ハーグ条約と「子の奪取」 2(完)

前回、国内で妻が子供を連れて実家に帰る行為はざらにあるけど、国際的にはそれが違法とされると書きました。

もちろん、妻には妻の言い分があるでしょう(夫のDVとか)。その点は、もちろんハーグ条約に基づく裁判でも審査されるし、今回のケースで言えば、今後は日本の家裁で双方の言い分を聞くことになります。

それをせずして、夫婦の一方が子供を取り込んでどこかへ行ってしまうのは違法なのだと、英国の裁判所はハッキリ言ったわけです。今後、日本もハーグ条約の締結国として、従来の家裁実務に再検討が加えられることになると思います。

 

そもそも、日本の家庭裁判所が、妻が子供を連れ去ることに寛容だったのはなぜかというと、おそらくこういう考え方によるものです。

子供は父母両方そろって育てるのが望ましいけど、親の事情で父母が離れるとなったら、どちらかが預からざるをえない。その場合、子供にとっては母親の愛情のほうが大切である。そこに別居している父親がやたら出てきたら、判断能力の未熟な子供はどうしていいか混乱するから、父親としては身を引くべきだ、と。

しかし、近年の欧米流の主流的な考え方はそうではありません。

親の事情で夫婦離ればなれになるとしても、子供は両親と接し続けるのが望ましい。子供は一つの独立した人格であり、父・母それぞれと対等に接することによってこそ、その発達が遂げられるのである、と、そう考えます。

そうすると、親の一方が子供を他方の親と引き離してしまうのは、子供もためにもよくないということになります。また日本の法律上は認められていませんが、欧米では離婚後も夫婦ともに「共同親権」を保持するという制度も多いそうです。

 

ですから「妻が夫から逃れるために子供を連れて出て行くのが許されないなんておかしい」と考える人は、国際的な潮流に反した古い考え方の持ち主ということになります。もっとグローバルでワールドワイドな観点に立ちなさい、と言われることになります。

ただ、正直なところを言いますと、私もどちらかといえば、従来の日本風の古い考え方を持っています。だからここでも以前、日本がハーグ条約を締結することについての疑問を書きました(こちらこちら)。ハーグ条約だって、果たして日本に根付くのかどうか、懸念しています。

それでも、実態として、日本では妻による子供の連れ去りが事実上許容されており、そのため子供との再会を切実に求めている父親が国内にもたくさんいる(私の依頼者にも複数いる)。

そんな現状に一石を投じるという意味では、今後のハーグ条約の運用に、少し期待している部分もあります。

 

ハーグ条約と「子の奪取」 1

ハーグ条約に基づいて、英国の裁判所が母親に対して「子供を連れて日本に帰りなさい」と命じたというニュースがありました。子を持つ親としても興味ある判断ですので、少し解説します。

前提となった事案ですが、この親子は3人とも日本人で、夫・妻・その間の子供(7歳)の3人で日本に在住していたところ、妻が子供を連れて英国に引っ越したらしい。夫と約束した期間を過ぎても帰ってこないので、夫が英国の裁判所に、条約に基づいて裁判を求めたようです。

 

この条約の正式名称は「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」と言いまして、日本も最近になってこの条約を各国間で締結し、今年4月から適用されるようになっています。

この条約が典型的に想定しているのは国際結婚した夫婦が離婚や親権でもめたようなケースです。

たとえば、アメリカで日本人女性がアメリカ人男性と結婚し、子供が生まれたとする。その後、この夫婦が不和となって、女性が子供を連れて日本に帰ってきたとします。奥さんが子供を連れて「実家に帰ります」というのは、国際結婚でなくてもよく聞く話です。

しかし、欧米流の考えでいうと、一方の親が子供を連れて居住地を離れるのは望ましいことではない、夫婦間の問題が解決するまで、子供をもとの環境に置いておくべきだ、ということになります。

