小沢事件の控訴審無罪判決について思うこと

小沢一郎が東京高裁でも無罪判決を受けました。

高裁の判断はある部分では地裁よりもさらに少しだけ、検察側(検察官役の指定弁護士)に厳しいものとなっているようですが、基本的な判断の枠組みは変わっていないものと思われます。この事件についての私の感想は地裁判決の際に以下の記事に書いたことと同じです。

小沢一郎無罪の理由 

小沢一郎と木嶋佳苗、有罪無罪の分かれ目 1

同 2

この裁判はもともと、「強制起訴」に基づくものでした。

つまり、東京地検が、「これでは有罪にできない」と考えて起訴しなかった事件を、検察審査会が起訴すべきだと決議したことから、(検察としては起訴したくないけど審査会が言うので強制的に)起訴させられた、という事件でした。

検察官は裁判をする気はないので、3人の弁護士が裁判所から指定されて、検察官役を務めました。それが「指定弁護士」です。弁護士の本業そっちのけで長期間この裁判にかかりきりになったと思われます。一部の弁護士が極めて強度の負担を強いられることを前提に、この制度が成り立っているわけで、その点、今後何らかの見直しが必要だと思います。

今回の指定弁護士は、もちろん何の愚痴も言わないでしょうけど、いかにがんばっても、検察が無理だと思った事件を、突然駆り出された弁護士が有罪に持ち込むというのも相当に無理があるようで、強制起訴された刑事裁判では無罪判決が続いています。この点も、今後の検討課題となるでしょう。

なお、過去の無罪事案についての記事はこちら

強制起訴 初の無罪判決を受けて 1

同 2

もっとも、こういった話はすでに新聞テレビ等で出尽くしたと思うので、ひとことだけ付け加えます。

政党の代表や幹事長まで務めたほどの小沢氏が、政治資金についてよくわからない会計処理をして、秘書任せだったとしか説明しないことについて、私は依然、政治家としての資質はどうかと思います。

しかしそれと刑事責任は別ということで、今回、東京高裁は刑罰まで科する必要はないと言いました。政治的、道義的な責任と、刑事責任は別ものということです。

他には例えば、JR福知山線の脱線事故では、JRが遺族や負傷者に民事上の賠償責任を負うのは明らかですが、社長ら個人に刑事責任を問うべきか否かは別問題です。

現に、当時の担当部長(JR西日本の前社長)は起訴された後、神戸地裁は無罪の判決を出しました。さらに、起訴されなかった他の元社長3人が、検察審査会の議決に基づき強制起訴され、審理中であったかと思います。

本来は、道義的責任、民事上の賠償責任のレベルの話であるのに、何か不祥事があれば特定の「犯人」を追及してその人に刑事罰を負わせないと気が済まない、そういう風潮が、強制起訴という制度と結びついてしまうと、今後も無理かつ無用な刑事裁判が起こされることになるでしょう。

強制起訴 初の無罪判決を受けて 2

検察審査会の議決を受けて起訴された事件が、無罪となりました。

これを受けての感想は、ごく大ざっぱに言えば、二種類に分かれると思われます。

1つは、やはりプロの検察が起訴できないと考えた事件を、素人の集団が多数決で決めれば起訴できるというのはおかしい、という考え方。もう一つは、これでいいんだ、検察がうやむやにしようとした事件を、裁判で白黒明確にできたのだから、無罪判決ならそれで構わないんだ、という考え方です。

 

後者の考え方は、戦後の刑事訴訟法の有力な学説とも一致します。

起訴すれば必ず有罪にならないといけない、と考えること自体がおかしい。だから無理な自白を得ようとしたりして、警察・検察で厳しい取調べが横行してしまう。捜査はごくあっさり片づけて、白黒つけるのは裁判所に任せればよいのだ、という考え方です。

 

しかし、その考え方は、弁護士など法律家なら理屈としては分かるとしても、多くの人々の実感からはずいぶん離れているのではないかと思います。

起訴された人にとっては、その後に長く続く刑事裁判を受けることになり、公開法廷で裁かれるという立場に甘んじなければならなくなる。

公務員や企業にはたいてい、起訴休職という制度があり、起訴されただけで、もう職場に出てはいけないことになる。最近では郵便不正事件で無罪判決を受けた厚労省の村木局長が長らく休職させられました。

