだ根に持っているのか。
「あのときのことなら、穂積さんの勝ちってことでいいじゃないですか」
飛垣は余裕を見せて言った。
「飛垣さん、私はあなたのそういうあっさりしたところが気にいらんのですよ。あくまでこれは稽古です。いいじゃないですか」
挑発されているようでもある。若い練習生が見ている手前、そうまで言われると、飛垣も引き下がるわけにもいかない。彼は穂積の目を見据えた。
「そこまで言うなら、構いませんが。師範代、よろしいでしょうか」
かくて二人は三たび相対することになった。道場の真ん中で、手刀を前にかかげて向かいあう。
「はじめ!」
師範代の号令がかかった瞬間、穂積が踏み込んでくる。飛垣と二度の組手稽古を経て彼なりに工夫したとみえて、飛垣に反撃の暇を与えぬ連続攻撃を仕掛けてくる。
ひとつの突きを捌いてもすぐ次の突きが来る。一瞬のうちに穂積が間合いを詰めてきた。とっさに飛垣は、穂積の腕に自分の腕を絡めてその動きを止めた。かつて相対した中国の殺し屋ホンコン・ジョーが得意だった、詠春拳のトラッピングの技術だ。
二人は至近距離で向かいあい、睨みあったまま動かなくなった。
穂積が飛垣に顔を近づけて言った。
「梅野梢から俺に電話があったよ。これ以上、事件に関わるのはやめてと」
こんなところで何を言い出すのだ。飛垣は辟易しつつも、腕の力を緩めず言う。
「そりゃそうだろ。あんたはそもそも事件に無関係なんだから」
「高い着手金払って、被害者との示談も進んでいないままじゃないか、あんたに任せておいて大丈夫なのか」
「どんな状況でも被告人のために最善を果たすのが刑事弁護人の役割だ。依頼に関して手を抜くことはない」
「何言ってる。俺たち会計士はいつも夜遅くまで帳簿に囲まれて働いているんだ。あんたら弁護士はしょせん、俺たち依頼者の上前をはねるだけの仕事じゃないか」
他の門下生が二人のただならぬ様子に気づき、怪訝な顔で見ている。
飛垣は腕をほどいて穂積を突き放した。こいつを相手に本気で一本取ってやりたくなった。
次の瞬間、二人はほぼ同時に踏み込んだ。
「やめえっ!」
宗家師範の声が響いた。外出先から道場に戻ってきたのだ。二人は構えを解いて礼をした。
「おい師範代、わしがいないときは他の門下生と試合してはいかんと言ってあったじゃろ」
宗家師範の言葉に、師範代が小さくなって頭をかいている。
「穂積君、そう勝負に熱くなりなさんな。君の道場とはまた手合わせする機会があるじゃろう。今日は帰って、改めて出直しなさい」
かくて二人の勝負はお預けとなったのであった。
喉の渇きと、それ以上に心の渇きを感じて、飛垣はしばらくぶりに同期の真野と連絡をとり、二人で心斎橋のバー「オールド・コート」のカウンターで会った。
今日あったことを、真野に話している。堀木の債務整理事件のこと、そして梅野の刑事事件と、先ほど穂積とやり取りしたことなど。
「なあ真野、俺たちの仕事って、人の上前をはねるのが本質なのかな」
「お前らしくないな。難しいことを考えるな、日々やるべきことを、できる範囲でこなしていくだけじゃないか」
「やるべきこともできてないんだよ。久しぶりの刑事事件なんだが、被害者が行方不明で示談できていない」
「人捜しか…。実は俺も、ある人を探している」
「何だ? 事件の関係者か?」
「いや、酒場で出会った女性だ。マティーニやマルガリータの似合う、大人の女性だ」
飛垣がクレイモアのハイボールを飲んでいる横で、ショートグラスに入ったマルガリータを傾けながら、真野は冷静に言った。
「お前らしいな。仕事が終われば、考えてるのは女のことか」
「そうだ。それくらいの気持ちでいるほうが、仕事だってうまくいくだろう」
飛垣はこの常に冷静な友人と会うと、なぜだかほっとした気持ちになる。
やるべきことを、できる範囲でこなしていく――。来月の法廷では、自分なりのやり方でこの事件に迫ってみるしかない。
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続く ...
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