「入れ墨訴訟」での大阪地裁の論理

先週の水曜日(12月17日)、大阪地裁での弁論の帰りに、地裁の正門前で人だかりができて報道陣も来ていたので、何かと思って覗いてみました。人ごみの中心で「勝訴」って書いた紙を持った弁護士らしき人が何人か、笑顔を浮かべていました。

その日の報道で、大阪市が、入れ墨調査を拒否した職員を処分した事件で、裁判所が処分の無効と賠償金の支払いを命じた判決が出たのだと知りました。

この判決、弁護士の私でも新聞記事を何度か読まないと、その論理が理解できませんでした。大阪市民としても興味ある事件ですし、少し解説します。

 

大阪市の橋下市長が、市職員に入れ墨をしている職員がいるとのことで、職員に対し、入れ墨の有無をアンケート調査しました。その上で、入れ墨をしている職員は、消すように指導し、消せない場合は市民と接しない職場(つまり裏方)に配転させました。

これは理解できる話です。私自身、日本の社会で入れ墨なんかをしている人は、ヤクザか、社会への適合性のない人と感じざるを得ない。個人の信条としてするのは勝手だけど、市職員が市民の目に触れるような形で入れ墨をするのは、高い市民税を支払っている者としては理解できません。

 

この事件の原告となった職員は、窓口業務でなくバスの運転手で、実際には入れ墨はしていません。しかし、入れ墨を調査するのはプライバシー侵害で、思想信条の自由を侵害し違憲だ、と考え、調査への回答を拒否しました。多くの市職員はアンケートに応じたようですが、この原告の方は、きっと橋下市長が嫌いだったのでしょう。その気持ちもよくわかります。

大阪市は、この職員を、調査拒否を理由に、戒告処分(注意を与えること)しました。

そしてこの職員が処分取消しを求めて提訴した直後、大阪市はこの職員をバスの運転手から外して、内勤に回しました。

17日の判決は、これらの処分が無効だとして、運転手の仕事に戻すとともに、110万円の賠償金を払うよう命じました。

 

「入れ墨訴訟」で大阪市が敗訴したと聞くと、「何や、大阪市は公務員が入れ墨いれほうだいなんか?」と憤る人もいるかも知れませんが、大阪地裁はそうは言っていません。

判決によると、入れ墨というのは他者に対し不安感や威圧感を与えるものなので、市の窓口に立つ人が入れ墨をしていないかどうかを調査することには、合理性があるとされました。したがって、調査自体が憲法違反だという原告の主張は退けています。

一方、大阪市には個人情報保護条例というものがあり、プライバシー情報を収集することは原則として禁じられているため、今回のアンケート調査は条例に違反するものであると指摘しました。

条例違反の調査に従わなかったことを理由に戒告したのは処分として行き過ぎであり、さらに、裁判を起こした途端に配転させたというのは、裁判を受ける権利を侵害する不当な意図によるものだったと解さざるを得ない。

 

これが大阪地裁の論理です。もっと大ざっぱにいうと、入れ墨が好ましいものでないのは裁判所も認めるけど、職員に処分を下すには手続きがずさん過ぎた、ということです。

大阪市は橋下市長の意地でおそらく控訴するでしょうから、高裁、最高裁はどんな論理を出すのか、注目したいと思います。

幼稚園民営化、二度めの否決で明らかになったこと

大阪市の公立幼稚園の民営化案が、昨日5月27日の大阪市会・本会議で否決されました。

昨年、11月に同じ案が否決されましたが(当時のブログ記事、今回、橋下市長がまた同じ提案をしてきたわけです。

公立幼稚園を廃園または民営化することについての疑問は、たびたびここでも述べてきたとおりですし、昨年の否決に至る経緯や世論の動向は上記記事に述べました。

同じ話の繰返しは避けて、以下の2点を付け加えます。

 

1つは、今年3月の「出直し市長選挙」が全くの無駄だったのが明らかになったことです。

橋下市長は、選挙に6億円以上かかるとしても、大阪都構想を進めることで、何百億もの収支改善が得られると述べました。しかし、市長の再選を得ながらも、松井府知事は「来年の大阪都実現は無理」と言いだす始末です。