 

それに何より、マスコミや世論が、逮捕されたり起訴されたりするだけで、その人を犯人扱いするかのような報道をすることは日常茶飯事です。

検察審査会はどんどん起訴議決をすればよい、その上で裁判で白黒つければよい、と考えるのであれば、まずそこを変える必要があると思います。

たとえば、逮捕されたり起訴されたりした人を、容疑者とか被告人とか呼ぶのをやめるべきだと思います。スマップの稲垣メンバーと民主党の小沢元代表に限らず、被害者も加害者も「さん」づけで報道すべきことになります。

役所や企業の起訴休職制度も即刻廃止されるべきことになります。

このようにして、有罪判決が確定するまでは、その人は「無罪」と推定されるべきである、という感覚を、弁護士だけでなく、世間一般が通有すべきことになります。

 

しかし、偉そうなことを言って恐縮ですが、世間一般が刑事事件を見る目というものは、まだそこまで成熟していないと思います。

起訴されれば世間の目もほとんど犯人扱いになる。起訴された被告人も心身ともに大きな負担を受ける。検察は、起訴という行為がもたらすそのような効果をよくわかっていたからこそ、慎重になり、有罪確実といえる状況でない限りは不起訴としてきたのです。

検察審査会の議決による強制起訴という制度が、今後も承認されていくのか、それは刑事事件を見る目がどれだけ冷静で成熟したものになりうるかにかかっていると思います。そこが変わらないのなら、将来、強制起訴という制度自体を考え直すべきことになるでしょう。

強制起訴 初の無罪判決を受けて 1

強制起訴事件で無罪判決が出ました(那覇地裁、14日)。

 

強制起訴とは、簡単におさらいすると、検察が起訴しなかった事件に対し、検察審査会が起訴すべきだと決議すると、検察はその事件を起訴して刑事裁判に持ち込まないといけなくなるという制度です。

検察審査会は国民から選ばれる審査員で構成され、かつてその決議には法的な拘束力はなかったのですが、近年の法改正で制度が変わりました。

検察が起訴するつもりのない事件でも、強制的に起訴させられるから強制起訴というのだと思うのですが、あくまでマスコミ用語で、法律上はそんな用語はありません。

 

これも以前に述べましたが、起訴するしないを、検察審査会の多数決で決めるということに、私としては疑問を感じなくもありません。もっとも、この制度に意義があるとすれば、グレーゾーンの部分にある事件について、裁判所の判断を仰ぐことができる、ということにあるでしょう。

たとえば、裁判所は、90%くらいの確実さで「こいつが犯人だ」と思えば有罪判決を出すとしたら、検察はやや慎重に、95%くらいの確実さがないと、起訴しないかも知れない。無罪判決というのは、少なくともこれまでの考え方からすれば、検察側の「失態」であるからです。

ですから、これまで、90~95%のところにある事件は、裁判に持ち込めば有罪にできるけど、検察が慎重になって起訴せず、不起訴でうやむやになってしまう、ということもあったと思います。それを起訴に持ち込んで、有罪とはっきりさせるという意義はある。

 

しかし一方で、容疑の度合いが89%以下の事件であったらどうか。これは裁判に持ち込んでも有罪にはなりません。それでも検察審査会が起訴すべきだと決議すれば刑事裁判になる。そして無罪判決が出る。今回の事件がまさにそういうものでした。

 

ちなみに事件の内容は、会社の未公開株を買えば将来確実に値段があがるからと言われて株を買って損をしたという、詐欺事件でした。

詐欺が成立するには、犯人が最初から騙すつもりだった(価値のない株であると知ってて売った)ことを立証する必要があります。だから、「結果的に株価は上がりませんでしたが、最初は会社の業績もよく、株価は上がると思っていました」と言われると、「騙すつもり」だったことの証明ができず、無罪にならざるをえない。

この手の事件は、もともと、有罪に持ち込むのが難しい部類に入ると思われます。

 

