大阪地裁の新館建設騒動に思う 1

仕事でちょくちょく霞ヶ関の東京地裁に行きますが、裁判所の建物の前でよく、拡声器で何かしゃべり続けている男性がいたり、団体でノボリを掲げてビラを配っている人を見かけたりします。

私はあまり関わりませんが、おそらく、その人たちにとって何らかの不服な判決が出て、そのため裁判所に対する抗議行動をしているのだろうと思います。

そういう人たちの気持ちはわからなくはないのですが、それは裁判というものを根本的に誤解していると言わざるをえません。
裁判は、法論理と証拠に基づいて勝敗が決まるものであって、裁判所の前の抗議行動で結論を動かそうと考えること自体がおかしいのです。

もし、そうした行動で判決が左右されるのだとすれば、性能のいい拡声器を持ってきて大きな声を出したほうの勝ち、少しでも団体の構成員に動員をかけて多人数でビラをまいたほうの勝ち、ということになってしまい、それはおよそ、法治国家における司法のあり方ではない。

と、長い前置きですが、今回の主題はそういう話ではありません。

最近、大阪地裁でも、裁判所周辺をデモ行進している一団に出くわしまして、彼らの掲げているノボリを見てみますと、「裁判所の新館建設に反対」ということでした。

大阪市北区西天満にある大阪地裁の敷地内では、現在、本館の北西側に新館の建設工事が始まろうとしています。デモ行進する彼らが言うには、建てるなら南東側に立ててほしいとのことです。

少し細かい話になりますが、大阪地裁の北西側は、オフィスや店舗が多く、そこに新館を建てると、日照や通風が悪くなるということです。たしかに、裁判所の北方向には、昔から骨董品などで有名な老松通りがあるし、私の好きなバーや料理屋も北西側にあります。

一方、裁判所の南側は堂島川に面していて開放されており、東側には裁判所の別館や天満警察などの建物があるだけで、個人に対する影響は少ない、だからそちらに建てればいいじゃないか、ということでしょう。

大阪地裁はこれまで、周辺住民への説明会を何度か開いて、警備の面などから北西側が望ましいということを説明したものの、住民の合意は得られなかったようです。しかし合意のないまま、来月から新館建設工事に着工するとのことで、それに対する抗議デモが、また昨日も行なわれたと、今朝の産経にありました。

法の番人たる裁判所が、住民の合意もなしに建築を推し進めることには、当然異論もあると思われますが、私見については次回に続きます。

国歌斉唱時の起立を義務づける条例の合憲性は 4(完)

国歌斉唱時の起立を義務付ける条例について書こうとしていたら、ちょうど最高裁がこの問題に決着をつけました。

起立を義務づけることは思想良心の自由に反するものでないとして、起立を拒否したことなどを理由に再雇用を拒否された元教師の訴えを退けた(5月30日)。

私がこれまでに書いてきた理屈は、単純化すると以下のようなものです。

たしかに一定の行為を強制することが、その人の思想や信条の核心を侵すようなものであれば、そのような強制は許されるべきではない。
起立しない人は、国旗・国歌がかつての軍国主義の象徴であり、平和主義の理念に反すると言うが、そういう人々が本当に平和主義のための活動をしているかは極めて疑問で、真の平和主義の理念に基づくものとは考えられない。単に立ちたくないだけの人を立たせたところで、その人の思想信条を侵すものでない、と。

最高裁の理屈は、いっそうシンプルです。これもずいぶん単純化しますが、
国旗・国歌が軍国主義の象徴だと考えるのは自由であるが、式典のときに起立するのは単なる儀式である。儀式に従わせてもその人の思想信条を侵したことにならない、ということです。

たしかに、たとえば私の実家は浄土真宗ですが、友達の結婚式に行ったら、ホテルのチャペルでみんな立って主イエスのための讃美歌を歌わされたりします。
これをもって、「私の家は仏教なのにキリスト教に宗旨変えさせるのか」と思う人はいないでしょうし、仏教徒だからと言って歌わず座ったままでいるのも、周囲の人の気分を害するでしょう。

どうしても讃美歌を歌うのがイヤなら、結婚式に出なければよいのであって、儀式に出ておきながら儀式の約束に従わないという行動は、とうてい合理的なものでないと思います。

(さらに言えば、国歌斉唱時に起立しない人は、ご自身やその子供がチャペルで結婚したとして、一部の人がそのような行動をとったとしたら、「おぉ素晴らしい、信教の自由だ」とでも思うのでしょうか)