橋下市長自身、その政策実現に向けて、各政党を説得したりして調整能力を発揮するのかと思うと、全くそうではなく、他党(特に公明党)批判を繰り返してきました。

その結果が、幼稚園民営化条例案をはじめ、水道局民営化などの予算案の否決です。市長の調整能力のなさゆえの自滅であるとしか思えません。

大阪都どころか、市長「肝煎り」の政策が何も実現していないのだから、あの市長選挙は壮大な無駄使いだったことになります。

 

もう1つは、大阪の市議会は、意外にも(というと怒られるかも知れませんが)健全に機能していたということです。

橋下市長と維新の会の市議(また彼らの支持者も)から言わせれば、野党が反対ばかりしているから何も進まない、議会の機能不全だ、ということになるかも知れませんが、これはとんでもない暴論です。

公立幼稚園民営化について言えば、その存続を求める多くの保護者(私も含めて)が、繰り返し議会に陳情に行くなどしました。これを「住民エゴ」というのは勝手です。現にそうしたニーズが、市会議員(つまり大阪市民の代表者)に無視できないほどに存在し、だから市議会の多数派は市長の提案を否決したのです。これを「民意」と言います。

私も、この幼稚園民営化問題に関しては、保護者有志の集まり、町内会、市会議員との面談など、いろんな場に実際に接することで、世論や民意というのはこういうふうに形成されていくのだなという、その一端を見ました。

「市政を改革する」「行政の無駄を排する」「既得権を潰す」などという、一見カッコいい(でも中身がない)言葉を吐くだけでは、一時の人気は得ても、結局は何もできないことがわかりました。

そして、大阪の市議会は今回、実際に大阪市に暮らす多くの人々の住民ニーズをくんでくれたのだと思います。

 

書きたいことは尽きませんがこの辺で。

市長のことですから、三度目の「幼稚園民営化」を議会に諮るかも知れませんが、そのときはまた批判記事を書きます。

やっぱり市立幼稚園の民営化に反対する 2

続き。

前回書いたとおりで、大阪市の各区長が市立幼稚園民営化への理解を求めて、各幼稚園を回っておりますものの、民営化を不安視する保護者側と、ご理解くださいと繰り返す大阪市側との相互理解に至る見込みは到底ありません。

しかし、これは言ってしまえば仕方のないことで、幼稚園民営化に限らず、国政・市政上の問題については、いかに説明や議論を尽くしたところで、万人が納得しうる回答に到達するのは不可能なのです。

 

たとえば、私は前回、長く残っているものにはそれだけで価値がある、だから大阪市の公立幼稚園は残すべきだ、と書きました。

しかし、橋下市長と各区長と、維新の会の面々からすれば、長く残っているものなど、官僚主義などの旧弊のカタマリであり、既得権益の巣窟であり、そんなものは徹底的に打破していかなければならないと考えているに違いありません。

両方の見解について、どっちが正しいとは言い切れません。前回書いたとおり、市立小学校の民間校長が早速失敗していることなどを見ると、私は私自身の価値観が正しいと信じますが、市長や維新の連中もまた、自分たちの価値観が正しいと信じています。そうなると、これは議論で解決する類の話ではなくなります。

 

日本や欧米などの先進国は、憲法によって各人の価値観や言論の自由を厚く保証しているので、いかなる価値観も一応は尊重されることになります。これが立憲主義、自由主義の考え方です。

その上で、価値観がぶつかったときには、議会の多数決で物事を決めることになります。それが民主主義です。

 

橋下市長と維新の会は、いま明らかに勢いを失っていますが、大阪での過去の選挙に限っていえば圧勝を続けています。橋下市長の失策、失言が続き、維新の会から離党者が出たとは言え、いまでも支持者はそこそこ多いでしょう。

幼稚園民営化の具体的プランは、区長の言うところによればこの8月には発表され、大阪市議会でそれに対する信が問われます。維新の会は当然、賛成に回りますし、いつも日和見の公明党も賛成に回れば、過半数を制して可決されます。

 

