「政治主導」ということについて思い返してみる

やはりというべきか、田中真紀子氏は多くの批判を受けて、大学設置不認可を見直すようです。この人を文部行政のトップにした野田総理の見識も疑われます。

 

さて、根本的なことを言うと、行政のトップに国会議員がいるのは、憲法がそれを求めているからです。すべての役所、省庁のトップである内閣総理大臣は国会議員から指名されます(憲法67条)。

省庁のトップである各大臣は、内閣総理大臣が指名します。民間や学者からも登用されますが、大臣のうち過半数は国会議員である必要があります(68条)。

この趣旨はお分かりだと思いますが、行政に対して主権者である国民が監視できるようにする、ということです。行政に携わる官僚は、公務員試験を経て採用されるのであって、国民から直接信頼され選ばれたわけではない。そこで、官僚の上に、国民による選挙で選ばれた国会議員を大臣に持ってきて、最終的な決済の判断と責任を委ねるわけです。

 

民主党は3年前に政権交代を果たしたときに舞い上がってしまい、国民から選ばれて大臣になったんだから何をしても許される、と思ってしまったのです。それが民主党の好きな「政治主導」です。

政治主導のために振り回されている官僚のためにひとこと擁護すると、官僚の仕事の良いところは、法律や先例にしばられるため、どういう行動を取ってくるかは、法律や先例を知っておけば大体読める、ということです。

今回の大学設置だって、関係者は、学校教育法とかそれに基づく設置基準に沿って準備を進め、「これならOK」との見通しを立てていたはずです。

社会において何らかの経済活動をするときに、この「見通しが立つ」というのは極めて重要な要素であって、それがないと何の活動もできません。

 

たしかに官僚主導も行き過ぎると、「法律の解釈上認められていない」「先例がないからダメ」など、硬直化した運用で規制ばかり増やして、国民生活に不便を来すことがあるかも知れない。

そういうときには、大臣が出てきて、官僚を適宜指導するなり、国会で法律を変えるなりして、善処すればよいのです。そうでないときは、大臣は黙って官僚に仕事を任せておけば良いのです。

 

考えてみれば、民主党が政治主導と言いだしたときには、官僚主導以上の弊害を生みだしてきました。

政権交代直後、当時の国土交通大臣の前原氏が、国土交通省による八ッ場ダムの建築の中止を決めました。結局、工事は再開されましたが、まさに時間の無駄でした。また建設作業の中止・再開で、要らぬ費用が国庫から消えたはずです。

レンホウさんらの事業仕分けでは、堤防の建築費用が削られました(そのことと東日本大震災の死者数との因果関係は知りませんが)。また、学術研究のための予算が削られ、山中伸弥氏のようなノーベル賞級の学者が、スポンサーについてもらうために研究時間を削ってマラソン大会に出場したりするハメになりました。

そして今回の大学不認可問題は繰り返すまでもありません。

 

考えてみれば、民主党の言う政治主導が、行政の硬直化という弊害を緩和する方向に働いたことは、私の知る限りでは、これまで一度もありません。

あれもダメ、これも削る、で結局、官僚以上に、国民の生活を規制し続けました。これが政治主導というのであれば、官僚主導の世の中のほうが、よほどマシです。