ということで、長々と書きましたがこの問題についての考察をひとまず終了します。

国歌斉唱時の起立を義務づける条例の合憲性は 3

前回の続き。
国歌斉唱時に起立しない人というのは、平和主義うんぬんではなく、単に権威・権力が嫌いなのであろうと、そういう話をしました。

もちろん、それも思想信条として自由なのは間違いありません。
「別に私は砲弾が飛んでくるような場所で世界平和を訴えたいと考えているわけではない。ただ自分の身が安全なところで、反権力の姿勢を示したいのだ」という人がいたとして、そう思うこと自体は構わない。

しかし、その程度の思想しか持たない人であれば、式典における秩序のほうを重視して、起立することを強制することは許容されると思います。

学校の式典以外では、それを正面から認める法令がすでに存在します。
私たちの商売になじみの深い、裁判の場面がそうです。たとえば民事訴訟法では、法廷で証人として証言する人は、最初に「ウソをつきません」という宣誓をさせられます。民事訴訟規則によると、宣誓は起立して厳粛に行なう、と定められています。
宣誓を拒否すると、10万円以下の罰金が科せられることがあります。

かように、世の中には「起立して然るべき状況」というものがあって、それを法令で強制することも、許容されているのです。

ちなみに、裁判所で法廷が開かれるときや、宣誓する証人が起立するのはなぜかと言いますと、それは決して、裁判官サマに対する礼儀などではない。これからこの法廷で人が人を裁くという、厳粛な事実を前に、起立するのです。

起立して頭を下げる理由は、裁判官サマがエライからではなく、そこで裁かれる人に対する礼儀であり、そこで行なわれる正義に対する敬意なのです。

同じように、学校の卒業式などで児童やその保護者が、国歌や校歌を斉唱する際に起立するのはなぜかといえば、それは国や学校のエライさんに対する礼儀などではない。
公教育の場で、児童生徒たちが教師たちから教育を受け成長することができたという、その事実に対して起立と礼をするわけです。

児童生徒の保護者の多くは、たぶんそう考えるのであり、だからこそ学校での式典に厳粛な気分で臨むわけです。そういう人たちが全員起立している前で、一部の教師が座ったままというのは、多くの人たちにとって不快感を与えるはずです。

そんなわけで私は、「権威的なものがイヤ」という程度の思想信条で起立を拒否する人に対しては、刑罰を背景に起立を強制しても構わない、だから合憲だと思うのです。

国歌斉唱時の起立を義務づける条例の合憲性は 2

国歌斉唱時の起立を義務づける大阪府の条例案について、前回、私は賛成の立場にあると述べました。その理由などについて思いつくままに書いてみます。

もちろん、この手のことは法律や条例で強制される筋合いのものでないと思います。しかし、教育現場では厳粛たるべき式典などで起立しない教師がいて、それが式典をあまりにだらしなくしているのでしょう。

私の息子はまだ2歳ですが、いずれは学校へ行く。入学式や卒業式での国歌斉唱のとき、息子が起立して元気よく歌い、私たち保護者も起立してそれを見守っている中で、一部の教師が座ったままであれば、極めて不快に思うでしょう。
そして息子にもし、「あの先生はなんで座ったままなの? 立ちたくないときは立たなくていいの?」と聞かれたら、私には答えるべき言葉が思い浮かびません。

私個人の感想はともかく、憲法上の議論として述べますと、
個人の思想信条は完全に自由であるべきだが、それが「行動」を伴う場合は無制限に自由ではありえないとされます(たとえば宗教の違いを理由に他人を殺すことは許されない)。
しかし、個人の行動を規制することが、その人の「思想信条の核心」を侵害するような場合は、そのような規制はあってはならないとされています。

国歌斉唱時に起立しない人の「思想信条の核心」が何なのか、私には理解できません。
たとえば、日本の国旗・国歌は戦前、そのもとに他国を侵略した軍国主義の象徴だから、とうてい敬意を払えない、と言う人もいるようです。

しかし、イギリスやフランスも、帝国主義の先進国として、国旗・国歌の下にずいぶん他国を侵略しており、占領した国の数は日本の比ではないはずです。アメリカなどは今でもたまによくわからない戦争をする。
これらの国でも、式典では起立して国歌を斉唱するはずですが、これも「軍国主義」なのでしょうか。だとしたら、早期の英語教育について「軍国主義だからハンターイ!」という教師がいてもよさそうに思えます。

