内閣不信任と一事不再議 3(完)

内閣不信任と一事不再議について、もう少し書こうと思っていたら、菅総理がようやく辞任時期を明確にしたらしい。でも、ついでなので書きます。


一事不再議の原則は、憲法にも法律にも規定はなく、「慣行」でそうなっていると書きました。

不都合な慣行なら変えれば良いじゃないか、と感じる向きもあるかも知れませんが、法律に書かれていなくても当然に適用されるべき大原則や、易々と変えてはならない慣行というものは存在します。

書かれていないけど守らなければならない慣行や大原則とは何か、変えてはいけない理由は何か、ということを個々に論じ出すと収集がつかなくなるので、ここは一事不再議に絞って述べます。

 

前回書いたとおり、明治憲法39条には「一度否決された議案は同じ会期中に再提出できない」(要約)と、この原則を明文化していました。

その理由について、明治憲法を作った当の本人であり、初代内閣総理大臣である伊藤博文は、明治憲法の注釈書(「憲法義解」、現在、岩波文庫版が出ています)で、こう述べています。以下意訳です。

1、議案の再提出をすると、その一議案に時間を取られて会期が無駄に延びるからである。

2、君主(主権者である天皇)がハンコを押さなかった議案を再提出するのはおそれ多い。

現在の日本国憲法では主権者は国民ですから、上記の2は当てはまらないとしても、1は同じように当てはまるはずです。では、日本国憲法下で、なぜ一事不再議は明文化されなかったのか。それには理由があります。

 

多くの方はご存じと思いますが、日本国憲法では、衆議院が可決したあと、参議院が可決しなかった法案でも、衆議院が3分の2以上の多数決で再可決すれば、法律として成立します(59条2項)。このとき、衆議院は同じ議案を「再議」しないといけないので、一事不再議を憲法に掲げなかったということです(以上は戦後の通説的見解となった清宮四郎「憲法Ⅰ」より)。

逆に言えば、正面から議案を再議するのは衆議院の再可決の場合だけで、それ以外の場面では、一事不再議の原則は日本国憲法でも妥当すべきことになります。戦後の新憲法の下でも、議員たちは当然そう理解して、一事不再議の原則が慣行として定着したわけです。


しかし一方で、伊藤博文は上記「憲法義解」でこうも言います。

「議案の名称(タイトル)だけ変更して内容が同じ議案を再提出するのも同じく許されない」と。これを裏返して見れば、タイトルは同じでも、内容や状況が変われば、再提出も可能となります。清宮四郎もこれを認めます。

今回は事情変更ゆえ、菅内閣の不信任決議を提出できるはずだと、前回書いたとおりです。


と、長い解説をした割には、菅総理が今国会中の退陣を認めたということで、内閣不信任案は提出されなくなり、一事不再議の議論が今国会で戦わされることもなくなったと言えそうです。

菅総理が新たなペテンで居座り続ける懸念も捨てきれませんが、ひとまずこのテーマを終わります。

内閣不信任と一事不再議 2

前回の続きで、「一事不再議」(いちじふさいぎ)について。

似たような言葉で「一事不再理」(いちじふさいり)というのがあります。これは、刑事裁判の大原則で、一度裁判が終わったら、同じ事件を再度裁判にかけてはならないということで、憲法39条に定められています。


国会での一事不再議とは、一度審議が終わった議案を、同じ会期中に再度審議しなおすことはできないということです。

これは、明治憲法には規定があったのですが、現在の日本国憲法には定められていません。とはいえ、一度多数決で決まったことについて、もう一度評決しなおすのは時間の無駄だから、当然のこととして、そういう慣行が形成されてきました。

今年の通常国会の会期は8月いっぱいまでで、その間、同じ議案を審議することはできないことになります。


しかし、「内閣不信任」という決議案のタイトルが同じでありさえすれば、一事不再議が機械的に適用されるわけではないはずです。

これは、刑事裁判での一事不再理を考えてみれば明らかです。たとえばある人が本屋で万引きして窃盗罪で裁判を受け、執行猶予となり釈放されたが、その直後、スーパーで万引きしたとします。

窃盗罪の裁判を一度受けたから、スーパーの万引きは同じ窃盗罪で裁けないかというと、それは明らかにおかしい。1件目の窃盗と2件目の窃盗は「別の事件」であって「一事」ではないので、刑事裁判にかけることができます。

