音楽と嘘と法的責任 2(完)

前回は雑談ばかりだったので、今回は早速本題から入ります。

 

まず、佐村河内さんのCDを買ったという人が、「耳が聞こえない作曲家というから感動してCDを買ったのだ、ウソならカネ返せ」と言ったとしたら、認められるかどうか。

これはおそらく無理でしょう。CDの売買契約を取り消す理屈としては、詐欺(民法96条)が考えられますが、CD屋さんが意図的に客を欺いたわけではないから詐欺にあたらない。

(民法95条の錯誤も考えられますが、この場合は「動機の錯誤」にすぎない。長くなるので解説は省略)

 

それに、きっかけはどうあれ、今回の騒動のあと、CDは逆に売上げが伸びているみたいですし、CDで音楽を聴くにあたって、作者の耳が聞こえないなどというのは、あくまでサイドストーリーでしかない。

(前回紹介した、音楽好きのバーのマスターも、たいしたことない音楽だと思ってCDを捨ててしまったらしく、今になってそのことを悔やんでいるそうです)

 

では、佐村河内さんを招いてのイベントやコンサートが中止になった場合、イベントの主催者は、チケットの払戻しなど諸々の損害を、佐村河内さんに請求できるか。

これは認められる可能性が高いように思えます。

イベントに参加する客としては、やはり、佐村河内さんというすごい音楽家を見たいがためにお金を払うのです。その正体がペテン師だと知れば、そんなもの見にいきたくない。

この場合、作者の経歴は、サイドストーリーなどではなく、観客のニーズを呼び起こすメインストーリーとなっており、そこにウソがある以上、イベントも成り立たない。そんなウソをついたほうは、賠償を求められてもやむをえない、ということになると思われます。

 

それから、報道されているとおりで、耳が聞こえるのに聞こえないと言って障害年金を受け取った場合、身体障害者福祉法により懲役などの刑罰に処せられる可能性があります。

そこまで行くかというと、警察・検察は「佐村河内さんが障害者手帳を取得した当時、本当は耳が聞こえていた」ということを立証しなければならず、それはなかなか困難なように思えます。

 

さて、渦中の佐村河内さんは、「近いうちに公の場で謝罪します」というファクスを報道機関に寄こしたようですが、この人の口から本当のことが聞けるのはいつのことでしょうか。

ちなみに、前回書いた「ブルース・リーをノックアウトした男」ことジョー・ルイスは後日、「本当にブルース・リーをノックアウトしたんですか?」と聞かれ、こう答えたそうです。

「ブルース・リーは酒を飲めないけど、俺は軽く3杯はイケるぜ」と。つまり飲み比べならブルース・リーをノックアウトできるというわけで……よく袋叩きにされなかったものです。

もはやメディアから袋叩きの佐村河内さんですが、その肉声を待ちたいと思います。個人的にはそんなに憎めない人なので、ジョー・ルイスなみに開き直った言い訳を期待しています。

血縁なき子供への認知の無効請求 2(完)

前回から、間が空いてしまってすみません。父親が認知した子が自分の子でなかった場合、父親はその認知をなかったことにできるか、という問題をどう考えるべきか、という話をしようとしていました。


これまでの裁判例や学説は様々でしたが、主流的な考え方は「血縁がない場合であっても、錯誤に基づく認知でない限り、無効とできない」といったものではないかと思います。

逆にいうと「血縁のない子で、かつ、錯誤つまり勘違いによる認知であれば、無効にできる」ということです。この考え方に基づいて、ケースをわけて検討してみます。

①血縁がある子を認知した場合。

世の中の認知の大半がこれでしょう。実際に血縁のある自分の子を認知したケースですから、当然、あとから無効にすることを認めるべきではありません。

②血縁がないが、それを知らずに認知した場合。

女性から「あなたの子よ」と騙されて認知した場合です。この場合は、血縁がなく、かつ錯誤もあるので、認知無効にできることになります。

(大澤樹生と喜多嶋舞のケースと似ていますが、婚姻関係にある男女の場合は「親子関係不存在」や「嫡出否認」の裁判となり、婚姻関係にない場合が、この「認知無効」の問題となるというのは、前回書いたとおりです)

③血縁がないが、それを知って認知した場合。

女性から「あなたの子にしてあげて」と言われて、自分の子じゃないと知りつつ認知した場合です。前回紹介した最高裁のケースはこれにあたります。

自分の子じゃないと知ってあえて認知するわけですから、従来の考え方によれば、錯誤はなく、無効にできないことになります。


ところが、今回、最高裁は、この③のケースを無効とすることを認めたわけです。

つまり最高裁は、錯誤があったか否かではなく、基本的に、血縁の有無を前提に認知の効力を判断すべきことを明らかにしたのです。そして血縁のない父親は、前回引用した民法786条の「利害関係人」にあたるとして、無効を主張できるとしました。

そうすると、前回紹介したような、一時的な「ええかっこしい」だけで他人の子供を認知し、育てられなくなったら認知をひっくり返すという、男の身勝手が許されることになるし、その子の福祉にも適さない、という懸念が残ります。

その点は、最高裁の判決文によると、「血縁のない父親の認知無効の主張は、権利の濫用にあたるものとして認められないこともある」と述べています。

(判決文は、最高裁のホームページで誰でも読めます。「判例情報」→「最高裁判所判例集」→「平成26年1月14日」で期日指定で検索してください)


今回の事案は、新聞報道によると、日本人男性がフィリピン女性の子供を、自分の子でないと知って認知して、日本国内に招き入れたというケースであり、すでにこの男女は長年別居している上に、フィリピンに帰れば実の父親もいるようなので、日本人男性の認知を無効としても、子供にかわいそうなことにはならない。

また、詳細は判決文に書かれていませんが、結論として認知が無効とされたということは、男性のほうでも、単なる身勝手で認知をひっくり返したというわけでもなかったのでしょう。


今回の最高裁判決で、割と重要な実務上の問題が、割とシンプルな考え方で統一されました。

「認知の効力は血縁を基本に考えるが、子供の福祉も重視しつつ、男が身勝手にひっくり返すことも許さない」ということで、結論としては妥当なものであろうと思います。