モンテスキューの言葉と現代政治

いきなり私ごとですが、息子も2歳と8か月を越え、親の言うことやテレビで言っていることなど、舌足らずの口で何でもマネして言うようになりました。

私としては、どうせマネするなら少しはアタマの良さそうなことを言わせようと思い、本棚に眠っていた岩波文庫の「論語」を引っぱり出してきて、「巧言令色、すくなし仁」などと教え込もうとしています。

ちょうど、最近の雑誌(「日経おとなのOFF」本年10月号)の特集に「論語入門」があり、この号に「超訳 孔子の言葉」を寄稿されていた翻訳家の白取春彦さんが書いた「超訳 ニーチェの言葉」は、少し前にベストセラーになりました。

そういえばニーチェの文庫本も本棚に眠っていたので、引っぱり出してきて、「愛から為されることは、すべて善悪の彼岸に起こる」などと息子に教えようと思っています。

 

以上は全くの雑談ですが、最近、こういう形で「古典」が再び読まれようとする機運があるように感じます。

上から目線で偉そうなことを言っていますが、日常生活ひいては人生の中で何か問題が生じたときに、その解決のヒントを得る方法として、インターネットで検索して誰が書いたかわからないような情報にすがるよりは、古典を参照するほうがよほど参考になるでしょう。

世の中がいかに物質的に発達しようとも、悩んだり思索したりするのは当の人間であり、人間の一通りの思索は、すでに古典のどこかに載っていると思われるからです。

 

ということで、最近、私が読んでいるのはモンテスキューの「法の精神」です。

ここまで偉そうなことを言っておきながら、しかも法律関係の仕事をしていながら、法律学の古典中の古典を今まで読んでなかったのか、と言われそうな気がしますが、それはともかくとして、ここで論じられている問題は、現代の日本社会にも多くあてはまるものだと感心しながら読んでいます。

たとえば「法の精神」には、こういうくだりがあります。(第3編・第3章、適宜要約)

古代ギリシアの政治家は、自分を支える力として、「徳」を重視した。今日の政治家は、富や奢侈(ぜいたく)についてしか語らない。徳がなくなってしまえば、貪欲はあらゆる人々の心に入り込む。

これなど、何の前提もなしに聞かされれば、多くの人は、現代の日本の政治家の(特に民主党政権になってからの)「バラまき政治」のことを言っていると思われるでしょう。

モンテスキューはこれを、18世紀前半のフランスで書いています。この本は、それまでに存在していたあらゆる国家の法制度を検討した上で、法律というもののあり方を追求したものです(たぶん)。たぶんというのは私もまだ全部は読んでいないからです。

 

ということで、今後たまに、「法の精神」におけるモンテスキューの言葉や、その他の古典を通して見る現代の法的・政治的問題についても書いてみたいと思っています。

前回の法律相談シリーズといい、ブログに書いている内容があれこれ散漫になっている気がしますが、ご了承いただき、お好きなテーマは右上の「カテゴリ」を利用して適宜しぼってご覧ください。