国会でも、「一事」といえないような事情の変化があれば、審議は可能です。憲法の教科書では、「事情の変更により合理的な理由があれば、再提案も可能」(佐藤幸治)などと書かれています。

 

菅総理は、東日本大震災の後、意味なく視察に行って現場を混乱させ、災害対策基本法などの法律を活用できず、無駄な会議体をつくってばかりいた。そうした対応のまずさが、6月の不信任決議案の提出の理由となった。

その後、早期辞任をにおわせて不信任案が否決されるや、「辞めるとは言ってない」と詐欺としか言えないロジックで総理の座に居座り続け、震災復興に明確な方針を示すこともなく、原発問題等では思いつきの発言を繰り返した。

これでは、不信任案の否決という執行猶予判決の後に、改めて別の罪を犯したのに等しい。

すぐ辞めると思わせておいて辞めようとしないのは、不信任案の否決の際に想定されていなかった(総理大臣がそこまでのペテンを使うとはさすがに誰も思わなかった)事情の変更が生じたと言えるのであり、もはや「一事」ではない。

ですから、小沢一郎でも誰でもいいから内閣不信任決議案を提出しないことには、本当に、「不信任案が一度否決された後の内閣は好き放題してもクビにできない」という、最悪の慣行ができてしまうのです。

内閣不信任と一事不再議 1

小沢一郎が内閣不信任案を提出する構えを見せているらしい(本日の産経朝刊など)。

前提として、衆議院が時の内閣を信任しない、という決議を出すことは、憲法上、重大な効果があります。内閣は10日以内に総辞職するか、衆議院を解散しないといけなくなる(憲法69条)。議院を解散した場合でも、総選挙が行なわれたあとには、内閣はやはり総辞職しないといけない(70条)。

だから不信任決議はいずれにせよ、総理大臣以下、内閣を構成する大臣すべてをクビにする効果をもたらします。

行政のトップである内閣が、主権者である国民の意に反する行動を取る場合に、国民の代表である国会は、内閣を変えてしまうことができるという趣旨です。

 

もっとも、国会には「一事不再議」の原則があります。

「この6月に一度、不信任案を否決されているから、もう同じ不信任決議案を審議することはできない」という考え方もありえます。たぶん菅総理もそう考えています。しかしそこは、法律うんぬんでなくて常識で考えてみてください。

もしそういう理屈が通るなら、いったん不信任決議が否決されれば、それ以降、総理大臣がどんなことをしたってクビにはできず、その責任を問えないことになります。そんなことは、およそ民主国家の憲法が想定している事態であるはずがない。

たとえば、民主党でもどこでもいいですが、あるときの衆議院選挙で、ある政党が過半数の議席を取り、その政党から総理大臣が選ばれたとします。そしてその直後に、その政党の一部の議員が総理大臣とグルになって、わざと不信任案を提出します。その政党が過半数を取っているわけですから簡単に否決されます。次の会期になったら同じことを繰り返す。

するとどうなるか。その総理大臣は、衆議院議員の任期の丸4年、何をやっても許されることになります。憲法解釈としてありえない話です。


菅総理は「民主主義とは期限を区切った独裁だ」と常々から言っているらしい。たしかに憲法上、内閣総理大臣は行政のトップとして強大な権限を与えられているから、その言葉はある側面においては当たっているかも知れない。しかし菅総理が馬鹿なのは、そういう「極論」を、文字通り実行に移そうとするところなのです。

さて、一事不再議ということについて、もう少しきちんと解説したいのですが、それは次回に続く。

子供を連れ帰って約5億円請求された母親の話 2

 (前回のあらすじ)
アメリカ人のクリストファーは、子供を日本に連れ帰った元妻のマキコに賠償を求め、テネシー州の裁判所は約5億円の支払いをマキコに命じた。

…とはいえ、この判決はあくまでアメリカの裁判所が出したものなので、アメリカ国内だけで通用します。だからマキコさんは、日本において実際に5億円近いお金を取りたてられたり、財産を差し押さえられたりすることはありません。

外国の裁判日本国内で通用できるようにするためには、日本の裁判所で「承認」という裁判手続きの一種を経なければなりませんが、日本の裁判所は決して、この判決を承認しないでしょう。

