為替デリバティブ被害相談2 為替デリバティブとは(後編)

小島「先生、今朝の新聞で、デリバティブのことが出てましたよ」

山内「ええ、野村証券は大阪産業大学に2億5000万円を払えと、大阪地裁が判決しましたね」

小島「これは、うちがやっていた取引と同じようなものなんですか」

山内「新聞にはそこまで詳しく出ていないですが、為替相場次第では多額の損失が発生する取引だったようですね。小島さんのように長期契約をさせられ、途中で解約するために13億円近い解約金を払わされた。その返済を求めていた裁判だったようです」

小島「13億円近く損をして、返してもらえたのは2億5000万円だけですか」

山内「デリバティブ取引に応じた大学側にも落ち度があるってことですね。過失相殺です。小島さんも、先物取引のときに言われたでしょ。今回、大学側の落ち度は8割で、2割だけの賠償が認められたようですね」

小島「投資顧問会社が、企業年金の運用に失敗したとかいうニュースもありました」

山内「オプション取引で失敗したようですね」

小島「おそろしいですなあ。しかしこの、デリバティブとかオプションとかっていうのは何なんですか」

山内「デリバティブというのは、金融派生商品とも言われますけどね、もともとは、相場の変動などのリスクをヘッジ、つまり回避するために開発された商品です。小島さんが先日裁判をされた商品先物取引も、商品相場の高騰に備えて、一定の商品を一定の値段で先に買い付けておく仕組みなんです」

小島「はあ、なるほど。で、私が今回、銀行と契約した通貨オプション取引とはどういうものですか?」

山内「為替相場の変動を回避する、為替デリバティブの一種で、海外の通貨を一定の値段で売ったり買ったりする予約をしておくんです」

小島「ああ、じゃあ私は今回、ドルの先物買いをしていたようなものですね」

山内「そうです。オプションとは『権利』を意味します。今回の契約では、株式会社康楽と、USB銀行の間に、2つのオプションが設定されています。1つめは、康楽がUSBからドルを安く買う権利。2つめは、USB銀行が康楽にドルを高く売る権利で、つまり康楽側から見れば、高値で買わされる義務を意味します」

小島「1つめだけなら、小遣い稼ぎができたのに、どうして2つめの余計なオプションまでくっつけてくるんでしょうねえ」

山内「1つめのオプションだけだと、康楽が得をして銀行が損をするだけですからね。銀行はそんな商品を売るはずがない。それにしても、この手の通貨オプションの問題点は、顧客である企業が利益を得る可能性より、銀行が得をする可能性のほうがはるかに大きい、ということです」

小島「どういうことですか」

山内「今回の契約を見ても明らかでしょう。1ドル80円より円安のときは、康楽は1万ドルを1ドルあたり80円で買える。ドルが安値で手に入るということです。でも、1ドル80円より円高になると、とたんに、銀行は康楽に3万ドルを1ドル100円で売ることになる。円高ドル安なのに、ドルを高く買わされるわけです。しかも、3万ドルも」

小島「こちらが買わされるときに限って、3倍の量のドルを買わされるんですね。うちにとって全然、リスクヘッジになっていない」

山内「しかも、何年もの長期に渡ってです。途中で解約しようとすると、今朝の新聞に出てたように、多額の解約金を払わないといけない契約になっています」

小島「契約書の中身がわかってくると、腹が立ってきました。今朝の新聞記事みたいに、裁判に訴えることはできますか」

山内「もちろん、それも考えられます。あとは、銀行相手だから、金融ADRって方法もあります」

小島「また何か難しい言葉が出てきましたね」

山内「ADRというのは、裁判外での紛争解決手続のことです。具体的には、全銀協、つまり全国銀行協会の調停手続きの場で話合いをすることです。裁判よりは早い解決が望めます」

小島「手段の選択は先生にお任せしますよ。私としては何をすればよいですか」

山内「とにかく、これまでの事実関係と、取引内容を把握したいので、契約書類とかパンフレットとかを全部持ってきてください」

小島「わかりました」


(続く)

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なぜ裁判は長い時間がかかるのか、モンテスキューの言葉から考える 2

モンテスキューの話しの続きです。前回、裁判に長く時間がかかる根本的な理由は、個人の自由を守るためである、と書きました。

モンテスキューは「法の精神」の中でこう言っています(第6編・第2章、要約)

自分の財産を返却させるため、あるいは何らかの権利侵害に対し賠償を得るために市民の払う労苦との関係で見れば、裁判の手続きはあまりにわずらわしいと思われるだろう。しかし、市民の自由と安全との関係でみれば、それはむしろ簡易に過ぎると思われるだろう。

裁判に払う労苦、出費、遅滞は、各市民がおのれの自由のために払う対価なのである。

 