今回の無罪判決を受けて思うところについては、次回に続く。

小沢一郎の元秘書、3人の「被告」に有罪

小沢一郎の元秘書ら3人に、政治資金規正法違反で有罪判決(26日、東京地裁)。さかんに報道されたとおりで、特にここで付け加えるほどの話はありませんが、少し触れます。

 

裁判上の争点としては単純で、秘書らが、ゼネコンから億単位のお金を受け取っていながら、それを政治資金として帳簿に記載しなかったことが虚偽記入にあたるか、またそれが秘書らの共謀によるものであるか否かが争われました。

3人の秘書が罪を自白したとされる供述調書が、検察側の威迫や誘導によるものだという理由で証拠として採用されず却下されたという、郵便不正事件で厚労省の村木氏に無罪判決が出たときと似たような経緯をたどりましたが、お金の流れや帳簿の記載などの証拠からして、3人を有罪にしたようです。

 

今後、小沢一郎の裁判が控えていますが、ここでは、小沢一郎が秘書らにそういった虚偽記入を行うよう指示したか否かが問題になるでしょう。

こちらのほうは、検察側がいったん不起訴にしたところ、検察審査会の決議に基づいて起訴された(マスコミのいうところの「強制起訴」)という経緯をたどりました。検察が、有罪かどうか微妙だと思って起訴を見送ったわけですから、どういう結論になるかは予測がつきません。

ただ、民主党の大好きな「国民の目線」で考えると、ボス(小沢)が指示もしないのに、秘書だけの判断で億単位のお金を帳簿に記入しないということは考え難いでしょう。

私も職業柄、お金を預かることは多いですが、事務員は私の指示がないことには1円のお金も動かしませんし、帳簿に載らないようなお金を私に代わって受け取るようなことはありえません。私に限らず、ほとんどの自営業者はそうでしょう。

もっとも、グレーなだけでは有罪にできないのが刑事裁判であり、小沢一郎が「黒」である証拠や証言が出てくるのかどうかが注目されるところです。

 

少し話が変わって、これも以前に書いたことですが、新聞などでは今回有罪になった秘書を「石川被告」などと表現していますが、小沢一郎については、起訴され刑事裁判を受ける立場であるのは同じなのに、「小沢氏」「小沢元代表」と書かれています。

検察審査会の議決に基づく強制起訴の場合、マスコミは「被告」呼ばわりしないのか、とも思っていたら(それもおかしな話ですが)、一方で、JR脱線事故の報道では「JR福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたJR西日本の元社長、井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛の3被告の公判前整理手続きの…(以下略)」と「被告」の肩書を使っているものも見受けられます(上記は9月27日の「MSN産経ニュース」から引用)。

結局、小沢一郎に遠慮してるのだな、としか思えない報道ぶりなのです。このようにマスコミは、同じように「刑事被告人」の立場である人に対し、ある人は「被告」と書き、ある人は「氏」と書くのです。このことは、刑事事件報道を見る際に、少し念頭に置いていただきたいと思っています。

なぜか「小沢被告」と書かないマスコミの不思議について

前回の話の続きを書こうとしているのですが、小沢一郎が起訴された後も、新聞・週刊誌は「小沢被告」という表現を使わず、「小沢氏」「小沢元代表」などと書いています。



起訴されて刑事裁判を待つ身になった人を、刑事訴訟法上「被告人」といい、マスコミ用語ではなぜか「人」を省略して「被告」と表現しています。これまで、どんな人であれ、起訴されれば新聞・テレビでは「被告」と呼ばれてきたと記憶しています。

記憶に新しいのは酒井法子です。
ついこの前まで「のりピー」と言われていたのが、覚せい剤所持容疑で逮捕状が出た直後から「酒井法子容疑者」となり、起訴後は「酒井法子被告」と書かれるようになりました。

私自身は、それらの人が裁判関係の書類などの上で「被疑者(容疑者のこと)」「被告人」と呼ばれるのは仕方ないとしても、新聞やテレビであえて「容疑者」「被告」という肩書をつけるのは、あまり望ましいことではないと思っています。

容疑者、被告といっても有罪判決が確定するまでは「無罪の推定」を受けるということは、私たち弁護士ならわかっているつもりですが、一般の人はその時点でどうしても「犯人」と同一視してしまいがちになるからです。

