台湾の冤罪事件と、日本の死刑制度

死刑制度について書こうとしています。
秋葉原の連続殺傷事件の審理も終わりましたが、今朝私が関心を持ったのは、産経の小さい記事です。
 
台湾で最近、冤罪つまり無実の罪で死刑にされた人が出たらしい。
幼女を暴行し殺害した容疑で、台湾の軍人が軍事裁判にかけられ、処刑されたあとになって、真犯人が見つかったのだそうです。
 
外国の話であり、軍事裁判という特殊性もあるのかも知れませんが、それでも、日本と台湾の刑事裁判制度に、そう大きな違いがあるとは思えません。
取調べを受け、裁判にかけられ、法廷で言い分を聞いてもらった上で、刑が下される、という点は全く同じはずです。
誤審、冤罪というのは、その可能性を常に否定できないという、まさに実例です。
 
さて、死刑制度というものがなぜ存在するかというと、よく言われるのは、1つには、犯人に対する被害者や遺族ひいては国民全体の報復であるという点と、もう1つは、死刑という厳罰があることで犯罪が抑止されるという点です。
 
ではその一方で、冤罪で死刑判決が出てしまったらどうするのか。
台湾では現に起こりましたし、日本では、無実なのに10数年も服役させられた菅家さんの事件がありました。昨年は検察による証拠偽造疑惑まで出た。日本でも冤罪で死刑になった人が、これまでにもいるかも知れないし、これから出てくるかも知れない。
 
「そんなことがあってはならない」というのは当然です。しかしそれは理想論に過ぎず、冤罪で死刑になってしまう可能性をゼロにはできないことをどう考えるか、という問いに答えたことにはならない。
 
これに対する答えは、二つしか考えられないでしょう。
一つは、死刑を廃止することです。「死刑廃止論」の著者で元最高裁判事の団藤重光氏は明確にこの立場です。
 
もう一つは、間違いが起こるかも知れないけど、死刑制度は重要だから残しておく、という立場です。
この立場は言い換えれば、冤罪で死刑にされる人がいたとしたら、その人には、我々の報復感情を満たすため、そして犯罪抑止のために、「申し訳ないけど死んでいただく」というスタンスを取ることを意味します。
 
私は、死刑制度がこのような側面を持つことを踏まえた上で、この後者の立場を取ります。
以前にも書きましたが、冤罪で死んだ人が出たら「もう仕方がない」と考えるほかない。それが私や家族の身に及んだとしても同じです。100パーセント間違いのない裁判、というものはありえないので、死刑制度を容認する以上、そう考えるしかない。
 
台湾の事件では、台湾の総統が遺族に謝罪したそうですが、今後、金銭的な補償も出るのでしょう。
 
ちなみに日本には刑事補償法という法律があり、冤罪と判明した際の補償金を定めています。その第4条3項に、「死刑の執行による補償においては、三千万円以内で裁判所の相当と認める額の補償金を交付する」とあります。
 
国の法律自体が、冤罪での死刑がありうることを前提としている点が、少し恐ろしいです。でも、死刑制度とはこういうものなのです。