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飛垣が法律事務所を開設してから1か月が経ち、10月に入った。少しずつ、事務所に相談客が現れるようになった。
その日は珍しく朝から相談客が相次いだ。
芦部喜代(あしべ きよ)という40代半ばの女性は、夫と離婚したいから、家庭裁判所に離婚調停を申し立ててほしいとの依頼であった。不幸な話ではあるが、まとまった着手金を請求できる、ありがたい依頼ではある。
次に現れた清宮一朗(きよみや いちろう)という男は、飛垣の中学生時代の同級生であった。彼が大阪で法律事務所を開設したと聞いて、やってきたのだ。
名刺には「飛翔産業株式会社 専務取締役」との肩書きがある。会社の住所もこの近くだ。
「30歳の手前でもう専務か。大したもんだな」
「小さい商社なんだけどな。でも俺、がんばってここを国際的な会社にしたいんだ」
「そういやお前って中学時代から、国際人になりたいとか言ってたもんなあ」
「それはともかく、うちの社長が顧問弁護士を探しててな。俺から紹介しておくよ」
地元で開業するメリットだなと飛垣は思った。こうして知人が「営業」してくれるわけだ。
その清宮が帰ったところで事務所の電話が鳴り、夏恵が応対する。
「なんだかすごい剣幕で、弁護士を出せって。芦部っていう男の人なんだけど」
「芦部? 聞いた名前だな」
出てみると、先ほど離婚の相談に来ていた女性の夫である。
「おまえが喜代の代理人についたんか! あんな女の口車に乗せられやがって、何が離婚じゃ、しょうもないことしたら承知せんぞ、これからお前とこに行くから、待っとけよ!」
怒鳴ってから一方的に電話を切る。受話器からその大きい声が、夏恵にも聞こえていた。
「大阪の人って、気性が激しいのね。ほんとに乗り込んできたらどうしよう」
午後、今朝の依頼で離婚調停の申立てを行なうこととなり、夏恵は谷町の家庭裁判所へ出かけた。
飛垣は誰もいない事務所で居眠りしていたところを、自分を呼ぶ声を聞いて目覚めた。
「あ、あんた…『食い逃げの孟』じゃないか。出てきたのか」
事務所に入ってきていたのは、先月、浪速警察署で接見した中国人の孟海生であった。
「不起訴になって出されてしまったんです。身の置き場がないんです、助けてください」
飛垣は呆れつつ立ち上がった。
「警察に相談してくれって言っただろ。弁護士はそういう商売じゃないから」
孟の背中を押して事務所から連れ出そうとする。
「刺客が来てるんですよ、もうすぐ近くに、あいつが…!」
「何を言ってる、さあ早く」
飛垣は孟を押し出すと、ドアを閉めた。
そのドアがすぐに開いて、孟が血相を変えて戻ってきた。
「あいつだ! ホンコン・ジョーが来た! 警察署から後をつけられたんだ!」
うんざりしながら振り返ると、その背後、ドアの向こうに、一人の男が立っている。年齢は飛垣と同じ30歳手前くらいか。細身だが鋭い目付きをしている。
その男が一歩踏み込んだかと思うと、孟の胸板にパンチを浴びせた。ボスッと鈍い音がして、孟が事務所内に吹っ飛んでくる。
「おい、何するんだ! ケンカなら外でやれ!」
「貴様は関係ない、黙っていろ」
その男が飛垣をチラと睨んだ。かつてどこかで感じたような、刺すような視線であった。男は事務所内に踏み込んで、うずくまっている孟に近寄った。
飛垣がその間に割って入ると、男は素早い手拳を放ってくる。飛垣はとっさにその腕をつかもうとしたが、その両手が一瞬のうちに絡め取るように捕まれ、動けなくなった。
「ううっ、この技は…『ウィン・チャン』か!」
「そうだ、貴様らの国では、『詠春拳(えいしゅんけん)』と呼んでいるのだろう」
詠春拳――。素早いパンチと、敵の腕に絡み付いての至近距離からの連続攻撃に特色のある中国拳法である。西洋では『詠春』の中国語の発音から、『ウィン・チャン・クンフー(Wing Chun Kung-Fu)』と呼ばれている。
この至近距離からパンチを喰らってはひとたまりもない。飛垣は体ごと、絡め取られた腕を強引に引っ張った。彼が着ていたスーツの両腕部分がビリビリと裂け、かろうじて脱出することができた。
距離を保ったまま飛垣が尋ねる。
「なぜ、こいつを襲うんだ」
「俺の名はホンコン・ジョー。依頼を受けてそいつを殺すことになった」
「殺し屋か! この法治国家日本でそんなことが許されると思っているのか。カネさえつまれたら、人の命をあやめて平気なのか!」
「部外者は黙っていろ。そいつは組織から多額の金銭を横領した大悪党なんだ」
それを聞いた孟がようやく顔を上げて、苦しそうに答えた。
「それは誤解だ! たしかに組織は抜けたが、金は取っていない!」
「…何だと?」
二人は中国語でいくつか会話していたが、飛垣にはわからない。会話の間合いを見計らって割って入る。
「あの、ところで、シャンハイ・ジョーさん」
「ホンコン・ジョーだ。コードネームだから『さん』は要らん」
「ああ、ホンコン・ジョー、あんた達の間には何か誤解があるんじゃないのか。彼はせいぜい、ただ食いをするくらいのことしかできないヤツだ。殺さなきゃならないほどの大義名分があるのか、もう一度確認したらどうだ」
「……。そうしてみるとするか。今日のところは、そいつの命は預けておこう」
その男、ホンコン・ジョーは、背を向けると早足で帰っていった。
「助かりました、ありがとうございました」
孟は飛垣に向かって、手を合わせて拝まんばかりである。
「こっちは大迷惑だよ。スーツをどうしてくれるんだ」
孟が事務所を去ってからほどなくして、夏恵が家庭裁判所から戻ってきた。飛垣のスーツは両腕の部分が引きちぎられて、白いワイシャツが露出している。
「あら、例の芦部さんの旦那さん、ほんとに乗り込んできたの?」
「違うよ。殺し屋と闘ってたんだ」
「殺し屋? 冗談でしょ」
夏恵は明るく言い放った。
妙なことに巻き込まれなければよいがと、飛垣は破れたスーツのそで先を見ながら不安のため息をもらすのであった。
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続く ...
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