そうなったら私はどうするかと言われれば、憲法の下で民主主義により決めたのなら、もう仕方がないと思っています。

幼稚園がもし民営化によってガタガタになったとしても、自分の息子くらいは立派に育てる程度の自信はあります。そして息子が大きくなったら、幼稚園のころに混乱が生じるのを止めてあげれなかったことを詫びたいと思います。

そして、

「お前が幼稚園に行ってたころは、橋下とかいう市長と維新の会って政党がすごく人気があったんや。でもなあ、お父ちゃんは、あんなの最初から、うさん臭いと思って一票も入れたことはなかったぞ。口だけうまい連中にあんまり大きい権力を持たせたらアカンのや」

ということを、合わせて聞かせてやりたいと思っています。

 

もう一回だけ続きます。飽きてなかったらお付き合いください。

やっぱり市立幼稚園の民営化に反対する 1

最近、この話題が多くてすみません。特に興味のない方は読み飛ばしてください。

 

大阪市では今、市政はゴタゴタとしておりまして、府の水道事業との統合は否決、大阪市営地下鉄の民営化は継続審議、橋下市長の目論んでいた大阪都構想など最近話題にすらならない、という状況です。

それでも、市長は今もなお、大阪市立幼稚園・保育所の民営化は、意地にでもなっているのか進めようとしていて、公募で市長に選ばれた各区長が、幼稚園などを回って民営化に向けた説明会を開いています。

 

我が大阪市西区の高野区長は、仕事熱心で、橋下市長の号令のもと、任務を忠実に遂行しようとしているのは分かるのですが、説明会で言っていることはムチャクチャです(これは高野区長が不誠実なのではなく、橋下市長が何も考えてないためです)。それをいちいち挙げるとキリがないので、少しだけ紹介します。

 

区長が幼稚園に来て言うには、市立幼稚園を廃止するのは、財政難が主たる理由でなく、民間を活用することで幼児教育の底上げ、つまり全体のレベルアップをする、ということにあるのだそうです。

では、それは具体的にどのように行われるのですか、との問いに対しては、「幼児教育のカリキュラムを作成していく」とか「教育委員会に幼児教育のスペシャリストを招き、教育委員会が幼児教育に積極的に関わっていく」とか、官僚が頭の中だけで考えたみたいな答弁に留まります。

その程度の、「これから考えていきます」みたいなやり方で、幼稚園に限らずあらゆる公的制度を潰そうとしているのが、今の市長とその子飼いの区長たちです。

 

ところで先月、公募で大阪市立小学校の校長に選ばれた人が、3か月で辞めてしまったという一件がありました。公教育に民間の力を投入すればうまくいく、という市長の考えが、この一事をもってしても、誤りだったことが露呈したわけです。

しかも橋下市長はこのことについて釈明を求められて「自分に人事権はないから責任はない。教育委員会の責任だ」と言いました。このように、大阪の公教育は、何があっても責任を取らないトップにかき回されているのです。

 

区長は幼稚園でこうも言いました。「公立幼稚園を残したいというのであれば、公立を残すだけの積極的な理由は何か、公立でないとできないことは何か、それを聞かせてほしい」と。

 

私は、古いもの、長く続いているものというのは、長く残るだけの良さがあって続いているのであって、そのこと自体が貴いものだと考えています。

私がよく行く老舗のバー「サンボア」は創業以来95年、京都・大阪を中心にのれん分けしつつ続いています。もっと大きな話になると日本の天皇は2000年以上続いています。

大阪の市立幼稚園は、いまきちんとした資料が手元にないですが、園の数を徐々に増やしながら、130年以上続いているはずです。

 

しかし、市長や区長はそういったものに価値を見出さないようで、公的制度や施設は潰せば潰すほど良いと思っているのでしょう。さらに言えば橋下市長はその時々で最も大衆受けしそうなことを言う(その意味では姿勢は一貫している)ので、行政の継続性や安定性、それに市民が寄せる安心や信頼感というものに重きを置かないのです。

これまで長年続いてきたものを潰すと言ってる側が、潰すだけの積極的な理由を何も説明せずに、潰さず残しておいてほしいという人に対して「潰さない理由を説明しろ」と言っているわけですから、相当に乱暴と言いますか、本末転倒な議論のやり方です。