その考え方自体、従来の日本人的な感覚からすると、違和感をおぼえる向きもあると思うのですが、日本はその考え方に基づくハーグ条約を締結しました。

それが適用された最初のケースが今回の事案です。妻は従来住んでいた日本に、子供を連れて戻ってきなさい、ということです。戻ってきてその上でどうするかというと、あとは日本の家庭裁判所で、どちらが子供を養育するのか、家事調停や審判を通じて決められることになります。

 

繰り返しますが、妻が子供を連れてどこかへ行ってしまうということは、国内でもよくありました。その場合、これまで日本の家庭裁判所の実務では、言い方は悪いですが「連れていったモン勝ち」でした(正確には、連れて行ったモン勝ちになるのは妻だけで、夫が連れて行くと犯罪扱いになる)。

日本の民法上、夫婦は同居する義務があるけど、家裁はそれを強制できないとされています。夫が子供との面会を求めても、妻が子供を取り込んでしまえば面会不可能で、夫としてはせいぜい、家庭裁判所の調停・審判を通じて、月1回くらいの面会を認めてもらうほかない。離婚することになって、せめて夫が親権を取りたいと思っても、「子供と離れてしまっている以上、今さら父親に親権は認められない」と判断される。

日本国内ではこうしたことも「当たり前」と見過ごされてきたのが、国際間でやると「違法」と判断されることになったのは、かなり大きな変化だと思います。

この条約の正式名称をもう一度言いますと「国際的な子の奪取の民事上の側面に関する条約」です。英国の裁判所は、今回、妻がやった行為は「国際的な子の奪取」であって、それは違法行為だと明確に言ったわけです。

次回、もう少し続く。

子供を連れ帰って約5億円請求された母親の話 2

 (前回のあらすじ)
アメリカ人のクリストファーは、子供を日本に連れ帰った元妻のマキコに賠償を求め、テネシー州の裁判所は約5億円の支払いをマキコに命じた。

…とはいえ、この判決はあくまでアメリカの裁判所が出したものなので、アメリカ国内だけで通用します。だからマキコさんは、日本において実際に5億円近いお金を取りたてられたり、財産を差し押さえられたりすることはありません。

外国の裁判日本国内で通用できるようにするためには、日本の裁判所で「承認」という裁判手続きの一種を経なければなりませんが、日本の裁判所は決して、この判決を承認しないでしょう。

さて、以前にも書きましたが(こちら)、
「ハーグ条約」では、国際間の離婚でも「共同親権」つまり父母両方が親権を持つとして、子供をどちらが引き取るかもめた場合は裁判所が決める、それまでは元々住んでいた環境に置いておく、と決められています。

それによれば今回のケースでも、子供が生まれたアメリカで、裁判の結果を待たなければならなかったでしょう。子供が何歳かは新聞記事に出ていませんが、乳飲み子であったとすれば、子供がかわいそうであるように思われます。

欧米諸国は日本にハーグ条約を締結するよう求めています。非常に微妙な問題であり、私も専門的に調べたわけではないですが、個人的には反対です。

条約を締結する以上は、それに基づき国内の法律も整備され、今回のようなケースについて何らかの罰則が定められることになるかも知れない。

罰則がなくとも、このマキコさんには「条約や法律に反した行動を取った者」という評価が与えられることとなります。アメリカみたいに何億もの賠償が命じられることはないでしょうけど、マキコさんは「違法」なことをしている以上、何らかの賠償に応じざるをえなくなるでしょう。果たしてそれが妥当かどうか。

最近みたネット上のニュースでは、菅内閣は条約締結に向けて調整を行なう旨、閣議決定したようです。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に加入するかどうかという重大問題すら、震災への対応で棚上げにしているのに、こちらだけ拙速に進めていってよいのかという危惧感を持ちます。

もちろん、条約締結は内閣だけでできず、国会での承認が必要です。その過程で、幼い子供のために何が一番望ましいのか、きちんと議論されることを望みます。