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連載小説「熱弁飛龍」

連載小説 [熱弁飛龍]
■【熱弁飛龍】 その8


8月の京都の暑さは過酷である。
麩屋町通りの「空心少林拳 京都道場」では、飛垣が汗を散らしながら、道場の師範代を相手に組手を行っているところであった。
初段への昇進審査である。初段位を取得するためには、師範代を相手に一定水準以上の試合をしなければならない。
飛垣は先月の、チンピラとのケンカを思い出していた。実戦のことを思えば、試合など恐れるに足りない。あのときのような前蹴りが、師範代の胸板に決まった。
「いい蹴りだ、飛垣、初段合格だ!」
「ありがとうございます」
その日の稽古後、道場の師範が飛垣に黒帯を授けながら、言った。
「大阪に行くらしいな。大阪の本部道場には宗家師範がいるから、訪ねてみるといい。紹介状を書いてやる」
飛垣は黒帯を手に、4年半通った道場をあとにした。


京一精機の裁判が終結した後になって、とある事実が発覚した。先月、三条の川原で飛垣と白鳥をチンピラに襲撃させたのは、労災訴訟での和解に反対する一部の取締役の差し金であったことが、あのとき警察に連行されたチンピラの口から明らかにされたのだ。
あの前の日、取締役から妨害工作をするよう指示を受けたチンピラたちは、酒を飲みながら気勢をあげていた。
「すごすご和解を認めるとは、弱気な弁護士だ」「けしからん、ヤキを入れてやれ」「白鳥はもう殺してもいいやつだ」などと言い合っているうちに気持ちが昂じて、翌日、白昼の襲撃に及んだとのことであった。
取締役は傷害教唆の容疑で事情聴取を受けた。これを知った京都三条法律事務所の五鬼上所長は、直ちに、京一精機との間の顧問契約を破棄するとの通告をした。

同じ頃、事務員・有村夏恵は、今月を限りに退職する旨を五鬼上に申し入れた。
「いや、君が飛垣弁護士と親しくしていたとかいう件は、もう気にしなくてもいいんだよ」
「そうじゃないんです。その飛垣先生にスカウトされたので、来月から事務所を移りたいんです」
「何・・?」
事務所と夏恵との間の雇用契約には期間の定めがない。来月まで2週間の猶予を置いた退職の申入れであるから、夏恵は適法に退職できることになる(民法第627条)。

彼女の退職は白鳥をも驚かせた。
「仕事のできる君に突然やめられるのは痛手だけど、仕方ないな。何だか、イタチの最後っ・・いや、まあ、そういったところかな」
「まあっ。せめてハチの一刺しと言ってください!」
「どっちだって、似たようなもんさ。ま、飛垣のことを頼むよ」


裁判所も盆休みの期間に入り、法律事務所も暇な時期である。飛垣は事務所の引越しに向けて、荷物の整理をしている。その彼のデスクに、突然、白鳥が顔を出した。
「よう飛垣。――やってくれたな」
「ああ、夏恵ちゃんのことか?」
「それもあるが、お前が独立するってことがさ。俺はお前がうらやましいよ」
「何をおっしゃいますやら。京都の同期生の中では出世頭の白鳥先生が・・」
「茶化すなよ」。おどけてみせる飛垣に対し、白鳥は真剣な顔で続けた。
「これからお前はこの狭い京都を飛び出して、大阪で、自分の腕一本で稼いでいくんだろ。今回の事件、俺はうちの事務所に対していろいろ思うところもあったが、やはり俺が生きていく場所はあそこしかない。お前みたいなことは、俺にはできないからな」
「・・・」
「それにしてもあのときは・・熱弁だったな! 飛垣」
事故調査委員会で、会社側に啖呵を切った一幕のことを言っているのだ。飛垣は気恥ずかしかった。次の事件が押していたから、その場から逃げる口実として、激昂したふりをしてみせただけのことなのだ。でももうそれは黙っておくことにした。
微笑する二人の顔に夕陽があたっていた。


盆休みが明け、飛垣が御池規一法律事務所を去る日がきた。
御池所長と、事務局長の丑尾が、麩屋町通りに面した事務所の玄関で飛垣を見送る。
「退職金は、今月中に振り込んでおくよ、飛垣君」
「また、腕を磨いて将棋でも指しにきとくんなはれ。それと、これは私らからの餞別です」
丑尾から渡された包装紙を開いてみると、クレイモア・ウイスキーのボトルであった。しかも、飛垣がいつも飲んでいる8年ものでなく、15年ものの高級品である。
「僕の好みを、よくご存じなんですね。ありがとうございます」
御池が事務所の中を覗きこんで言う。
「おい、令子も、飛垣先生にちゃんとあいさつせんか」
しかし彼女は奥に控えて、黙ってこちらを見ていただけであった。
飛垣が令子に独立のことを伝えたのはようやく今月に入ってからのことである。彼女としては、出し抜かれた思いをしているのかも知れない。でも飛垣は今さら何を言うこともなく、一瞥だけ送って、事務所を背に歩き出した。

京都のアパートも引き払い、大阪での下宿先や事務所の物件も友人の真野に手配してもらった。飛垣は身ひとつで京阪特急に乗るだけである。
彼が電車のシートに座って、改めて渡された包みを開いてクレイモアのボトルを眺めたとき、一片の手紙が封入されてあるのに気づいた。
「私が選んだボトルです。こないだお食事に連れていってくださったときに飛垣先生の好きな銘柄を覚えました。大阪でもがんばってください。 令子」
飛垣はそのボトルを改めて両手で包み込むようにして抱え、しばらく見入っていた。

車窓から見える天王山の緑が目にまぶしかった。
列車は淀川を越えようとしている。
少しだけ切ない気持ちがこみ上げてきたがそれはそれ、飛垣の思いは、新天地・大阪へ向かう。
熱弁飛龍 完







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