モンテスキューは近代の裁判制度との対比として、大昔のトルコでの裁判制度を以下のように紹介しています。

トラブルになった当事者(つまり原告と被告)は、裁判担当の役人のところに出頭すると、役人は双方の話をだいたい聞いて、あとは、その役人が棒を持ちだしてきて、当事者の一方または双方の脚を棒で叩いた上で、家に帰すのだそうです。

モンテスキューが「法の精神」の中で紹介している諸外国の制度の中には、誤解に基づくものも結構あるそうなので、トルコで昔このような裁判が本当に行なわれていたかどうかについては私も知りません。しかし、未開の国では似たようなことが行われていたでしょう。

こうした制度であれば、裁判はその日のうちに終わります。しかし、そんな制度を利用したいと考える人はいないでしょう。人はいつでも、訴える立場になることもあれば、訴えられる立場になることもあります。そのときに、一方または双方が脚を叩かれて終わるという裁判が合理的であるはずがない。

正しい裁きを下そうとすれば、双方の主張と反論を尽くさせて、それを証拠に基づいてきちんと吟味するというプロセスは必須になるのです。

 

と、ここまで説明しても、紛争の当事者は、納得されないことが多いでしょう。

「互いの言い分を時間をかけて聞かないといけないのは、どちらが正しいかが微妙なケースでしょう。私の事件に関していえば、私の言い分が正しいのは明らかではないですか」と、そういうニュアンスのことを言う相談者もしばしばおられます。

しかし、人と人の紛争において、当事者の一方がそのように思っている場合は、まず間違いなく、相手も同じように思っています。

結局、どちらも自分の言い分が正しいと思っているから紛争になる。その際にどちらを勝たせるかを合理的に決めようとすれば、時間がかからざるを得ない。それは裏返してみれば、訴えられる立場になったとしても言い分は充分に聞いてもらえるという安心につながるのです。

現に、現代の日本の裁判でも、刑事事件では冤罪がたまに生じ、民事事件でも、地裁・高裁・最高裁と判断がそれぞれ異なることも多々あります。我々が不当な判決で自由や財産を奪われないためには、裁判制度はまだまだ「簡易にすぎる」というモンテスキューの言葉も、決して誇張ではないように思えます。

なぜ裁判は長い時間がかかるのか、モンテスキューの言葉から考える 1

一般的に、裁判というものは、民事でも刑事でも、長い時間と手間がかかります。依頼者の中にも例えば、「なぜ貸したカネを返してもらうだけのことで、これだけの時間がかかるんだ」と憤る方がたまにいます。

どうして裁判に時間がかかるのかというと、理由はいくつか挙げることができます。

 

一つは司法制度の人的限界、つまり裁判官が足りないということです。

司法改革とかで司法試験の合格者は飛躍的に増えましたが、裁判官に登用される人数はほとんど増えていません。合格者数は、20年前は毎年500人程度、私が受かった13年前で800人程度、現在は2000人程度ですが、その中から裁判官になるのは年間100人程度で、大きな増加はありません。

最高裁は「裁判官にふさわしい能力の人を選抜したらこの程度の人数になった」と言っています。しかし理由はどうあれ裁判官が増えず、裁判所の事務処理のスピードも速くならないのであれば、その部分だけ取ってみても司法改革は失敗だったと私は思うのですが、それはまた別の機会に述べます。

 

もう一つの理由は、司法制度を利用する側にもあります。

弁護士も忙しいため、きちんと主張を整理できないとか、必要な証拠を迅速に提出できないということも、確かにあります。自戒を込めて思います。

ただその点は、責任転嫁するわけではないのですが、代理人である弁護士だけの問題でなく、当事者、つまり依頼者本人が、訴訟を進めていくために必要な協力をしてくれないから、ということもあります。

たとえば、こういう主張をするからにはこういう証拠があるはずだから持ってきてほしい、とお願いしても、それをなかなか揃えてくれないとか、明らかに無理のある主張なのにそれを頑として通そうとするため、代理人としては無理な主張を重ねざるをえなくなるとかいうことも、なくはないです。

もっとも、特に民事では、当初は互いに相手が憎くて裁判になったものの、裁判に時間がかかっているうちに双方冷静になってきて、こんなことをしてるくらいなら話しあいましょう、ということで和解に至るケースも結構あります。ですから、長い裁判は悪いことばかりでもないと思っています。

 

前置きが長くなりましたが、以上の理由は実は瑣末な問題でして、裁判に手間と時間がかかる根本的な理由は何かと言いますと、われわれ個々人の「自由」を守るためです。

そのことに関して、モンテスキューの「法の精神」の記述を紹介しようと思っていたのですが、すでに長く書きすぎてしまいましたので、次回に続きます。