さて、以前にも書きましたが(こちら)、
「ハーグ条約」では、国際間の離婚でも「共同親権」つまり父母両方が親権を持つとして、子供をどちらが引き取るかもめた場合は裁判所が決める、それまでは元々住んでいた環境に置いておく、と決められています。

それによれば今回のケースでも、子供が生まれたアメリカで、裁判の結果を待たなければならなかったでしょう。子供が何歳かは新聞記事に出ていませんが、乳飲み子であったとすれば、子供がかわいそうであるように思われます。

欧米諸国は日本にハーグ条約を締結するよう求めています。非常に微妙な問題であり、私も専門的に調べたわけではないですが、個人的には反対です。

条約を締結する以上は、それに基づき国内の法律も整備され、今回のようなケースについて何らかの罰則が定められることになるかも知れない。

罰則がなくとも、このマキコさんには「条約や法律に反した行動を取った者」という評価が与えられることとなります。アメリカみたいに何億もの賠償が命じられることはないでしょうけど、マキコさんは「違法」なことをしている以上、何らかの賠償に応じざるをえなくなるでしょう。果たしてそれが妥当かどうか。

最近みたネット上のニュースでは、菅内閣は条約締結に向けて調整を行なう旨、閣議決定したようです。TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)に加入するかどうかという重大問題すら、震災への対応で棚上げにしているのに、こちらだけ拙速に進めていってよいのかという危惧感を持ちます。

もちろん、条約締結は内閣だけでできず、国会での承認が必要です。その過程で、幼い子供のために何が一番望ましいのか、きちんと議論されることを望みます。

子供を連れ帰って約5億円請求された母親の話 1

あまり報道されていないようですが、日経(10日夕刊)の小さい記事から。
アメリカから子供を連れ帰った日本人の元妻に対し、アメリカの裁判所が、610万ドル(4億8900万円)の支払を命じる判決を出したそうです。

事実関係があまり書かれていないので、一部推測を交えて整理します。

クリストファーさんというアメリカ人の男性が、マキコさん(仮名です。新聞に名前は出ていなかったので、私の妻の名前を勝手に借用)という日本人女性と結婚し、アメリカで子供2人をもうけた。

その後、2人は離婚することとなり、子供はマキコさんが引き取ることとして、ただクリストファーさんには定期的に面会させるという約束をした。

マキコさんは子供2人と日本に帰り、福岡で暮らしました。クリストファーさんと子供が面会する約束は、日米の距離のせいか、他の理由があったのか、次第に果たされなくなった。

そうした中で、クリストファーさんは2年前、福岡にきて子供をアメリカに連れて帰ろうとし、誘拐容疑で逮捕されたこともあったようです。なお、日本の刑法の解釈としては、いかに実の父親でも、母が引き取って暮らしている子供を勝手に連れ帰ろうとすると、誘拐罪にあたります(その後、不起訴で釈放)。

クリストファーさんはアメリカのテネシー州に帰って裁判を起こしました。結果が、冒頭の判決です。判決の理由は、マキコさんが子供と面会させる約束を果たしていないから、ということのようです。

日本人の多くは、この判決を聞いて、「はあ?」と思うでしょう。
日本国内において子供の親権を有する母親が、子供と父親を会わせるのは妥当でないと判断して、父親との面会を拒否したら、何億もの賠償を命じられないといけないのか。

欧米では離婚後も両親に親権があるとされる国が多いので、こういう判決も出るわけです。またアメリカでは、賠償金の相場が日本とは全く異なるということもあるでしょう。

では果たして、マキコさんは何億円ものお金をクリストファーさんに支払わなければならなくなるのでしょうか?
…続く。

原発停止、法律家の限界と政治家の役割

唐突な話ですが、我々弁護士は、問題ごとを抱えた人から相談されたとき、その事件や事実に適用できる法律の条文を探してきて、それをあてはめ、勝ちか負けか、適法か違法か、有罪か無罪かを判断します。

日本のような法治国家であれば、世の中のたいていの問題には、あてはめることのできる法律が存在しています。

つい先日、自宅で夜のニュースを見ていたら、菅総理が画面に出ていて、「中部電力の浜岡原発を停止する」と言いました。私は、何だかエライことになったなと思いつつも、あとで、総理大臣が原子力発電所を停止できるという根拠条文を調べてみようと思いました。