その他にも、世の中には今でも人権や国際平和を乱す事件が相次いでいますが、「国歌斉唱時には座る」という行動によって「平和のための戦い」を繰り広げている教師の方々は、それらの事件に対してどんな行動をしておられるのか。
 たとえば昨年、北朝鮮が韓国を砲撃したとき、北緯38度線にでも座って、北に向かって「国際平和を守れ!」とでも叫んだのかというと、そんな教師がいるとは聞いたことがない。

結局、国旗や国歌が嫌いという人たちの「思想信条の核心」というのは、真の平和主義の理念といったものではなくて、単に、権威や権力が嫌いで、そういうものに立たされるのが嫌いというだけのことであろうとしか思えないのです。

長くなってきたので、次回に続く。

国歌斉唱時の起立を義務づける条例の合憲性は 1

大阪府で、橋下知事主導のもと、公立学校の式典での国歌斉唱のときに、起立することを義務づける条例が制定されようとしています。

橋下知事率いる「大阪維新の会」が府議会で過半数を取っているので、この条例は可決されることになるでしょう。この条例の当否について触れます。

と言いながら、いきなり話がそれますが、私は先日の地方選挙のとき、「大阪維新の会」の候補者には投票しないようにしました。その理由は2つです。

一つめは、自らの行動を「明治維新」に安易になぞらえ、やたら維新を唱える人たちを、私はあまり信用できないということです。

これは全く私ごとなのですが、私の祖先にあたる土佐藩主の山内容堂は、幕末、天皇家と幕府(徳川家)が一致協力して国難に対処すべきであるという、いわば穏当な改革論を主張しました。しかし、維新の立役者である西郷隆盛は倒幕を主張し、「あんなやつ(山内)は短刀一本持ってきて黙らせろ」(つまり「刺してしまえ」)と言ったそうです。

明治維新はこのように、恫喝半分で成り立ったものであって、到底、現代において行なわれるべきような性質のものでもないし、現代の政治家が手本にしてはならないと思うのです。

もう一つの理由は、これは「大阪維新の会」に限らず一般論として思うのですが、
実力が未知数で評価も定まっていないけど人気だけは高いような新政党に、あまり大きな権力を与えるべきではないと思うからです。

ちなみに、同じ理由で、民主党が政権交代を果たした平成21年8月の総選挙でも、私は民主党の候補には票を入れませんでした(政権交代後の民主党の体たらくを見ていて、その判断は正しかったと思っています)。

私のよく知る人が何人か、「大阪維新の会」から市会議員になっておられて、そういう個々の議員先生方は応援したいとは思うのですが、正直なところ、「大阪維新の会」なるものは、未だによく分からない団体であるとの印象しか持ちえません。

と、不必要に前置きが長くなりましたが、国歌斉唱時の起立を条例で義務づけることについては、私は賛成の立場にあります。
そのあたりの話は次回以降に続く

謝罪しながら裁判で争うことは不誠実か

10日ほど、更新が空いてしまいました。

この間は、刑事事件で注目の判決が多く、漁船と衝突したイージス艦「あたご」の士官に無罪判決、舞鶴女子高生殺害事件で無期懲役判決、布川事件の再審で無罪判決が出ました。いずれも興味をひく、かつ重大事件であり、いずれ触れたいと思います。

刑事事件以外では、うちの2歳の息子が地元の幼稚園の体験入園で大はしゃぎしたことが個人的に興味をひかれましたが、ここで触れる予定はありません。

刑事事件といえば、25日には、JR福知山線脱線事故の裁判で、起訴されたJR西日本の前社長の尋問が行なわれました。
前社長は一貫して無罪を主張しており、「事故の危険性は認識できなかった」と証言したそうです。遺族の憤りのコメントが新聞などで紹介されていました。

この手の裁判のように、道義的にはいくらでも謝罪したいが、刑事責任を追及されるとなると争わざるをえない、ということはよくあります。特にこの事件は、非常に大きな問題を含んでいるので、前社長にはきっちりと争ってもらい、裁判所に慎重に判断してもらわないと困るのです。

それは、以前にも書きましたが、企業が事故を起こしたとき、その企業が賠償金を出すというだけでなく、経営者個人が刑務所に行かないといけないのか、ということです。そういう判例ができてしまうと、「怖くて人など雇っていられない」と考える経営者が増え、雇用はとんでもなく悪化するでしょう。