 

ゴタゴタと書きましたが、次回もう少し続くかも知れません。

市立幼稚園の民営化に反対する(続)

少し前に、大阪市の公立幼稚園民営化に関する話を書きました。私が幼稚園児の子を持つ親であるという理由でこの問題には興味を持っているのですが、それにとどまらない問題も含んでいると思うので、もう少しだけ書きます。

(前回の記事はこちら

前回も書きましたが、大阪市のホームページによりますと、公立幼稚園を民営化する理由は、①市の財源上の負担軽減化、②公立と私立の保育料の負担の平等、③民間でできることは民間でやるという理念、といったあたりです。

 

①については、前回触れました。公立幼稚園を全廃すると、市の予算が年間25億円浮くそうですが、国と大阪府の私学援助が増える(年間10億円)という問題があります。

国と府が私学援助をヤメます、と言うと、幼稚園が潰れるか、保護者が年間20万円程度を支払って支えるかしないといけなくなるのですが、大阪市が今後の国と府の負担について、確約を取るなど何らかの手当をした形跡はない。

そもそも、年間25億円というと、大阪市の年間予算(約2兆6600億円)の0.1パーセントです。0.1パーセントを浮かすために、公立幼稚園を全廃し、その教職員を全員クビにするという了見が、私には理解できません。

 

②の、公立と私立の負担の平等という点も、「平等」と言われると反対しにくい雰囲気になってしまいますが、多分にマヤカシが含まれています。

私立幼稚園に入学させる親は、公立に入れたかったけど抽選にもれてやむなく、という人もいるにはいると思いますが、積極的に私立を選ぶ人もいます。教育内容、ブランドイメージ、施設、制服、バス送迎などです。ちなみに私の亡き祖母も私立幼稚園に私を入れたがり、そのため私はバスに乗って私立幼稚園に通っていました。

「公平」を唱える大阪市(具体的には市長)が、保護者アンケートの統計を取って、実際に不公平感を持つ親がどの程度いるのか検証したのかというと、その形跡はありません。頭の中で考えただけの「公平」です。

 

③の、民間でできることは民間でという理念は、市長に限らずスローガンとして好きな人は多いですが、これも前回書いたとおりで、それを徹底するなら、警察庁と自衛隊と裁判所くらいを残しておいて、大阪府も大阪市もなくしてしまえばいいのです(当然、大阪都も要らない)。

おそらく多くの人は、それはさすがに極端だ、と思うでしょう。ですから問題は、官から民へという抽象的なスローガンで片付くことでなく、どの部分を「公」が担い、どこを「民」がやるか、そのベストの線引きはどこか、ということです。その検証作業もされたとは思えません。

そして、公立幼稚園を廃止するという、そこで線を引くならその積極的な理由づけは何なのか、という説明もされているとは思えない。

抽象的理念から、いきなり飛躍して具体的な結論を導いてしまうのは、市長の悪いクセですが、この問題に限らず、こういう議論の仕方には注意しなくてはいけません。

 

民間に任せれば多様なニーズを取り入れて幼稚園教育が充実する、という説明もされていますが、幼児教育という、一種の高度な専門性を要する領域に、「市民ニーズ」を取り入れるというのがそもそも私には理解できません。

また、ニーズというのであれば、私がそうであるように「子供は公教育で育てたい」というニーズも現にあるのであって、そのニーズに限っては無視してしまう理由もわかりません。

 

こんなよくわからない理由で公教育を解体させてしまっては、大阪市の将来に禍根を残すように思えます。この問題は現在進行形のことで、今後も現場リポート的に触れるかも知れませんが、興味のある方はお付き合いください。

市立幼稚園の民営化に反対する

今回は完全に私ごとの話ですがご了承ください。

 

大阪市には「大阪市歌」というものがあり、長年、大阪市民をやってきた私はその存在すら知りませんでしたが、息子が地元の市立幼稚園に入園したとき、年中・年長の園児たちが入園式で歌っているのを聞いて初めて知りました。

