憲法解釈と集団的自衛権 2

前回の続きとして、集団的自衛権を憲法解釈として認めることについて検討します。

まず、今回の安倍総理の発言(集団的自衛権に関しての憲法解釈を私が示す、と言ったこと)に対して、「解釈による改憲」を認めることになるとの批判があります。

つまり、憲法を改正するには本来、国会の議決と国民投票という手続きが必要なのに、それを解釈つまり権力者の思いつきだけでやってしまうことになる、という批判です。

これは、一部の「護憲派」が好きなレトリックですが、稚拙かつ悪質な「言いがかり」にすぎません。安倍総理は当然ながら、自分の頭一つで憲法の条文を変更(つまり改憲)しようとしているわけではありません。憲法に明確な規定がないことについて、憲法の条文の解釈を示そうとしているだけです。

 

どんな憲法問題であれ、「解釈」は避けて通れません。

前回、「自衛権」の説明として、具体的には有事の際に自衛隊が出動して国を守る権利であって、それが認められない以上は国としての体をなさない、と当然のように書きました。

しかし、実際は自衛隊すら、憲法解釈のひとつとして、その存在を認められているにすぎません。 その解釈ひとつとっても、戦後ずいぶん揺れ動いてきました。

戦後すぐのころは、政府は憲法9条の解釈として「完全非武装」を想定していました。その後、朝鮮戦争などの動乱があり、政府が警察予備隊(のちの自衛隊)を創っていくにあたり、「戦力」の解釈を微妙に変更させているのです。自衛隊は、戦車もイージス艦も持っているが、それは他国を脅かす程度のものではないので、「戦力」には当たらないと。

現在の隣国の不穏な動きを見て、そんな解釈変更はけしからん、自衛隊は即時なくすべきだ、という人がどれだけいるでしょうか。

 

安倍総理に憲法の教科書を送った弁護士がどういう見解であるかは知りません。

もし、さすがに自衛隊は必要だ、と考えているのだとしたら、国を守るために「憲法解釈」が必要であり、時にはその解釈に変更がありうることを認めていることになります。

徹底した非武装・平和主義の立場に立って、自衛隊の存在自体を認めない、という立場に立つのであれば、集団的自衛権という、いわば末端の問題で安倍総理を批判するのではなく、憲法解釈の変更により自衛隊の存在を認めたことを批判すべきことになります。

つまり、昭和30年前後の総理大臣だった吉田茂や鳩山一郎に文句を言うべきことになりますが、いずれも故人なので、その孫である麻生太郎元総理や、鳩山由紀夫元総理にでも文句を言えば良いでしょう。

 

…と、国防上の重要問題にはどうしても憲法の解釈が必要で、それは国際情勢などに応じて変遷していかざるをえない、という話をしているうちに、長くなってしまいました。

現在議論されている集団的自衛権の問題は、憲法解釈としてどう扱われているか、それは次回に続きます。