ちなみに、原発を設置するにあたっては、総理大臣の許可が必要です。いま、移動中の新幹線の中で書いているため手元に資料がないのですが、原子力関連の法律にそう定められていたはずです。
街なかで食べ物屋さんをやる際には保健所の許可が必要ですが、原発みたいに大変なものを置くからには、行政のトップである総理大臣の決裁が要るわけです。

許可を得た食べ物屋さんでも、今般ユッケで食中毒を出して問題になった焼肉屋みたいに、衛生上ふさわしくないと認められた場合は、営業停止や、許可の取消しといった処分が行なわれます。これらも、すべて法律に規定があります。

同様に、原発を停止するにも、どういうときにどういう手続きでそれを命じることができるか、きちんと法律に書かれてあるのだろう、と思っていました。
ところが、新聞報道などを見ていますと、菅総理の要請は「法的な根拠のない」(本日の日経朝刊など)ものなのだそうです。つまり、「まあ、ここはひとつ、止めてくれんかね」と「お願い」しているに過ぎないのです。

たしかに、法律に書いていなくても、多数の利害を調整したり、問題を未然に防いだりするために積極的に動いていくのが政治の役割だと思うので、今回のようなやり方も政治的判断としてはありうるものだとは思います。

ただ実際には、東日本大震災に関して、全くリーダーシップを発揮してこなかった菅総理が、浜岡原発の停止に限ってリーダーシップを示したとは考え難い(もし本当に菅総理が独断で決めたのだとしたら、これほど大きい問題を突然独断で決めたこと自体、責められるべきです)。

おそらく、経済産業省や原子力保安院の官僚の進言があって、それを受け入れたのであろうと推測しています。民主党は「政治主導」だと言いつつ、誰も何も政治的判断ができず、官僚に利用されていることになります。

話がまとまりませんが、今回の菅総理の要請(そしてその背後にあるであろう官僚の要請)が妥当なものであったのか否か、私には判断する材料がありません。それは、過去に起こった事件に法律をあてはめるのが主な仕事である弁護士の限界であり、将来に向けてどのような政策を取るべきかは、法律をいくら参照しても答えがないのです。

せめて菅総理には、今回の要請に至ったプロセスと、今後やろうとしていることをきちんと説明し、後世の私たちが「あのときの判断は正しかったのか否か」を検討するに足る材料を与えてほしいと思っています。それも政治の役割であるはずです。

「確定へ」と「確定」はどう違うか

前回の話題のついでにもう少し。

堀江氏の上告棄却決定が出た直後の新聞で「実刑確定へ」という見出しが多く見られました。「確定へ」ということは、まだ確定していないという意味でもありますので、このことについて触れます。

一般的な話として、新聞の見出しの末尾は、情報の確かさで言えば「へ」「か」「も」の順番になる、という話を聞いたことがあります。

確かに、たとえば「沢尻エリカ離婚へ」「沢尻エリカ離婚か」「沢尻エリカ離婚も」と並べてみると、後に行くほど、情報がまだ不確かであるようなニュアンスがあります。
「へ」というのは、ほぼ既定の路線だけど、まだ決まりきっていないという文脈で使われます。

堀江氏の事件では、最高裁の判断が出ているのにまだ決まっていないのはどういうことかと言うと、最高裁の上告棄却決定に対して3日以内に異議申立てが認められているのです。
最高裁の決定は、申立て期間が過ぎたときや、申し立てた異議が棄却されたときに確定することになります.

ただ、日本の裁判は「三審制」だから、地裁・高裁・最高裁まではたいてい受けつけてくれますが、最高裁に対する異議申立てというのは、極めて例外的な制度です。

ここでデータとして数字を見てみますと、平成5年というやや古い資料ですが、1年間に最高裁へ上告された刑事事件は1251件で、そのうち、最高裁で結論がひっくり返ったというのはわずかに1件だけです(田宮裕「刑事訴訟法」有斐閣)。

さらに、最高裁で結論が出て、それに対する異議申立てをしてひっくり返ったケースがあるかというと、きちんと調べてはいませんが、戦後、今の裁判制度ができてから、1件も存在しないと思います。それほど例外的な制度なのです。