どんな歌かというと、出だしは「高津の宮の昔より、よよの栄を重ねきて、民のかまどに立つ煙」(後略)と、かつて仁徳天皇がいつも上町台地の高津宮から大阪平野を眺めて、人々の家のかまどに煙が立っているか(つまり食糧が行きわたっているか)心配しておられたというエピソードにちなんだ、なかなか良い歌詞なのです。

息子は4月になったら、年中クラスの園児として新入園児を迎え、入園式でこの歌を歌わなければならないので、いま幼稚園で練習させられているらしく、家に帰ってきても断片的に歌っています。

しかし、大阪市は幼稚園を民営化して、その運営を民間の学校法人に委ねる方針のようなので、幼稚園でこの歌は歌われなくなるかも知れません。大阪市から切り捨てられようとしているのに熱心に市歌を覚えようとしている息子を見ると切なくなります。

 

そんな感傷はさておき、幼稚園の民営化の当否について少し書きます。

大阪市に限ったことではないですが、公費の負担を減らすことを目的とした公共機関の民営化は、各所で進められていることと思います。

民間にできることは民間でやってもらうと、大阪市の担当者なども言っているようですが、その理屈だと、民間でできない(またはさせるべきでない)ことと言えば、国防、警察、司法くらいでしょうから、大半の公的機関を消滅させるべきこととなります。

市役所や府庁も要らなくて、民間か、国の出先機関にやってもらえば良いことになりますが、しかしそれは地方分権の流れに反することでしょう。

 

大阪市の幼稚園に関しては、財源上の疑問があります。

とあるデータによると、大阪の市立幼稚園では、児童1人あたりに市が年間約57万円の予算をつけているそうです。私立の場合は、それが約85,000円で済む。大阪の市立幼稚園の児童は約5200人だから、全部を民営化すると、この差額に人数をかけて約25億円の予算を浮かせることができるそうです。

もっとも、幼稚園に予算をつけているのは市だけではありません。国や府も援助しています。国と府の援助は、市立だと年間わずか約500円ですが、私立だと約20万円です。私立でも親の払う保育料が高くなり過ぎないよう、国と府が大幅に負担しているのです。したがって、すべてを民営化すると、国と府の負担が10億円多くなります。

市は予算をカットできるが、国と府は負担が増える。大阪府の財政だって、この先わからないし、橋下府政でもっと悪化したとも一部報道で言われています。今後、府も予算をカットすると言い出すことは充分考えられる。

国と府が負担しきれなくなると、あとは、その年間20万円を親が払うか、学校法人に負担してもらうしかなくなります。幼稚園に子供を通わせられなくなる親も出てくるかも知れないし、また負担に耐え切れずに破綻する学校法人が出てくるかも知れない。

そんな不安を残すのですが、それでも、大阪では維新の会が勢力を保ってゆくでしょうから、公共機関の解体が今後も進んでいくでしょう。

ただ、自民党政権になって、児童教育を無償化するという話も出てきているようですが、国の予算でこれをやるというのであれば、わざわざ公立幼稚園を民営化させる予算上のメリットはなくなるので、それに期待をつなぎたいと思っています。

 

繰り返しますが、大阪市の考えは、市は負担したくないから国と府に依存するというものであって、地方分権に反することです。また市の予算と権限でもって子供を教育するということを放棄するものであって、仁徳天皇が聞いたらお怒りになることでしょう。

まとまらないままですが以上です。

「入試中止」のその先は

もう少しだけ、前回の話の続きを書きます。

大阪市教育委員会が、桜宮高校体育科の入試中止を決めました。とはいえ、普通科の入試を体育科の科目でやるようですから、橋下市長は主張を通して名を取り、教育委員会は実質上は体育科を存続できて実を取ったというところでしょうか。

 

今回明らかになったのは、教育委員会の中立性といっても、市長や知事が予算を使わせないとチラつかせれば、独断が通るということです。

これが先例となると、何か事件が起こるたびに、その責任の所在をきちっと検証することなく、唐突に市の制度が変えられ、無関係の市民に不測の支障が生じることも考えられるわけです。

市の行政の運営としてはずいぶん不安定になってしまうという懸念を持ちますが、これ以上の話は政治の領域かと思いますので、この程度にします。

 

