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連載小説「熱弁飛龍」

連載小説 [熱弁飛龍]
■【熱弁飛龍】 その3


3月に入ったといってもまだまだ冷える朝の7時半。麩屋町通りが御池通りと交わるあたり、古い旅館が立ち並ぶ町の一角で、朝の寒気を貫いて、「えい、おう」と裂帛の気合が響いている。
「真伝正法 空心少林拳 京都道場」
言い伝えによると鎌倉時代に中国から日本に伝わったという拳法で、ここ京都にも、古くからその支部道場がある。板の間で20名ほどの男性が白い練習着を着て突き蹴りの型を繰り返す中に、飛垣も交じっている。
彼が司法修習生時代、運動不足を解消しようと思ってここに入門してから4年。今は茶帯を締めているが、次の昇級審査に受かると、初段となり黒帯を締めることができる。
2時間ほどの稽古を終え、ボディシャンプーとシャワーで汗を流した飛垣は、練習着を自転車の前カゴにいれ、麩屋町通りを上がって事務所へと向かう。カバンはいつも事務所に置きっぱなしだから、出勤時の荷物はこれだけである。


同じころ、三条大橋のたもと、京都三条法律事務所では、白鳥が五鬼上所長と話し込んでいた。
「和解はダメだよ、白鳥君。賠償責任をみすみす認めるなんて」
「京一精機の社長とお話しさせていただけませんか」
「いや、会社としても和解は受けられないと言っとる。君が裁判長に丸め込まれないかって、社長が心配してたよ。早くこちらの意向を相手に伝えておいてくれ」
所長と依頼者には逆らえない。白鳥は肩を落として自分のデスクに戻り、パソコンを打ち始めた。出勤してきた夏恵がその背中に声をかける
「朝早くから大変ですね、今度の件。コーヒー淹れましょうか?」
白鳥はディスプレイを見たまま黙って首を振った。

五鬼上は、優秀な勤務弁護士を「パートナー」つまり共同経営者として事務所に留めることにより、事務所を拡大してきた。近時、事務所の法人化を果たし、その永続化を図っている。一方、五鬼上と同期の御池は、事務所は我が身一代のものと思っているようで、跡取りも取っていない。勤務弁護士は何年か修業したら御池のもとを巣立っていく。もちろん飛垣もいずれ独り立ちするつもりでいる。

その日も、飛垣が御池の事務所に着いたのは午前10時をまわっていた。令子がとがめる。
「遅いですよ、また二日酔いでしょ」
「違うよ、今日はこれ」
彼は茶帯にくるんだ練習着を掲げてみせた。
「ま、何だっていいですけど。京一精機の代理人さんからファクスが届いてますから、見ておいてください」
2週間前、白鳥と鴨川べりで、協力して早期の和解に持ち込もうと約束した。飛垣は会社側の回答に期待しつつ、自分のデスクに置かれた書面を手にする。
そしてその期待はすぐに打ち砕かれた。
『被告会社は工場内の安全管理を徹底しており、何らの落ち度はない。会社に責任はないのであって、和解の余地はなく・・』
どういうつもりなんだ。凍りついた表情で、飛垣はその書面に目を通す。

午後、生江の妻・淑子が事務所にきて、今後の方針について打合せをすることになっていた。今日は中年男性を同行している。先日、法廷の傍聴席で彼女の隣に座っていた男性だ。
「京一精機労働組合の書記長、曽根と申します。今日は同席させていただきます」
とその男は名乗った。御池が親しげに声をかけたことから、もともと二人は知り合いなのであろう。

「今朝届いた文書では、被告は和解を明確に拒絶しています。ただこれは、『ポーズ』に過ぎないとも考えられますので、なお和解の可能性を検討すべきです」
飛垣は、会議室兼用の所長室で、御池と淑子、そして曽根を前に、自己の希望的観測も交えながら、状況を説明していた。
「会社側の意向なんじゃろうな。この手の事件では、いろんな人の思惑がからむからな」
御池の後に口を開いたのは、組合書記長の曽根だった。
「断固、勝訴判決を勝ち取るべきです。和解なら、多額の賠償金を主張すべきです。飛垣先生はどうも、先日の法廷では、会社側の弁護士に対し弱腰だった気がしますがね」
法廷でのパフォーマンスで裁判に勝てるわけじゃない、そう言いたくなるのを飛垣は抑えていた。
それにしても、当の原告本人である妻・生江淑子はどう考えているのだろう。率直な気持ちを聞いてみたいと思ったが、彼女はずっと発言を控えたままであった。この日は曽根が労働者の人権について一渡り演説したあと、何の結論が出ることもなく終わった。

飛垣は、釈然としないまま自分のデスクに戻った。
弁護士歴の長い御池には、大企業の顧問先も多いが、一方で労働組合の有力者とも付き合いがあって、その顔の広さは弁護士会でも有名である。今回の依頼も、曽根書記長の紹介で持ち込まれたものだろう。
所長の御池自身は、イソ弁に仕事を任せたら後はほとんど口出しせず、何か問題が生じたときだけ自分が責任を取る。そういう点でも昔気質の人間である。しかし、事件の紹介者が当事者以上に口をはさんでくることはよくあることだ。飛垣としては煩わしい限りだが、所長の知人である以上、無碍には扱えない。
しばし考えていたが、悩んだところで答えが出るものでない。俺は俺なりのやり方で事件にあたるだけだ、そう飛垣は気持ちを振り切った。


夜8時、飛垣は、夏恵と二人で先斗町のバー「D」のカウンターにいた。
二人の前に置かれたジンフィズがグラスの中で静かに泡をたてていた。
「何だか今日は表情が暗くない?」
「え、そんなことないよ」
「当ててみようか、うちの白鳥先生との訴訟の件」
はっとして顔を上げると夏恵と目が合う。図星であった。
「白鳥先生ね、会社の意向と合わないみたいよ。詳しいことは知らないけど、板ばさみなんじゃないかな」
「根が真面目なやつだからな。思いつめると精神的にも大変だろうな」
「何だか周りがややこしそうだけど、がんばってね、飛垣センセイも」


飛垣は鴨川沿いに自転車を走らせて、一人帰り道をゆく。夜の川面は黒々として、肌に感じる空気もまだまだ冷たかった。
続く ...







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