小沢被告の初公判に見る「議論の方法」について

仕事がら、法廷の場やその他いろんなところで、議論や論争をすることがありますが、弁護士として私が心がけているのは、具体的な事実を、誰にでもわかる平易な言葉で、冷静に示す、ということです。私だけでなく、多くの弁護士がそうでしょう。

その正反対のやり方が、抽象的な事柄を、ひとりよがりのやり方で、声高に示す、という方法です。こういう議論のやり方は弁護士としては下の下であり、訴訟相手がこういう主張をしてきたら、追い詰められて苦し紛れに言っていると見てよい。

そんなことを、今回の小沢一郎被告の裁判に関する報道を見て、改めて思いました。

 

小沢被告は、起訴されたことについて、民主主義国家としてありえないことだとか、日本の憲政史上の一大汚点だと述べ、裁判を打ち切るべきだ、とまで言ったようです。公判のあとの記者会見では、質問した記者に「もうちょっと勉強してから質問しなさい」と言っていました。

何億円ものお金を受け取って帳簿に記載してなかったのはどうしてなの? という単純な問題を、民主主義とか憲政とかいう抽象的で大上段の問題にすりかえているのです。それに対して疑問を呈する者には、「あなたのほうが不勉強だ」と言って煙にまいてしまう。

小沢被告に限らず、こういう議論の仕方をしてくる人は結構います。民事事件に介入してくるヤクザ崩れの人もそうだし、痴話ゲンカのときに女性が「あなたには私の気持ちがわかっていないのよ」と言うのも同じようなことです。

 

それはともかく、小沢被告が有罪であるか無罪であるかは、それこそ今後の冷静な審理を経て判断されることです。しかし、今回の起訴を受けて小沢被告が言っていることに関して言えば、すべて間違っています。

まず何より、小沢被告は民主主義に則って起訴されているのです。検察官が不起訴とした事件を、国民から選ばれる検察審査会が起訴すべきだと議決したのであって、まさに民主主義です。

検察審査会がそこまでの権限を持つようになったのは近年の法改正によるものですが、それにあたっては当然、国会で刑事訴訟法や検察審査会法の改正が審議され、小沢被告はじめ民主党も改正に賛成しているはずなのです。

(私は個人的には検察審査会にそこまで権限を持たせるのは疑問と思っていますが、改正に際してその疑問を呈した人は小沢被告以下、民主党には誰もいなかったはずです)

「憲政史上の一大汚点」という言葉もまさに噴飯もので、憲法に基づく政治状況の下でこうした法改正がされ、今回の起訴となったのです。小沢被告の言うように裁判を打ち切れば、それこそ、立憲政治とそして司法の一大汚点となります。

 

小沢被告の件に限らず、抽象的なことを声高に話す人、「あなたはわかっていないからきちんと勉強しろ」という人は、それ自体うたがってかかってよいです。一見、何か正しいことを言っているように見えて、よく考えてみると、全く無内容であるか、全くの誤りであることが多いです。

と、ここまで書いたところで、小沢被告が病院に搬送されたというニュースをネットで見ましたが、日本の憲政のためにも、最後までしっかりこの裁判を受けてほしいと思います。

小沢一郎の元秘書、3人の「被告」に有罪

小沢一郎の元秘書ら3人に、政治資金規正法違反で有罪判決(26日、東京地裁)。さかんに報道されたとおりで、特にここで付け加えるほどの話はありませんが、少し触れます。

 

裁判上の争点としては単純で、秘書らが、ゼネコンから億単位のお金を受け取っていながら、それを政治資金として帳簿に記載しなかったことが虚偽記入にあたるか、またそれが秘書らの共謀によるものであるか否かが争われました。

3人の秘書が罪を自白したとされる供述調書が、検察側の威迫や誘導によるものだという理由で証拠として採用されず却下されたという、郵便不正事件で厚労省の村木氏に無罪判決が出たときと似たような経緯をたどりましたが、お金の流れや帳簿の記載などの証拠からして、3人を有罪にしたようです。

 

今後、小沢一郎の裁判が控えていますが、ここでは、小沢一郎が秘書らにそういった虚偽記入を行うよう指示したか否かが問題になるでしょう。

こちらのほうは、検察側がいったん不起訴にしたところ、検察審査会の決議に基づいて起訴された(マスコミのいうところの「強制起訴」)という経緯をたどりました。検察が、有罪かどうか微妙だと思って起訴を見送ったわけですから、どういう結論になるかは予測がつきません。