ただ、橋下市長が「入試中止」とブチあげたせいで、そこばかりが注目されるようになってしまいましたが、生徒が自殺していることの民事責任、刑事責任については、これから追及されていくことですので、この問題についての、教師、学校、市の対応を、今後もよく注意して見ていく必要があると思います。

 

これは前の話の繰り返しになりますが、橋下市長は100%行政の責任と発言しました。では今後、生徒の遺族が学校や市に賠償を求める裁判を起こした場合に、市側の弁護士は責任の所在を争わず賠償に応じるのか(それはそれで問題なのも、前に述べたとおり)。

また、行政のトップであり、体罰容認論者であった橋下市長は、何らかの責任を取るのか(取らないと思いますけど)。

そして、教師は刑事裁判にかけられるのか。何罪に問われ、生徒が自殺したという事実は、そのときどう斟酌されるのか。

これらはすべて、これから時間をかけて検討されていく問題です。

 

そして、体罰を行ない生徒を死に至らしめた教師は、これまでどのように刑事責任を問われてきたか、ということで、実際の裁判例を参照いただければと思うのですが、今回はその前振りだけで、あとは次回に続きます。

ミストのない大阪を歩いて思う

このところ、1か月近く更新が空いてしまいました。幸いというべきか本業も忙しく、自宅での子供の遊び相手と、幼稚園のPTAの手伝いも慌ただしく、ブログに書こうと思うネタがちらほら思い浮かびながらも、それを文章にまとめる余裕がありませんでした。

 

昨日今日、思ったところを雑多に書きます。

今日(7月17日)、近畿地方も梅雨明けしたそうで、確かにちょっとで歩くだけでも参ってしまいます。

先ほど、大阪地裁へ行った帰りに、淀屋橋の大阪市役所前を通過したら、この暑い時期なのに、「ウォーターミスト」の噴霧器が設置されていませんでした。確か橋下市長の方針で、この夏からやめることになったと、新聞か何かで読んだのを思いだしました。

市役所前のミストは、ここ数年、大阪の夏の風物詩みたいなもので、私も裁判所へ行く途中にこれにあたっていくのが好きだったのですが、経費削減と言われると、仕方のないような、せつないような気がします。

 

一方で、橋下市長が打ち上げているプランの一つに、「道頓堀川をプールにする」というものがあります。ミナミの道頓堀川の水質をある程度きれいにすること自体は良いのですが、そこで「泳ぐ」という発想に、私は違和感を禁じ得ません。

私の勝手な解釈ながら、道頓堀というのは、川面のネオンを眺めて橋を歩くのが風情あるのであって、川に入るものではないように思います。阪神が優勝したときに道頓堀川に飛び込む人はいますが、あれは生粋の大阪人ではなく田舎出身の馬鹿者です。大阪を本当に愛している人なら、あんなドブ川に飛び込んでヘドロまみれの姿でミナミの街を歩こうとはしないですから。

 

かと言って、だから水質をきれいにするんだ、というのも、何だかピントがずれているような気がします。

昨日の休日、私は息子と散歩がてらミナミへ行き、道頓堀川の両脇の遊歩道を久々に歩きました。遊歩道は割と面白い試みだと思っていましたが、私が懸念していたことが、昨日現実になっていました。遊歩道に浮浪者が何人か寝っ転がっていたのです。

大阪市では、遊歩道や公園を整備しても、いや整備すればするほど、浮浪者がそこに集まってくるという現実があります。もし道頓堀川が泳げるくらいにきれいになったら、簡単に想像できることですが、道頓堀川が浮浪者の水飲み場、体洗い場になるでしょう。貧困対策は別途きちっとやってもらうとして、私は浮浪者のたまり場になった道頓堀川は見たくありません。

 

大阪の人間は、私も含めて、「おもろいこと」が好きです。おもろいことをやるためにある程度税金を使っても許されます。しかしそこで打ち出されるプランというものは、大阪市と市民の現実を踏まえた、地に足のついたものであってほしいのです。

今日の暑い淀屋橋を歩いて、そんなことを考えました。