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3月に入って寒さも緩んだ、ある日の夕方。飛垣は飛翔産業の本社に出向くことにした。
「だいじょうぶなの?」
夏恵も玲子も心配そうである。ホンコン・ジョーの話によると、社長の正体は中国の犯罪組織の一員であり、会社に向かうことは組織のアジトに踏み込むに等しい。
「そうだな…。今は4時半か。30分以内に電話するから、もし5時までに電話がなかったら、警察に連絡してほしい」
そう言いおいて飛垣は事務所のドアを閉めた。
「よう、悲壮な顔をしているな。殴りこみか」
ちょうどビルを出たところで、声をかけてきたのはホンコン・ジョーだ。
「おい飛垣、『紅の鷹』の連中、ついに中国への脱出を始めているようだぞ。俺は今から、奴らのアジトに行くつもりだ。お前もそうなら、一緒に行ってやろうか?」
飛垣が出かけた直後、事務所に芦部喜代が現れた。離婚調停での慰謝料の提示金額が低いことで、また不平を言いに来たようである。
「飛垣はたった今、出て行ったところですが」
夏恵の言葉を聞いて、芦部喜代は事務所を出て飛垣のあとを追った。西のほうへ飛垣が歩く後ろ姿が見え、駆け寄ろうとしたが、その横に先日自分を気絶させた男がいるのに気づき、こっそり後をつけることにした。
飛垣とホンコン・ジョーは二人、話すともなく話しながら歩く。
「ところでホンコン・ジョー、お前が殺し屋だって本当なのか」
「どう見える?」
「正義の味方だとは到底思わんが、カネで人殺しを請け負うような悪人だとも思えない」
「ははは。正義だとか悪だとか、俺はそんな抽象的思弁はしない。俺は俺のやり方で、カネをもらって依頼に応えるだけだ。お前の仕事だってそうだろう」
飛垣にはよくわからなかったが、相変わらず難しい日本語を知ってるなと感心だけはした。
西心斎橋・日朋ビル。6階建ての建物の5階全体が飛翔産業の本社となっている。エレベーターを降りると、オフィスには誰もいない。奥の扉を開けると倉庫になっていて、清宮が一人、忙しく荷物の整理中であった。
「あ、飛垣…」
「おい清宮、おまえらの会社、いったい何をしようとしているんだ」
飛垣は部屋の奥の清宮に向かって歩く。
「偶然にも、お前ところの社長が過去にしでかした手形詐欺の被害者が、うちに相談に来たよ。今回は、俺を利用して同じことをやるつもりだったんだろう」
すべて見透かされていると観念した清宮は、膝をついて手を合わせた。
「見逃してくれ! 俺はこの会社で、中国に渡って一旗あげるつもりだったんだ」
「お前らがやってることは犯罪だ。…清宮、俺はお前らを、警察に告発する!」
「やめてくれ、飛垣、…そうだ、一緒に来ないか。俺はこれまでいろんな会社で働いたけど、この不景気で何もいいことはなかった。なあ、国を出よう。経済的弱者に冷たいこんな国を、お前は愛しているのか?」
「バカなことを言うな!」飛垣は思わず怒鳴っていた。「国を愛するとかしないとか、俺はそんな抽象的思弁はしない。俺にとって大切なのは、仲間が楽しく毎日を過ごし、うまい酒が飲めて、依頼者が笑顔でいてくれる、それがすべてだ。誰かを泣かせるようなことをするヤツを、俺は決して許さない!」
清宮はがっくりと肩を落として両手をついた。
「ははは。大した熱弁だな、飛垣。だが『抽象的思弁』ってのは俺の台詞のパクリだな」
ホンコン・ジョーがそう言って冷やかしたとき、背後に人の気配がした。総勢10名の男が、扉を開けて入ってきた。
「ハンだな。日本じゃ斉藤シズオを名乗っているようだが」
ホンコン・ジョーが吐き捨てるように言う。ハンがにやりと口を開いた。
「秘密を知った以上は消えてもらう。その後でワシらは中国に逃亡する」
ハンが背後に立っていた手下に命じた。3人の男が一斉にかかってきて、飛垣はとっさに身構えたが、その一瞬あとには彼らは吹っ飛んでいた。ホンコン・ジョーが、詠春拳の素早いパンチを炸裂させたのだ。