しかし、新聞その他マスコミがあえて「被告」という表現を使うのであれば、同じ立場の人には等しくその用語を使うべきなのであって、小沢一郎に「被告」の肩書をつけていないことは理解できません。

このあたりのマスコミの意図というのは全く察しかねますが、もしかしたら、プロの検察が起訴したのではなく、素人集団の検察審査会の議決に基づく強制起訴だから、まだまだ有罪になるかどうかわからない、と考えているのかも知れません。

そうだとしたら、主権者である国民の意思にもっと耳を傾けよ、と常々言いながら権力批判をしているマスコミが、国民の意思による決定を軽んじていることになります。
 もし審査会の多数決による強制起訴なんておかしい、信頼できないんだ、と考えているのであれば、新聞で堂々とそういう論陣を張ればよいのです。

そういうわけではないとしたら、他に考えられるのは「起訴されたのが小沢一郎だから」という理由しかありませんが、これでは完全に、マスコミが政権与党、権力者におもねっていることになります。

小沢被告の裁判については、今後粛々と手続きが進み、判決文はいつか公開されるでしょう。結論が有罪であれ無罪であれ、その中で判断の理由が明確に示されるでしょう。
果たして、マスコミが小沢一郎を被告と呼ばない理由は、いつかどこかで明確に示されるのでしょうか。

小沢一郎はついに「被告」となった

小沢一郎が「強制起訴」されたと、各紙一面に大きく見出しが載りました。

 
起訴されて小沢一郎は「被告人」となり、刑事裁判で裁かれる身分となりました。
今後、各メディアは、小沢一郎・元民主党代表を「小沢被告」と表現するのか、またはSMAPの稲垣吾郎が逮捕された際の「稲垣メンバー」みたいな、ことさらに慎重な表現をとるのか、注目したいところです。
 
それにしても、単なる起訴ではなく、「強制起訴」と表現されると、い
かにもキツイ印象を受けまして、あたかも小沢被告が、政治資金の帳簿処理について国会で明らかにせず、ジタバタしているために無理やり起訴されたのか、と
いう感じを受けますが、強制起訴とはもちろん、そういう意味ではありません。
 
起訴されるのは小沢被告に限らず誰でもイヤなので、起訴される側からすれば、起訴とは常に強制的に行なわれるものです。
ここで言う「強制」とは、検察官が起訴する意向がないのに、検察官に有無を言わさず起訴が行なわれるという意味でして、その強制は被告人ではなく、検察側に向けられています。
 
なぜそういうことになるかというと、検察審査会が「起訴せよ」という議決をしたからです。
検察審査会制度については、ここでも何度か書いてきたので(こちらなど)、それ以上には
触れません。
 
強制起訴というのは、法律上はそのような用語はなく、マスコミ用語であると思われます。検察審査会法の条文や、刑事訴訟法の教科書の上では「起訴議決に基づく公訴提起」などと表現されていて、強制起訴という言葉は出てきません。
 
通常、法律用語で「強制」という言葉は、法律や判決で命ぜられたことに国民が従わないとき、国家が国民にそれを強制して実現する場面で使われます(たとえば税金を払わない人の財産を国が差し押さえることを「強制徴収」と言ったりします)。
 
これに対し強制起訴は、国家機関である検察官が「起訴しない」と決め
たことについて、国民から選ばれた検察審査会員が起訴を強制するという制度であり、従来とは正反対に「国民が国家に強制する」ことを意味します。法律上の
通常の「強制」とは逆なので、条文上は「強制起訴」という表現は使われないのかも知れません。
 
用語はともかく、この制度は、検察が一手に握っていた起訴・不起訴の判断権限の一端を国民に委ね、場合によっては国民の判断のほうを重視するという、画期的なものではあります。
ただ、すでにここでも書いたように、起訴する・しないを審査会の多数決で決めていいのかという点には、不安を感じなくはないです。
 
もっとも、民主党は「国民目線」という言葉が好きなようですから、今回の強制起訴に限っては、私としても賛成であり、小沢被告にはぜひとも法廷で、国民目線で語ってほしいと思います。