今日は話がころころ変わりますが、数日前、東京在住の男性が、原発事故で精神的苦痛を受けたとして、東電に10万円の慰謝料を請求する民事裁判を起こしたというニュースを聞きました。

この裁判、東電とその代理人弁護士は、当面は全面的に争っていくはずです。10万円分の精神的苦痛などは本人の主観的なものに過ぎないとか、原子力損害賠償法では異常に大きな災害について賠償責任を負わないなどと主張するでしょう。

そういった主張を見れば、東電の社長は被災地で土下座してまわっているのに、裁判で争ってくるとは二枚舌じゃないか、と感じる向きもあるかも知れません。

しかし、もし東電が、慰謝料の請求に対して、ただちに「あなたの主張はその通りでございます」などと答弁してしまうと、その時点で東電の敗訴が決まります。そうなると東電は、請求どおりに賠償金を払わないといけない。同じことを多くの人が行なえば、東電はたちまち破産状態になり、それまでに裁判を起こしていなかった人には一切の賠償が与えられないことになりかねない。

東電としては、個別の裁判については争っておいて、その過程で政治的に決着が図られ、すべての被害者に公平な賠償を行なう仕組みができれば、争うことをやめて賠償に応じることになるのでしょう。

JR西日本も東電も、申し訳ないとは思っているけど、裁判を起こされれば争わざるをえない。
「あんなひどいことをしながら、争ってくるとはケシカラン」などと考えるのは、裁判とは悪人をつるし上げて平伏させるものだという、前近代的な捉え方をしていることの表れです。法的責任とはもっと冷静で厳密に検討されるべきなのです。

災害対策に「大連立」は要らない

ここしばらく、「災害対策基本法」について書いていますが、私がその際参考にしているのは、我妻栄「法学概論」(有斐閣法律学全集)という、昭和49年に刊行された本です。

我妻栄という、法律を学ぶ者なら誰でも知っているであろう大学者が、国内のあらゆる法律の概要を、憲法を中心に体系的に解説するという壮大な構想の本で、我妻栄はこれを8割ほど書き上げたあと、昭和48年に志半ばで急逝します。その翌年、未完のまま刊行されました。

それによると、災害対策基本法に基づく「緊急事態宣言」の効果について、
「要するに、平時においては法律によるべき事項について政令をもって定めうることである」と述べられています。

政令とは、内閣の発する命令であり、内閣のトップである総理大臣の命令とほぼ同義です。
物資の流通や価格の統制といった、国民の権利・自由に関わることについて、国会で法律を定めるという手間を省いて、総理大臣が直接口出しできることを意味すると、前々回に書いたとおりです。

これをやや大きく捉えると、「国の緊急時に、政府(内閣)は憲法や法律を無視して人権を制限することが許されるか」という問題だということができ、憲法の教科書ではこれは「国家緊急権」という論点として論じられています。

平成7年に阪神淡路大震災が起きたときの総理大臣は、社会党(いまの社民党)の村山富市でした。このとき、災害対策基本法に基づいて緊急災害対策本部を作るべきだという具申を、村山総理は拒否しました。

護憲派・人権派を標榜する社会党ですから、「国家緊急権」など認めない、総理大臣があまりに強い権限を持ちすぎるべきではない、という考えであったと思われます(そのせいで死傷者が増えたのかどうかは、データを見ていないので知りませんが、対応が遅くなったことは否定できないでしょう)。

今回、菅総理は、自民党の谷垣総裁に対し、災害対策のため入閣を要請しました。これは民主党と自民党が連立与党を組む、いわゆる大連立を意味しますが、谷垣氏が拒否したようです。

災害対策のため一致協力すべきこと、そのために与野党挙げて迅速に対応すべきことはその通りですが、だからといって、連立内閣を組むのは、少し間違っていると、私も思います。

迅速に対応するというのなら、上記のように、災害対策基本法に基づく緊急事態宣言を出し、内閣が政令を出せばよい。連立政権を作って与野党一致して法律を作るというのでは、それに比べてずいぶん遅い。

現在、菅総理が出しているのは、前々回書いたとおり、原子力災害特別措置法(平成11年制定)に基づく原子力緊急事態宣言であって、対応できるのは原子力災害に限られ、震災全般についてはまだ迅速な対応ができるわけではないのです。