今度は5人でかかってくる。しかし今度もまた、風のうなりのような音が聞こえたと思ったら、その5人が床に伸びていた。ホンコン・ジョーが手にしていたものは、2本の樫の木の棒を鎖でつないだ、ヌンチャクであった。
残すはハンともう一人の用心棒だけだ。ホンコン・ジョーと一緒なら怖いものはない、飛垣がそう思ったとき、何かキラリと光るものが飛んできて、ホンコン・ジョーが呻いてうずくまった。彼の右足の太ももに、短刀が突き刺さっていた。
最後の一人、その凶暴な眼が飛垣を見たかと思うと、まっすぐ突進してきた。
飛垣は拳法道場での師範代の言葉を思い出していた。
――怖いのは体ごとぶつかってくるヤツだ。そういう手合いは本気で刺してくる。
飛垣はとっさにその男の右肩を両手で突き放して、距離を取った。右手には刃先が20センチはあろうかという匕首(あいくち)が握られていた。本当に刺す気だ。
「おい、ホンコン・ジョー、それを!」
飛垣はホンコン・ジョーからヌンチャクを放り投げさせて受け取ると、それを逆手(鎖の部分が小指側)に持って、横「8」の字の形に大きく旋回させた。敵が一瞬ひるんだ。ホンコン・ジョーが目を見張る。
「おお、その技は…、『威振八方』(いしんはっぽう)!」
「そうだ。昔、通信販売で買った本に載ってた。でもここからどう攻撃するのか知らんぞ」
「な、何だ、型しか知らんのか」
飛垣は思い余ってヌンチャクを敵に投げつけた。もっともまずいやり方だ。ホンコン・ジョーが顔をしかめる。ヌンチャクは匕首に弾かれて床に落ちた。
刺される――。飛垣は絶望しかけていた。そのとき、脳裏に宗家師範の言葉が響いた。
――虚をつくことじゃ。敵を恐れず、そのふところに飛び込むことじゃ。
そうか、よし、行くぞ。
「俺の必殺技を見せてやる!『ジ・ムーンウォーク拳!』」
「な、何か知らんが飛垣、そこは『ザ・』でいいだろう」
ホンコン・ジョーが怪訝な顔で見ている横を、飛垣は敵に背を向けて「ムーンウォーク」でにじり寄る。敵も最初はあっけに取られたが、単なる「ぎこちない後ろ歩き」にしか見えない飛垣の動きを見て、つい嘲笑をもらした。その隙を飛垣は見逃さない。後ろに引いた左脚を軸に、右脚を大きく旋回し敵のこめかみを蹴り上げた。後ろ回し蹴りの大技に、敵は気絶してしまった。
「心理作戦だな。お前の余りに下手なムーンウォークを見て、油断が生じたのだ。さあ、残るはハンだけだ」
ホンコン・ジョーが痛みをこらえて立ち上がりながら言ったそのとき、倉庫のドアを開けて、芦部喜代が現れた。先からずっと飛垣をつけてきていたのだ。
「あれ、芦部さん、どうして?」
飛垣が言おうとすると、ハンが芦部を捕まえ、ナイフを取り出した。
「俺に手出しをするな、この女を…」
その瞬間、何かが飛んでいってハンの頭にあたり、ハンは気絶した。ホンコン・ジョーが、落ちていたヌンチャクを拾って投げつけたのだ。
「危ないことするなあ。芦部さんに当たったらどうするんだ」
パトカーのサイレンの音が聞こえてきた。腕時計は5時10分を指している。夏恵が警察に電話したのだろう。
「俺は密入国者だから警察はまずい。さらばだ」
ホンコン・ジョーは右脚を引きずって、ビル裏口の非常階段から去った。
芦部喜代はその場にへたり込んでしまった。ほどなく警官がやってきて、伸びている男たちを「任意同行」の名目で連行していく。
ようやく助かった心地がして、飛垣もその場に座り込んだ。
その横を通り過ぎて、清宮もまた連行されていく。その背中が切なかった。
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続く ...
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