ただ、民主党の大好きな「国民の目線」で考えると、ボス(小沢)が指示もしないのに、秘書だけの判断で億単位のお金を帳簿に記入しないということは考え難いでしょう。

私も職業柄、お金を預かることは多いですが、事務員は私の指示がないことには1円のお金も動かしませんし、帳簿に載らないようなお金を私に代わって受け取るようなことはありえません。私に限らず、ほとんどの自営業者はそうでしょう。

もっとも、グレーなだけでは有罪にできないのが刑事裁判であり、小沢一郎が「黒」である証拠や証言が出てくるのかどうかが注目されるところです。

 

少し話が変わって、これも以前に書いたことですが、新聞などでは今回有罪になった秘書を「石川被告」などと表現していますが、小沢一郎については、起訴され刑事裁判を受ける立場であるのは同じなのに、「小沢氏」「小沢元代表」と書かれています。

検察審査会の議決に基づく強制起訴の場合、マスコミは「被告」呼ばわりしないのか、とも思っていたら(それもおかしな話ですが)、一方で、JR脱線事故の報道では「JR福知山線脱線事故で、業務上過失致死傷罪で強制起訴されたJR西日本の元社長、井手正敬、南谷昌二郎、垣内剛の3被告の公判前整理手続きの…(以下略)」と「被告」の肩書を使っているものも見受けられます(上記は9月27日の「MSN産経ニュース」から引用)。

結局、小沢一郎に遠慮してるのだな、としか思えない報道ぶりなのです。このようにマスコミは、同じように「刑事被告人」の立場である人に対し、ある人は「被告」と書き、ある人は「氏」と書くのです。このことは、刑事事件報道を見る際に、少し念頭に置いていただきたいと思っています。

なぜか「小沢被告」と書かないマスコミの不思議について

前回の話の続きを書こうとしているのですが、小沢一郎が起訴された後も、新聞・週刊誌は「小沢被告」という表現を使わず、「小沢氏」「小沢元代表」などと書いています。



起訴されて刑事裁判を待つ身になった人を、刑事訴訟法上「被告人」といい、マスコミ用語ではなぜか「人」を省略して「被告」と表現しています。これまで、どんな人であれ、起訴されれば新聞・テレビでは「被告」と呼ばれてきたと記憶しています。

記憶に新しいのは酒井法子です。
ついこの前まで「のりピー」と言われていたのが、覚せい剤所持容疑で逮捕状が出た直後から「酒井法子容疑者」となり、起訴後は「酒井法子被告」と書かれるようになりました。

私自身は、それらの人が裁判関係の書類などの上で「被疑者(容疑者のこと)」「被告人」と呼ばれるのは仕方ないとしても、新聞やテレビであえて「容疑者」「被告」という肩書をつけるのは、あまり望ましいことではないと思っています。

容疑者、被告といっても有罪判決が確定するまでは「無罪の推定」を受けるということは、私たち弁護士ならわかっているつもりですが、一般の人はその時点でどうしても「犯人」と同一視してしまいがちになるからです。

しかし、新聞その他マスコミがあえて「被告」という表現を使うのであれば、同じ立場の人には等しくその用語を使うべきなのであって、小沢一郎に「被告」の肩書をつけていないことは理解できません。

このあたりのマスコミの意図というのは全く察しかねますが、もしかしたら、プロの検察が起訴したのではなく、素人集団の検察審査会の議決に基づく強制起訴だから、まだまだ有罪になるかどうかわからない、と考えているのかも知れません。

そうだとしたら、主権者である国民の意思にもっと耳を傾けよ、と常々言いながら権力批判をしているマスコミが、国民の意思による決定を軽んじていることになります。
 もし審査会の多数決による強制起訴なんておかしい、信頼できないんだ、と考えているのであれば、新聞で堂々とそういう論陣を張ればよいのです。

そういうわけではないとしたら、他に考えられるのは「起訴されたのが小沢一郎だから」という理由しかありませんが、これでは完全に、マスコミが政権与党、権力者におもねっていることになります。

小沢被告の裁判については、今後粛々と手続きが進み、判決文はいつか公開されるでしょう。結論が有罪であれ無罪であれ、その中で判断の理由が明確に示されるでしょう。
果たして、マスコミが小沢一郎を被告と呼ばない理由は、いつかどこかで明確に示されるのでしょうか。