違法収集証拠で考える「正義とは何か」

あまり大きく報道されていませんが、覚せい剤使用容疑の被告人が、警察の違法捜査を理由に無罪になったという判決がありました(東京地裁、27日)。

 

憲法38条、刑事訴訟法319条には、強制、拷問、長期間の拘禁を加えるなど、任意になされたかどうか疑わしい自白は、刑事裁判の証拠に使えない、と定められています。

この条文を根拠に、最近、検察官の調書が却下されるという事態が相次いでいるのは、ご存じのとおりと思います。

 

では、違法捜査の末に得られたものが「自白」でなくて「証拠」である場合はどうか。

冒頭の事件では、新宿の歌舞伎町を歩いていた容疑者を警察官が呼びとめ、所持品検査に応じないので、交番に連行してズボンを脱がしたそうです。

所持品検査は原則「任意」のもので強制できないので、有無を言わさずズボンをおろしたというのは、やり過ぎと言えるでしょう。しかしその末に、下着の中から怪しげな水溶液やポーチが出てきて、容疑者は観念したのか尿検査に応じ、その結果、陽性反応が出た。

 

捜査はやり過ぎだけど、その結果、犯罪の有力な証拠が出てきたとき、容疑者を有罪にできるか。この点は法律に規定がありません。強制や拷問をすれば、自白にはウソが混じるかも知れないけど、証拠物そのものの中身が変わるわけではないのだから、証拠として有効だ、という考え方もありえます。

この点は長年争われてきましたが、最高裁判所は昭和53年、重大な違法捜査の結果得られた証拠物は、有罪の証拠として使えない、という判決を出します。これが判例となり、違法収集証拠排除法則と呼ばれています。

 

映画では、刑事がちょっと行き過ぎた捜査をするけど、その結果、重要な証拠が出てきたり、犯人を検挙できたという話はよくあるでしょう。私としてはジャッキー・チェンの「プロジェクトA」で、ジャッキーが署長の制止もきかずに高級クラブに乗り込んで大暴れし、奥の部屋に隠れていた容疑者を引っ張り出すシーンなどが思い出されます。

そんなとき、容疑者は無罪放免、主人公の刑事が懲戒処分を受けて映画が終わり、となれば、観客は暴動を起こすかも知れない。

しかし、現実の社会で、行き過ぎた捜査でも結果が出れば許される、ということになると、これはかなり恐ろしいことだと思います。映画なら観客は犯人がわかっているから良いですが、実際には、犯人かどうかわからない人に対し「調べれば何か出てくるはずだ」と、見込み捜査で厳しい追及が行なわれるかも知れない。その追及は私たちに向けられるかも知れない。

 

冒頭の事件の結論は、繰り返しますが、容疑者からは覚せい剤の反応が出たのに、無罪でした。これが違法収集証拠排除法則の適用の結果であり、現在の判例の考え方です。私は個人的には、この判例を支持する立場ですが、いや、そんなの不正義だ、という考え方も、もちろんありうるでしょう。

これは大げさに言えば何をもって正義と考えるかの問題です。

判例のように、捜査が適切に行なわれたか否かというプロセス自体を重視するか、または、結果さえ伴えばプロセスの部分はある程度目をつぶるか、という選択です。

光市の母子殺害事件では死刑の最高裁判決が出ましたが、これは被害者保護を重視せよという世論が司法の判断を動かしたと見ることもできます。

違法収集証拠排除法則も、主権者である我々国民が、「司法における正義」をどう考えるかということと、密接に結びついていると言えます。