ですから、実務的な感覚としては、最高裁で判断が出たら、「確定へ」というよりは「確定した」と言い切っていいように受け取っています。
報道する側の感覚としては、これまで1件もなかったとしても、可能性はゼロでない以上、「確定へ」と表現するのだということなのかも知れません。

ただその姿勢をつきつめると、世の中には「確定した」裁判というものは存在しなくなってしまいます。民事でも刑事でも裁判には「再審」という制度があり、判決が確定して何年たった後でも、その裁判に明白な誤りが発見されれば、それが覆される可能性はゼロではないからです。

「沢尻エリカ離婚へ」と言われると、どうせまたひと悶着を起こすんだろう、という感じに受け取られますが、「最高裁決定で実刑確定へ」と言う場合は、「確定した」と言うのに限りなく近い「へ」であると受け取ってもらってよいと思います。

出荷制限の責任を取るのは誰か

前回、災害時の「緊急事態宣言」の意味や効果について、ごく大ざっぱなことを書きましたが、これに関して新たな動きがありました。

菅総理が、福島など4県で取れた牛乳やホウレンソウを「出荷制限」する指示を出したとのことです(22日各紙朝刊)。これは、前回にも紹介した「原子力災害特別措置法」(以下「措置法」)に基づくものです。

テレビを見ていますと、枝野官房長官が記者会見で、措置法の「第20条3項に基づき」と発言していました。
この条文は、要約すれば「原子力災害対策本部長(現在、菅総理)は、応急対策の実施のため必要なときは、行政各部や地方公共団体(今回の場合は4県の知事)に対し、必要な指示ができる」というものです。

応急対策の内容としては、措置法26条に「原子力災害の拡大防止を図るための措置」などと掲げられていて、これらが法的根拠になるようです。

細かな話ですが、注意していただきたいのは、総理大臣が個々の農家や牧場主に、直接に出荷禁止を命じたわけではなく(それを認める法律はない)、あくまで知事に対して「必要な指示」をしたという点です。
ですから、農家に出荷禁止を直接命じるのは知事です(知事がどういう法的根拠でそんな命令ができるか、まだきちんと調べていませんが)。

報道では「放射能は問題ないレベル」と繰り返されていますが、現在のホウレンソウや牛乳の在庫は廃棄処分になるでしょうし、風評被害は当分回復できないでしょう。

後日、その責任を誰が取るのかが問題になったとき、菅総理が措置法の論理を悪用して「私は『応急対策』をせよと指示しただけであって、出荷制限は私ではなく知事が命じたのだ」と言う可能性がなくはないと思いますが、そのような言い訳を許してはいけません。

菅政権にはすでに前科があります。
尖閣諸島に不法上陸した中国人船長がおとがめなしで釈放された一件では、間違いなく政府の有形無形の圧力がかかっているはずですが、当時の仙谷官房長官は「那覇地検の判断を尊重する」と言ったきり黙ってしまった。このことは皆さんの記憶に新しいと思います。

今回の一連の対応についての責任は、緊急事態宣言をし、対策本部長に就任した菅総理にあるというのは、前回書いたとおりです。
とはいえ、菅総理が「責任取って総理をやめます」と言ったところで、農家の方々の売上げ減少という現実の被害が解消されるわけではない。

これらの金銭的被害の賠償については、「原子力損害の賠償に関する法律」という法律があり、これによると原子力事業者(東京電力)に賠償責任があります。ただし、その第3条では「異常に巨大な天災地変」などにより発生した損害は賠償の対象外とされており、今回の地震はこれにあたるように思われます。

それでも、出荷制限は国(具体的には菅総理)の指示に基づいて行なわれたわけですから、憲法に基づいて(詳細は省略しますが17条の国家賠償請求権や29条3項の補償規定)、何らかの手当てが行なわれるのでしょう。

「緊急事態」とはいかなる事態か

引き続き、地震関連の話を書きます。

被災者の安否や、原子炉の状況など、現状が気になる事柄が多々ありますが、残念ながら私にはどうすることもできないので、ここでは、今回の震災に対する法律面での現状を書いてみたいと思います。

菅総理が「緊急事態」を宣言したと報道されていますが、これは何を意味するのか。
もちろん、単に「えらいことになった」と言っているだけではなくて、法律の根拠に基づく宣言です。

