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6月上旬から早速、梅雨入りを思わせる陰鬱な天気であった。
その朝、飛垣は傘を片手に、神戸市長田区の長田警察署に向かった。
先月末、同じ「空心少林拳」の門弟・穂積から相談を持ちかけられて、その知人であるという女性に接見にきたのだ。
その殺人未遂事件の被疑者の名前は、梅野梢(うめの こずえ)、27歳。
穂積の話によると、彼と同じ監査法人で事務職として勤務していた。そして、同じ監査法人に勤める男性職員を刺したということであった。
穂積はさらに、本人さえ拒まなければ飛垣が弁護人についてほしい、その際の着手金は自分が出すとまで言った。
飛垣が接見室に入ってほどなく、透明のアクリル板の向こうで扉が開いて、梅野が現れた。
留置場の中であるから化粧もしておらず、地味なジャージ姿であるが、かなりの美人であろうことはわかる。自分が呼びもしないのに弁護士が来たことで、少し怪訝に思っている様子が表情から見てとれた。
「穂積という男性の依頼で来ました。人を刺したとかいう話だそうですが、事情を聞かせてもらえますか」
梅野は、ああ、という顔で頷いて、言葉を選びながら話を始めた。
「好きな男性から、別れ話を切り出されて、カッとなって刺してしまったんです」
言葉少ない女性である。飛垣があれこれ質問した末に聞きだしたところによると、その被害男性の名は富井優(とみい まさる)、梅野と同じ27歳で、同じ監査法人に勤めているものの、会計士資格は有していないため監査業務は行わず、梅野と同じ事務職である。
「そういう相手なら、連絡先は分かりますね。今後、示談交渉に入りましょう」
「いえ、それは結構です」
「え? 殺人未遂は重罪ですよ。示談できないと、実刑を食らうかも」
「いいんです。それでいいんです。罪はすべて、私がかぶります」
結局梅野は、飛垣を弁護人に選任するための届出書にサインはしたものの、特段の弁護活動はせずにそっとしておいてほしいと望んだ。
飛垣は釈然としないまま心斎橋の事務所に戻って、夏恵と令子に尋ねた。
「男性に振られて、その相手を刺したくなるときってある?」
「え、女性トラブルですか、先生」
と夏恵が怪訝な顔をした。
「僕じゃないよ、今日接見に行ってきた人」
「私はそこまでしないなあ」
そう言ったのは令子である。かつて飛垣を追いかけて京都から大阪にやって来た気性の持ち主でも、さすがに男性を刺すまでの感情は理解できないらしい。
理由や動機が何であれ、殺人未遂という重大事件の弁護を引き受けることとなり、飛垣はやや緊張している。だがそれとは関係なく、飛垣の事務所には今日も、いろんな問題を抱えた相談客が訪れてくる。
その日の午後に来た堀木文江(ほりき ふみえ)は、40歳手前の女性である。夫と別れての母子家庭で、6歳の子供を一人かかえている。離婚前からの生活苦で、サラ金5社から総額300万円の借入れをし、利息の支払いだけで手一杯になったから、何とか返済額を値切ってほしいという。典型的な債務整理案件だ。
「約8年間に渡ってあなたは高い利息を払い続けている。法定の利息で計算しなおしてみましょう。じゃ、サラ金のカードは預かりますよ」
堀木は、弁護士が入った以上、今後毎月の返済をストップしてよいと聞き、喜んで帰っていった。
「こんな単純なことで喜んでもらえる案件ばっかりだったらいいんだけどな。さて殺人未遂のほうは、何をどう弁護しようかなあ」
中旬に入り、飛垣の事務所に、梅野が起訴されたと連絡があった。起訴された罪名は殺人未遂罪ではなく「傷害罪」であった。
起訴されて「被告人」となれば、保釈手続を取ることができる。ここでも、保釈手続を取るよう求めてきたのは穂積であった。梅野自身の両親は遠方に住んでおり、裕福でないため保釈金の準備もできそうにない。保釈金の準備も穂積が行い、梅野の身元引受人にもなるということだった。
保釈の許可がおりた日、穂積は梅野を長田署まで迎えにいき、その脚で二人は飛垣の事務所にやってきた。飛垣は穂積同席で、保釈後の注意事項などを梅野に説明した。
「さて他に何か、お聞きになりたいことはありますか、梅野さん」
「あの、私、殺人未遂罪で逮捕されたのに、どうして起訴状には傷害罪って書いてあるのでしょうか」
「ああ、よくあることですよ。警察はあなたに殺意があったと考えたけど、殺すような動機もないし、男性のケガだって軽かった。検察は、殺意の立証は無理だと考えて、傷害罪に落としたのです」
「あともう一つお聞きしたいのですが。あの、保釈されたら、身元引受人と一緒に住まないといけないのでしょうか」
つまり、穂積と一緒に住むことになるのかという問いだ。
「いえ、身元引受人というのは形式的なもので、その人と一緒に住まないといけないってもんでもありません。ご自宅に戻ってもらって結構ですよ」
そこに穂積が口を挟んだ。
「いや、僕のところに住むほうがいい。賃貸マンションだけど、君が使うための部屋も用意してあるんだ。一人暮らしだと仕返しだって心配だし、そのほうが安全だ」
話がおかしくなってきた、と飛垣は思い、口をつぐんで梅野の返事を待った。これは本人が決めることだ。
「いえ穂積さん、あなたと一緒には住めないわ。自宅に戻る。私は大丈夫よ」
その夜、しばらくぶりに同期の弁護士・真野祐樹(まの ゆうき)と心斎橋のバー「オールド・コート」で待ち合わせた。
彼はすでにカウンターにいて、ハイボールを飲んでいた。マティーニとかロブロイなどのカクテルを好む真野が、ウイスキーのソーダ割りとは珍しい。
「何だ、真野、今のガールフレンドがハイボール好きなのか」
という飛垣の冷やかしに、真野は
「まあ、そんなところだ」
と平然と応えた。
「刺されないようにしろよ」
「何、どういうことだ?」
飛垣はそれに応えず、いつも通りクレイモアのハイボールをオーダーした。
法律のことも男女の仲も、まだまだ分からないことが多すぎる。
ハイボールのシンプルな味わいが、胸に染み入るようであった。 |
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続く ...
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