菅総理も、村山元総理と同じで、災害全般についての緊急事態宣言を出し、そのすべてについて自らの責任と判断において迅速な命令を出すというところまで、ハラを固めたわけではなさそうです。

だから自民党と連立して、みんなで法律を作ってやっていきましょうよというのが、谷垣総裁への入閣要請の趣旨だと思われるのですが、これは結局、責任の所在をあいまいにしてしまいたいという、菅総理の逃げの一手であるように思えてなりません。

教育不足の板長のごとき総理

この度の震災で被害を受けた方々にお見舞い申し上げます。

報道は地震一色でして、伊藤リオンが東京地裁で懲役1年4か月の実刑判決を受けましたが、もはや「え、リオンって誰だっけ?」と思わしめるような、小さな扱いで済まされています。

未曾有の大災害を前に、法律家のブログとしてはどんなアプローチが可能かを考えあぐねた末に、ここはひとまず雑談でも書いてみることにします。

居酒屋評論家として有名な太田和彦さんが、ダメな店の典型は客の前で店員を叱る店だ、とどこかで書いておられ、私もまさにその通りだと思います。

少し高級な店で、板長が客の前で若い板前さんを叱りつけて、そのあと板長が客に「いやすいませんねえ」と笑顔を作ってみせるようなことがあります。

板長としては、仕事は厳しくやっていると見せつけたいのだろうけど、理由は何であれ、食事中に人が叱られているのを見せられると、お酒や食べ物が不味くな
るし、何より、営業中に店員を叱らないといけないのは、普段の教育ができていない証拠だと、そんなことを書いておられました。

私が菅総理に対して気色の悪さを感じるのも、まさに同じ理由です。

菅総理は今般の原発の問題で、東京電力の本店に乗り込み、職員に「どうなっているんだ」「覚悟を決めろ」などと、報道陣に聞こえるように怒鳴りつけたそうです。そのあと記者会見で国民に対し「心配をおかけします」などと述べたとか。

少しは法律家らしいことも書きますが、災害に対する国の責務がどうあるべきかは、法律にきちんと書いてあります。
昭和34年の「伊勢湾台風」を受けて昭和36年にできた「災害対策基本法」がそれで、さらに平成11年には「原子力災害対策特別措置法」という法律が定められています。

詳細は省きますが、これらの法律によると、国は、原子力災害の予防や事後対策のために必要な措置を講じなければならない、と定められています。

菅総理をトップとする日本国政府は、原発が暴走しないよう、関係省庁や電力会社に然るべき指示をして安全な仕組みを確立し、もし事あらば速やかに対処できるような体制を作っておかねばならなかったのです。

今回の東京電力の対応は、確かに素人目に見てモタモタしている印象を受けますが、それでも彼らは現場で文字どおり命がけでやってくれているのだと思います。
そして彼らが命を賭けないといけないような状況に陥らせた最終的な責任は、法律を読む限り、どうしても政府にあると考えざるを得ない。

その政府のトップが、自らの職責を果たさなかったことを棚にあげて現場を怒鳴りつけるという光景に、普段の教育をしないくせに板前をしかりつける板長と同じような不快感を持ってしまうのです。

前原外務大臣の辞任は当然と思う

前原外務大臣が、政治資金規正法に反して外国人から政治献金を受けていたことで引責辞任した件について(カンニングの話の続きはまたいずれ)。
聞けば、地元・京都の焼肉店の経営者とかで、以前から前原大臣と面識があったとか。

私の実家に近い鶴橋でも、在日韓国・朝鮮人が経営している焼肉店が多数あり、私もそういう方々の多くと個人的に親しかったりもします。そうでなくとも、一
見すると大した問題じゃないと感じる向きもあるかも知れませんが、私自身は、あれこれ考えてみて、やはりこれは大問題であると思っています。

私自身の仕事と無理やり結びつけて考えてみるとします。
私は弁護士として、依頼を受けて依頼者の代理人として民事事件を扱いますが、時に、紛争の相手方の人が、私と話がしたいと言ってくることがあります。

このとき、相手方にも弁護士がついていれば、頭越しに交渉することは弁護士としての仁義に反するから断りますが、弁護士がついていない相手であれば、直接の対話に応じることがあります。

私に限らないと思いますが、民事事件において弁護士は、相手方をこてんぱんにやっつけてやりたいと思っていることは、あまりない。相手の言い分も聞いて、双方の利害を調整の上、納得できる落し所が見つかるのであれば、それに越したことはないと思っている。