災害時の緊急事態宣言とは、前回紹介した、「災害対策基本法」と、「原子力災害対策特別措置法」に規定があります。長いので以下、「基本法」と「措置法」と略します。

基本法105条によると、「異常かつ激甚」な非常災害が発生したとき、総理大臣は「災害緊急事態」の宣言をします。これが行なわれると、内閣の命令(政令といいます)によって、物資の流通や価格を統制できることになります。

今回のケースであてはめると、「水や食料などの生活必需品を東北の被災地に集中させ、被災していない西日本では一定数量以上は販売してはいけない」とか、
「水の価格の高騰を防ぐため、ペットボトルの水は1リットルあたり150円を超える金額で販売してはいけない」といったことを、菅総理が流通業者に命令で
きることになります。

本来は、業者がどんな商品を、どこでいくらで販売するかといったことは、「営業の自由」(憲法22条)であって、総理大臣でも口出しできることではない。
ですから緊急事態とは、国家の危難を回避するため、総理大臣に一時的に極めて強力な命令権を与え、本来であれば許されないような権限行使をさせることを意味するのです。

ただ、今のところ、ここまで強い意味での緊急事態宣言は発せられていないようです。
内閣府のホームページによりますと、いま発せられているのは、措置法15条による「原子力緊急事態宣言」のようです。

これは、測定される放射線量が異常なものとなった場合などに出されるものです。
これが行なわれると、総理大臣は、避難勧告、さらには避難命令(条文には「指示」と書かれています)を行なえるようになる。報道されているとおり、現に原発周辺の住民に対して避難命令が出ているようです。

これにしても、本来であれば、住み慣れた自分の家を捨てて30キロ先に避難しなさいなどと、総理に言われる筋合いはない。緊急事態だから例外的に、総理に国民の居住場所を指示する権限を与えるわけです。

いずれにせよ、強い権限には重い責任が伴います。
菅総理が原子力緊急事態宣言をしたということは、この度の原発事故について自ら強い権限を行使し、その結果責任のすべてを自ら負うと宣言したことを意味します。

民主党そして菅総理のことなので、そのことの意味が「わかっていなかった」などと言いだす懸念がなくはないですが、今はひとまず、菅総理の権限行使を見守るしかないでしょう。

社団法人と財団法人と株式会社の違い

相撲協会を例に財団法人というもについて書きましたが、ついでにもう少し、法人と言う制度について触れます。

財団法人とならんで、「社団法人」という言葉もよく聞きますが、これも元は民法に規定があって、公益目的として国から許可を受けた団体である点は同じです。違うのは、財団法人は財産の集まり、社団法人は人の集まりであるという点です。
多大な財産の寄付がなくても、ある目的のもとに人が集まって労力を結集する、というイメージです。

私になじみ深いところで例を挙げると、「社団法人全日本テコンドー協会」(傘下の大阪府テコンドー協会で監事をしています)、「社団法人日本バーテンダー協会」(私がよく飲みにいくバーのマスターが多数加入しておられます)などがあります。

さて、法人というシステム(人やモノの集まりをひとりの人として扱う仕組み)のうち、もっともポピュラーなのは、「株式会社」を典型とする「会社」でしょう。
これは、元は商法(現在は会社法)に規定がありました。

民法上の社団法人や財団法人みたいに、公益を目的としなくてもよく、私的利益(つまり儲け)を追求してよい。営利を目的とした人の集まりなので、会社とは別名、「営利社団法人」と呼ばれます。

そして、資本主義・自由主義社会においては、国家は個人の営利追求に口出ししてはいけないことになっているので、会社の設立には国の許可は不要で、法務局に届出さえすれば設立が認められることになっています。

こういう次第で、世の中の法人には、ものすごく大ざっぱにわけると、
①民法を根拠とし、公益を目的として、国の許可を得て設立する、社団法人や財団法人
②商法を根拠とし、営利を目的として、国の許可不要で設立できる会社
の2種類があるということになります。

それ以外に、法人と名のつくものでは「特殊法人」というものがあります。これはまさに特殊なので次回に譲ります。

ということで、法人制度の解説など始めてしまい、いま何の話をしているのか分かりにくくなっているかも知れませんが、特殊法人を含めた法人制度の変革が、相撲協会にも影響を与えずにおかない、ということを書こうとしています。次回に続く。