なぜか「小沢被告」と書かないマスコミの不思議について

前回の話の続きを書こうとしているのですが、小沢一郎が起訴された後も、新聞・週刊誌は「小沢被告」という表現を使わず、「小沢氏」「小沢元代表」などと書いています。



起訴されて刑事裁判を待つ身になった人を、刑事訴訟法上「被告人」といい、マスコミ用語ではなぜか「人」を省略して「被告」と表現しています。これまで、どんな人であれ、起訴されれば新聞・テレビでは「被告」と呼ばれてきたと記憶しています。

記憶に新しいのは酒井法子です。
ついこの前まで「のりピー」と言われていたのが、覚せい剤所持容疑で逮捕状が出た直後から「酒井法子容疑者」となり、起訴後は「酒井法子被告」と書かれるようになりました。

私自身は、それらの人が裁判関係の書類などの上で「被疑者(容疑者のこと)」「被告人」と呼ばれるのは仕方ないとしても、新聞やテレビであえて「容疑者」「被告」という肩書をつけるのは、あまり望ましいことではないと思っています。

容疑者、被告といっても有罪判決が確定するまでは「無罪の推定」を受けるということは、私たち弁護士ならわかっているつもりですが、一般の人はその時点でどうしても「犯人」と同一視してしまいがちになるからです。

しかし、新聞その他マスコミがあえて「被告」という表現を使うのであれば、同じ立場の人には等しくその用語を使うべきなのであって、小沢一郎に「被告」の肩書をつけていないことは理解できません。

このあたりのマスコミの意図というのは全く察しかねますが、もしかしたら、プロの検察が起訴したのではなく、素人集団の検察審査会の議決に基づく強制起訴だから、まだまだ有罪になるかどうかわからない、と考えているのかも知れません。

そうだとしたら、主権者である国民の意思にもっと耳を傾けよ、と常々言いながら権力批判をしているマスコミが、国民の意思による決定を軽んじていることになります。
 もし審査会の多数決による強制起訴なんておかしい、信頼できないんだ、と考えているのであれば、新聞で堂々とそういう論陣を張ればよいのです。

そういうわけではないとしたら、他に考えられるのは「起訴されたのが小沢一郎だから」という理由しかありませんが、これでは完全に、マスコミが政権与党、権力者におもねっていることになります。

小沢被告の裁判については、今後粛々と手続きが進み、判決文はいつか公開されるでしょう。結論が有罪であれ無罪であれ、その中で判断の理由が明確に示されるでしょう。
果たして、マスコミが小沢一郎を被告と呼ばない理由は、いつかどこかで明確に示されるのでしょうか。

小沢一郎はついに「被告」となった

小沢一郎が「強制起訴」されたと、各紙一面に大きく見出しが載りました。

 
起訴されて小沢一郎は「被告人」となり、刑事裁判で裁かれる身分となりました。
今後、各メディアは、小沢一郎・元民主党代表を「小沢被告」と表現するのか、またはSMAPの稲垣吾郎が逮捕された際の「稲垣メンバー」みたいな、ことさらに慎重な表現をとるのか、注目したいところです。
 
それにしても、単なる起訴ではなく、「強制起訴」と表現されると、い
かにもキツイ印象を受けまして、あたかも小沢被告が、政治資金の帳簿処理について国会で明らかにせず、ジタバタしているために無理やり起訴されたのか、と
いう感じを受けますが、強制起訴とはもちろん、そういう意味ではありません。
 
起訴されるのは小沢被告に限らず誰でもイヤなので、起訴される側からすれば、起訴とは常に強制的に行なわれるものです。
ここで言う「強制」とは、検察官が起訴する意向がないのに、検察官に有無を言わさず起訴が行なわれるという意味でして、その強制は被告人ではなく、検察側に向けられています。
 
なぜそういうことになるかというと、検察審査会が「起訴せよ」という議決をしたからです。
検察審査会制度については、ここでも何度か書いてきたので(こちらなど)、それ以上には
触れません。
 