それでも、依頼者と相手方の利害がどうしても衝突する場合は、当然、依頼者の利益を第一に考えなければなりません。そういうときに、弁護士が、相手方と会うだけでなく、その相手からお金をもらったりすると、依頼者は不信感を抱くし、弁護士倫理にも反します。
ただ、弁護士は在野の一私人ですから、依頼者からクビにされ、弁護士会からお叱りを受ければ終わりです。

しかし、前原氏は国会議員という公人であり、しかも外務大臣です。
日本の政治家は、日本に定住する外国人の利益や生活を配慮すること自体は良いとしても、利害が衝突する場合には日本人のことを第一に考えてもらわないと困るのです。

民主党の方々は、民主主義というものについてやや異なる考えを持っているようです。
私などは、民主主義とは、その国の国民が、その国の政治に関与し判断することを言い、その場合の「国民」とは「その国の国籍を持っている人」のことだと考えます(従来の政府解釈であり、最高裁判例であり、ほとんどの民主主義諸国の考え方でしょう)。

ところが民主党は、そこに一定の定住外国人を含めるようです。
どちらがいいのかは、私にはわかりませんし、ここで議論するつもりもありません。

しかし、民主党がそういう考えを持っているのであれば、政権交代のあと、さっさと公職選挙法を改正して外国人参政権を認め、政治資金規正法を改正して外国人が政治献金できるようにすればよかったのです。

政党政治家が、民主主義に基づく法改正を行うことなく、お金だけは外国人からもちゃっかりもらっていた、ということになれば、私のような政治の素人だって、日本の政治が外国にカネで買われている、という懸念を抱くわけです。

前原外務大臣の公人としての意識の薄さに恐ろしい思いがします。辞任は当然です。

なぜか「小沢被告」と書かないマスコミの不思議について

前回の話の続きを書こうとしているのですが、小沢一郎が起訴された後も、新聞・週刊誌は「小沢被告」という表現を使わず、「小沢氏」「小沢元代表」などと書いています。



起訴されて刑事裁判を待つ身になった人を、刑事訴訟法上「被告人」といい、マスコミ用語ではなぜか「人」を省略して「被告」と表現しています。これまで、どんな人であれ、起訴されれば新聞・テレビでは「被告」と呼ばれてきたと記憶しています。

記憶に新しいのは酒井法子です。
ついこの前まで「のりピー」と言われていたのが、覚せい剤所持容疑で逮捕状が出た直後から「酒井法子容疑者」となり、起訴後は「酒井法子被告」と書かれるようになりました。

私自身は、それらの人が裁判関係の書類などの上で「被疑者(容疑者のこと)」「被告人」と呼ばれるのは仕方ないとしても、新聞やテレビであえて「容疑者」「被告」という肩書をつけるのは、あまり望ましいことではないと思っています。

容疑者、被告といっても有罪判決が確定するまでは「無罪の推定」を受けるということは、私たち弁護士ならわかっているつもりですが、一般の人はその時点でどうしても「犯人」と同一視してしまいがちになるからです。

しかし、新聞その他マスコミがあえて「被告」という表現を使うのであれば、同じ立場の人には等しくその用語を使うべきなのであって、小沢一郎に「被告」の肩書をつけていないことは理解できません。

このあたりのマスコミの意図というのは全く察しかねますが、もしかしたら、プロの検察が起訴したのではなく、素人集団の検察審査会の議決に基づく強制起訴だから、まだまだ有罪になるかどうかわからない、と考えているのかも知れません。

そうだとしたら、主権者である国民の意思にもっと耳を傾けよ、と常々言いながら権力批判をしているマスコミが、国民の意思による決定を軽んじていることになります。
 もし審査会の多数決による強制起訴なんておかしい、信頼できないんだ、と考えているのであれば、新聞で堂々とそういう論陣を張ればよいのです。

そういうわけではないとしたら、他に考えられるのは「起訴されたのが小沢一郎だから」という理由しかありませんが、これでは完全に、マスコミが政権与党、権力者におもねっていることになります。

小沢被告の裁判については、今後粛々と手続きが進み、判決文はいつか公開されるでしょう。結論が有罪であれ無罪であれ、その中で判断の理由が明確に示されるでしょう。
果たして、マスコミが小沢一郎を被告と呼ばない理由は、いつかどこかで明確に示されるのでしょうか。