強制起訴というのは、法律上はそのような用語はなく、マスコミ用語であると思われます。検察審査会法の条文や、刑事訴訟法の教科書の上では「起訴議決に基づく公訴提起」などと表現されていて、強制起訴という言葉は出てきません。
 
通常、法律用語で「強制」という言葉は、法律や判決で命ぜられたことに国民が従わないとき、国家が国民にそれを強制して実現する場面で使われます(たとえば税金を払わない人の財産を国が差し押さえることを「強制徴収」と言ったりします)。
 
これに対し強制起訴は、国家機関である検察官が「起訴しない」と決め
たことについて、国民から選ばれた検察審査会員が起訴を強制するという制度であり、従来とは正反対に「国民が国家に強制する」ことを意味します。法律上の
通常の「強制」とは逆なので、条文上は「強制起訴」という表現は使われないのかも知れません。
 
用語はともかく、この制度は、検察が一手に握っていた起訴・不起訴の判断権限の一端を国民に委ね、場合によっては国民の判断のほうを重視するという、画期的なものではあります。
ただ、すでにここでも書いたように、起訴する・しないを審査会の多数決で決めていいのかという点には、不安を感じなくはないです。
 
もっとも、民主党は「国民目線」という言葉が好きなようですから、今回の強制起訴に限っては、私としても賛成であり、小沢被告にはぜひとも法廷で、国民目線で語ってほしいと思います。

示談しても起訴されることがある

年明けに週刊誌を見て知りましたが、海老蔵の顔面を骨折させたリオン容疑者が、昨年末に起訴されたそうです。ですから現在、リオンは「被告人」ということになります



年末のテレビなどによりますと、海老蔵とリオンの間には「示談」が成立し、互いに賠償金を請求しないという合意に達し、海老蔵もまたリオンの厳しい処罰を求めないとの「上申書」を警察・検察に提出したそうです。

だからリオンは、不起訴で釈放、または略式裁判(書類審査で罰金のみで終わる)になるのではないか、とも言われていたのですが、今後、法廷にて正式の刑事裁判を受けることとなりました。

海老蔵事件自体については、昨年ここでも書いたとおり、特段の興味はないのですが、今回書こうとしているのは、このように、示談になっても起訴されることは充分ありうる、ということです。

私も弁護士ですから、刑事弁護の依頼も引き受けます。リオンのように暴力沙汰を起こして逮捕され、その親などが駆け込んできて、被害者と早く話をつけてほしい、示談して、被害届や告訴状を取り下げさせてほしい、と懇願されることもあります。

もちろん、逮捕直後の刑事弁護人の仕事は、被害者と折衝し、示談をまとめるというのも重要な一つです(それは容疑者のためだけでなく、被害者の被害回復のためでもあります。警察・検察や裁判官は、被害者のために賠償金を取りたててくれるわけではありませんから)。

ただ、示談できれば必ず釈放される、と単純に信じている人も結構いるのですが、それは違います。

たとえば、大金持ちの人が誰かを殺害し、カネにモノを言わせて遺族に何億もの賠償金を渡して、遺族が「示談に応じます、厳しい処罰を求めません」と言ったら、その殺人者は刑事処罰を受けなくても良いのかと言われると、それは誰しも不正義だと感じるでしょう。

結局、示談できたかどうかは、起訴・不起訴を決める際の要素の一つにすぎず、その他、犯行の悪質さや、被害の大きさなどから総合的に判断されているわけです。

示談とはあくまで、被害者が加害者に「これ以上は賠償金を請求しません」というだけの話にすぎません(個人と個人の関係)。
これに対し起訴・不起訴というのは、刑法という国法に反した者に対し、国家が刑罰という制裁を加えるべきか否かの問題です(国家と個人の関係)。

だから両者は別次元の問題で、前者がクリアになったからといって後者の問題もなくなるというわけではないのです。

ということで、リオン被告人の刑事裁判には、多数の傍聴人と取材が来ることになるでしょう。